CASE:007-1 ナトリサマ
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
1-1. 異変
東京都心から電車で二時間弱ほどの距離にあるA市は、かつて繊維業が盛んだった静かな街だ。昼間は子どもたちの声が響くが、夜は静寂が支配する。街灯の間隔は広く、闇に沈む道も少なくない。その平和な静けさの中で、誰も気づかぬ異変が忍び寄っていた。
「すみません、これ、間違ってませんか?」
市役所の住民課窓口で、若い母親が困惑した様子で職員に訴えていた。カウンターに置かれたのは、彼女が先ほど発行を依頼した住民票の写し。問題は、そこに記載されている子どもの名前だった。住民票の写しを受け取った母親は、困惑した様子でカウンターに詰め寄った。
「すみません、これ間違ってませんか? うちの子は遥斗なんですけど……ここに直人って書かれてますよね?」
「ええと……こちらは住基ネットの登録情報に基づいた正式なデータですが……」
「そんなはずないです! うちの子の名前は最初から遥斗ですよ!」
対応していた住民課職員が怪訝そうに答えると、母親の声が少し強まる。
「申し訳ありませんが、お子さんの出生届や戸籍謄本の記録をお持ちいただけますか?」
「えっ、戸籍? そんなのいちいち見ませんけど……」
「……すみません。念のため、住民基本台帳のデータを確認しますので、お待ちいただけますか?」
職員はさらに不審に思いながらも母親を落ち着かせるように微笑み、端末にアクセスする。該当する子どもの住民基本台帳データを開き、過去の変更履歴を確認してみるが、改名手続きの記録は一切ない。だが、母親は「そんな名前は知らない」と言い張る。
「……おかしいな?」
改名する場合、通常は家庭裁判所の許可を得て、戸籍上の記録が変更され、それをもとに住基ネットの名前が更新される。しかし、この子どものデータには、改名の履歴がどこにも残されていない。だが、目の前の母親は「遥斗」が正しいと確信しており、それを疑う様子がまったくない。それどころか、「直人」だった記憶が一切ないかのように振る舞っている。
職員は手元の端末を操作し、法務局に戸籍照会をかけた。──結果、戸籍の記録も「直人」のままだった。
「申し訳ありませんが、戸籍上も『直人』くんと登録されています。改名手続きの記録もありませんので、システムのエラーではないようです。」
「そんなはずない! ずっと遥斗ですよ! 役所が間違ってるんじゃないんですか?」
「ですが、住基ネットの記録も過去の住民票も、すべてこの名前で統一されています。」
母親は明らかに動揺していた。この時点で職員たちは、「ただの誤認ではない」と気づき始める。さらに、別の窓口でも似たようなクレームが寄せられていた。
「え? これ、間違ってません? うちの子は『美咲』ですよ?」
「こちらのシステムでは『咲菜』ちゃんと登録されていますが……」
「そんなはずないです! ずっと美咲です!」
その後も、数件の同様のクレームが相次いで寄せられる。しかも、どのケースも「子どもの名前が違う」という訴えであり、いずれも住基ネットの記録と保護者の認識が食い違っていた。この時点で、職員たちは明確な異変に気づき始める。
「一時的なデータの不具合ではない」
もしシステムトラブルであれば、バグとして処理できるかもしれない。しかし、住基ネットのデータ自体は一貫しており「記載された名前」だけが親たちの認識と違っている。
「……これ、ちょっと調べたほうがいいかもしれないですね」
住民課の職員たちは、不審に思いながらも、内部で過去の住民票の履歴を遡る作業を開始した。過去に発行された住民票や出生届の記録を調べると、確かに「直人」や「咲菜」と記載されているものが見つかった。つまり、システム上の記録は一貫している。だが、それを見た職員は、ある奇妙な事実に気がついた。
「これ……以前、手続きをしたときの書類ですよね?」
「そうですね、ここに保護者の署名もありますし……」
「でも、見てください。この申請書の名前……」
