9・ 夜闇
9・ 夜闇
ラディンもまた、闇の通廊を走る。
通廊に一つだけぽつりと灯されていた燭台を、血と膿塗れの手で掴み、階段を走る。闇の角ごとに立ち止まり、武装した兵が自分に飛び掛かってくる危険に最大限の警戒を払う。
彼は知らない。今この城内には、探し求める二人以外には、先程閉じ込めた男と、後は寝汚い料理番の夫婦と雑務の男二人しかいないと、知らない。だからこれ以上無い警戒を剥きだしながら走る。両掌を中心に体中に走る痛みを全て無視し、慎重に通廊を走る。
ちらりと一瞬だけ、明り取り窓から外を見た。狭い雲間に僅かに月が光っていた。先ほど泳いだブハイルの湖面が、白い月光に浮かび上がっていた。
(城内に入るには、湖の側しかない)
日没直後の夕闇の中、湖に浮かぶようにそびえる城の全景を見るや、瞬時にそう判断した。
(陸に接している城門部分には、必ず夜警がいる。侵入するには、湖に突き出した場所のどこかから壁を登るしかない)
判断した以上、躊躇は無かった。闇と冷たさに溺れるのではとの恐怖など意識すらせず、すぐに湖の中に入った。
その時の事を思い出そうとしても、よく思い出せない。
おそらく水の冷たさは刃物の様だったはずだが、それを知覚しなかった。漠然と、体が上手く動かないと思っただけだった。聖天使の御加護により手足の感覚を失う前に泳ぎ切れたが、水から上がった最初の一歩、足が動かなくて大きく転んだ事は、妙に鮮明に覚えていた。
次は、湖水に洗われる城壁の基部に足をかける。ごつごつとした壁を掴んだ最初の瞬間だけ、掌の傷口に走った激痛に短く悲鳴した。だが後はもう感じない。ただよじ登る。なぜなら、登らないとシャダーに会えないから。
コルムとの戦役が始まった時から、シャダーに会っていない。会いたい。とにかく会いたい。
そして、あの男。
会いたい。全ての質において自分をはるかに上回る男。自分と同じくシャダーを求め、自分とシャダーの間に割り込んだ男。あの男に会いたい。心から会いたい。会わないと、先に進めないから。
……燭台を握る左手が、血と膿と苦痛に塗れているのに気づいた。
閉じ込められた小屋の扉に、猛烈に苦心して火を点けた。狂ったように蹴り続け、煙が苦しく、叩き続け、手を切り、手の皮が剥け、それでも叩き続けた事を初めて思い出した。思い出した途端、猛烈な痛みが蘇る。だから、無視をする。痛み、冷え、動きたがらない体を無視して走る。
最上階の最奥の部屋にたどり付いた時、世界が静寂しているのを意識した。
ラディンは燭台を床に置く。無意識に息を深く吸う。掌の痛みを打ち消し、奪い取った長剣を握り直す。
そして扉を押した。
頬に隙間風の冷気が触れた。音の無い室内に一つだけ灯っていた蝋燭の火が、揺れ動いた。
隅の寝台の上。ハンシスは寝ていた。
ハンシスは、静かな寝息を立てながら、深く眠っていた。何も気づかず、室内は押し殺した静寂だった。ラディンは猫のような無音の数歩で近づき、その横に立つ。従兄を見下ろす。
膿まみれの右手を、上げた。長剣を高く持ち上げ、鋭く尖った切っ先を垂直に下に向けた。最も柔らかく最も無防備な喉の下を狙い、ゆっくりと、ゆっくりと動かした。
その時――。ハンシスの目が開いた。
互いが、互いの眼を同時に見た。この時が来た。
「動くな」
この時が来た、と、ハンシスは思った。この時が来ると、ずっと前から分かっていた。必ず来ると、ずっと前から。
いつから?
