CASE:006-4 赤マント
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
4-1. 核
朽ちかけた木の扉が、まるで拒絶するかのように重い軋みを響かせて開いた。中から漂い出る空気は、湿気を含んだ黴臭さと、どこか錆びついた鉄のような不快な匂いが入り混じっている。足を踏み入れた途端、床板は不安げにぎしりと悲鳴をあげ、何枚かは完全に抜け落ちて真下に暗い穴が口を開けていた。
壁には黒い染みがじっとりと広がり、ところどころに蜘蛛の巣が掛かっている。雨漏りの痕が染みをつくり、長い年月の果てに放置された空間の時間が止まったかのようだった。
「何もねぇじゃねぇか。透真、ほんとにここなのか?」
部屋の中をぐるりと見回しながら、雷蔵が軽く苛立ったような声を漏らした。彼の頬にはじっとりと汗が滲んでいる。これまで数え切れないほど怪異と対峙してきた彼でさえ、この廃屋の異様な空気に何かしらのプレッシャーを感じているようだった。
「いえ、何かがいます。確かに、ここに……」
透真は静かな声で答えた。眼鏡の奥にある瞳がかすかに輝き、彼の恩寵『透視』が発動したことを示している。
「どうだ、透真?」
蜘手が低く問いかける。いつもの飄々とした態度はそのままだが、口元の軽薄さとは裏腹に、彼の目は油断なく部屋のあちこちを探っている。指先にうっすらと霊糸が光を帯び、彼の警戒心が強まっているのがはっきりと伝わった。
透真は答えるのに時間を要した。意識を集中させ、眼球の奥にある視界に『見えないはずの何か』を映し出しているかのようだ。その表情がわずかに険しくなる。
「……霊的なエネルギーが、この部屋の一角に集中しています。でも、少し妙ですね」
「妙、とは?」
蜘手が眉をひそめると、透真は慎重に言葉を選んだ。
「エネルギーが強い割に、妙に静かなんです。まるでこちらの様子を伺っているかのような……。感情がありません。まるで何かを隠しているか、こちらを誘い込もうとしているみたいに──」
その言葉に、雷蔵が不快そうに舌打ちを漏らした。
「気色悪いぜ。こっちが見てんのに、向こうも観察してるってのかよ」
蜘手は薄く笑い、肩をすくめる。
「そういうもんだろ。ま、敵さんもこっちを誘ってるんなら、乗ってやろうじゃねぇか」
透真が短く頷き、ゆっくりと視線を部屋の奥へと向けた。その瞳が揺れ、静かに右手を伸ばし、奥の壁際に積み重ねられた崩れかけの段ボール箱を指し示す。
「……あそこにあります」
蜘手と雷蔵が即座に動いた。段ボール箱を一つずつ慎重に床へ落としていく。埃が舞い上がり、懐中電灯の光に照らされて薄く輝いた。
段ボールの下からは、古びた木製の机が姿を現した。表面は埃に覆われ、塗装は剥がれ、あちこちに黒い汚れが付着している。だがその引き出しの隙間から、かすかに光が漏れ出ていた。
「こいつか……?」
雷蔵が緊張を帯びた声で問いかけた。透真は無言で頷く。
蜘手は警戒しながらゆっくりと引き出しを開ける。錆びついたレールが甲高い悲鳴を上げて軋み、引き出しの奥から黄ばんだ古紙が姿を見せた。脈動するような弱々しい光がその表面を覆い、触れるのを躊躇わせるような奇妙な力を放っている。
「……新聞記事?」
蜘手が怪訝な顔をする。古い紙面に印刷された文字はほとんど劣化し、インクが滲んでかろうじて判読できる程度だ。しかしその紙自体が、異様なエネルギーを帯びているのは明らかだった。透真がゆっくりと記事に近づき、慎重に視線を落とした。
「間違いありません。これが怪異の核です。『青ゲットの殺人事件』の第一報……事件の惨劇と人々の恐怖が、この紙片に宿っています」
