CASE:001-2 カカオの友達
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX −
2-1. 透視
特対室の空気は、いつだってどこか沈んでいる。
白い蛍光灯が均一に照らすオフィスには時間の匂いがない。壁の色も、空調の風も、微かな蛍光ノイズもすべていつも通りに保たれている。だが、その静けさの底には、解き放たれる前の質問を待つような緊張感が漂っていた。
透真のデスクへ美優が歩み寄ってくる。スマートフォンを手に持ち、その画面を差し出した。
「透真先輩、この写真……解析してもらってもいいですか?」
彼女の声音は、いつになく低く、真剣だった。
画面には、一枚の自撮り写真が映っている。
数日前、不登校となった清嶺学園の生徒──高城理沙。
その顔写真の中に、美優は"あるもの"を見たという。
「高城理沙の顔、よく見てください。ここに……"目"が──」
美優は指で写真の一部を示した。
画面の左上、鏡の端。顔のラインに寄り添うように、黒い影の中に"目"らしきものが浮かんでいた──彼女にはそう"見えた"。
しかし、透真の表情は変わらない。
無言のまま写真に視線を落としスマートフォンを受け取ると、小さく息を吐いた。
「わかった。見てみる」
彼の眼が、静かに光を宿す。
──恩寵「透視」、発動。
透真の瞳に、見えない光が流れ込んでくる。
物質の内部、構造の継ぎ目、エネルギーのゆらぎ。
異常な干渉があれば、何らかの歪みが見えるはずだった。
それが、彼の力。怪異の痕跡を嗅ぎ取る感覚器官。
だが。
数秒後、透真は目を閉じ、スマートフォンを伏せて言った。
「……異常はない」
美優の眉がわずかに跳ね上がる。
「え?」
「これはただの写真だ。エネルギーの揺れも、異質な構造もない。加工も施されていない。君が言う"目"なんて、どこにもない」
「……でも、私には、はっきり見えたんです。ここの……この部分に、黒い影が──」
美優は食い下がるように、再びスマートフォンを指差した。
透真は無言でその指先を見つめ、視線を少しだけ落とすと、静かに言った。
「……俺の透視には映らない」
その声は、乾いていた。
分析者としての確信が、その言葉の背後に冷ややかに漂っていた。
美優が、唇を結ぶ。
透真は、スマートフォンを丁寧に返しながら彼女の目を真っ直ぐに見た。
彼は言葉を選ぶように、少し間を置いた。
「つまり、南雲──君にしか見えないもの、ということだ」
その一言で、美優の背筋に、じわりと冷たいものが這い上がる。
"自分にしか見えない"ということ。
それは、選ばれているということ。
つまり──狙われているということではないのか。
沈黙が、室内の空気をわずかに震わせた。透真は美優から視線を外し、机にあるファイルを手に取りながら言葉を続けた。
「今回の件、教師や保護者には異常が出ていない。生徒も、全員が自覚的に異常を訴えているわけじゃない。だが……」
美優の手に残されたスマートフォン、その画面にまだ映る理沙の笑顔。
その奥で、こちらを見ていた"目"。
「君はその写真に、俺には見えず透視にも映らない存在を"視た"。どういうことかわかるか?」
彼の問いに、美優は小さく息を吸った。
「……未成年の認識に、影響を与える存在?」
透真は静かに頷く。
「その通り。"子供にだけ見える怪異"──あるいは"感受性を餌にする存在"。君が視たということは、すでに、何らかの接触が始まっている」
沈黙が落ちた。
蛍光灯のノイズが、ひときわ強く耳に触れた気がした。
そして、その音の向こうで、美優の心の中に、ひとつの疑念が芽生え始めていた。
──あの"目"は、ほんとうに"写真の中"にいたのか?
──それとも、すでに"私の中"を見ていたのか?
「気をつけろ、認識を操作されると──逃げられないぞ」
2-2. 無言
「……消えた?」
特対室のオフィスに満ちる、微かに機械の唸るような静寂の中で、美優がぽつりと呟いた。透真が差し出した一枚の書類。そこに記されていたのは、ひとりの少女の名前。
森川郁美。清嶺学園の生徒。不登校者の一人。
数日前から家族との連絡が途絶え、昨日になってようやく警察に相談が入った。部屋に荒らされた形跡はなく、所持品もそのまま。スマートフォンすら机の上に置き去りにされていた。
──突然、消えた。
「やばいじゃん……」
喉の奥がきゅっと締まる。
カカオの友達と接触していた生徒が、ひとり、現実からも姿を消した。
次に同じことが起こるのは、時間の問題──そんな確信めいた予感が、美優の背中を押した。
「高城理沙んち、行ってきます」
そう言い残して、美優は立ち上がった。
いつものように軽口を叩く余裕は、なかった。
高城理沙の自宅は、静かな住宅街の一角にあった。外観はよく手入れされた一戸建て。だが、門扉の前に立った瞬間、美優の喉に湿った重さが降りた。
インターホンを押す。数秒の沈黙。
『……はい?』
くぐもった女性の声が応答した。
「あの、すみません。理沙ちゃんのクラスメイトなんですけど」
一瞬の間。
『……クラスメイト?』
「はい。最近学校に来てないので、ちょっと心配になって……」
言葉の端に嘘が混じっている。本当は調査。だが、今ここでそれを名乗れば、警戒されてしまう可能性が高い。長い沈黙のあと、ようやく「カチャリ」と鍵の外れる音がした。
『……ごめんなさいね。こんな時に来てもらって……』
ドアが開いた。出てきた女性──理沙の母親は、顔色が悪く、目の下に深い影を落としていた。
