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CASE:004-2 玲香ちゃんを探して

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -

2-1. 手繰り


 気がつくと、そこは──

 畳の縁が擦り切れた、自分の部屋だった。


 柔らかく沈む古い布団、うっすらと埃をかぶった窓の桟。小さな本棚には、読みかけの推理小説と仕事で使う資料が乱雑に積み重なっている。半分ほど残ったウイスキーの瓶、その横には灰皿と折れた煙草。壁にかけっぱなしのコートには、外の埃っぽさと消えかけた香水の香りがまだ残っている。


 ──どれも、いつもの『自分の風景』だ。


 けれど、肌の奥で何かがひっそりと軋んでいる。部屋の隅の影は異様に濃く、空気は夜のはずなのに妙に湿っている。耳を澄ませば、あのマンション特有の遠くのテレビの音や上下階の生活音も、まるで切り取られたように聞こえてこない。

 蜘手は、ゆっくりと身を起こすと、部屋をぐるりと眺めた。畳の感触、指先を這う埃のざらつき、ウイスキーのアルコール臭──五感はリアルに現実を主張しているのに、どこか浮遊感が抜けない。


 窓の外には何もない。黒い闇が海のように、どこまでも広がっている。星も月もない。窓ガラスに顔を近づけてみても、自分のぼやけた影が映り込むだけ。だが、肌の奥でひそやかに軋む気配。部屋の隅、濃い影の中に、小さな人影が蹲っている。長い髪に顔を隠し、動かない。麻衣香。いや──そういう役割を与えられたもの。


 蜘手は肩を竦め、右手の指先に意識を集める。ぱちりと弾いた瞬間、透明な糸がふわりと立ちのぼった。霊糸は空気の歪みを撫で、存在を確かめる。家具、そして隅の少女に糸を触れさせた途端、返ってきたのは──

(……ふぅん、なるほどねぇ)

 内心でつぶやくと、不思議なほどの納得が胸に落ちる。蜘手は肩の力を抜き、軽く微笑んだ。コートを掴むと、そのまま立ち上がる。

(──さて、と)

 まずは、決められた手順通りにやってみるか──。蜘手は床を探るように歩き、机の下から一枚の紙を見つけた。白いプリントに、震える筆跡。

 ──「れいかちゃんをさがして」。

(はいはい、手順どおりってわけね)

 軽く笑みを浮かべ、扉のノブを捻る。カチリ。冷たい感触が指に深く沈む。廊下に出ると、音はなく、空気は薄い膜で覆われたようだ。噂どおり、左の扉へ進む。そこはアパートの共用廊下。右手の階段を降り、三台目の車の窓を二度ノック。一本道を抜けると、交差点に辿り着く。


(さて……次は右折、だったな)

慎重に歩を進めたそのとき。

「創次郎さん、こっちだよ」

 声。振り返ると、美優が立っていた。制服姿、笑みを浮かべて。誘う声は柔らかい。だが、その足元に影が落ちていない。

「近道があるんだよ。ほら、こっち……」

(おやおや……ご苦労なことだねぇ)

 蜘手は指を鳴らし、霊糸を伸ばす。意識を集中すると、空間の織り目に細く透明な"歪み"が見えてくる。美優の足元には、何も感じない。まるで空っぽの人形。糸を伸ばしても、沈まない、触れない──ここにいない。

「……おっと、引っかかるところだったよ」

 飄々とした声色で距離を取ると、美優が小さく首をかしげた。

「……創次郎さん、信じてくれないの?」

 美優の声が少し軋む。その顔が、ピクリと引きつる。唇の端が、粘土細工のように歪む。無理やり笑うピエロの仮面のように。

「そんなの、寂しいなぁ……」

 その足元から、ザリ、ザリ、ザリ──乾いた爪で畳をかくような音。その瞬間、蜘手の霊糸が偽物を切り裂く。美優の形はぐにゃりと溶け、黒い水のように地面へ吸い込まれて消えた。

「悪いねぇ。俺は『本物』の美優くんしか信じないんだ」

蜘手は小さく肩をすくめ、微笑む。


「透真は……問題ないか」

 足元の感触を確かめるように、再び歩き始める。交差点の先に玲香らしき女性の影が見えてきた。──まだ、夢の出口は遠い。


***


 気づけば、透真は自室にいた。机の上には、整然と並んだ未提出の報告書。隅には、使いかけの定規とシャーペン。壁際に置いた本棚の蔵書は、背表紙の微妙な日焼け具合まで正確に再現されている。ただひとつ違うのは、部屋の隅にうずくまる少女の影。だが、それらすべてが一枚の写真のような、どこか平面的なリアリティにとどまっていた。

(……なるほど)

 透真は息を整え、迷いなく恩寵『透視』を発動する。世界が幾重ものレイヤーに分かれ、目に映るものの内側──歪みと裂け目が、淡い青白い光となって浮かび上がる。机の下にプリント。光がそこだけ滲んでいる。拾い上げると、紙に震える字。──「れいかちゃんをさがして」。

(フラグ、だな)