雷蔵は眉間に皺を寄せ、疑い深くその古紙を見つめていた。
「ただの紙切れが、この騒ぎの原因ってのかよ……信じられねぇな」
透真が険しい顔で答える。
「核というのは、物品自体よりもそこに込められた『情報』や『記憶』が重要なんです。事件に関する強烈な記憶が、この記事を媒体に都市伝説として形を持った──そういうことだと思います」
蜘手は古紙をじっと見つめ、軽く息を吐いた。
「情報は力──ってことか」
雷蔵がシンプルに問いかけた。
「だったらこれを破壊すりゃ全部解決するんだろ?」
透真は黙り込み、再び目を細めて慎重に古紙を透視した。その直後、彼の顔色が変わる。
「いえ、待ってください。核そのものが……意識を持っています」
「意識、だと?」
蜘手が怪訝に聞き返す。透真が慎重に新聞記事に触れようとした、その瞬間──。
ざりっ──。まるでそれを拒むかのように、紙が僅かに震えた。透真の指先に、妙な抵抗感が伝わる。
「……?」
透視を続ける彼の瞳が揺れる。新聞記事の文字が、まるで脈打つように滲み、ゆらりと揺れた。
「これは……」
透真の声がかすれる。次の瞬間、空気が張り詰めた。まるで誰かが囁くような、微かな音が紙から漏れ出る。
「……破壊すれば、どうなる?」
雷蔵が低く呟くと、透真は慎重に言葉を選びながら答えた。
「──それを恐れています。この核は、自分が壊されることを……理解している。おそらく怪異そのものがすでにここに潜んでいる状態です」
雷蔵が舌打ちをして、拳を握り締めた。
「ちっ、どのみち破壊するしかねぇなら、出てくるってんなら歓迎してやるぜ」
蜘手は軽く口角を上げ、不敵な笑みを浮かべながら霊糸を指先に纏わせた。
「上等だ。出てきてもらおうじゃねぇか──それとも、このまま隠れんぼを続けるつもりか?」
その言葉が合図になったかのように、空間がざわりと揺れ始めた──。
4-2. 青ゲット(前)
その瞬間、室内を満たしていた空気が、まるで生き物のように蠢き始めた。それはごく僅かな違和感だった。呼吸をするように部屋の空気が歪み、小さなさざ波が足元から壁へ、壁から天井へと這い上がっていく。
「……気をつけろ」
雷蔵が中段に構え鋭い視線を注ぐ。その瞬間だった。透真は直感的に「ここは危険だ」と判断し、念のため退路を確保するために入り口へ向かおうとした。だが──
「……開かない」
扉に手をかけ、押し、引き、ドアノブを回す──それでもびくともしない。ただの老朽化した廃屋の扉のはずが、まるで内側から鍵をかけられたように沈黙していた。
「閉じ込められました」
透真がすぐさま状況を確認し、静かに告げる。その言葉を聞き、蜘手が舌を打つ。
「外側から誰かが仕掛けたわけじゃなさそうだな。こいつが、やってくれたってことか」
視線を引き出しの上に浮かぶ新聞記事へ向ける。それはまるで「ここからは出さない」と言わんばかりだ。
「面白ぇ……俺たちにひとりで勝てる自信があるってことだな?」
雷蔵がニヤリと笑い、指をバキバキと鳴らす。その音が廃屋の静寂に響いた。
「その事件でてめぇが殺したのは三人だったか? その三人と同じだと思うなよ」
その言葉を合図にするように、引き出しから浮かび上がっていた黄ばんだ新聞記事が、まるで目を覚ましたかのように突然勢いよく宙に舞い上がった。
「おい、なんだ……?」
蜘手が低く呟いた刹那、記事を中心として激しい渦が巻き起こり、虚空に深い闇の孔が開いた。闇の渦からねっとりとした粘性のある不気味な霧が這い出し、見る間に部屋を覆い尽くした。
「来ます!」
透真が鋭く叫ぶ。