「いえ……理沙ちゃん、今お部屋にいますか?」
尋ねると、母親はゆっくりと頷いた。
『いるの。でも……ずっと部屋にこもりきりで、スマホばかり見てて。ときどき、誰かと話してるような声がするのよ……』
美優の心臓が、微かに跳ねた。
「誰と、話しているんでしょうか?」
問いかけに、母親は困ったように首を振った。
『わからないの。ただ、"もうすぐ会えるね"とか……そんなこと、何度も何度も……まるで誰かを待ってるみたいで』
美優は、表情を変えぬまま深く頷いた。
「……少しだけ、お話できますか?」
理沙の部屋の前に立ったとき、空気の質が変わったのがわかった。
扉の向こうから何も聞こえない。
それなのに、音のない圧迫感が、鼻腔の奥をじわじわと満たしていく。
コン、コン、とドアを軽く叩く。
「理沙、いる?」
返事は、ない。
母親がそっとドアノブに手をかけると、ゆっくりと扉が開いた。
中は、薄暗かった。
カーテンは閉じきられ、照明は点いていない。
ただ、机のライトだけがほの暗くついていて、その光が部屋全体に濡れたような影を作っている。
そして、美優の視界に飛び込んできたのは──壁だった。
いや、正確には、“壁一面に貼られた自撮り写真”。
天井近くまでびっしりと、等間隔に貼られている。
すべて、高城理沙本人の自撮り。
だが、そのどれもが“おかしい”。
理沙は、どの写真でもカメラを見ていない。
──違う。
"見ていない"のではない。
"別の何か"を、見ている。
呼びかけに反応せず、ベッドに背を向けたまま横たわる理沙。
その右手には、スマートフォンが握られていた。
美優は、恐る恐るその画面を覗き込む。
表示されていたのは、最後に投稿された自撮り。
鏡の前に立つ理沙が、静かに微笑んでいる。
だがその写真の、左上──
"目"。
黒く滲むような影の中に、明確な眼球がひとつ。
まっすぐ、美優を見ていた。
「……っ!」
息を呑み、反射的に目を逸らす。
視線が焼ける。
見られていた感覚が、皮膚の内側に残っている。
……でも、もう一度、確かめなければ。
意を決して、再び画面を見る。
だが、そこに"目"はなかった。
──消えた?
いや。
──動いた?
背中に、ぴたりと何かが貼りついたような気配。
音も、光も、感情すらもない"存在"。
ただひとつの目的だけを持って、静かに──近づいてくる。
美優の指先が、微かに震えた。
2-3. 侵入
夜中の2時33分。
部屋は真っ暗だった。カーテンの隙間から漏れる街灯の明かりが、天井にぼんやりと薄い光の筋を描いている。寝返りも打たず眠っていた美優の枕元で、スマートフォンがかすかに震えた。
「……っ」
微かな振動音に、まぶたがわずかに揺れる。身体が重い。頭の芯がぼうっとして、現実と夢の境界が曖昧なまま、手探りでスマートフォンを探る。目に刺さる光を避けるように、片目だけで画面を見た。
──新着メッセージ:4件
表示された名前に、瞬時に眠気が引いた。
送信者:蜘手 創次郎
本文:「おじさん嫌いの怪異かぁ。いやはや、これは参ったねえ。俺たちが近づけないとなると、お前さんにはますます慎重でいてもらわんとな?」
送信者:轟 雷蔵
本文:「おい、美優。ふざけたことになってるって聞いたが、変な真似したらぶっ飛ばすからな。絶対に勝手なことすんな」
送信者:久世 灯里
本文:「美優ちゃん、無理しないでね。少しでも不安になったら、私たちがいることを思い出して」
美優は、わずかに息をついた。眠気の中に、じんわりと温かいものが広がっていく。それが安心か、それとも緊張の裏返しなのか、自分でもわからない。
けれど、そこまでだった。
スクロールして四通目の送信者を見た瞬間、指が止まる。
──送信者:不明
本文:「ねえ、わたしと 友達に なってよ」
時が止まったようだった。
画面の下部には、見慣れないUIが浮かび上がっている。
「受け入れる」
ただそれだけ。
削除も、ブロックも、応答も選べない。
そのボタン以外、どこをタップしても反応しない。
“唯一”選べる行動が、それだけ。
(……ふざけんな)
心の中で呟き、すぐに電源ボタンに指を伸ばす。
画面を消して、全てを終わらせる──そのつもりだった。
だが。
ピッ
音もなく、画面がふっと暗転した。
そして──カメラが起動した。
インカメラ。
自分の顔が、そこにあった。
ぼんやりとした表情。寝起きで整っていない髪。
呼吸の音だけが、静かに部屋に響く。
──それだけ、のはずだった。
……違う。
何かが、おかしい。
じわじわと、皮膚の内側がざわつき始める。
額に、こめかみに、背筋に、ぬめっとした汗が滲む。
何が違う? 何が──いる?
インカメラの自分を、まじまじと見つめる。
瞬きも忘れ、呼吸が浅くなる。
そのとき。
画面の奥、肩の向こう──
"目"が、ゆっくりと開いた。
黒い。
ぬるりと濡れて、虚ろで、なのに確実にこちらを見ている。
反射でも残像でもない。そこに、確かに誰かがいる。
瞬間、美優はスマートフォンを放り投げた。
画面がマットに落ちて鈍い音を立て、カメラは切れた。
部屋の中に何も変わらぬ闇が戻ってきた。
だが、視線の感覚は消えない。
部屋の隅。
天井の角。
窓の外。
どこかから、あの目がまだこちらを見ている。
まるで、
──ずっと昔からそこにいたような顔で。
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