CASE:003-2 影、借ります
東京怪異捜査録 − 警視庁特対室CASE:XXX -
2-1. 彷徨
夜の特異事案対策室は、まるで世界から取り残されたような静けさに包まれていた。窓はない。外界との接点は閉じられ、唯一灯るのは蛍光灯の白い光と、モニターから滲み出る青白い輝きだけ。人の気配は、蜘手と透真──そのふたり分しかない。蜘手はデスクの上に投げ出した報告書を指先で弾きながら、ぼやくように言った。
「やれやれ、影ってのは普通、付いて回るもんだがなぁ……」
紙がカサリと乾いた音を立てる。
青白い液晶の照り返しが、グラスのように蜘手の眼差しに揺れていた。
「消えるとなると、厄介なもんだな」
「ええ。ただ、記録に残らないのは当然でしょうね」
透真は視線をモニターから外さないまま、指先でキーボードを叩き続けていた。彼の声は感情の抑揚をほとんど含まず、言葉の芯だけが響く。
「影が消えたとしても、翌朝には元に戻っている。そうなれば、届け出をする者はいないでしょう。証拠がなければ、警察も動けません。そもそも警察に相談する案件でもないでしょう」
「だろうな。……事件じゃないと断じられるのが、いちばん面倒だ」
蜘手は背もたれに身体を預け、組んだ指先で額を支える。
ため息のかわりに、椅子がきしむ。
「で、結局、何かわかったのか?」
「……いくつか興味深い投稿がありました」
透真が新たなタブを開く。そこに表示されたのは、薄暗い匿名掲示板の画面。
文字はどこか気だるげで、だが、妙に実感を含んでいた。
『駅前で見たんだけど、影だけが歩いてたんだよな……』
『公園のベンチに座ってる奴の影が動いてた。本人は気づいてなかったみたいだけど』
『影がなくなったって言ってた奴、翌日には普通に戻ってた。けど、なんかそいつボーッとしてたんだよな』
「……怪談とも、与太話ともつかないが……」
蜘手が小さく呟く。
「妙に、リアリティがあるな」
「ええ。ただし、これらの投稿に共通しているのは、どれも害意が見られないことです。影が消えても、戻ってくる。身体に異常も見られない。……しかし」
「しかし?」
「なにかが足りないような、ぼんやりした報告がいくつかあります。記憶が曖昧になった、とか。身体がだるかった、とか」
蜘手は顎を撫でながら、目を細めた。
「……人間ってのはよ。何かを完全に忘れてると、自分じゃ気づけねぇからな」
透真は頷かず、ただ淡々と別の投稿を開いた。
「──こちらは、数年前の投稿です」
表示されたのは、短い文。だが、妙な冷気を孕んでいた。
『俺の知り合いで、影が消えたまま戻らなかった奴がいる』
『そいつ、しばらくしたら死んでたよ。死因は……普通の心臓発作だったらしいけどな』
蜘手は黙って読み、そしてゆっくりと椅子を起こした。
「……影が戻らなかった、か」
「はい。その人物について調べました。死亡記録は実在しました。発作による突然死。解剖記録にも特筆すべき点はなく、ただ心臓が止まっただけの死です」
「特異な痕跡は、なし?」
「表面的には」
透真の語尾には、わずかに余韻が残った。
まるで裏があるとわかっていながら、それを断言しない慎重さ。
「……影が消えちまって、そのまま死ぬ。因果関係は立証できねぇが、可能性は?」
「ある、と俺は考えています」
即答だった。
透真の声には確信こそなかったが、感触はあった。
「影というのは、単なる光の裏じゃない。心理学的にも、文化人類学的にも、ある種の存在証明としての意味を持つ概念です」
「うちの室長あたりが聞いたら、喜んで語り出しそうな話だな」
蜘手はふっと笑う。
「姿を映す影は魂の写し……なんてね」
「実際、世界各地に影が奪われると死ぬという神話や迷信は存在しています」
「そりゃ、迷信としては便利だ。影が消えて死んだ……証拠も証人も残らない。都合のいい話だ」
