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CASE:003-3 影、借ります

東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -

3-1. 潜入


 霊糸の震えが、止まった。

 まるで呼吸を潜めたかのように、空気そのものが沈黙する。

 導かれた先──そこにあったのは、老朽化した廃ビルだった。


 外壁のコンクリートは地割れのようにひび割れ、間からは乾いた雑草が無遠慮に顔を出していた。窓のほとんどは黒く煤け、いくつかは板で打ちつけられている。建物全体が、忘れられることに慣れてしまったような、くすんだ色をしていた。蜘手創次郎と葦名透真は、その前で立ち止まり、無言で見上げる。


「またずいぶんと場末の物件だな」


 蜘手が煙草の箱を指先で転がしながら言った。だが、火は点けない。空気が重すぎる。煙すら混ぜたくない夜だった。


「解体もされず、立入禁止の柵すら朽ちている……つまり、誰もこの場所に干渉しようとしていない。もしくは、できない」


 透真の声は冷静だったが、そのまなざしは慎重だった。


「つまり、怪異が巣食うには絶好の隠れ家ってわけだ」


 蜘手がそう呟いた瞬間、足元を走る冷たい風が、二人の間をすり抜けていった。風の匂いには、黴臭さと湿気と──どこかひと気を失ったまま長く眠っていた空間特有の、沈んだ気配が混じっていた。透真は建物の正面にあるシャッターに近づき、試しに手をかける。だが、がっちりと施錠されていた。動く気配はない。


「正面からは入れませんね」

「なら、裏口か……」


 蜘手はそう言いながら、辺りに視線を巡らせ──そして、「……いや、もっと手っ取り早い方法がある」と口にすると次の瞬間、足元に転がっていた錆びた鉄パイプを拾い上げ、そのままビルの低層部の窓へ、躊躇いなく投げつけた。


 ──ガシャアアンッ!


 夜の静けさに、あまりにも鋭すぎる音が響いた。割れたガラスが飛び散り、破片がコンクリートの地面に跳ね、乾いた音を重ねる。夜の都市は、音に鈍感なようでいて、こうした異物の音には敏感だ。しかし無頓着でもある。


「不法侵入に器物損壊まで加わりますね」


 透真が、変わらぬ口調で呟いた。


「お役所仕事じゃ解決できない件なんでな」


 蜘手は振り返りもせずに、笑う。彼は壊された窓枠に近づき、手袋をはめた指でガラス片を軽く払いのける。そして、ひょいと身軽にその縁をよじ登り、室内に滑り込んだ。


 透真は、ため息をひとつ。

 しかし何も言わず、その後を追った。



 中は暗かった。

 窓からわずかに入り込む街灯の光が、埃と破片の上に斑の模様を描いていた。


 床には湿気が染み、コンクリートの壁には黒ずんだ水の跡。

 天井の一部が剥がれ、断線したコードが垂れ下がっている。

 蛍光灯は外されて久しく、照明はない。

 だがその闇は、夜の闇とは違っていた。


 ──ここには、日が差した記憶がない。


「……なるほど」


 蜘手が低く呟いた。


「確かに、ここなら影が逃げ込むには最適だな」


 透真は無言でうなずき、霊糸の先を睨む。その糸は、いまや確実な手応えをもって、奥へ奥へと伸びている。


「どうやら──ここからが本番のようですね」


 透真の言葉に、蜘手は煙草の箱を指先で叩きながら、笑った。


「……さて、影を探しに行くとするか」


 そしてふたりは、廃ビルの奥へと踏み込んだ。湿った空気とともに、"何かの気配"が、彼らを待ち構えていた。



3-2. 群影


 かつてはオフィスだったのか、あるいは倉庫だったのか。廃ビルの内部は時間によって意味を失い、ただの空洞へと成り果てていた。


 埃が宙を舞い、踏みしめた足音が湿ったコンクリートに鈍く響く。取り外され損ねた蛍光灯の残骸が天井からぶら下がり、風に揺れるたびに、かすれた金属音をきしらせていた。まるで、それがまだ"仕事中"であるかのように。