ナガの城館に居た頃から。シャダーへの親愛が親愛の域に収まらなくなったと自覚した頃から。シャダーの愛を一身に受けている従弟に、淀んだ嫉妬を自覚した頃から。
「絶対に動くな。少しでも動いたら、喉を突く」
従弟は剣先を相手に向けたまま動き、ゆっくりと体の上に跨り乗ってくる。冷酷な眼で自分を見下ろして来る。内臓が引き締まる。
「聞いてるのか? ハンシス。答えろよ」
「どうせ動けない」
ラディンの視線が動く。ゆっくりと掛布をずらし、右の肩から胸にかけて分厚く巻かれた包帯を見つけた。
「怪我を負ったのか」
「右腕を動かせない」
「最悪の時に、悪魔に気に入られたな」
「お前も、手が酷い。どうした? 火傷か? 皮が剥けて血と膿が出ている。何があったんだ?」
剣の先が、包帯の上からゆっくりと傷口を押した。ハンシスが顔を歪め、苦痛の呻きをもらした。
「止めろっ。ラディン、一体何があった? 今までどこにいたんだ?」
「地獄へ行け。貴様が謀ったくせに。しゃあしゃあと」
「何の事だ? 私はずっとお前を探していた。お前の護衛だったカティルがここにいる。彼から、お前を山中で見失ったと聞いて、ずっと行方を捜し――」
「黙れ」
黙る。喉に触れた冷たい感触に、黙らざるを得ない。
剣の切っ先の向こう、ラディンの眼に静かな、本気の殺意を見てしまう。体の奥が本能的な恐怖を覚え出し、チリチリと身を縛り出す。
「本当に……、私を殺すのか」
「そうだ」
「殺したら、どうするんだ」
「シャダーと共に帰る」
「どこに帰る? まだ知らないのか? ナガではとっくに戦闘が終わっている。ナガとコルムのワーリズム家は、一つにまとまった。そして当主は私だ」
「――」
「私を殺すという大罪を犯して二人で帰っても、ナガ城館は受け入れない。帰るところは無い。だから止めろ。その方が、皆にとって良い未来だ」
「――」
黒い猫のような眼が迷いを示したのは、呼吸二回分だけだった。
「殺す。それでも殺す。俺は先へ進む」
再び言った。言い切った。
ハンシスはそれが本気と即座に理解する。今、この従弟に理論は通じない。ただ、自分がいるから殺すとしか考えていない。もう止められない。でも、
(嫌だ、自分は今、死にたくないっ。シャダーと共に生きたいっ、殺されたくない!)
反射的、相手の体を蹴った。一瞬剣の切っ先がずれた隙、寝台から転げ落ちることで逃げる。
「イッル! ルアーイド!」
途端、上から圧される。左腕を踏まれる。剣が振り下ろされるのに一瞬早く気づき、右腕で相手の手首を掴む。虚を突かれてラディンが剣を落としたのを、素早くハンシスが奪う。
「右手が動くじゃないかよっ、糞の噓つきがっ」
「もう止めろ!」
だがハンシスに長剣を扱えるまでの力はない。とにかく剣は寝台の下の床に投げ捨てる。
「ルアーイド! イッル! 誰か!」
「呼ぶならシャダーを呼べよ」
三度目ラディンは襲い掛かって馬乗る。今度こそ万全の体勢で押さえつけた。血塗れの両手で首を掴みとった。従兄の息の自由を完全に奪った。
「そうだな。分かってる。お前の方が上だ。お前が当主だ」
淡々と、薄闇の中に発した。
「お前の方が、全てで俺を上回っている。分かってる。お前は支配者に相応しい、当主になるべき男だ。貴様は俺に勝って当然だ。敵わない。だから貴様が好きだった」
え?
ハンシスが表情を変える。首に従弟の生温かい血を感る。
「貴様の方が上で、だからずっと憧れた。好きだった。いつか必ずシャダーも貴様を選ぶと、貴様に奪われると分かっていた。
俺は貴様に勝てない。シャダーも奪われる。だから、貴様を殺すしかない」
違う!
だったら私たちは争う必要が無いじゃないか!
そう叫ぼうとする前、ラディンの両腕に力が加わる。息が出来ない。
声にならない叫びを上げる。だったら違うと。好意を持ってくれるなら、だったら他の道が開けるじゃないかと。私はずっとお前から憎悪されているものだと――。
……いや。奴の言う通りなのか?
やはり道は変わらないのか? シャダーがいる限り、彼女の心を占められるのは常に一人だけという限り、自分達二人の命運の流れは変えられないのか?
息が出来ない。脈打つ血流が頭を覆う。視界が闇に覆われてゆく。それでも考えようとする。道はあるはずだと。皆がより良い、光の射す場に行ける道があるはずだと。
苦しい。息が出来ない。そして、目の前の、最後の視界。
ラディンの眼が哀しんでいる。自分を殺すことを心底望んでいる男が、自分を殺すことに心底悲しんでいる。なぜ?