闇の中心から、青い布がぬるりと垂れ落ちるように現れた。その布は水に濡れたように湿り、不規則に波打ちながらゆっくりと人の形をとっていく。だがそれは決して正常な人の形ではなかった。
体躯は異様に細長く、骨格を無視したかのように節々が歪んでねじれている。顔は青い布の下で凹凸が潰れ、その中央が無秩序に裂けている。ぎざぎざに割れた口元からは白濁した液体が糸を引き、濁った異臭を漂わせた呼気が漏れ出している。両の眼球は病的な白さを放ちながら大きく膨らみ、顔面の上半分を不気味に占めていた。
「趣味の悪い待ち合わせだなぁ。モテねぇだろ、あんた」
蜘手が軽口を叩いたが、その視線は一瞬たりとも青ゲットから逸らされていない。彼の指先にはすでに霊糸が何本も走り、即座に攻撃態勢に入れるよう周囲の空間を包囲しつつあった。だが青ゲットは蜘手の挑発を意に介さず、静かに白濁した眼球を三人に向ける。眼球がぎょろりと動き、まるで何かを嘲笑うかのように歪んだ口元がさらに裂けていく。
青ゲットはゆっくりとその異形の指先を胸元へ運ぶと、まるで自身の皮膚に穴を穿つように指を差し込んだ。青い布地が粘液のように波打ち、その中へと吸い込まれるように新聞記事が静かに溶け込んでいく。透真が目を見開く。
「……っ、『意識』が変わった……?」
青ゲットの白濁した眼球が、じわりと形を変えた。さっきまでの虚ろな視線ではなく、明確な敵意が宿る──。
「させるかよ!」
雷蔵が鋭く踏み込み、一気に間合いを詰めて直突きを繰り出した。しかしその拳が届く直前、青ゲットの体は粘土細工のようにぐにゃりと関節が外れ、雷蔵の攻撃をするりと回避する。
「なっ──!?」
雷蔵はすかさず、避けられることを前提に囮の連撃を繰り出した。だが、青ゲットはまるでそれを見越していたかのように、さらに一歩上の動きを見せる。
「こいつ、戦い慣れてやがるな」
青ゲットは奇妙に伸びた腕を壁に突き刺すように食い込ませ、そのまま壁面を駆け上がった。重力を無視した動きで、天井を這い回る。
「速い!」
透真が息を呑んだ。透視能力でも完全に動きを追い切れないほどの素早さだった。
「お前の相手はこっちだ!」
蜘手が指先から霊糸を放ち、天井に貼りついた青ゲットの動きを封じようとする。だが、青ゲットの肉体は奇妙な弾性を持ち、霊糸が触れた瞬間にその部分がぷくりと膨れ上がり、弾き返してしまう。
「ちっ、糸が通らねぇ……!」
焦りの混じる蜘手の呟きを聞き、雷蔵が再び中段に構え直す。彼の額からは汗が浮き上がっている。
「なら、俺が動きを封じるしかねぇな──!」
雷蔵は深く息を吸い、全身の筋肉を制御する。──狙うなら、一瞬。奴の動きの隙を見極めるしかない。青ゲットが壁を蹴り、雷蔵へ向かい跳躍する。雷蔵の目が鋭く光る。ぐっと地面を踏みしめ、わずかに膝の角度を変える。そして次の瞬間、雷蔵は即座に膝を引き上げ、雷撃を纏った鋭い上段横突蹴りを放つ。
が、青ゲットはその瞬間、まるで紙のように肉体を平たく変形させ、雷蔵の蹴りを無造作に回避した。すぐさま雷蔵の背後に回り込み、腕の先端を鋭利な鎌のように変形させて背中を狙う。
「轟さん、後ろです!」
透真が鋭く叫ぶが、既に雷蔵は即座に回避し、素早く身を捻りつつ踏み込む。しかし──雷蔵の脇腹に、突然焼けるような痛みが走る。
「なにっ……!?」
反射的に飛び退いたが、すでに遅い。服の上からでも、脇腹を伝う温かい液体の感触がわかった。
「……チッ、いつの間に……?」
息を吐きながら傷口に手を当てる。
指先にべっとりと血が付着した。傷は深くないが、妙に内側へと引き裂かれているような感触があった。雷蔵は傷口を雷光で焼き、止血する。