「ただし、もし"影を通じて人間から何かが抜き取られる"現象が存在するなら……」
「"抜け殻"が出来上がるわけか」
蜘手は短く息を吐いた。
「で、あの花岡ってやつは、"まだ死んじゃいない"わけだ」
「はい。ですが、あの男が何かを落としたことに自覚がない以上──繰り返す可能性は高い」
「つまり、もう一度影を貸す可能性がある」
「ええ」
ふたりの間に、一瞬だけ沈黙が落ちる。人工光しか存在しない空間で、蛍光灯の微かな唸り音だけが空気を震わせていた。
「ま、死んじまった奴からは話は聞けねぇ。……生きてる方から追うしかねぇな」
「はい。ただし、情報が少なすぎます」
透真が手元のタブレットを操作しながら呟く。
「影を貸すという行為は、自発的で記録に残らず、映像にも影響しにくい。しかも、影の消失は短時間。──観測が困難です」
「逆に言えば、"わざと貸してみる"ってのは?」
蜘手の口元がわずかに持ち上がった。
その笑みは冗談とも本気ともつかず、だが、すでに何かを企てている顔だった。
「実地観察ということですか?」
「うちには、それが一番手っ取り早いだろ?」
透真は短く息をついた。その視線の奥には既に蜘手が何か仕掛けるつもりでいることを察している気配があった。
「あなた、まさか──」
「……"影、貸します"って言ったら、どうなるか。知りたいと思わないか?」
蜘手の指先が、まるで影を摘むように空をつまんだ。
「──お前さん、俺の影が消えてったら、ちゃんと探してくれよ?」
「……ええ。できれば、その前に止めたいですけどね」
軽口のやりとりだった。だが、その裏で何かが動き始めていることを、室内にいる誰より先に、ふたりは理解していた。
2-2. 声なき契約
東京の夜は、眠らない。
だがそれは、すべての路地が活気に満ちているという意味ではない。
繁華街の光の下では、酒と嘘が交錯し、歓声と怒声が混じり合う。そのすぐ裏で、誰にも選ばれなかった路地は、まるで時間からも拒絶されたかのように沈黙を保っていた。蜘手が歩いていたのは、そんな裏通りだった。
ゴミ袋の臭い。
赤錆の浮いた壁。
そして、ビルの谷間に染み込んだ湿気が、じっとりと足元にまとわりつく。
ふと、視界の隅で紙が揺れた。
──『影、借ります』
古びた電柱の側面。白いコピー用紙に、黒インクの文字。それはただの印刷だったが、不思議と誰かの手書きのような歪さを感じさせた。下部には、10桁の電話番号。蜘手は足を止め、数秒、張り紙を見つめたまま立ち尽くした。
「……ほぉ」
唇の端が、ほんのわずかに持ち上がる。
そして、ポケットからスマートフォンを取り出し番号を入力する。
通話のアイコンを押した瞬間、夜の空気が少しだけ冷えた気がした。
数回の呼び出し音ののち──機械的な自動音声が流れ出す。
『影、貸します、という方は、このまま繰り返してください』
女とも男ともつかない、無機質な声だった。
だが、あまりにも自然すぎる抑揚に、機械以上の"意志"を感じさせた。
蜘手は軽く息を吐き、静かに口を開く。
「影、貸します」
それだけを言った。
音声は、それ以上何も答えず──ぷつり、と切れた。
通信の終わりとともに、スマートフォンの画面が闇に沈む。
「……さて、どう出るかね」
その言葉は、誰に向けたわけでもない。
けれど、闇は確かにそれを“聞いた”ように、わずかに揺れた気がした。
二日後。
まだ空気の冷たさが残る早朝、蜘手はアパートのドアを開けて外へ出た。小さな集合住宅の外廊下は未だ静けさに包まれていた。彼は足元に目をやりながら、ゆるく伸びをした。
ちりちりと鳴る街路樹の葉擦れと、遠くの車の走行音が耳に入る。そして──視界の端に、違和感が引っかかった。
郵便受け。
差し込み口がわずかに開いていた。
不在票か、チラシか──
軽い気持ちで近づいた蜘手は、その口に無造作に押し込まれた封筒を見つけた。
宛名なし。消印なし。切手なし。
