CASE:007-2 ナトリサマ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
2-1.秘密基地
郊外に行くほど舗装のひび割れた細い道、日焼けした看板の小さな商店、風に揺れる錆びたバス停の標識。昼下がりの太陽が緑を鮮やかに照らし、どこかの家からラジオの歌謡が流れてくる。
「うわ……なんか、時間が止まってる感じの町ですね」
美優は大きく伸びをしながら周囲を見回した。
「こんなとこで本当に怪異なんて出るんですか? のどかすぎるんですけど」
「怪異は、人が生活する隙間にはどこにでも起こるし、現れるものよ」
灯里は静かに微笑み、ゆっくりと歩き出した。問題の地域に着いた二人は、さっそく住民への聞き込みを開始した。しかし──。
「え? 名前が変わった? そんなことあるわけないでしょう」
「うちの子は最初からこの名前ですよ」
「いやいや、そんなことあるわけないでしょ。うちの子は最初から遥斗ですよ。あなたたち、大丈夫?」
どの家を訪ねても、反応は一様だった。住民たちは自分の子どもや近所の子どもの名前が変わったことを全く認識していない。むしろ、最初から今の名前だったと信じ切っている。学校の教師に聞いても同じだった。誰も疑問すら持っていない。だが、子どもたち自身に話を聞いてみると、奇妙な証言が得られた。
「うーん……なんかね、知らない子に会った気がするんだよね」
「名前を呼ばれた気がするんだけど、よく思い出せないの」
「うちの秘密基地で遊んでたときかなあ」
秘密基地。その言葉に、灯里と美優は顔を見合わせた。
「え、マジで! 秘密基地、かっこいいじゃん! 私も見てみたい!」
誘導なのか素なのか、美優は子どもたちから情報を引き出すのが上手かった。
子どもたちが案内してくれたのは、町のはずれ、少し登った山の中だった。獣道のような細い道を進むと、木々に囲まれた小さな広場に出る。そこには子どもたちだけの小さな王国が広がっていた。段ボールの壁、無造作に並べられた空き缶、秘密の暗号が書かれた木片。彼らにとっては、どんな城よりも大切な場所だ。
「ここかあ……なっつかしいな、こういうの」
美優は懐かしそうに小屋の壁を撫でた。
「みんなでここで遊ぶんだ。でもね、最近、ちょっと変なことがあったの」
「変なこと?」
「知らない子がいた気がするの。でも、思い出せないの」
子どもたちの証言は曖昧だった。だが、灯里は確かに何かを感じていた。
「この場所……何かがいるわね」
2-2.山中の祠
秘密基地の周辺──さらに少し山奥を調べていると、美優がふと足を止めた。
「先輩、あれ……」
指差す先には、朽ち果てた祠があった。木々に埋もれ、苔むし、今にも崩れそうな古びた祠。手入れはされておらず、かつてそこに何が祀られていたのかも分からない。
「ここ、なんだかちょっと違和感あります」
「ええ。境界の気配を感じるわ」
灯里はそっと手を伸ばした。目を閉じ、指先で空間の歪みを探る。何かが『ずれ』ている。この祠の周囲には、普通の世界とは異なるものが混ざり込んでいるのだ。
「いったん戻りましょう。この祠について町の人に聞いてみるわ」
町に戻って聞き込みをすると、誰も祠のことを知らなかった。そんなものがあったかなぁ、という反応ばかりだった。だが一人だけ、それに言及した人物がいた。町の最長寿、百歳を超える老婆が昔を懐かしむような細い声でこう呟いた。
「ああ……昔、あったかもしれんなぁ。あたしらが子どもの頃には、もう忘れられておったが……」
「やっぱり、何かあるみたいですね」
「ええ。問題は……それが何なのか、よね」
2-3. 神隠し伝承
「さーて! 歴史調査ですね!」
美優は張り切って図書館の扉を開けた。館内には静寂が満ち、本の背表紙が長い影を落としている。古い紙の香りが鼻をくすぐり、時の流れがここだけ遅れているような錯覚を覚える。窓から差し込む午後の陽光が、本棚の影を長く伸ばしていた。
「歴史の勉強は得意なんですよ! こういうの、ワクワクしません?」
「ふふ、頼もしいわね」
灯里は優しく微笑み、まるで迷いなく歴史・民俗学のコーナーへと足を向ける。そこには古びた本の背表紙が並び、時代を感じさせる。
「おお~っ! 町史とか民俗伝承集とか、それっぽいのがいっぱいありますね!」
美優は興奮気味に背伸びしながら、古い本を手に取った。しかし──。
「うぇっ……なんか、字が小さいし、昔の字ばっかりだし……」