「雷蔵さん、動かないでください! 空間の裂け目が……そこに残っています!」
雷蔵が咄嗟に足を止めた次の瞬間──彼が今いた位置の空間が、まるでガラスの破片のように微かに歪み、パキリと小さな音を立てて消えた。
「チッ……!」
呻きながらも雷蔵は態勢を崩さず、再び中段に構え直した。青ゲットは床に落ちた雷蔵の血を興味深そうに眺め、その白濁した両眼が邪悪な喜びに満ちたように、さらに膨らんでいく。
「……なるほどな。直接攻撃じゃなく、通った場所に裂け目を残してやがるのか……あの野郎こんな強かったのか」
舌打ちをする蜘手に、苛立つように透真が言う。
「蜘手さんが次はもっと手強くなんて言うからですよ、核を取り込んだ影響もあるのかもしれません」
青ゲットの腕がゆらりと揺れ、その動きに沿うように空間の断裂がゆっくりと残っているのが見える。時間が経つにつれ、徐々に薄れていくが、その間に踏み込めば肉を裂かれるのは間違いなかった。
「面倒くせぇ野郎だ……!」
蜘手がすかさず霊糸を操り、雷蔵の背後に迫る青ゲットの両足を絡め取ろうとする。だが、青ゲットの身体は再び膨張して霊糸を弾き返し、そのまま壁へと後退して天井に再び貼り付いた。
「くっ……轟!」
「ああ、分かってる!」
二人は短い言葉だけで即座に連携を図った。蜘手が霊糸を複数の角度から展開し、その隙に雷蔵は大きく呼吸を整え、両拳に雷撃を纏わせながら、中段の構えから攻撃の機会を虎視眈々と狙っている。
──そして透真は精神を集中させ、青ゲットのエネルギーの流れ、そしてその後の動きのパターンを関連付けるために透視を続ける。
4-3. 青ゲット(後)
「……見えました! 次は右の壁、そのあと天井です!」
透真の鋭い声が室内に響く。
雷蔵は無言で頷くと、瞬時に体勢を切り替え、右の壁へと素早く踏み込んだ。次の瞬間、透真の言葉どおり、青ゲットは天井から右の壁へ飛び移ろうとした。その動きは人間の関節を遥かに超えた異形の躍動だった。だが、雷蔵はその速度に遅れを取ることなく、素早い踏み込みで距離を詰める。
「──捕らえたぜ!」
そのまま鋭い直突きを放つ。雷蔵の拳は鮮やかな閃光を纏い、青ゲットの胸元をえぐるように貫いた。衝撃が伝わる。
だが──
「……ッ!」
雷蔵は拳に嫌な感触を覚えた。まるでゴムを殴ったように力が吸収され、核に届くはずの拳が奇妙な弾力で押し返された。青ゲットの白濁した目がぎょろりと雷蔵を見下ろす。その唇は奇妙な形に歪み、笑うように裂けた顎がさらに広がった。無数の歯が乱雑に並び、口腔から濁った息が漏れる。
「化け物が、舐めるなよッ!」
雷蔵は間髪入れず追撃に移った。敵の意識を自分に向けさせ、隙を作るのが狙いだ。青ゲットが壁に飛び移ったところで、雷蔵はすかさず膝を胸元まで高く引き上げ、上段横蹴りを放つ。高速の蹴りが空気を切り裂き、強烈な風圧と共に怪異の顔面を狙う。
だがその瞬間、青ゲットの頭部が真っ二つに割れた。蹴りは無情にも裂け目を通り抜け、壁に当たり、古びた木材が大きく砕けて飛散した。
「そんな避け方ありかよっ!!」
そのまま後ろ回し蹴りへとつなぎ、牽制すると青ゲットは羽毛のように宙を舞い距離を離した。分裂した頭部が不気味に揺れながら再び融合し、一つの顔へと戻っていく。白濁した眼球が三人を嘲笑うかのように細く歪んだ。
「くそったれ、まともに殴らせる気ねぇな!」
雷蔵はこれまでの攻撃が悉く回避されるのを見て、舌打ちをした。
(だが、妙な避け方をする時は反撃してこねぇな。それに……これならどうだ。核がある部分まで真っ二つになれるかよ──!)