 そして──

 床に、点々と"何か"が続いていた。


 足跡ではない。水でも、油でもない。

 それは、まるで影がこぼれ落ちた痕跡のようだった。


 黒い染み。

 だが、それは光を遮ることで生まれるものではなかった。

 自ら黒さを宿している。いや、黒さそのものであるかのように、べたりと床に張り付いている。


 透真が立ち止まり、わずかに目を細める。


「……影の痕跡ですね。これは」

「間違いねぇな」


 蜘手は霊糸を軽く引いた。

 糸は呼吸をするようにゆらぎながら、廊下の奥──そのさらに下へと伸びている。


 そして二人は、地下へと続く階段にたどり着いた。

 その瞬間──

 ぞわり、と空気が逆立った。


 階下から、なにかが滲み出てくる。音はない。光もない。だが、在るとしか言いようのない存在の気配が、じわじわと肌を這ってくる。


「……そこそこの数ですね」


 透真が息を抑えるように呟いた。


「行ってみるしかねぇだろ」


 蜘手の声は、あくまで平坦だった。だが、その背筋にはいつも以上の緊張が走っていた。


 足音を忍ばせながら、二人は階段を降りる。

 湿ったコンクリートの壁。埃と黴の臭い。

 空気が変わる。温度ではない。"意味"が変わる。


 そして──暗がりの底で、蜘手が懐中電灯のスイッチを入れた。

 光の輪が、沈黙を切り裂く。


 ──そこに、影がいた。


 影"だけ"が、いた。

 壁に。天井に。床に。

 あり得ない角度で貼り付き、伸び、うごめく。


 人影。

 だが人ではない。


 それらは人型の輪郭をしている。だが、厚みがなく、音も吐かず、ただ這うように蠢いていた。


 4つ、5つ……いや、それ以上。


 黒い液体が壁を這うように、互いに絡まり、分離し、縮み、また戻る。まるで自分たちがかつて誰かに属していたことを、どうにか維持しようとするかのように。蜘手は、乾いた笑みを漏らした。