職員が指差した書類には、確かに「直人」「咲菜」と記載されていた。──なのに、今の親たちは「そんな名前は最初からなかった」と主張している。
これは単なる入力ミスや記録のエラーではない。「記録」自体は正しく保管されているのに、「人々の記憶だけが変わっている」のだ。
「……これは、ちょっと普通の案件じゃないですね」
住民課の中に、言いようのない不穏な空気が広がる。その後、この情報は市役所の内部で共有されるが、結局、明確な説明がつかず、「調査中」として処理されることとなる。だが、この奇妙な現象は、一部の職員の間で密かに噂され始めた。
「最近、子どもの名前が勝手に変わるって話、知ってます?」
「いや、ネットでもそんな都市伝説みたいなの見ましたけど……まさか本当に?」
こうして、誰も気づかないままに、「名前の改変」は、確実に社会の中へと広がっていた。
その頃、町では何の変哲もない日常が続いていた。名前が変わっている子どもたちは無邪気に遊び回り、一部の大人たち以外は誰一人として違和感を抱かない。まるで、それが当然のことのように振る舞っていた。だが、子どもたちの何気ない言葉が、その異変を浮き彫りにした。
「ねえ、秘密基地でさ、なんか知らない子に会った気がするんだよね」
「名前を呼ばれたんだけど、誰だったかな?」
こうしたささやかな違和感は、やがてネット上で都市伝説として語られ始めた。どこからかそのことを耳に挟んだ地元の高校生が、「これ、ヤバくね?」と軽い気持ちでSNSに投稿した噂を元にした創作話。
「子どもがナトリサマに会うと、名前を取り替えられるらしい」
軽い気持ちで投稿した話は、瞬く間に拡散されていった。だが、ひとたび火がつけば噂は独り歩きし、人々の恐怖や興味をかき立てる。そして、その情報を見た男の指が、スマートフォンの画面をゆっくりと閉じた。
「ナトリサマ、ねえ……」
蜘手創次郎は、僅かに煙草を指で転がしながら、ぼんやりと呟いた。
1-2.ナトリサマ
SNSで拡散された噂は、瞬く間に広がった。
「ナトリサマに遭った子どもは名前が変わっちゃうらしい」
「しかも親も周りも名前が変わったことに気づかないんだって」
「ナトリサマはそのあたりでは見掛けない子どもの姿をしているらしい」
都市伝説というのは、ちょっとした違和感や偶然を組み合わせるだけで、人々の想像力を刺激し、独り歩きしていくものだ。だが、かつて公安に所属していた頃から数々の出来事を経験し、研ぎ澄まされた蜘手の勘は、それが単なるデマではないと告げていた。
「名前を変えられる……か。火のねぇところに煙はってな」
蜘手は、噂の発生源を洗い出していた。どうやらA市の郊外の限られた地域で「子どもの名前が変わった」という話が集中している。
最初は都市伝説の一種かとも思った。だが、市役所で「住民票の名前が違う」というクレームが相次いでいると知った瞬間、彼の中で警戒レベルが跳ね上がった。
「単なる勘違いじゃねぇな」
噂の広がりと、市役所でのクレームがほぼ同時期に発生している。これが単なる偶然なら、それはそれで不気味な話だ。蜘手はスマートフォンを取り出し、特定の番号に発信する。相手は、A市役所に勤める男──かつて公安時代に恩を売った、貸しのある相手だった。
「お久しぶりですね、クモさん……また面倒な話ですか?」
電話口の男は苦笑混じりに言った。彼は住民課の職員で、市役所のデータに直接アクセスできる立場にある。
「俺の話はいつも面倒だろ? それで……最近、お前のとこで子どもの名前について妙なクレームが入ってるはずだ」
「……なんで知ってるんです? もしかしてまだ情報網持ってるんですか?」
「いや、ちょっと耳のいい知り合いがいてな。どうなんだ?」
男はしばし黙り込んだ後、低い声で答えた。
「確かに、最近『住民票の名前が違う』って問い合わせが相次いでます。親が窓口で発行を依頼すると、まぁ当然住基ネットに登録されている名前で出力されますよね。でも、親たちは『これは間違いだ、うちの子の名前は違う』って騒ぐんです」
「名前が変わる手続きって、普通は家庭裁判所を通すだろ? 役所側が勝手にいじれるもんじゃねぇ」