 彼がそう思った瞬間、プリントを囲んでいた光は静かに消えた。この世界が分岐と消費で構築されていることを、透視は明らかにしている。

 右手でドアノブを回す。冷たい金属の表面には薄膜のような抵抗。カチリと音がして、光の道筋が廊下に伸びる。

──左の扉。

──外廊下。

──右の階段。

すべてが、淡い光で示されていた。


 透真は足音を殺しながら進む。廊下の壁紙の継ぎ目に、不自然な縫い目。手すりの影に潜むムカデ、ナメクジ──黒い虫の塊。透視の視界では、それらはただの幻影だと即座に暴かれる。視覚は生理的嫌悪を訴えてくるが、青いルートは揺らがない。

(心理的妨害……だが無意味だ)

 階段を降り、三台目の車の窓。そこに二度、拳を当てる。ゴン、ゴン──音と同時に光が弾け、次のルートが交差点へと続く。そこには四つの道。だが、青白い光は右折だけを照らしていた。透真はためらわず右へ進む。


 その先に、立ち尽くす女性の姿。髪に隠れた顔は見えない。透真は冷静に告げる。

「麻衣香ちゃんが探しています」

 言葉が終わった瞬間、女性の輪郭に絡んでいた光がほどけ、背後に彼女の足音が加わる。振り返ってはならない──それもまた、光の示す禁止事項として透真の視界に刻まれていた。

(……ここまで、想定通り)

 青白い道筋は、今度は逆順に伸びていた。戻るべき道を、淡々と辿るだけ。


 透真は一度も感情を乱さず、光を消費し続けていく。部屋のドアを開けたとき、最後の光がすっと消えた。まぶたの裏で、光が細い糸となり、やがてほどけていく。


自室、ベッドの上。──夢は、静かに閉じた。机も資料も、すべて元のまま。時計だけが静かに四時四四分を指していた。


透真は再び無言でベッドに身を横たえた。



2-2. 空白


 蜘手が特待室オフィスへ入ると、既に出勤していた透真はノートを開いたまま、じっと一点を見つめていた。机の上には、昨夜のうちに放り出されたままのペン。誰かが忘れていった缶コーヒーの空き缶。静けさは二人を包む膜のように濃密だった。蜘手が薄い笑みを浮かべる。

「ま、ルール通りに進めば出られるってのは、予想通りだったねぇ」

 透真は眉根を寄せて、ゆっくりと頷く。

「ええ。あと──玲香と麻衣香の件ですが、調べてもそのような事実はありませんでした」


 二人は、各々が体験した夢の構造を、言葉少なに確かめ合う。

「まず、夢の中の世界。霊糸で探ってみたがあれは全て、自分の精神が生み出したもんだったよ。麻衣香も玲香もな。だから話を聞いたイメージのみ──顔がはっきり見えないんだろうな」

「はい。透視で夢の構成要素全てに、自身の精神のエネルギーが流れ込んでいることを観測しました」

 どちらの夢にも美優は見つからなかった。透真は、ペンを回しながら小さく息を吐く。

「つまり怪異による共通の特異空間ではなく、『個々の夢の中』であることは分かりました」

 蜘手は頷きつつも、どこか釈然としない表情で顎を撫でる。

「まぁなんとなく予想はついていたが、美優くんは俺たちの夢から行ける云々じゃない、全く別の空間にいるってことだな」


 朝の静けさが、事態の深刻さを逆撫でしている。パソコンのファンが低くうなり、棚の隅のファイルが妙に整然と並んでいるのが目につく。非日常の渦中でも、事務室だけは淡々と時間を刻んでいる。

「その可能性が高いですね」

 透真はノートに素早く記号と仮説を書き込む。その手の動きには焦燥も苛立ちもない。ただ、分析者として、すべてを一枚の構造図に落とし込もうとする静かな執念がある。

「南雲は、もはや通常の手順で脱出できない領域に囚われている」


 ノートの余白に、太い線で「隔離」と書き加える。それは、ルールで説明できる夢の表層から、さらに奥へ──誰にも触れられない、もっと個人的な、精神の最深部に美優が取り残されていることを意味していた。

「……ってことは、全く違うアプローチをする必要があるってことか」

 蜘手は、冗談めかした口調で言いながらも、その表情には僅かな苛立ちが混じる。特対室のベテランらしい余裕──それは、時に何もできない無力さの仮面にもなる。


 美優は今、どこにいるのだろう。ベッドの上で静かに眠る彼女の額には、薄い汗が滲んでいるかもしれない。声をかけても、もう届かない。現実の言葉が、夢の奥底で濁流に飲まれていく。

 蜘手は椅子の背に身を預け天井を見上げる。そこに浮かぶ染み──普段なら気にもしない些細な染みが、今はやけに目に刺さる。

「さてさて……どうやって引きずり出すかねぇ」

 その言葉は、半ば独り言のように空中に散っていく。もしこの場に独りなら、もっと荒っぽく感情を吐き出していたかもしれない。だが、ここでは感情よりも冷静な分析が優先される。

 透真はノートを閉じる。小さくパタン、と音がする。思考が一つの箱に収められたように、彼の瞳が鋭く光る。

「次の手を考えましょう」

 静かな、だが芯のある声だった。

 ──美優は、「出口のない夢」のさらに奥にいる。


 二人は、次の一手を考えながら、それぞれのやり方で無力感を押し殺していた。だが、その心の底には必ず、「もう一度、美優を現実に引き戻す」という意志が確かに残っていた。


 その意志だけが、薄明の中で呼吸を続けていた。



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