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CASE:004-1 玲香ちゃんを探して

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -

1-1. 迷宮


──私は失敗した。


 深く柔らかな眠りから覚めたはずなのに、世界はまるで綿のような静寂でくるまれていた。目の前に広がるのは、誰より自分がよく知っているはずの自室。そのくせ、どこか異様な気配が、壁の奥やカーテンの隙間から滲んでいる。


 カーペットには薄茶色の小さな染みが浮かび上がっている。これは数日前、うっかりジュースをこぼしてしまった痕だ。机の上には放り出したプリントや、気まぐれに読んでいた漫画、未開封のペットボトル。時計の針は夜の三時を示したまま動かない。


 静かだ。まるで音も気配も世界からごっそり削り取られたみたいに。そう思った直後、不安が胸をきゅっと締め付ける。少しだけ冷えたシーツの感触が残っている。いくら瞬きを繰り返しても、まぶたを閉じては開けても、現実の重みは戻ってこなかった。私はためしにベッドから降り、ドアノブにそっと手をかける。金属の感触──冷たい。深呼吸して捻ると、ドアは滑らかに開いた。その先に広がっていたのは、やはり同じ自室だった。時計の針は止まり、天井の染みは同じ位置にある。自分の部屋のにおいが、鼻の奥をくすぐる。プリントの配置も、ベッドに畳みかけたブランケットも、何もかもが完璧に再現されている。


 繰り返す。五回目も、十回目も──。

 出口はなかった。

 私は、無限のループに囚われた。


 じわじわと焦燥感がせり上がる。こういう時、現実なら叔母さんの声やスマホの通知が聞こえるはずなのに。でも、ここでは外の世界と繋がる術はない。部屋の空気は異様に澄んでいて、なのに何か腐りかけたような、遠いところでカビの胞子が舞っているような、じとっとした気配だけがまとわりつく。


 学校である噂を聞いたその夜、私は夢を見た。

(夢の怪異──)

 私は噂に聞いた手順をなぞった。部屋でプリントを見つけ、廊下を抜け、階段を降り、窓を二度叩き、交差点を右に折れる。そこには女性が立っていた。髪に隠れて表情は見えないけれど、背筋をすっと伸ばす姿は、噂に聞いた「玲香」そのもののように思えた。

「……麻衣香ちゃんが探しています」

 口にした瞬間、彼女は何も言わず、ただ静かにこちらへ歩み寄り、私の後ろに続いた。その気配を背に感じながら、私は逆順序で道を戻りはじめた。心臓の鼓動がうるさい。何度も「振り返ってはいけない」という言葉を自分に刻みつける。


 ──その時だった。

 交差点、唸りを上げて車が突っ込んできた。ヘッドライトが白い刃みたいに視界を裂き、エンジン音が耳の奥を灼く。運転席、ハンドルに突っ伏す、眠り込んだ男の姿。居眠り運転。これは──玲香を奪った原因。

「危ない!」

 咄嗟に背後の女性の手を引こうとした──が、胸の奥で警鐘が鳴る。

(違う、これは罠だ!)

 私は振り返らず踏みとどまった。車はそのまま塀へ突っ込み、轟音とともに衝撃が響いた。粉塵と焼けたゴムの匂いが鼻を突く。


 安堵する間もなく、背後から声がした。優しく、馴染み深い声。

「美優ちゃん、危なかった。引っかからなかったのね、偉いわ。助けに来たわ」

 ──灯里(あかり)、先輩。

 灯里先輩の恩寵『境界』。『境界』ならきっと夢の中にも干渉できる。ひょっとしたら現実の私はもう、何日も眠りから覚めないままになっているのかもしれない。胸が熱くなり、思わず振り返ってしまった。しかし、そこにあったのは、期待した安堵ではなかった。見上げた闇の中、声だけが甘く繰り返す。


「偉いわ。助けに来たわ。助けに来たわ──」

 同じ言葉が、レコードの針が擦れるように、何度も。目の前の「灯里先輩」は笑っているのか泣いているのか、判別できない顔でこちらを覗き込んでいた。世界は一度に崩れ、気づけばまた自室。止まった時計と、カーペットの染み。何度ドアを開けても、そこにあるのは同じ部屋だけだった。


──私は、罠にかかってしまったのだ。もう出口はどこにもなかった。



1-2. 漂流


美優(みゆ)くんが目を覚まさない、と」

 蜘手(くもで)創次郎(そうじろう)が投げかけるように呟くと、葦名(あしな)透真(とうま)は肯定するように一度だけ小さく瞬きをした。


 蛍光灯の明かりが、じんわりとオフィスの天井に染みついている。

 警視庁本庁の地下──世間には存在しないことになっている「特異事案対策室」の空間は、いつも通りの静けさに包まれていた。だが、その静けさには、どこか均衡を崩された余韻が漂っている。

