CASE:004-3 夢の出口
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
3-1. 計画
蛍光灯の光は変わらず白く、特対室のデスクには各々の書類が積まれ、PCのファンが小さく唸りを上げている。だが、その空間には普段とは異質な"ひずみ"が漂っていた。美優がいない、という単純な事実。その穴は、思った以上に大きかった。
蜘手がソファに深く身を沈め、長い足を投げ出している。透真はホワイトボードの前で、黙々と昨夜のメモを書き写している。静寂の中ドアが開き、久世灯里が静かに足を踏み入れた。
「ごめんなさい、遅くなったわ」
灯里の声は、空気の冷たさをほんの少しだけ和らげた。彼女の目は赤く、深い疲労の色を帯びている。だが、その奥に微かな決意が宿っているのを、透真も蜘手も瞬時に感じ取った。
「結論から言えば、南雲は通常の手順では脱出できない状態にあります」
透真が淡々とした声で切り出した。
部屋の空気が静かに引き締まる。
「つまり、美優くんの意識は、俺たちが体験したような"夢の出口"のルールが適用される空間ではなく、その奥深く……"異界"に囚われている可能性が高いねぇ」
蜘手が軽く指を鳴らす。音が乾いて部屋に跳ね返る。
灯里は、ゆっくりと椅子に腰かける。
その仕草は、ほんの少し躊躇いを孕んでいた。
「異界……つまり"精神世界"の奥?」
彼女がぽつりと呟く。
透真は、机に両手をつき、静かに説明を続けた。
「そうです。透視した限り"夢の出口"の怪異は、個々の精神を侵食し、それぞれの夢を独立した空間に変える性質を持っています」
その言葉は、何か科学的な報告のように冷静で、だがどこか祈りのような切実さを含んでいた。灯里は軽く眉を寄せ、指先を組む。
「つまり、怪異の中核は南雲自身の精神の奥底にある。そこへ直接接触しなければ、彼女を救うことはできません」
透真の説明に、蜘手は苦笑を浮かべた。
「なるほどね。確かに普通の方法じゃどうしようもないってわけね」
灯里が、どこか自嘲気味に唇を歪める。
蜘手はその横顔を見やり、静かに頷いた。
「それで……私の出番ってこと?」
灯里の声には、ほんの少しの逡巡があった。
だが、すぐに真っ直ぐな眼差しに戻る。
「そういうことだよ」
蜘手がにっこりと微笑む。その目は、いつもの軽さと違い、どこか切実なものを湛えている。
「灯里くんの『境界』の力を使えば、俺たちが入れない精神の奥にも踏み込める。俺が糸を繋ぐから、それを伝って美優くんのところまで行ってもらいたい」
オフィスの中で、わずかな空気の振動が生まれる。
久世灯里の恩寵『境界』──
あらゆる世界の「境界」を操作する力。現実の壁、異界への扉、精神世界の垣根──境い目さえ存在すれば種別に関わらず同じように操作し"越境"できる。ただし、それは"外部者"をも呑み込む危うさも孕んでいる。
「……ただし」
透真が静かに口を挟んだ。ペン先が、メモ帳の上で軽く跳ねる。
「時間制限があります」
灯里は一瞬だけ唇を噛みしめ、小さく頷いた。
「……まあ、そうなるわよね」
彼女の声は、かすかな自嘲を含みつつも、どこか覚悟を決めている。
「私が"境界"を開けば、美優ちゃんの精神世界に直接干渉できる。でも、異物である私がそこに入れば、自我の損傷か人格の分裂か──美優ちゃん自身の精神に悪影響を与える可能性がある」
彼女の言葉は、他人事ではない切実さに満ちていた。
「だから、最短ルートで南雲を救出し、すぐに戻る」
透真は深く頷いた。
「異界は南雲の精神が作り上げた牢獄のようなもの。その座標は透視を使えば解析できます」
「俺は、その異界と灯里くんを"霊糸"で直接繋げる。つまり、美優くんの精神に灯里くんの精神を"通す"わけだねぇ」