雷蔵は大きく踏み込み、今度は胴体を狙った強烈な薙ぎ払い蹴りを放った。
バチィッ──! 雷撃が炸裂し青ゲットの身体が大きく歪む。分裂しようとしたのか一瞬だけ形を変えたが、何かに引っかかるように止まり、胴部を薙ぎ払われた衝撃で大きく後方へ吹き飛ばされた。
「──やっと当たったか」
だが、やはり手応えが妙に重い。攻撃が通ったにも関わらず、脚に伝わる感触が違う──まるで『核の外殻』に弾かれたような、何かを隔てた感覚。
「クソが、やっぱり低出力じゃ厳しいな……!」
雷獄を最大出力で撃ち込めば、確実にこの防御を突破できる。だが──
(透真と蜘手がいる……今の状態で最大出力を解放すれば、巻き添えを食らうな)
ただでさえ広いとはいえない部屋の中、無闇に雷撃を放てば味方ごと焼き尽くしかねない。
「チッ……」
苛立ちを押し殺しながら、雷蔵は即座に次の攻撃へと移った。
蜘手が素早く霊糸を操り、次々と怪異の動きを封じようとするが、青ゲットの異形の関節は無秩序にねじれ、霊糸を巧みにすり抜けてしまう。
「蜘手さん、無駄です! 霊糸は核に弾かれてしまいます!」
透真が叫んだ。彼の瞳は淡い光を帯び、戦況を冷静に分析している。雷蔵の体は既に幾筋もの傷を負っていたが、タネが割れている為に致命傷には至っていない。しかし──雷蔵には違和感があった。怪異特有の出鱈目な動きだと思っていたが、違う気がする。雷蔵は叫ぶ。
「透真! こいつ裂け目を避けてるだろ!」
透真はすぐに透視の能力を発動させる。エネルギーの流れ、空間の歪み──同時に詳細に視る負荷の為、目の奥に激しい痛みが走る。
「確認します……」
透視の視界に映る青ゲットの動き。その軌道を解析し、見えてきたものは──明らかな回避の法則だった。
「やはり青ゲットは裂け目を認識して避けているようです!」
「なるほどな……こいつ自身も攻撃の痕跡を恐れてるってか」
青ゲットの裂け目は空間に残り続ける。蜘手の霊糸は弾かれる──ならば、使い方を変えればいい。
「このままじゃ埒が明かねぇな──透真!」
苛立ったように唸りながら、蜘手は背後の透真に鋭く視線を送った。
「動きを予測できても、こいつの身体を捕えるのは難しいか?」
透真は一瞬瞳を閉じ、静かに息を吐くと即座に答える。
「いえ──動きを読んで『予測』するんじゃ駄目です。相手は霊糸の位置を感じ取って避けているだけ。逆に言えば、それを利用すれば誘導できます!」
透真の言葉に蜘手は口元を歪め、鋭い笑みを浮かべた。
「誘導か──なるほどね」
青ゲットの白濁した両眼が不気味にぎょろりと動き、壁面から再び高速で飛びかかってくる。
「蜘手さん、右斜め後方に三本、霊糸を展開してください! 少しずつ間隔を狭めながら!」
「任せろ!」
蜘手は即座に指先を操り、三本の霊糸を透真の指示通りに巧みに配置した。霊糸、空間の断裂──青ゲットはそれらを正確に感知し、蜘手たちが意図した通りの軌道を描いて避けていく。雷蔵もまた蜘手たちの意図を汲み、青ゲットの攻撃を誘い空間の裂け目を発生させ、立ち回りにより移動方向を制限しているのだ。
「そのまま左上に一本追加!」
「あいつが動ける範囲をどんどん絞り込むわけだな」
青ゲットの異常な躍動が徐々に制限され始め、狭い範囲でしか動けなくなっていく。敵自身は霊糸の位置を感知し回避しているつもりだが、実際は透真が誘導する『罠』に、自ら入り込んでいるのだ。そして雷蔵もあえて『避けさせて』いる。
「蜘手さん、霊糸をあそこの空間の裂け目に絡めて!」
蜘手は指先を操り、意図的に霊糸を空間の裂け目へと触れさせた。次の瞬間、霊糸は裂け目に触れた瞬間に切断される。
「おぉ……こいつは面白ぇ!」
断裂した幾重もの霊糸が既に設置されている霊糸に絡まり、さらに複雑な網が形成される。青ゲットは目をぎょろりと動かし、逃げ場を探すように身体を揺らした。
「……次で決めます。蜘手さん、正面にもう一本霊糸を張ってください──!」
「仕上げだ!」
蜘手の指先が空を切り、鋭く霊糸を張った。青ゲットは狭められた逃げ場の中で慌てて方向転換しようとするが、既に完全に包囲されていた。身体が大きく歪み、初めて焦りにも似た反応を見せる。
「──轟さん、今です!」
透真が鋭く叫んだ。透真の声に応えるように雷蔵は雷撃を『霊糸に』流す。雷撃が霊糸を伝わり部屋中に張り巡された雷の網となり、青ゲットはバチバチィッと連続する炸裂音とともに網の中を弾けまわり制御を失う。
「おい、青毛布野郎。おまたせ」
雷蔵の全身を覆うように青白い雷光が激しく放電し始める。腕の筋肉が盛り上がり、まるで全身が雷そのものと化すかのように閃光が迸った。雷蔵の視界が青ゲットのみに収束する。
「ちょ、その出力は! 近すぎる、俺達まで感電──」
「うるせぇ! さんざん苛つかされたんだ! ちょっと我慢しろ!」
雷蔵が一瞬の二度の鋭い踏み込みで一気に間合いを詰め、今まさに囚われ動きを止めた青ゲットに向かい、一直線に拳を突き出す。拳に纏わせた雷撃が眩い閃光を放ちながら、怪異の胸元をえぐるように貫いた。
「ぐらぁぁぁッ!!」
雷撃を帯びた拳が、青ゲットの身体に深々とめり込む。雷撃の威力と霊的な抵抗が拮抗し、雷蔵の腕が激しい反発に痺れ、焼けるような痛みが襲った。
(こいつ……中に何かが蠢いてやがる……ッ!)