 蜘手はオフィスチェアに身をあずけ、気怠げに指先で報告書を弾いた。書類の端が微かに揺れ、淡い光が紙の表面を斜めに滑っていく。

「ふぅ、やれやれ」

 小さくため息を漏らし、いつも通りの軽口を叩こうとしたが、どこかその声音は湿っている。机の向こうで、透真が眉根を寄せ、腕を組んだまま視線を落としている。白光が彼の眼鏡の奥で冷たく反射する。


「原因はいつもみたいに寝坊じゃないだろうな?」

 蜘手は肩を竦めてみせる。皮肉にも似た台詞。だがその奥に、かすかな緊張と苛立ちが滲む。

「当たり前です」

 透真の返答は静かだが、いつもより少しだけ言葉が固い。ふたりの間を、重い沈黙がすべり落ちる。部屋の壁にかかった時計の針だけが、まるで見下すようにゆっくりと進んでいた。


 報告書には、美優の現状が淡々と記されている。

 ──昨夜、普通に帰宅して就寝。そのまま朝になっても目覚めず、叔母が不審に思って声をかけても動かず、救急車を呼び病院に搬送される。意識不明。脳波も心拍も、医学的には正常。けれど、美優の「意識」だけが、どこにも見当たらない。いくら呼びかけても触れても、彼女は眠りの底から戻ってこない。


「何かしらの怪異だとは思いますが……手がかりが薄い」

 透真がぼそりと漏らす。蜘手はネクタイを引き緩め、椅子の背にもたれる。微かに首筋が汗ばむ。重い空気を振り払うように、両腕を大きく伸ばした。

「お互い堅っ苦しい服装なんて窮屈でたまらないねぇ」

 蜘手の言葉には、ふだんの軽さが戻りきらない。透真は肩をすくめる。

「俺は平気ですが」

「だろうねぇ」


 会話はどこか、歯車がずれている。美優がここにいないだけで、室内の空気は妙に湿っぽい。小さな沈黙がまた落ちて、蜘手は仕方なさそうに立ち上がった。一張羅の薄手のコートの袖に腕を通しながら、視線をデスクの上に置き去りにする。

「さて、まずは美優くんの通う学校で聞き込みでもするか」

 特異事案対策室の朝は、いつも通りに始まった。だが、誰もが、その「いつも通り」がどこか偽物じみていることに気づいていた。



1-3. 夢


 都立S井高校。灰色の空とコンクリートの廊下。下校時刻を過ぎても残る生徒のざわめきが、まるで余韻のように校舎の隅々に未だ漂っていた。蜘手と透真は、事前に手配していた「不審人物捜査の為の聞き込み」の名目で校内に入り、生徒たちの協力を仰ぐために、職員室に一礼を済ませていた。


 職員室のガラス越しに見える教師たちは、慣れない「特別捜査」に戸惑いながらも、どこかで非日常を楽しんでいるような表情を浮かべている。蜘手はその空気を巧みに利用し、生徒たちにも「ま、怖がるなよ」と声をかける。

 廊下には、数人ずつ生徒たちが固まって談笑していた。警察の聞き込みと知り、最初は警戒した空気も、蜘手の馴染みやすい口調と、透真の穏やかな態度で徐々に和らいでいく。


「先生から『何か知ってたら協力しろ』って言われてたけど、なんか警察っぽくないよね?」

「うん、探偵っぽい」

 生徒たちは声をひそめてそんな噂を交わす。彼らにとって、「警察の聞き込み」は自分たちの世界を外側から照らす強い光だ。けれど、その光が思ったよりも温度を持たないことに気づくと、安心したように言葉をつなぎ始める。

「奇妙な夢、ですか? んー……特に聞いたことはないですけど……」

「最近、妙な体調不良を訴えてる生徒がいるとか?」

「んー、風邪は流行ってますけど、変な噂とかは……」

 やり取りは平凡で、どこか曖昧なものばかり。透真は、受け答えの中に潜む僅かな違和感を逃さないように、注意深く生徒の表情を観察する。彼らはただ、事件に無関心なのではない。むしろ「何を話せばいいのか」迷っている空気がある。