蜘手が軽く笑う。その声には、わずかに不安が滲む。
「まあ、簡単に言えば"異界ダイブ"ってやつさ」
オフィスの空気が、ゆっくりと、だが確実に張り詰めていく。灯里はしばらく黙っていたが、やがて静かに目を閉じ息を吸い込む。
「わかった。美優ちゃんを迎えに行くわ」
その声は、静かだが確かな決意に満ちていた。
「決まりだねぇ」
蜘手が、あえて冗談めかして肩をすくめた。
オフィスの中で、三人はしばらく沈黙する。
時計の針が、わずかに音を立てる。
美優がいない、その静けさが逆に彼女の存在を際立たせていた。
作戦会議が始まったのは、朝の気配がようやく地下にも届き始めた頃だった。
「まず、透真くんの『透視』で美優ちゃんの精神世界の構造を解析し、最短のルートを洗い出します。そのルートに沿って蜘手さんが霊糸のガイドを張り、私が『境界』を開きながら彼女の異界の"核"に辿り着く。制限時間は最長でも五分」
灯里は、ホワイトボードに即席の図を描く。
複雑な迷路のような構造。その中央にぽつりと「美優」と書かれた円。
透真はその隣に、“危険領域”のマーカーを赤で塗り込める。
「……ただし、精神世界の内部では怪異の防衛機構が働くはず。異物である私は、排除されかねない。蜘手さん、"糸"の強度はどの程度保てますか?」
「さぁねぇ、本番になってみなきゃ分からないってのが正直なところだ。けど、ま、俺の糸がそう簡単に切られちゃうようじゃ、特対室の名が泣くよ」
蜘手は煙草を口に咥え、火をつけかけて透真に止められる。
「ここで煙を出すのはやめてください。南雲が戻ってきたら、怒りますよ」
「おお、こわいこわい」
空気がわずかに緩み、三人に静かな一体感が生まれる。
計画の細部は、何度も何度も確認された。
異界突入は最短二分、最長でも五分以内──それを過ぎると、美優の精神に深刻な影響が出る恐れがある。異界でのナビゲーションは、透真の『透視』によるリアルタイムの解析、蜘手の霊糸を通じて灯里の感覚に直接情報を流し込む形となる。
「南雲の"核"に触れた瞬間、すぐ帰還ルートを開放します。そこで躊躇したら戻れなくなる。絶対に、迷ってはいけません」
透真が念を押す。
「肝心なのは、"自分"を失わないことよ」
灯里の声は、どこか遠い響きを含んでいた。
「"夢の出口"は、俺たちの記憶や感情を巧妙に利用して"異物"を誘う。たとえば昔の家族や、懐かしい景色──全て、罠です。絶対に惑わされないように」
「ま、俺たちの仕事は、そういうもんだ」
蜘手はふわりと笑った。
どこか、ほんの少し寂しそうに。
午前十一時。
準備は整った。
3-2. 救出作戦
「それじゃ、我が特対室の眠り姫を起こすとするかねぇ」
美優の入院する病室。蜘手の軽口に空気がほんの少し和んだ。だが緊張の糸は全員の皮膚に痛いほど張りついている。透真が無言で椅子に深く座り直し、目を閉じる。恩寵「透視」が静かに発動した。
透真の視界は現実から滑り落ち、闇の中に無数の糸が編まれた網目──蜘蛛の巣のような精神世界が、複雑に広がっている。一本一本の糸が、それぞれ異なる色と太さ、脈動するような光を宿している。その網のなか、ひときわ歪んだ「結び目」が渦を巻いていた。そこに美優がいる。
「蜘手さん、ここです」
透真の指が一点を指し示す。
蜘手は「ふむ」と頷き、右手の指先を軽く持ち上げた。霊糸が、まるで呼吸する生き物のように空間に広がっていく。見えないはずの糸が、まるで温度や重さを持つかのように、部屋全体を軋ませる。
「……微妙な歪みがあるねぇ」
蜘手は慎重に糸を編み、透真が指し示す"精神の結節点"へ向かって霊糸を接続する。その手つきは、ガラス細工を組み立てる職人のように繊細だ。灯里は黙ってその様子を見つめ、指先で自分の鼓動を確かめていた。