拳が内部の核に触れた瞬間、雷蔵の脳裏に無数の声が押し寄せた。絶望、悲鳴、怒り、そして底知れぬ恐怖──かつて青ゲットが殺害し、見た光景が、愉悦が、一瞬で雷蔵の意識に流れ込み侵食する。
「くそったれがぁっ! 」
脳による制御ではない。長年の反復で体が覚えている右、左、崩しからの横突蹴りと更なる連撃を叩き込む。青ゲットの身体が波打ち抵抗する間もなく、張り巡らされた霊糸すら突き破り、壁に叩きつけられる。その胸元は大きく裂け、内部の核が剥き出しになっている。
「ったく、お前ならそうすると思ったよ! うぉっ、ビリッとした!」
蜘手がネット状に編んだ霊糸を自身と透真の前方に展開し、雷撃の余波を床に流しながら叫ぶ。
「──核が、見えました!」
透真が目を鋭く光らせ叫んだ。
「蜘手さん、雷撃で霊的防御が消し飛んだ! 今なら通ります!」
「へっ、やってくれるじゃねぇか轟!」
蜘手は即座に反応し、ネットを解れさせた霊糸を全力で伸ばした。そして糸は青ゲットの胸元に深く喰い込み、ついにその奥にある核──あの古い新聞記事を確かに捉えた。
「やっと捕まえたぜ。これ以上暴れるなよ?」
蜘手の霊糸が核を強引に引きずり出す。青ゲットの身体が激しく痙攣し、核が強烈な光を放って抵抗を示す。だが蜘手は迷わない。霊糸を全力で引き絞り、核を胸元から引き抜く。
「轟、決めろ!」
「ああ、任せろ!」
雷蔵が再び拳に雷撃を纏わせ、蜘手が引きずり出した核に狙いを定めた。
「──これで終わりだ」
雷蔵は、大きく息を吸い込んだ。
次の瞬間、空間が歪んだ。雷獄の膨大なエネルギーが、彼の拳を中心に収束する。まるで、世界の一部が一瞬止まったかのように、全ての音が消えた。そして──雷蔵の直突きが、青ゲットの核へと突き込まれた。
バチィィィィィィィンッッ!!!!