 いくつかのグループを渡り歩き、廊下の突き当たりの窓辺で、ぽつりとひとりごとのように話す女子生徒がいた。

「そういえば、夢の話なら、放課後にいつも図書室で集まってる子たちが話してたかも……?」

「夢の話、って?」

「よく分かんないですけど、出口がない夢とか、夢の中で目を覚ます方法とか、そんな話をしてた気がします」

 透真は軽く目を細め、その生徒の横顔をじっと見つめる。

「それは……いつ頃の話ですか?」

「えっと、ここ最近? なんか、クラスの何人かが同じような夢を見たとか言ってたのも、それぐらいの時期だった気がします」

 その言葉に、どこか校内の空気が淡くきしむような音を立てた気がした。

 透真の背後で、蜘手がひょいと顔を覗かせる。

「おやおや、それは面白いねぇ」

「何が面白いんですか」

「だって、同じ夢を見るなんて、なかなかないことじゃない?」

「……確かに」

 蜘手は、相変わらず飄々とした表情を崩さない。だが、その瞳は何かを計算するように鋭く光っている。

「その夢の話をしてた子たち、誰かわかりますか?」

「たぶん、図書室で放課後に集まってるグループなら……」

 女子生徒はそう答えると、どこか安堵したような表情を見せた。その瞬間、校舎を満たす空気が、すうっと一段階冷たくなった。蜘手はわずかに口元を緩め、透真に目で合図する。


 この学校の片隅、図書室の窓際で、なにかが密かに膨らみ始めている──それは、現実の外縁と夢の奥底を、そっと繋ぐ、ほつれかけた糸のようだった。



1-5. 噂核


 図書室の窓際。放課後の斜陽が図書室のガラスを柔らかく染めるなか、机を囲んだ女子生徒たちは、薄いガラス板越しの魚のように、互いの顔色を窺っていた。蜘手がニコニコと柔らかい笑顔を浮かべて近づくと、空気が少しだけ緩む。それでも生徒たちの口元には、何かを噛みしめるような緊張がこびりついている。


 ひとりがぽつりと呟く。

「……いや、でもさ、これ話していいの?」

 隣の生徒が小声で返す。

「なんで? 噂なんだからいいんじゃない?」

 けれどもう一人は、目を伏せて首をすくめる。

「でも、聞いた人はその夢を見るって話だし……」

 その言葉に、さざ波のような不安が机の上を走った。

「嘘でしょ? 私たち見てないじゃん」

「わかんないけどさ……」

 まるで本物の呪いを手渡すかのような、神経質な声色。生徒たちは慎重に、言葉の刃を手のひらで測る。蜘手は冗談めかして肩を竦めた。

「安心しなよ、俺もこいつももういい歳した大人だからさ、子どもの怖い話くらいじゃビビらないよ」


 その軽さに救われるように、空気がひと呼吸だけ和らぐ。透真は斜めに目を向ける。

「あなたが言うと信用できませんが」

「ひどいねぇ」

 小さな笑いが生まれる。その空白を縫うように、一人の生徒が意を決したように口を開いた。

「……『玲香ちゃんを探して』は、聞いた人がその日の夜に夢で体験するっていう話です」

 透真の視線が鋭くなる。

「体験する?」

「そう。夢の中で、ある手順を踏まないと出られない。逆に、間違えると永遠に出られなくなるって……」

 淡々と語られる言葉。けれどそれは、どこか現実の温度を持たない。教室の蛍光灯が、机の上の本の背に、淡い死斑のような影を落としている。

「ほうほう、それはまた興味深い話だねぇ」

 透真はノートを取り出し、さらりとペンを走らせる。

「その話というのは?」

 話は静かに連なっていく。


「玲香さんっていうシングルマザーと、その娘の麻衣香ちゃんがいたんです。すごく仲が良くて、近所でも評判だったって。でもある日、交差点で……玲香さんが居眠り運転の車にはねられて、即死だったそうです。麻衣香ちゃんは、それからずっとふさぎ込んで、不登校。親戚はもともと縁を切られてたみたいで、誰も引き取ろうとしなかった。児童福祉が何度か訪ねても、鍵をかけて会わせてくれない。──で、ある日、業者を呼んで強引にドアを開けたら……麻衣香ちゃんはもう、首を吊って亡くなっていたって」


 彼女は一度、唇を噛んで間を置いた。それ自体が噂か事実かは、この場では確かめられない。けれど、その続きが問題だった。

「この話を聞くと、その晩に夢を見るんです。気がつくと自分の部屋にいる。普段と同じなのに、空気がやけに湿っていて、音がまるでしない。ちょっと違うんです」

「夢だからねぇ」

「そう。でも、そのときに部屋での行動が最初のステップです」

 蜘手が小首を傾げる。

「何かルールがある?」

「あります。部屋の隅には、小学生くらいの女の子がうずくまってる。髪が顔にかかってて表情は見えない。……声をかけちゃいけないそうです。まずは部屋のどこかに置いてあるプリントを探さないといけない。白い紙に、震える字でこう書いてあるんです──『れいかちゃんをさがして』。それを見つけたら、部屋を出られる」