「灯里くん、この端を君に結びたいんだけど」
「ええ、お願い」
灯里がそっと霊糸に触れると、空間がかすかに歪む。
深呼吸ひとつ。精神の輪郭が薄れていく。
恩寵「境界」が作動し、現実と異界の縁がきしむように振動する。
「……それじゃ、行ってくるわ」
灯里は淡く微笑み、蜘手と透真の視線を背に、霊糸の向こう──美優の精神世界へと歩み出した。
──そこは、音のない世界だった。
最初に感じたのは、湿った空気の重さ。
灯里の足元にはカーペットが続いている。けれど、その材質感はどこか薄っぺらく、ペラペラの舞台美術の上を歩いているような不安定さがあった。
天井の染み、机の上のプリント、止まった時計──それらが無限に繰り返される。
(……美優ちゃんの部屋)
だが、どのドアを開けても、同じ風景が続いている。
灯里は静かに歩みを進める。そのたびに足音が吸い込まれるように消え、世界から感覚がひとつずつ削ぎ落とされていくような、奇妙な孤独に包まれた。
空間が突然、波紋のように揺らぐ。
目の端に、黒い影が揺れ動くのが見えた。
誰かの気配。だがそれは、美優のものではない。
壁に飾られた写真の人物の顔が、音もなく溶けて消えた。
窓の外には、どこまでも続く闇。そこから何かが這い寄ってくる――
突如、床から「手」が伸びた。
真っ黒な影。無数の手指が絡み合い、灯里の足首を掴もうとする。
「……あら」
灯里は淡々と足を振りほどき、恩寵『境界』の力で空間の輪郭を一瞬ぼやかす。すると"手"はその隙間から零れ落ち、泡のように消えていった。世界が再び静寂に沈む。
その先で、今度は"声"が聞こえた。どこかで聞いたことのある、けれど思い出せないような、混ざり合った複数の声――
「だめ」「出してはいけない」「ここにいて」
その声は、次第に重みを増し、頭の内側に圧力をかけてくる。
幻聴のようなノイズが意識を曇らせる。
灯里は眉を寄せ、しっかりと自分の"境界"を定め直す。
(これは……"夢の出口"の“防衛本能”)
灯里は進む。
今度は、部屋の片隅から巨大な"眼球"がこちらをじっと覗いている。瞬きをせず、ただじっと見つめている。部屋全体が、その目のまばたき一つで崩壊しそうな緊張に満ちていた。灯里は目を逸らさず、淡々と歩を進める。
(私は、私。美優ちゃんを迎えに行く。それだけ)
──空間の奥で、誰かの足音が響いた。
不意に、灯里の視界の端に「もう一人の自分」が現れる。髪型も服装も、声の高さも、何もかもが完全に同じ――なのに、その瞳だけが、底知れぬ暗さを湛えている。
虚像の灯里が、ふいに微笑む。それは優しい顔立ちのはずなのに、どこか“表面だけ”をなぞったような、空っぽの笑みだった。
「……本当に、あなたがここに来てよかったの?」
声は、まるで内側から湧き上がる疑念そのもののように、灯里の耳元にまとわりつく。
「あなたは美優ちゃんを傷つけるかもしれない。"異物"が入り込めば、彼女の心はさらに壊れるかもしれないのに──それでも、進むの?」
虚像は一歩、灯里に近づく。そのたびに、床が波のように歪み、空間がきしむ音が響く。"自分自身"の姿をしたその影は、嘲るように囁く。
「あなたの選択は、本当に正しいの?境界を越えるたびに、あなたの"本当の自分"、どんどん薄れていってるんじゃない? そうやって"誰か"のために動き続けて──あなたは、いずれ自分が誰だったかさえ、思い出せなくなるんじゃない?」
灯里は、胸の奥で冷たい波紋が広がるのを感じた。
虚像の言葉は、誰よりも"自分"の弱さや怖れを的確に突いてくる。
だが、灯里は目を逸らさない。
ぐっと息を吸い、足元に"境界"の力をしっかりと根付かせる。