眩い雷光が炸裂し、廃屋全体が瞬間的に閃光に包まれる。
新聞記事は燃焼する過程すら飛ばし塵となり、青ゲットは断末魔の絶叫とともに崩壊を始める。肉体が溶け出し、そこから無数の青黒い布片が舞い上がる。だが、それらはまるで意識を持つかのように最後まで蠢きながら、やがて濃い闇の中にゆっくりと溶け込むように消えていった。
室内に生臭いオゾン臭が漂い、重い静寂が戻った。
4-4. 赤マント
青ゲットが消え去り、廃屋には再び静かな闇が満ちていた。戦いの余韻がまだ肌に残る中、蜘手はふと背後の気配に気づき、ゆっくりと振り返った。そこには赤いマントを纏った人影が静かに佇んでいた。
薄闇の中で赤い布はゆらゆらと儚く揺れ、蝋燭の炎が消えゆくように頼りなく、すでに消失が始まっていることを物語っていた。敵意はない。ただそこには、果てしない哀しみと疲れ切った空気が漂っている。
「……あの唄、最初からお前さんは警告のつもりだったんだな。まぁ伝わってたかどうかは別にしてよ」
蜘手が静かに語りかけると、赤マントは微かに揺れた。それは人の言葉を理解しているというより、ただ音に反応しているだけのようにも見えた。
蜘手は右手を持ち上げ、指先から霊糸をそっと赤マントに触れさせる。霊糸がその揺らめく輪郭に重なった瞬間、彼の脳裏にはいくつもの断片的な記憶が流れ込んできた。
──雨に濡れた街路。ひどく冷えた夜だった。かじかんだ指を擦り合わせながら急いで家路につこうとしていた、あの夜。突然背後に、湿った足音が忍び寄った。「青いゲットは要らんかね……」の声。振り返った刹那、薄闇の中に見えたのは、青い外套を纏った異形の影──
(青ゲット……か)
──逃げようと足を踏み出した途端、異常な握力で首を掴まれ、意識が遠のく。苦しみとも恐怖ともつかない、果てしない暗闇への墜落感。最期に浮かんだのは、顔すら曖昧になった家族の微かな姿。戻りたい、帰りたい、そんな悲痛な願いを抱えたまま、二度とその願いが叶うことはなかった──
──次に流れ込んだのはもっと古い記憶だった。「叔母が病気になったので来て手伝ってくれ」そう言われ着いていく。薄暗い路地裏に響く足音。背後から肩を強く掴まれ、振り向いた瞬間に鳩尾に鋭い衝撃が走る。助けを呼ぼうとしても声は出ず、ただ痛みだけが世界を支配していた。胸元には温かな液体が広がり、命がゆっくりと零れ落ちていくのを感じていた──
(1906年……明治三十九年の……あの事件か……)
──混乱した、ぼんやりとした映像が重なり合う。暗闇に佇む影。濡れた青い布のような手が、ゆっくりと伸びてくる──その顔は歪み、眼球だけが奇妙に光を放っている──
多くの断片的で曖昧な映像と感情が蜘手の意識に波のように押し寄せ、そして引いていった。赤マントの正体は、青ゲットの殺人事件で命を奪われ、無念を抱えたまま記憶の狭間に置き去りにされた被害者たちの残滓そのものだった。
蜘手は思わず目を閉じた。赤マントはただ黙って、何も語らない。知性も失われ、ただ問いかけのような唄を呟き続けるだけの存在になっても、その本質にはまだ人の記憶が息づいていたのだ。
「いいさ、安心しろよ。俺たちが覚えといてやるよ──ちゃんとな」
赤マントがふわりと揺れた。まるで、言葉の意味を一瞬だけ理解したかのように。赤い布がゆっくりと薄れ始めた。その姿が完全に消えゆく間際、悲しみに満ちていた唄は、わずかな安堵の調べに変わっていた。
そして赤マントが消え去ると、廃屋には再び静かな夜の闇が満ちた。
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4-5. エピローグ
雷蔵はふと、夜が明けつつある空を見上げた。夜の静寂を切り裂くように、東京の空に微かな光が滲んでいる。
人々は、何も知らないまま今日を迎える。それが、特対室の仕事だった。明け方の冷えた風が吹き抜ける廃屋の外で、蜘手がぽつりと呟いた。
「いつもこれ言ってるけどよ、怪異ってのは人が記憶する限り消えねぇんだろうな」
透真が静かに答える。
「記憶と感情がある限り、どこかでまた生まれます。それが都市伝説の本質ですから」
二人の会話を聞きながら、雷蔵は無言で額の汗をぬぐった。
「めんどくせぇな……人間がいる限り終わらねぇってか」
雷蔵がぼそりと呟く。その言葉に、蜘手はくつくつと笑った。
「そりゃあな。だが、そっちのほうが俺らには都合がいいだろ?」
「……どういう意味ですか?」
透真が問いかける。蜘手はポケットから煙草を取り出し、火をつけながら軽く肩をすくめた。
「食いっぱぐれはねぇぜ。いつだって誰かが怖がって、誰かが忘れて、誰かがまた掘り起こす。その繰り返しさ」
透真が静かにため息をつく。蜘手は煙をくゆらせ、にやりと笑う。
「そういうこった」
雷蔵は呆れたように無言で肩を回し、ゆっくりと朝の光を見上げた。




