CASE:006-3 赤マント
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
3-1. 潜む影
東京の夜は、静寂の中に無数の喧騒が混じる。繁華街の明かりが遠く霞む中、路地裏の闇は濃く、どこか異様な静けさを漂わせていた。
監視対象:三原俊哉(三十歳・会社員)
帰宅途中の彼は、スマートフォンを片手に持ち、深夜のアスファルトを踏みしめる。酔ってはいないが、仕事の疲れが身体に重くのしかかっていた。
「……ん?」
ふと、背後の空気が変わった気がして、足を止める。振り返るが、そこには誰もいない。だが、何かがいる。風が止まり、音が消える。
「赤いマントか、青いマントか」
声がした。まるで湿った布越しに囁くような、不自然にくぐもった響き。三原は目を見開く。
──聞いたことがある。子どもの頃、学校のトイレで囁かれた怪談話『赤マント』。ただの都市伝説じゃないのか? 誰かのいたずらか?
その瞬間、スマートフォンの画面が一瞬チラつく。足元の影が、わずかに伸びた気がして、三原は思わず息を呑んだ。
視線を上げると、そこにいた──赤いマントを纏った人影。影から滲むように姿を現したそれは、まるで幽霊のように音もなく立っていた。だが、どこか違和感がある。
目を凝らすと、輪郭がぼやけていて、焦点が合わない──まるで、存在そのものが揺らいでいるかのようだ。人間のような体格だが、顔はフードの奥に隠れ、ただ静かに佇んでいる。何も話さない。ただ、そこにいるだけ。三原は息を呑み、足が竦む。逃げるべきか、それとも……?
しかし、その選択をする間もなく、赤マントがゆっくりと前進を始めた。
「おいおい、深夜にそんなもん流行ってんのか?」
力強い声が、三原の背後から響いた。低く響く声とともに、重厚なブーツの足音が闇を割った。突如、赤マントの動きが止まる。三原が振り返ると、そこには黒いTシャツに分厚い革ジャケット、武骨な体格に鋭い眼光の大男──雷蔵が立っていた。
「こっちは迷惑してんだよ。悪いが、引っ込んでもらうぜ」
雷蔵が一歩前に出た瞬間、異変が起きた。
──闇が歪む。それまでただ静かに佇んでいた赤マントの背後が、異様な蠢きを見せる。黒い影のようなものがうねり、やがて青い布を被った異形が姿を現した。雷蔵の目が鋭く光る。
「なるほどな……そういうことか」
雷蔵は肩を回し、静かに拳を握った。すると、周囲の空気がビリビリと震え始める。次の瞬間──雷光が迸った。雷撃が雷蔵の腕を這い、拳の周囲に渦を巻く。
「悪いが、手加減はしねぇぞ」
雷の轟音とともに、雷蔵が踏み込んだ。
3-2. 蜘手と透真
一方、別の場所。
監視対象:大田瑞希(二十七歳・フリーランス)
仕事帰りの彼女は、いつものようにコンビニで買い物を済ませ、静かな夜道を歩いていた。しかし、その足音が、一歩ずつ重くなる。
「赤いマントか、青いマントか」
声が響いた。それは、背後から。
瑞希は息を呑む。振り返った先に、赤いマントを纏った人影が、じっと佇んでいた。
──何かがおかしい。ただそこに立っているだけなのに、身体が動かない。喉が渇く。
「……妙だな」
直感的に察した蜘手が、影からすっと姿を現した。
「なあ、透真。こいつ、なんか変じゃねえか?」
透真が静かに前に出て、冷静に赤マントを見つめる。
「なんつうか……音が違う」
「音?」
「問いかけの抑揚が不自然じゃねえか? まるで、唄みたいな……」
透真は目を細め、透視の能力を発動させた。──その瞬間、背後から異変が起こる。蜘手の全身が総毛立つ。
「……来るぞ!」
直後、青い怪異が闇から飛び出した。その動きは異常に素早く、蜘手の操る霊糸すら、するするとかわしていく。
「ちっ、厄介だな……!」
蜘手が指先で糸を操り、青い怪異の足元を絡め取ろうとする。しかし、青い怪異は明らかに霊糸を感知している。縫い止める寸前で、ぎりぎりの動きでかわされる。
「……やっぱ、そう簡単にはいかねぇか」
透真は冷静に透視を続け、怪異のエネルギーの流れを分析する。