「そうです。でも、そういう改名申請の記録がどこにもないんです」
「……記録がない? 住基ネットの名前は元のままなのに、親の認識だけが変わってるってことか」
「ええ……それと、まだおかしなことがあるんです」
「まだあるのかよ」
「例えば小学校の入学通知書なんかでも、通知書の名前に親は『そんな名前のはずない』と変更の申請を入れてくるとか」
「……なるほどな」
蜘手は煙草を指で転がしながら、思考を巡らせる。これは単なる記録ミスやシステムのバグではない。親たちや本人の認識が根本的に書き換えられているのだ。翌日、蜘手は市役所の協力者から受け取った内部記録を改めて精査した。
・住基ネットと戸籍の記録は、変更されていない。
・しかし、親たちが新たに提出する書類の名前が食い違っている。
・新しく発行される住民票を見て、親が「名前が違う」とクレームを入れる。
・改名手続きの記録がないため、行政側も説明がつかない状態。
・該当する子どもたちの多くが、特定の小学校・幼稚園の周辺に集中している。
「……間違いなく、『何か』がこの地域で動いてやがるな」
蜘手は煙草を咥えながら、ゆっくりと肩を竦めた。こういった怪異は、放置すれば広がる。影響が軽微なうちに食い止めなければならない。
「さて、誰に押しつけるかねえ……」
向いていそうな葦名透真は別件の調査で、轟雷蔵と共に地方に出ている。 動けるのは必然的に──
「……灯里くんと、美優くんだな」
蜘手は軽く笑い、電話をかけた。
1-3. 灯里と美優
特異事案対策室──通称「特対室」の一角。蛍光灯の無機質な光が資料の積まれた机を照らし、壁際には異例の事案が記された報告書がずらりと並ぶキャビネットが沈黙を保っている。その静寂の中で、久世灯里は手元の資料を淡々とめくっていた。
「……ナトリサマ、ねえ」
その声はどこか遠くを見つめるような響きを持っていた。南雲美優は椅子に深く腰掛けながら、対面の灯里をちらりと見やる。
「なんか、先輩……懐かしそうな顔してません?」
「そうかしら」
灯里はくすりと微笑むが、その笑みの奥には、何か思案するような色が滲んでいた。
「名を変えられる怪異……そうね、これは……少し、懐かしいかもしれない」
「ちょ、待ってくださいよ。懐かしいって、こんなの普通じゃないでしょ?」
美優がすかさずツッコミを入れる。
「要するに、得体の知れない何かが子どもの名前を勝手に変えてるんですよね? やってること意味わからないしめちゃくちゃすぎて、正直ちょっとビビるんですけど」
彼女の言葉はもっともだった。名前とは、人の存在を象る重要なもの。親が想いを込めて授け、社会の中で個を定める拠り所でもある。それが、本人の意思を無視して書き換えられる──それは、単なる悪戯では済まされない事態だった。
「まあ、怪異はそういうものよ。論理では測れない」
灯里は、さらりと言ってのける。まるで、名を変えられるという事象そのものには、そこまで驚いていないような口ぶりだった。
「でも、まだ影響は限定的みたい。今のところ、名前が変わった子どもは数人のみ……範囲は狭い。でもね」
灯里は、ゆるりと視線を上げた。
「名を変えるというのは、思っているよりも深刻なことかもしれないわよ」
美優は思わず、息を呑んだ。灯里の瞳には、わずかに憂いを帯びた光が宿っていた。
「……そう言われると、ちょっと不安になってきた」
美優は自分の胸を押さえるようにしながら、表情を引き締めた。先輩が、ここまで慎重に言葉を選ぶ時──それは、単なる調査案件では済まされない何かがある証拠だ。重苦しい空気が、じわりと二人の間に滲み始める。
「行きましょう、美優ちゃん」
灯里は、静かに立ち上がった。
「状況調査だけで終わればいいけれど、その『ナトリサマ』に会うことにもなるかもね──」
そう言いながら手元の資料を閉じた灯里の瞳には、揺るぎない決意の光が宿っていた。
これは、単なる『名の異変』ではない。そこに潜む『何か』に向き合わねばならない。──その確信が、灯里の背筋を静かに伸ばしていた。




