CASE:006-1 赤マント
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
1-1. 事件発生
深夜の住宅街は、まるで息を潜めているようだった。人気のないアスファルトの上を、坂本義則は足早に歩く。五十を過ぎた身には、冬の冷気が骨身に染みる。遅くまで残業し、ようやく帰路についたというのに、気持ちは晴れない。酒でも引っ掛けてくればよかったか──そんな考えがよぎった瞬間、背後で衣擦れの音がした。
ギシ……ギシ……
坂本は思わず立ち止まり、振り返った。路地の先、街灯の明かりがぼんやりと滲んでいる。誰もいない。気のせいか、と自分を納得させ、再び歩き出す──が。
ギシ……ギシ……
明らかに、人の足音だ。しかも、妙に規則的なリズム。足を引きずっているのか、それとも長い布が擦れる音なのか。嫌な汗が背中を伝う。
坂本は早足になる。しかし、足音もそれに合わせるように近づいてくる。逃げなければ。その瞬間だった。
「赤いマントか、青いマントか──」
どこからともなく響いた声は、まるで耳元で囁かれたようだった。低く、湿った響き。それでいて感情がなく、ただ問いかけるためだけに発せられた声。坂本は息を呑んだ。
(赤いマント? 青いマント?)
聞いたことがある。昔、子どもたちの間で語られた都市伝説のひとつだ。トイレの個室で赤か青かを選ばされ、どちらを選んでも……ありえない。そんなものはただの噂話だ。だが、背後の気配が消えない。
いや──違う。闇が息をしている。そう錯覚するほど、背後の闇が濃く、まとわりつく。
「赤いマントか、青いマントか」
今度は明確に、真後ろから。坂本が振り向くと──そこにいた。赤いマントを纏った人影が。
静止することなく、それはゆっくりと近づいてくる。顔は見えない。いや、マントのフードに隠れて、顔があるのかどうかもわからない。ただ、その存在がそこに『在る』とだけしか言い表せない。
息が詰まる。逃げなければ。だが、足が動かない。まるで影に囚われたように、思考すら凍りつく。
「赤いマントか、青いマントか」
もう一度、問いかけが響く。──選べというのか?
その瞬間。冷たい風が背筋を撫でた。喉に氷のような鋭さが突き刺さる。いや、違う。裂かれている。
音が遅れて聞こえた──皮膚が裂ける、鈍く湿った音。温かいものが、指の間から溢れる。何かが、引き裂いた。坂本は息を呑み、喉元に手を当てた。温かい液体が指の間から溢れる。
(──喉が、裂かれている?)
痛みが遅れてやってきた。目の前が暗転する。
(なにこれ……夢? 嘘だろ……)
息ができない。声も出ない。赤いマントの人影は、ただ静かに佇んでいた。視界が滲む。膝が崩れる。
赤いマントが──消えていく。
その瞬間、坂本の意識は闇へと沈んだ。
1-2. 事件の発覚
「被害者は坂本義則、五十二歳。金融会社勤務。深夜二時ごろ、自宅近くの路地裏で襲われたと推測されます」
若い刑事が淡々と報告を続ける。現場には規制線が張られ、警察官たちが忙しなく動いていた。路面には血痕が残っている。
「喉を切り裂かれて即死……かと思いきや、偶然すぐに通りかかった現場近くの住民が119番通報、なんとか一命を取り留めました。ただし、現在も意識不明の重体です」
「凶器は?」
「不明です。刃物によるものではなく、何かそれ以外の鋭利なもので──まるで引き裂かれたような傷跡が残っています」
警察関係者の間に、不穏な空気が広がる。刃物でもない、猛獣の爪あとでもない。通常の事件では考えられない傷のつき方だった。さらに、奇妙な証言があった。現場近くの住民が、不審なものを見たと言っているのだ。「赤い布のようなものが、ひらひらと揺れていた」と。そして、何よりも決定的だったのは──被害者自身が救急搬送直前に発した言葉だった。
「赤いマントか、青いマントか……」
刑事たちの間に、ざわめきが広がる。都市伝説の赤マントを連想する者もいた。
「まさか……いや、そんなバカな話が」
通常の捜査では、犯人の手がかりがまったく見つからなかった。防犯カメラにも、不審な人影は映っていない。
奇妙な事件。説明のつかない負傷。都市伝説をなぞるかのような状況。
「こいつは……マルトク案件かもしれんな」
ぽつりと呟く年配の刑事に、若い刑事は不思議そうに聞く。
「マルトク案件? なんですか、それは?」
「昔から時々あるんだよ、こういう都市伝説とかそういったものを思わせる事件が。それで俺らの親方にはそういうの専門に扱う部署があるって噂がな。ま、それも俺達古い刑事の間に伝わる都市伝説ってやつさ」
事件の異常性が、公安の耳に届くのは時間の問題だった。
──やがて、特異事案対策室に出動要請が下る。
1-3. 捜査開始
午前九時、特異事案対策室──通称、特対室。薄暗く狭苦しい会議室の中央には、ホワイトボードが据えられ、被害者たちの写真や現場の見取り図、警察から提出された調書が貼り付けられていた。どの書類にも、赤いペンで強調された言葉が目立つ──『赤いマントか、青いマントか』。
「……赤マント、ねえ」
会議用の椅子に浅く座り、煙草を弄びながら蜘手創次郎が呟く。
「透真、聞いたことあるだろ。昔の都市伝説だ」
ホワイトボードを前にしていた葦名透真が、静かに頷く。
「ええ。戦前から伝わる怪談です。大元は子どもを拐う赤いマントの怪人。そこからの派生形はあれども赤か青かを選ばされ、どちらを選んでも命を奪われるという──」
