CASE:???-3 行きたくなる公衆電話
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
3-1.見解
翌日、灰色の雲が広がっている午後。私は特対室のオフィスにいた。室内の空気は淡々とし、どこか眠気を誘うような薄暗さが室内に漂っている。誰かが入れてくれたコーヒーの香りがぼんやりと漂い、それが妙に落ち着いた気分をもたらした。
デスクに座る透真先輩は、手にした紙コップのコーヒーを口に運びながら、私を見た。
「……で?」
目元にかかる髪を少し手で払う仕草も、いつもの調子だ。まるで、どうでもいい雑談を聞くような表情で、透真先輩は続けた。
「何が不思議だったんだ?」
「いや、勝手に切れたのはまあいいとして、電話帳がちょっとおかしくて」
「どんな風に?」
「使われてない番号ばっかり載ってたんですよね」
「古い公衆電話だからな。たまたま電話帳が古いままになっていたんだろう」
さらりとそう言いながら、透真先輩は再びコーヒーを口にした。私は腕を組み、わずかに視線を落とす。
「……そんなもん?」
「そんなものだろう」
その答えはあまりに簡潔で、むしろ納得するのが惜しいような気分になった。
確かに、電話帳が古いままなら、使われなくなった番号が載っていることもあるかもしれない。だけど──。
(公衆電話って、そんなに長い間、放置されるものなんだろうか?)
そこに書かれていた名前の並びは、妙に整然としていた。使われなくなった番号ばかりが、不自然なほど均等に並んでいた。それに、あのとき聞こえた微かな声──。
「……先輩、ちょっと見てもらえませんか?」
私は思い切って提案してみることにした。
透真先輩を連れて、例の公衆電話へ向かう。空はどんよりと曇っていて、湿った風が街を吹き抜けていた。雨が降るかもしれない──そんな気配が漂っている。
公衆電話は昨日と変わらず、そこにあった。人の気配のない住宅街の一角で、ひっそりとたたずんでいる。透真先輩はボックスの前に立ち、少しだけ目を細める。そして手を伸ばし、ガラスを指先でそっとなぞった。
「……なるほどな」
ぽつりと、そう呟く。
「……?」
「ここにいた誰かの痕跡が、ほんの微かに残ってる」
私は思わず眉をひそめた。
「そりゃ、まあ……公衆電話ですもんね?」
この電話を使った人は、たくさんいたはずだ。それなら、誰かの痕跡が残っているのは当然だろう。でも、透真先輩はわずかに首を振る。
「そうじゃない。この電話、今までの『声』を手放せてない」
「……声?」
「使われるたびに、誰かの言葉を溜め込んできたみたいだな」
私は一瞬、言葉を失った。
「どういうことですか?」
透真先輩は少し考えるように視線を落とし、それから受話器に目を向ける。
「普通、声というのは消えるものだ。話した瞬間に空気に溶けて、どこかへ消えていく。だが、この公衆電話は──消えていくはずの言葉を手放していない」
それは、どういうことなのだろう。透真先輩は、ふっと細い息を吐いた。何かを確かめるように、再びガラスを撫でる。
「本来なら、時間とともに消えていくはずなんだが……ここにいた誰かの気配が、まだ微かに残ってる」
「それって……」
「ただの公衆電話だろうけどな」
静かにそう言いながら、透真先輩は受話器の方へ目をやった。
「……でも、恐らくこれはずっと、話しかけてもらうのを待ってたんじゃないか」
その言葉を聞いたとき、私は無意識に息を呑んだ。
「話しかけてもらうのを……?」
「さっき言ったように、本来、声は消えるものだ。でも、もし『聞いていたもの』がそれを手放さず、ずっと持ち続けていたら?」
透真先輩の声は淡々としているのに、珍しくどこか感傷的だった。
「誰かの言葉を、誰かの声を、これはずっと覚えているんだろう。そして、それをもう一度、誰かに届けたがっている……そんなふうに感じる」
私は受話器を見つめた。
「……昨日、電話をかけたときに……ほんの一瞬、声が聞こえた気がしたんです」
「どんな声だった?」
「……『あ』って。かすかに」
それは、呼びかけだったのだろうか。それとも、ただの気のせいだったのか。
「人も、物も……誰かの記憶に残り続けるというのは、そう悪いことじゃないのかもしれないが──」
透真先輩は、そこまで言って、ふっと口を閉じた。彼の目がほんの少し曇ったように見えたのは、私の気のせいだろうか。
「……いや、何でもない」
彼はそれ以上何も言わず、空を見上げた。
ぽつり。
冷たいものが、頬に触れた。
──雨だ。空を覆っていた雲が、ついに降り出したらしい。小さな水滴が、街を静かに濡らしていく。
「……戻るか」
透真先輩はそう言って、公衆電話に背を向けた。私は、もう一度だけ振り返る。ガラス越しに見える、緑色の古びた電話機。雨粒がぽつぽつと落ち、ガラスに小さな輪を作る。
……この公衆電話は、何を待っているのだろう。
ずっとそこに立ち続けて、人々の声を聞き、そして今もなお──。
私は、小さく息を吐いた。
「また、来るかもな……」
そう呟いて、私は公衆電話を後にした。
雨の匂いが、静かに広がっていた。