「……影のスクラップ置場かよ」


 その言葉に、誰かが応じたような気配はなかった。

 だが、一瞬だけ、影のいくつかが蜘手の光の方に“顔を向けた”。


 顔などなかった。

 だが、わかった。

 見られている。認識されている。


 透真が、低く言った。


「……あれら、抜け殻ではありません」

「生きてるってことかい?」

「……生きてしまっているのだと思います」


 蜘手は霊糸を指先で弾いた。糸は確かに、この奥へと続いている。


「目的の俺の影は、まだこの先か……」


 そして、二人の前に広がるのは、崩れかけた廊下と、開け放たれた鉄の扉。

 影たちの視線が、ぬるりとその先へと誘うように、揺れていた。



3-3. 名なき残響


 廃ビルの最奥。割れたガラス、剥がれた天井、壁の染み──それらすらも目に入らなくなるほど濃い何かが、そこにあった。


 霊糸の先は、動かない。

 まるで行き止まりのように、ピタリと一点を指し示していた。


 そこに──いた。


 闇より濃く、影よりも黒い、輪郭のない存在。

 空間の中にぽっかりと落ち込んだかのように、深さを持った影が沈んでいる。

 ただそこに在るだけで、空気の温度が数度下がったように感じた。


「……あれが、"主"ですね」


 透真の目が、静かに細められる。


「間違いねぇ」


 蜘手も霊糸の震えでそれを察していた。

 まるで、影が糸を握っているような、奇妙な圧が指先に伝わっていた。

 そのとき。


「……"貸してくれた"な……」


 音のような、音でないような声が空間に滲んだ。耳で聞くというより、脳の中に直接浮かぶ感覚。掠れて、低く、深く──けれど確かに語りかけてきた。


 黒い影が、ぬるりと形を変える。

 人の形をしているようで、していない。

 四肢の輪郭が浮かび、顔らしきものが視線”を返してくる。

 だがそこに、瞳も口も、何ひとつ存在していない。


「おっと、まだ貸すつもりはねぇんだがな」


 蜘手は指先に絡ませた霊糸を引いた。見えぬ力が影の"端"を引っ張ると、蜘手の影は千切れ引き寄せられ足元に収まった。


「さてと……お前さん、一体何者だ?」


 黒が揺らぐ。

 言葉というより、感情が染み出すように声が返ってきた。


「……俺は……消えたくないだけだ……」


 その一言に、透真がわずかに表情を動かした。


「……生存本能……いや、存在の延命か」

「ほう」


 蜘手は口元を歪め、からかうように言った。


「お前、死んだ男の影だな?」


 その問いに、影が"震えた"。

 言葉で否定せず、声も出さない。だが、そのわずかな動きに──肯定の色がにじんでいた。


「……俺は、ここにいる。ずっと……ここに」


 壁に、床に、天井に。この空間そのものが、彼の棲処なのだ。


「そりゃ、ご苦労なこったな」


 蜘手は煙草の箱を取り出し、くるくると回す。

 だが、煙草は取り出さなかった。

 空気が、重すぎる。

 その煙すら、影に飲まれてしまいそうなほどに。


「で、何をしてたんだ?」


 黒の中心から、言葉がまた染み出す。


「……影を……少しだけ……借りていた」


 その声には、罪悪感も、言い訳も、なかった。

 ただ、そうするしかなかったという淡い悲しみのようなものが滲んでいた。


「影を借りれば、消えないで済むのか?」


 透真が一歩踏み出し、問いかける。


「……消えるのは……嫌だ」


 返ってきたのは、どこか子供のような声だった。その瞬間、影の揺らぎが一段と弱まった。


 怖がっている。

 怯えている。

 ただそれだけの感情が、形を持たずにこの場に漂っていた。


 蜘手は霊糸をそっと伸ばした。それは、暴くためではなく、触れる”ための動きだった。


「……なるほど。お前さん、影を借りて、かろうじてここにいるってわけだ」


 影は動かない。

 けれど、霊糸の揺れは語っていた。



3-4. 補片


 空間は、沈黙のまま震えていた。波音のように揺れる影の気配の中で、透真が静かに目を細める。彼の瞳には、既に通常の光景は映っていない。恩寵「透視」によって、目の前にある存在の構造そのものが露わになっていた。


「蜘手さん。スクラップ置場という表現──あれ、案外的を射ていたかもしれません」

「ほう?」


 蜘手は霊糸の指先を軽く弾きながら、からかうように応じる。だが、その声の奥にあるのは興味ではなく警戒でもなく、理解だった。透真は一歩、影の揺らめく中心へと近づく。


「影の中に……微量ですが恐らく──貸し主の痕跡が残っているようです。正確には、魂の欠片……でしょうか。ごくわずかですが」

「へぇ、魂の部品取りか」

「はい。複数の影から、それぞれ別の断片が……まるで継ぎ接ぎのように、寄せ集められています」


 影が、ふわりと揺れた。

 一瞬、その形が変わった。


 まるで別の誰かの影。

 それは女の輪郭にも見えたし、老人のようでもあった。

 声すらない。だが"かすかな記憶"だけが、ぼんやりと残っている。

 蜘手は、煙草の箱を指先でくるくると回しながら、低く笑った。


「なるほどねぇ……器用なこった」


 その声音には、皮肉と、ほんの僅かな哀れみが滲んでいた。


「──お前、何度も影を借りて、ちょっとずつ補ってたんだな」


 その言葉に、影がびくりと震える。応えるように、音が流れ込んできた。


「……"消えたくない"……」

「"この世界にいたい"……」


 掠れた声が、空間に染み出すように広がる。

 その響きは、痛みや恐怖とは異なる。

 ただ、願いの残響だった。


 誰かに届くこともなく。

 誰かに許されることもなく。

 それでも、消えたくないと願う声。


 透真のまなざしが、わずかに沈む。


「──それが、怪異化の起点か」

「生きたかったってわけかねぇ」


 蜘手は静かに視線を下げる。自身の足元の黒い輪郭も"何か"が欠けたのだろう。そして、"自分の一部"だったそれが、誰かの生存のために使われようとしていることに、彼は怒りよりも──諦めにも似た感情を抱いていた。


「……さて。どうしたもんかねぇ」


 煙草を咥えたまま、蜘手がつぶやいた。


 その言葉に、影は何も答えなかった。

 ただ、揺れた。

 この世界に残りたくて仕方がない──そんな、誰でもあり得た何かの残滓が、そこにいた。


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