「それ知ってるかも。学校で流行ってたやつですよね?」
テーブルの端に頬杖をつきながら、気だるげな表情のまま南雲美優が呟いた。片手にはエナジードリンクの缶が握られている。エナジードリンクは昨年飲料市場に本格的に参入・拡大し、若年層を中心に人気だ。ミーハーなところもある美優も当然のように飛びついている。
「学校のトイレじゃないけどね、今回の事件は」
向かいに座る久世灯里が優しく補足した。美優は肩をすくめてみせる。
「……じゃあ、赤マントじゃないんじゃないですか?」
「けど現に被害者は赤いマントを見ているんだよなあ」
蜘手は煙草を指に挟んだまま、くつくつと笑った。
「引っかかるのはそこだ。本来、赤マントの話ってのは子どもを襲うもんだった。だが、今回の被害者はみんな成人だ。都市伝説が妙な進化を遂げちまったってのか?」
「被害者の行動ルートは?」
「自宅近くの路地、職場からの帰り道、駅裏……普段の生活圏でしか襲われてません。今回の件、襲撃の条件が曖昧で……どの被害者も共通点が見えません」
「都市伝説の変容は過去にもありますが、問題はそこじゃないんです。被害者の共通点が見えないように見えて、実は何かしらのパターンがある可能性が高い」
透真がホワイトボードの被害者一覧を指さす。
「例えば、被害者は皆ある程度の年齢で、生活圏が似通っている。もしかすると、過去に同じ出来事に関与していた可能性もあります」
蜘手が煙をくゆらせながら、「例えば?」と促す。
「小学校の同窓生とか、過去に同じ事件を目撃していたとか……そういう線も考えられますね」
「なるほどな……それなら、単なるランダムな襲撃じゃねぇわけだ」
轟雷蔵が椅子を軋ませるようにして腕を組む。太い腕に残る古傷が、過去の戦いの激しさを物語っていた。
「つまり、過去に赤マントと何らかの形で関わった人間が狙われている可能性があるってことか」
「やっぱり、被害者側に何か条件があるってことだな」
「たまたま通りかかった奴を襲うんじゃねぇってのは明白だ。何かしら共通の要素を持つ人間を選んで襲っているってことだろう」
雷蔵の低い声に、灯里がそっと頷く。
「血縁か、過去の事件への関与……もしくは、何らかの強い感情が関係している可能性もあるわね」
「ま、何にせよ調べてみる価値はありそうだ」
蜘手が煙草を取り出し、くわえながら言った。
「よし、役割分担を決めるか」
蜘手が指を鳴らす。
「俺は被害者たちの共通点を探る。特に過去の記録を洗って、何か共通の出来事がなかったか調べてみる」
「俺と轟さんで現場検証ですね。実際の襲撃場所に何か残ってるか、もう一度徹底的に洗いましょう」
透真が資料をまとめながら言う。
「灯里くんは、都市伝説そのものの分析を頼む。古い記録や、似た事件の事例がないかを調べてくれ」
「私はまた休日出勤係ですか……」
渋々呟く美優に雷蔵が低く息を吐いた。腕を組んだまま、厳しい表情で答える。
「お前は後方待機してろ、何かあったら連絡する」
美優が顔をしかめる。
「ええー、なんで?」
「今回の事件、怪異の行動パターンがはっきりしねぇんだよ」
雷蔵がホワイトボードを示す。
「都市伝説ってのは、ある程度ルールがあるもんだが、こいつは違う。動機も狙いも不明で、しかも防犯カメラには一切映ってねぇ」
透真がデータを確認しながら頷いた。
「通常なら、怪異が物理的に影響を及ぼした場合、何かしらの痕跡が残るものですが……今回は、それすら曖昧です」
「つまり、敵がどんな方法で襲ってくるのか、まだ掴めてねぇってことだ」
雷蔵が静かに言い切る。
「わからねぇ敵を相手にするのは、経験がモノを言う。情報が足りねぇうちは、現場に行く奴は厳選する。だから、喧嘩慣れしてねぇお前は後方待機だ」
美優が不満げに口を尖らせる。
「ふーん、でもなんか非効率じゃないですか?」
「危ない目に遭ってからじゃ遅いのよ、美優ちゃん」
灯里が苦笑しながらなだめると、美優は渋々頷いて席を立った。
「危ない目なら充分遭ってますけどね──ま、面倒ごとは嫌いだからいいですけど……休日返上したくないですしおすし」
退室する雷蔵に続き、ぼやきながらも素直に退室する美優の背中を見送り、蜘手はふと灯里へ視線を向ける。
「……何か気になるか? 灯里くん」
「ええ……赤マントの話を聞いていると、普通の怪異とは違う気がするの」
「違う?」
蜘手が眉を上げる。
「ええ。悲しいというか、はっきりとそれが何かというのは、わからないけれど……」
灯里の目はどこか遠くを見つめていた。蜘手は一瞬、目を細める。
「悲しい、ね……。まあ、怪談ってのは基本的に悲劇がベースだ。悲劇が恐怖に化けるってのは、よくある話さ」
静かに笑う蜘手に、小さく灯里も頷いた。
「それでも──気をつけて」
「ああ、心得てるさ」
蜘手が微かに手を挙げ、廊下へ出る。廊下の向こうで、雷蔵が壁に背を預けて待っていた。
「随分感傷的だな、久世の奴は」
「……怪異と人間の狭間にいる子だからな。普通の人間より色々と感じちまうんだろうさ」
「なるほどな」
雷蔵が短く呟き、出口へ向かう。その背を見つめ、蜘手は懐から煙草を取り出し、深く息を吐いた。
(怪異も人間も、結局は過去に縛られてんのか……)
胸に浮かんだぼんやりとした予感を振り払うように、蜘手は足早に雷蔵を追って廊下へと消えた。