まるで、誰かが手で押し込んだような痕跡だった。
「……なるほどね」
蜘手はわずかに眉を上げ、指先で封筒を取り出した。
中身を確認するまでもなく、予感はあった。
封を切ると、紙幣のにおいが立ちのぼった。
──一万円札。一枚。
「おお、ちゃんと来たか」
それは、嬉しさでも驚きでもない。
ただ、契約が成立したという、静かな実感のこもった言葉だった。
懐に札を入れながら、蜘手は無意識にそれを撫でた。何の変哲もない紙切れ。だが、それが"影の価値"として提示されたものだと考えると、重さが少し変わって感じられた。
差出人の名前はない。
送り主の所在も不明。
そもそも、これは送られたものなのかすら曖昧だった。
何かが……ただ、そこに置かれたような印象すらある。
封筒の中には、他には何もなかった。
「これはまあ、ありがたいけど」
蜘手は誰にともなく呟き、椅子に深く背を預ける。
天井を見上げ、わずかに瞼を閉じると、何かが脳裏をよぎった。
──影とは、何か。
光によって生まれる、形なきもうひとつの存在。
だが今夜、その存在が彼の足元から消える。
そして、どこかで──"誰か"がそれを"使う"。
「──今夜、消えるのは俺の影ってわけだ」
その言葉に、誰も答えない。
だが、蛍光灯の微かな唸り音が、ふっと静まったように思えた。
2-3. 追跡
時計の針が、静かに深夜二時を指していた。
外は静まり返っていたが、東京が完全に眠ることはない。どこか遠くで車の音、通気ダクトの唸り、猫の低い鳴き声。だがこの部屋の中には、もっと深く、もっと密やかな沈黙があった。
蜘手は照明の灯る部屋の中央で、一人きり静かに椅子に腰を下ろしていた。背筋を伸ばし、腕を組み、足を組み替えることもなく──ただ、待っていた。まるで、自分自身の一部が出ていくのを見届ける覚悟を固めていたかのように。
──そして、変化は、まるで当たり前のことのように、訪れた。
何の前触れもなく、壁にあったはずの影が、そっと浮かび上がった。
それは揺れるでもなく、歪むでもなく──立ち上がった。
人の姿を模した黒い輪郭が、重力も物理も無視して、すっと床から離れた。
"蜘手の影"は、主の意思を離れ独立して、壁をすり抜けるように、闇の中へと消えた。
「……へぇ」
その場面を、蜘手はまるで古い映画でも眺めるかのように、飄々と見つめていた。驚きも、困惑も、なかった。あったのは、ただ淡い好奇心と、予感が的中したとでも言いたげな小さな満足感。
──部屋の壁に、影はなかった。
床にも、天井にも、扉の下にも──どこにも。
「まるで、存在ごと消えたみてぇだな」
空気が、どこか軽い。自分の肉体が“かさぶた”のように一部剥がれたような、奇妙な違和感だけが、残っている。だが、蜘手は動じない。彼は"仕込み"を済ませていた。
「操糸」──
恩寵の名を胸の内で呟いたとき、既にその術は発動している。
彼は、影に霊糸を縫い付けておいた。
まるで意識を縫い留めるように、その黒の裏地に。
目には見えぬ霊糸が、今もふるふると空間を這っている。
指先を伸ばせば、風の流れのように、そのゆらぎがわかる。
「さーて、お前さんはどこへ向かうんだ?」
その言葉に、誰も応じない。
だが、霊糸がわずかに震える。まるで、返事をしたように。
蜘手は立ち上がると、手早く上着を羽織った。特別な装備も、護符もいらない。ただ霊糸だけで充分だ。それが繋がっている限り、彼は追える。
夜の東京は、真っ暗にはならない。街灯、ネオン、信号、室外機のLED、カメラのランプ──都市の明かりは、影を拒絶するかのようにあちこちで煌めいている。
だが、そんな都市の隙間にも"闇"はある。
コンクリートの谷間に流れ込むような、ほんの数ミリの黒いくぼみ。
そこに、影は潜む。潜り込み、這い出し、すり抜けていく。
蜘手は人気のない路地を歩き出す。
ビルの隙間、背後の外気口、タイルのひび割れ。