「蜘手さん、目標の動きが不規則です。けれど……」
目を細める。
「動きの方向性には、一定の法則があります」
「ほう? つまり?」
「こちらの動きを予測しているのではなく、特定のパターンで動いている。霊糸の位置を認識し、動きの規則性に従って避けているんです」
蜘手はニヤリと笑った。
「そいつは面白え」
だが、そのまま捕えるのは難しい。
「今は深追いせず、監視対象を優先しましょう」
「へいへい、お利口さんなご意見だな」
蜘手は霊糸を操りながら、瑞希を後方へと誘導する。透真が短く指示を出す。
「撤退します」
「しゃーねぇな。……次に会う時は、もうちょい手強くなっててくれよ?」
「蜘手さん、そういうのはフラグですよ」
蜘手は軽口を叩きつつ、透真と共にその場を離れた。
背後で、赤マントが静かに佇み続ける。だが──その輪郭が、ゆっくりと薄れていく。まるで、闇の中へ溶け込むように。その姿が、どこか警告を発しているように見えたのは、気のせいだったのか──。
3-3. 偽装
街灯の明滅が、不安を煽るように夜の路地を照らしていた。三原はその場に立ち尽くし、息を荒げていた。まだ現実感が伴わない。つい数分前まで、自分はただの会社員として深夜の帰宅路を歩いていたはずだ。だが、気づけば目の前には赤いマントの亡霊、そして青い化物の影が迫り、命の危機に直面していた。そして、彼を救ったのは──雷をまとった大男。
雷蔵は軽く肩をすくめ、まだ震えている三原を見下ろした。
「悪いな、兄ちゃん。ちょっとビビらせちまったか?」
三原は声にならない息を漏らした。瞳孔はまだ開ききり、脳が情報の処理を拒否しているようだった。
「び、びっくりってレベルじゃ……ないだろ……!」
かろうじて言葉を絞り出したが、声が上ずっている。
「まぁ、そりゃそうだよな」
雷蔵は何食わぬ顔で頭を掻くと、ポケットを探る。
「実はな──」
そして、無造作に一枚の名刺を取り出した。それは特対室の偽装工作用の配信チャンネルの名刺だった。
こういった事態の為に特対室は配信チャンネルを持っている。普段から都市伝説や怪異のリアルなフェイク動画を配信することにより、本物の怪異の目撃証言を矮小化する事もできるのだ。
「俺たち、『YouView』の配信者なんだよ」
三原の目が揺れた。
「配信……?」
「俺たちさぁ、『Tokyo Horror Hunter』っていうチャンネルでさ、都市伝説を検証する企画を色々やってるんだよ。知ってるだろ? 最近バズってた赤マントの話」
三原の顔がこわばる。確かに、ネットで噂が広がっていた。誰かが赤マントの目撃情報を掲示板に投稿し、動画サイトでも検証動画が相次いでいた。
「お前さん、『もし赤マントを実際に体験したらどうなるか?』って企画に、偶然巻き込まれちまったってわけだ」
三原は唖然とした。
「は……?」
「いや、本当は仕込みの役者が驚く予定だったんだけどさ、お前さんが通りかかったもんで、ついでに撮影しちゃったんだよな」
雷蔵は気まずそうに笑う。
「マジで怖がらせるつもりはなかったんだけど、どうにもリアルになりすぎちまったみたいだな」
「冗談じゃない! こんなのヤラセじゃ済まないだろ!」
三原の声が強張る。
「心臓止まるかと思ったんだぞ! こんなの、警察に──」
「おっと、それはナシで頼むぜ」
雷蔵はひらひらと手を振りながら、軽い口調で制した。
「悪かったよ。動画は絶対に公開しねぇし、データも消すからさ」
胸ポケットから封筒を取り出し、名刺とともに指で弾いて三原に手渡す。
「ほら、何かあったらこのチャンネルに問い合わせてくれ。連絡先も載ってるからよ。これはビビらせちまったお詫びだ」
三原は震える手で名刺と封筒を受け取り、そこに印刷されたロゴと文字を見つめた。『Tokyo Horror Hunter』──都市伝説検証チャンネル。
なんだこれ──いや、本当にこんな配信があるのかもしれない。最近のYouViewはヤラセの心霊動画だらけだ。都市伝説検証系の配信者なら、どれだけリアルな映像を作るかがウケる。自分本位のタチの悪い配信者も多い。それに通報しても「ただの配信撮影だった」とせいぜい注意程度で処理される可能性もある。三原の口元が引きつった。