本を開いた途端、その意気込みが急速にしぼむ。灯里は横で黙々と本をめくりながら、さらさらとメモを取っていた。ペンを持つ指は迷いなく、綺麗な字で重要な箇所を抜き出していた。
「先輩、これ……本当に読めるんですか?」
美優は驚きと絶望が入り混じった顔で灯里の方を見やる。
「ええ、まぁ」
灯里はさらりと言うと、次のページをめくる。
「昔の書き方だから、読みにくいのは仕方ないわね……これはハズレね」
「もうちょっと、簡単なライトなのとかないんですか……?」
美優は隣の本棚を見渡したがそこにあるのは明らかに、お前の理解を拒んでやるぞ、そう意気込んているように見える本ばかりだった。
最初のうちは、美優も頑張っていた。難しいながらも資料を開き、くずし字や変体仮名をなぞりながら灯里に質問を投げかける。しかし、時間が経つにつれて──。
「……むむぅ……」
美優は机に突っ伏した。
灯里は淡々と次の資料に目を通し、手際よくポイントを整理していく。ペンの音が静寂の中に響き、時折「これは関連が薄いわね」「これは時代が抜けてるわ」などと呟く。
「うぅ……先輩、あたしもうだめかも……」
「そんなこと言わないで、美優ちゃん。ここまで頑張ったじゃない」
「……あたし、まるで社畜みたいに働いてません? これ、ブラック案件ですよ……」
「特対室は、最初からそんなものよ」
「せめて、カフェイン補給の時間を……」
美優はかろうじて片手を伸ばし、隣に積んだ本の上で脱力する。そんな彼女の姿に気づきつつも、灯里は静かにメモを続けた。──そして、ついに重要な記述が見つかる。
「……あったわ」
灯里は本のページを指で押さえながら、静かに声を落とす。
「昔、この地域では子どもには『守名』をつけ、本当の名前……真名を与えるのは一定の年齢に達してからだった。そうすることで、名を狙うものから守るという信仰があった」
「……守名?」
美優は半分眠りかけた頭を無理やり持ち上げる。
「そう。この辺りの昔の風習では、真名を知られると神隠しに遭ったり、よくないものに攫われたりすると信じられていたのよ。特にまだ弱い、不安定な子どもの魂ではね」
「そして大人になってからは守名と真名を、必要に応じて使い分けていた」
灯里は本を閉じ、ふと遠い記憶を思い出す。神隠し──自分がかつて経験した、向こう側の世界。そして今、関連しそうな現象がこの町で起こっている。
さらにとある資料に掲載されていた古い風景画には、確かに今の祠とそっくりのものが描かれていた。それは百年以上前のものだった。
「やっぱり、祠が鍵になりそうね」
灯里の静かな声が、資料室の静寂に溶け込んでいった。
「……わたし、祠までたどり着けるかな……?」
隣で完全に魂が抜けかけグロッキーな美優が、うわ言のように呟いた。
2-4.境界の向こうへ
再び祠へと戻った二人。灯里は静かに手を翳し、恩寵『境界』を発動させる。空間が波打ち、ゆらめき、歪み──その瞬間、世界が変わった。空気が透き通るように澄み渡り、静寂が満ちる。まるで現実の音がすべて吸い取られたかのようだった。
美優は息を呑む。境界を超えた先には、幻想的な光景が広がっていた。森の奥深く、時が止まったかのような静寂が満ちていた。木々は青白く輝き、枝を揺らす風の音はどこにもない。それなのに、何かが囁くような気配がする。足元の苔は光を帯び、踏みしめるたびに微細な粒子が宙に舞い上がる。草地は透明な霧に包まれ、足元から冷涼な気配が漂っていた。しんと静まり返った深い静寂が辺りを包み、ひとつ息をするたびに、それすらも穢してしまうのではないかと錯覚するほどの神秘的な雰囲気が漂う。
「先輩、これ……!」
美優の声も、どこか囁くように小さくなっていた。
そこにいたのは、一人の幼い子ども。だが、その存在は明らかに『人』ではなかった。その場に立つ少年の姿は、現実と夢の境界に滲むようだった。白磁のような滑らかな肌、絹のごとく淡く光を帯びた髪。そして──どこまでも深く、暗い瞳。平安貴族の童子が纏うような狩衣をまとい、色褪せているにもかかわらず、どこか神聖な輝きを放っている。異界の光が揺らめく中に佇むその姿は、まるでこの世界そのものが彼を中心に成り立っているかのような錯覚すら覚えさせる。
その小さな唇が、ゆっくりと開かれる。
「そちたち、余を知る者なるか?」
周囲にこだまするように響いたその声は、幼い姿に似合わぬ威厳に満ちたものだった。