どこかに、影が通った痕跡がある。
霊糸は、確かに伸びていた。
まるで誘われるように、細く、しなやかに、夜の闇の奥へと伸びていた。
「……なるほど。お前さん、案外足取りは軽いじゃねぇか。さすが俺の影だな」
手をポケットに入れ、煙草の箱を指先で転がす。
だが火は点けない。今の空気には、煙すら"無粋"だった。
遠くで車の音が響いた。
その合間を縫うように、霊糸が静かに伸びていく。
どこかへ──
何かの元へ──
誰かの"影"へと、導かれるように。
2-4. 兆し
深夜の街は、すでに音を手放していた。空気は冷え、街灯は灯っていても、その光はどこか遠くに感じられる。その中を、蜘手は霊糸を手繰りながら、ひとり静かに歩いていた。──そのつもりだった。
「──蜘手さん」
背後から届いた声に、彼は一歩だけ足を止める。
振り返ると、そこに立っていたのは葦名透真だった。
まるで、最初からそこにいたかのように、自然に立っていた。
「おやおや、お前さんも夜の散歩かい?」
蜘手の口元に、いつもの調子で薄い笑みが浮かぶ。透真は無表情のまま、じっと蜘手を見つめて、淡く言った。
「奥さんだけでなく、影からも愛想尽かされましたか」
「おいおい、そんな言い方するなよ」
蜘手は肩をすくめて苦笑する。
その軽さが、むしろ異様な事態を際立たせていた。
「まあ、俺の影が本当に戻ってこなかったら、いよいよ幽霊みたいなもんだな」
「そのときは、影なしの蜘手さんと呼びましょう」
「……ダサすぎるから遠慮するぜ」
そんな他愛もないやり取りを交わしながら、二人は霊糸の揺らめきを追い歩き出す。闇は濃く、風はなく、ただアスファルトのきしみだけが、足音に応じて耳に残った。
霊糸は細く、ほとんど感触を持たない。
だが、それでも蜘手にはわかる。
──その糸は、何かを探している。
「霊糸が不規則に揺れていますね」
透真が声を低くする。
「目的地を見据えているはずなのに、時折ふらつく……まるで迷っているように。まあ、蜘手さんの影ですからね」
「透真、それって俺が普段から迷走してるって意味かい?」
「かもしれません」
返答には表情がなかった。だが、それが逆に笑いを誘った。蜘手は笑いながらも、糸の動きを注視する。それは、まっすぐには進まない。まるで迷路を進むように、時に逸れ、時に躊躇い、あるいは何かを避けるように、回り道をしていた。
「奴さん、単に道に迷ってるってわけじゃなさそうだな」
「途中で何かに干渉されているか、あるいは……"気付かれた”か"」
その瞬間だった。
霊糸が、びくんと震えた。
それは、まるで注視された時のような反応。誰かの目が、こちらを"返してきた"かのような、異様な空気が立ち昇る。だが──その直後、霊糸はふたたび進み出した。今度は、ためらいなく。迷いの色はなく、まっすぐ、明確な意志を持って。
「……決まったな」
蜘手は火の点いていない煙草を指でいじり、くるりと回してから、箱に戻した。その目は、遠くを見ていた。
「霊糸の先が向かう場所──廃ビルです」
透真が、静かに言った。
そこは都市の忘れられた断片だった。
工事中止になったまま放置され、解体予定も棚上げにされたまま、年月だけを吸い込んだ場所。壁にはツタが這い、ドアは封鎖され、看板には色褪せたテープが絡んでいた。
「取り壊されることすらなく、都市から置いてけぼりを喰らったビル──」
「……生きてる人間には何の価値もねぇ。けど、怪異にはうってつけの住処か」
蜘手は煙草のフィルムを指先で弾き、顔を上げた。
夜の闇に沈む、巨大な影。その建物は、まるで影そのもののようだった。
「──さてと」
言葉と共に、ふたりの視線が一致する。
"影を借りる"者の居場所は、もう目の前だった。
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