「それはまた細かいねぇ」

 机の上の空気が、ますます密度を増していく。

「部屋を出ると廊下が続いていて、突き当たりにはドアが二つ。左と正面。必ず左を選ぶんだそうです。正面に行くと戻れなくなる……らしいです」

 蜘手はわずかに眉を上げる。

「らしいってことは、試した人がいる?」

「それは……わからないです」

「ふむふむ」


「その先に出ると三階建てのアパートの二階の共用廊下。両端に階段があるけど、右側の階段から降りないといけない。階段を下りた先には、車が四台止まってる。三台目の運転席の窓を、二回ノックする」

「二回ノック、ねぇ」

「そうすると、一本道が開けて交差点に出る。交差点は四方向に分かれてて、左折、直進、右斜め前、右折。正解は右折。……その先に、女性が立ってるんです。玲香さんかどうかは分からない。でも、その人に『麻衣香ちゃんが探しています』って声をかける。すると、無言で後ろをついてくる。で……ここからが一番ヤバいらしいです」

「ヤバい?」

「振り返っちゃダメなんです。絶対に戻れなくなるとか」

「ふぅん、それはまた妙なルールだねぇ」

 生徒たちは、まるで密室の中の空気を手探りで確かめるように互いの表情を読み取る。


 透真は表情ひとつ変えずに聞きながら内心で、ルールを強制されるタイプのよくある怪異か、と結論を下しつつあった。

「で、そこからは?」

「あとは来た道と行動を逆に辿って、部屋に戻ると……夢から覚めるって」

 女子学生はそこで、声を潜めた。まるで自分が経験者であるかのように、一つひとつを正確に暗唱していた。だが、決して「私が見た」とは言わない。それがかえって、噂話らしい異様さを濃くしていた。

「面倒だねぇ」

「……もし、一度でも間違えたら。その瞬間、部屋に戻されるそうです。けど、もう出られない。ドアを開けてもまた同じ部屋がループするだけ。ゲームの進行不能バグ、みたいに……そのまま、目が覚めなくなるらしいです」


「しかも、途中で妨害が入ることもある。知らない誰かが『こっちだよ』って呼んだり、階段の段数が増えて果てしなく下り続けたり、ノックしようとした窓に自分以外の顔が映ったり……。どれも全部、ルートを外させる罠なんです。引っかかると、帰れなくなる」

「なるほど」

 彼女は語り終えると、深く息を吐いた。話は伝聞でしかない。けれど、その目に宿る恐怖は紛れもなく体験者のそれに近かった。

「だから……絶対に、この話は最後まで聞かない方がいいんです」

 そう呟いたとき、彼女の声には、噂の続きを自分も知りたくない、という切実な響きがあった。

 蜘手はゆっくりと頷き、軽く笑った。

「こういう話、好きな子多いよねぇ」


 夕暮れの色が図書室の本棚の隙間をなぞる。

 外では部活の掛け声やグラウンドのボールの音が聞こえるのに、この小さな島だけが、まるで世界から切り離されたような静謐に満たされていた。



1-6. 夜告


 放課後、学校の正門前──。

 下校ラッシュを見送る制服姿の波。その流れの片隅で、蜘手と透真は互いに顔を見合わせていた。空は夕暮れの色に沈み、校舎のガラス窓が淡く群青を返す。


「いやぁ、いい話が聞けたねぇ」

 蜘手はポケットに手を突っ込み、ふざけてみせるように伸びをする。透真は小さく溜息をつきながら、その横顔をちらと見た。

「手順を守れば出られるが、間違えると閉じ込められる……ルール強制系の怪異ですね」

「間違えるとアウト。俺たちの仕事でもよくある話だねぇ」

「あなたの場合、間違えても強引に突破するじゃないですか」

「おやおや、ひどいねぇ」

 蜘手の笑顔は普段どおり。だが、その眼差しの奥には、解けない糸を手繰るような静かな警戒があった。透真は沈んだ声でつぶやく。

「……今夜、試すことになりそうですね」

「そりゃあねぇ。だって、俺たち、聞いちゃったからさ」

「最悪ですね」

「最悪の一歩手前、ってところさ」


 二人の冗談まじりのやりとり。その合間に、じっとりとした不安が潜む。校庭の端で、誰かが自転車のブレーキをきしませる音。風が窓を揺らし、最後の部活生たちの足音が、遠く消えていった。蜘手は、ネクタイを緩めて肩をすくめた。

「まあ、こういうルール系の怪異ってのは、慎重に進めば案外なんとかなるもんさ。そう思わない?」

「そういう楽観論が死を招くんですよ」

「大丈夫だよ。俺がいるんだから」

「信用ならないですね」

「ひどいねぇ」


 都市の夜が、ゆっくりと降りてくる。その暗がりの底で、まだ見ぬ夢の迷宮が、静かに息をひそめていた。


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