「……ほんとに、動画は消すんだな?」
「もちろんさ。お前さんがこんなにビビるとは思わなかったしな」
「くそ……マジで勘弁してくれよ……」
三原は肩を落とし、ふらふらと帰路についた。その背中を見送りながら、雷蔵は小さく息を吐いた。
「……まあ、こんなもんだろ」
適度な混乱と不快感だけを残し、目撃者の記憶はフェイク情報として処理される。いつもの手口だった。
一方、もう一人の監視対象──大田の対応には、蜘手と透真があたっていた。コンビニ袋を握りしめたまま、大田は呼吸を荒げ、恐怖に震えている。
「ちょっと、いまの……何ですか!? わ、私、何か変なのに追われて……!」
蜘手はゆったりとした仕草で両手を広げ、軽く笑った。
「いやぁ、ごめんね。ちょっとビビらせちゃったかな?」
「なに……?」
「実はこれ、YouViewの企画だったんだよ」
そう言って、彼は懐から名刺を取り出し、指先で回しながら瑞希に手渡す。
「『Tokyo Horror Hunter』っていうチャンネルでさ、都市伝説を体験したらどうなるか?って企画をやろうと思ってさ」
大田の顔が引きつる。
「……は? ヤラセってこと?」
「そういうこと。まぁ、リアルすぎたかもな」
「ふざけないでよ! ほんっっっっっとに怖かったんだから!」
大田は顔を真っ赤にして怒鳴った。だが、蜘手は悪びれる様子もなく、にこにこと笑っている。
「いやぁ、俺もこんなに驚いてくれるとは思わなくてさ。リアクションが最高だったよ、マジで。これぞリアル都市伝説体験、って感じでさ」
「最低! ほんとに配信なんてしないでよね!」
「もちろんさ」
横で透真が冷静に頷いた。
「データはこちらで処分しますし、外部には一切出しません。申し訳ありませんでした。これは、ご迷惑をかけたお詫びとして」
大田は、そう言いながら封筒を差し出す透真を睨みつけたが、彼の真摯な態度に少しだけ気が緩んだようだった。
「……ったく、心臓に悪いわ……」
小さく舌打ちしながら、大田はコンビニ袋を握り直し、足早に立ち去った。その背中を見送りながら、蜘手は肩をすくめる。
「いやぁ、怒らせちゃったねぇ」
「そりゃ、そうでしょう」
透真が呆れたようにため息をつく。
「でも、これで大丈夫。彼女の記憶には怪異じゃなくて、YouViewのドッキリが残るはずです」
蜘手はくすりと笑った。
「いやぁ、便利な時代になったもんだね」
そう言って、名刺のロゴを指で軽く弾いた。夜の闇に、Tokyo Horror Hunterのチャンネルロゴがぼんやりと光を反射した。
3-4. 追跡
二つの現場を終え、三人は再び合流した。街灯の少ない夜の公園である。
「轟、そっちはどうだった?」
蜘手が声を掛けると、雷蔵は腕を組んだまま苦い顔で応じた。
「監視対象は騙せた。赤マント野郎は妙な奴だった。それで後から出てきた青い毛布野郎、雷撃を当ててもいまいち手応えがなかった。何か引っかかる」
蜘手は頷き、自分たちが遭遇した赤マントについても報告する。
「そっちも青い野郎が出たのか。こっちの赤マントも似た感じだったな。敵意はまったく感じなかったが──」
透真が言葉を引き継ぐ。
「赤マントのエネルギーの流れを透視した結果、明らかに敵対的ではありませんでした。それに……」
透真の眉間にしわが寄る。
「あの赤いマント、あれは血でした。本人の血で染まったものです。赤マント自身にも、今回の被害者と同じ喉元の裂傷がありました」
その言葉を受けて、蜘手の目が鋭く光る。
「問いかけも変だった。質問って感じじゃねえ……何か、決まった音階みたいな、調べのようなものを感じた」
雷蔵が深く唸る。
「つまり、赤マント野郎と青い野郎は別件──か?」
「ああ、その可能性はある」
蜘手は短く肯定した。
「赤マントは、俺らが見つけた過去の事件──『青ゲットの殺人事件』の被害者の方かもしれねえ」