「──私は、私たとえ自分を疑う瞬間があったとしても、それでも、誰かの手を取るためにここにいる」
虚像は、淡い光に縁取られながら、静かに消えていった。
空間が、再び静寂を取り戻す。
灯里の決意だけが、ほんのりと温度を持ってその場に残った。
ふいに、天井から何かが降ってくる。
無数の"糸"──蜘手の霊糸が、空間の歪みに沿って揺れながら降下してきた。それはまるで、異界の深海で生物が手探りで道を探しているかのような光景だった。
糸が、美優の"存在"に触れる場所を正確に示す。
同じ頃、美優は無限の部屋の中で疲れ果て床に座り込んでいた。
ふと何かを感じ顔を上げると、天井から透明な糸が一本、ゆっくりと降りてくる。
「……え、なにこれ。キモ」
美優は反射的に身体を引いたが、糸は執拗に、まるで意志を持ったかのようにゆっくりと近づいてくる。
(……もしかして)
どこかで、直感的に分かった。
これが"救いの糸"であることを。
美優が糸に指先を触れた、その瞬間──
空間が"裂けた"。
「……やっと見つけた」
静かな声。振り向けばそこに灯里がいた。
異界の空間に、灯里の輪郭がふっと現れ、淡い光が彼女を包んでいる。
「待って、なんで灯里先輩が……?」
「迎えに来たのよ」
灯里は微笑み、美優にそっと手を差し伸べる。
「美優ちゃん、もう大丈夫よ。一緒に帰りましょう」
美優は、一瞬ためらった。
その手を取りかけて、思い出す。
(あの時現れたのも灯里先輩の姿をしていた。もし、これがまた偽物だったら?)
美優は手を差し出し──『分解』を発動した。
恩寵が発動し、細かな光が灯里の腕に侵食していく。
だが、灯里は崩れない。
本物だ。美優は「偽物の灯里先輩の表皮」を分解しようとしたのだ。
偽物だとしたら完全に理解できていない以上、本来の『分解』の威力は出ないが、何かしらの影響は出る。
美優は、長く息を吐く。
不安が少しずつほどけていく。
「灯里先輩……この部屋、分解できなかった」
灯里が微笑む。その微笑みには、どこか大人びた哀しみが滲んでいた。
「……美優ちゃん、この牢獄を"分解"できなかった理由、わかる?」
美優は、うつむき、しばらく黙り込む。
「……なんで?」
「これはね、美優ちゃん自身が作った牢獄だからよ」
その一言は、鋭くも温かい。
「"間違えたら二度と出られない"──美優ちゃんの無意識がそう刻み込んでしまった」
「……」
「思考ではどうしようもない。深層に刻まれた"ルール"だから、分解することもできなかったの」
灯里はそっと、美優の肩を抱く。
「でも、大丈夫。外部からの干渉なら変えられる」
灯里が蜘手の霊糸を示し、微笑む。
「私がここに来て、美優ちゃんに触れられる─それだけで"ルール"の方を変えられるの。さあ、一緒に帰ろう」
灯里が霊糸をそっと握り、美優の手を包み込む。
世界が、ゆっくりと、音もなく揺れ始める。
無限だったはずの部屋が静かに崩れていく。
時計の針が再び動き始め、窓の外に朝焼けの光が射し込む。
ふいに、美優の指が、現実の世界でピクリと動いた。
「──っはぁ……!」
美優が大きく息を吸い込み、目を開ける。
「……おかえり、美優くん」
蜘手が、普段よりもほんの少し優しい声で微笑んでいる。
「……っ、あたし……」
美優は、まだ現実と夢の狭間にいるようなぼんやりとした目で、自分の手のひらをじっと見つめる。
「もう、大丈夫よ」
灯里がそっと、微笑む。
「あなたはもう、"外"にいるんだから」
美優は、ゆっくりと頷いた。
心の奥で、なにか大きな重しが外れていくのを感じていた。
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