透真も頷く。
「青い怪異が、殺人犯である『青ゲットの男』だとしたら、赤マントはその被害者──もしかしたら青ゲットの男の出現の『警告』を発しているのではないでしょうか」
「例の巨大掲示板で昔の記事が掘り起こされたのがトリガーになって、過去の惨劇が怪異として目覚めた……か」
雷蔵が低く呟き、辺りを睨む。
「それを確かめるには、俺が結びつけた霊糸を辿るのが一番だろうな」
蜘手がちょいちょいと夜の闇を指でひっかくような動作をする。
「なんだ、抜け目ねぇ野郎だなぁオイ」
「俺の手癖ってやつでね、撤退の時に赤マント野郎に結びつけておいたのさ」
蜘手は口元に不敵な笑みを浮かべると、指先で糸を掴み、歩き出した。
「──追うぞ」
夜の静寂が三人の足音を吸い込み、闇の奥へと導いていった。
3-5. 行方
都心の灯りから外れた裏通りに、三つの影がゆっくりと進んでいた。蜘手の指先から伸びる霊糸は、まるで意志を持っているかのように闇を切り裂き、虚空に揺らめいている。それは迷うことなく先へと続き、彼らを静かに導いていた。雷蔵が歩を緩め、低く呟く。
「まだ続いてるのか?」
警戒心が滲んだ声音だった。彼の目は周囲の暗がりを鋭く睨んでいる。深夜の路地にはほとんど人の気配がなく、時折、ビルの隙間を通り抜ける風が紙くずを巻き上げるだけだった。
「……ああ、もうすぐだ」
蜘手は短く答え、足を止めることなく歩を進める。表情は変わらないが、微かに指先の動きを調整しているのがわかった。霊糸の波が少しずつ収束し、進むべき先が明確になっていく。透真が無言で頷き、眼鏡の奥の瞳を細めた。彼の透視の力が、霊糸の指し示す先をより詳細に捉えようと集中する。
目的地は、住宅街の端にあった。マンションと一軒家が並ぶ静かなエリア。その一角に、不釣り合いな空間がぽっかりと口を開けていた。そこだけ、時が止まったかのように暗く、沈んで見える。
「……随分と手入れされてねぇな」
雷蔵が眉をひそめる。舗装された道から一歩外れた先に、雑草が伸び放題になった細い私道が続いていた。朽ちかけた木の柵が、不完全な境界線のようにぼろぼろと立っている。
「ここだけ、異質ですね……」
透真が静かに言う。彼の視線は、行く手にぽつんと佇む廃屋を捉えていた。都内では珍しい、完全に放置された空き家だった。二階建ての木造家屋は、屋根の瓦がいくつも落ち、外壁の塗装は剥がれ落ちている。ベランダの手すりは錆びつき、玄関扉の木材は朽ち、今にも崩れそうなひびが入っていた。
「いかにもって場所だな」
雷蔵が低く笑い、拳を鳴らす。確かに、怪異が棲みつくにはこれ以上ないほど相応しい場所だった。
「……おい」
不意に、蜘手が足を止めた。彼の視線が、廃屋の玄関脇に残された表札に向かっている。風雨にさらされ、かろうじて判別できる程度に黒ずんでいたが、その文字を読んだ瞬間、彼は軽く目を細めた。
「ん? どうした?」
雷蔵が怪訝そうに問いかける。蜘手は軽く指先で表札をなぞる。そこに刻まれた名字は、ありふれているが──確かに見覚えがあった。
「……なるほどね」
小さく呟くと、蜘手は口角を僅かに持ち上げた。
「知ってる名前ですか?」
透真が静かに問う。蜘手は笑みを崩さぬまま肩をすくめる。
「まぁな。ほら、赤マントのターゲット候補を調べてる時にさ……ここに導かれたのは偶然じゃねぇな」
雷蔵と透真が視線を交わす。蜘手が何を察したのか、詳しくは言わなかったが、少なくとも彼にとっては、ここが舞台としてふさわしい場所であることを確信する何かがあったのだろう。
「で、中は?」
雷蔵が無骨に尋ねると、透真が僅かに目を閉じ、静かに息を吐いた。
「……間違いなくいます。強い気配です」
そう言って再び目を開くと、透視による光の残滓が瞳の奥に微かに揺れた。
「ちっ、あの青い毛布野郎だろ?」
雷蔵は首を鳴らし、玄関へと向かう。蜘手は笑みを浮かべ、最後にもう一度表札を見やると、ゆっくりとその後に続いた。
そして、朽ちかけた木の扉が、悲鳴のような軋みを上げながら開かれた。