苦しい。息が出来ない。息が止まる。
――
カティルが飛び込んできたのはその時だった。
(間に合わなかった!)
弾かれた如くの動きでラディンを殴り、ハンシスから引き離す。
(間に合わなかったのか? 間に合ったのか! 慈悲の聖者!)
「ハンシスっ、息をしろ! しろ!」
動かなくなった親友の上体を起こす。
(いやっ、間に合わせる、まだ間に合う、間に合わせる!)
夢中で揺さぶる。顔を叩く。頬をきつく三回叩き、四回目に手を上げた時、
「慈悲の聖者様……」
包帯が緩んでしまった胸が、動いている。歪んだまま閉じていた瞼が、うっすらと開き始める。
「間に合ったのか……生きてるか? ハンシス?」
「……、生きているのか……? 私は……」
乾いた声が、僅かに答えた。それはカティルが生まれて初めて、全身全霊の全てをもって神と聖者に感謝を想った瞬間となった。
だがそれでも猫は諦めない。寝台の下に身を伸ばして剣を拾い上げ、それでも従兄に迫ろうとするのを、カティルが立ち上がり真っ向から妨げた。
「もう止めろ」
かつての主君に向かい、カティルは胸元から自身の短剣を取り出した。その上で、珍しくも柔らかな口調で諭した。
「ラディン。解ってるだろう? あんたでは俺に勝てない。あんたはもう負けたんだ。これ以上は無意味だ。少しは死や苦痛を恐れろ」
「貴様もハンシスに寝返ったのか」
「反発するだけが能じゃないだろう? 現実を受け入れれば、現実も変わってゆく」
「貴様もか。貴様とは結構親密に付き合ってきたと思ったんだがな。冷たいな」
「悪いが、情がどうとか言うのは俺の好みじゃない。あんたを裏切ってはいない。ハンシスとの出会いの方が早かった。早い者勝ちだ。――いや、違うか」
「――」
「違うな。例えあんたと先に出会っていたとしても、俺はハンシスの方を選んだ。
王に相応しいのはあんたじゃない。奴なんだ。奴が優れた宗主となって領地を広げて、ワーリズム家を強くしていく未来をが面白そうで、心底から愉しみなんだよ」
「なんだ。結局貴様も皆と――俺と同じって事か」
妙に子供っぽくそう言って、ラディンは笑んだのだ。
カティルはゆっくりとラディンから長剣を奪った。そのまま相手の右手首を確保した。
「さあ。もう一度牢だ」
「どうした? ここで俺を殺さないのか?」
「それはあんたの従兄がこれから落ち着いて決めることだ。まあ俺としては、あんたもなかなか面白くて好きだから、手を下したくないがな。
ハンシス、こいつを閉じ込めたらすぐに戻るからそのまま待っていてくれ」
カティルはラディンを引っ張り、通廊に向かう。それを、まだ朦朧とした意識の中でハンシスは見送る。ぼやけた視界と意識の中、何か言いたいことがある気がする。なのに言葉は生まれず、無言で、漠然と見送る。
これで、終わったのだろうか。自分達が超えなくてはならない時間は今、これで、薄闇の静寂の中で終焉したのだろうか。
いや。
――足りない。
「閉じ込められるならやっぱり湖側の部屋の方がいいよな? 今度は枷を付けるが悪く思うなよ」
二人は扉から出て行き、そのまま薄闇の通廊を右へと曲がり――
薄闇の中に、シャダーがいた。
その瞬間の姉弟の顔を、カティルは見てしまった。およそ思いがけない時と場に再会してしまったことへの、両者の大きな驚きの顔。その直後、互いが互いを求めて輝く眼。
即座、まずいと判断する。ラディンの腕を力任せに後ろに引きずろうとするが、遅かった。シャダーが弟に駆け寄ったのだ。
「なぜ、ここにいるの? なぜ? ナガにいるって聞いていたのに」
満面に喜びを示す姉と、声を出さず夢中で姉を見る弟とが、抱き合ってしまったのだ。
カティルの淡色の眼は狼狽した。今どう判断して行動すべきかが判らない。判ったのは、一つだけだ。
(とにかくハンシスを護らないと)
素早く踵を返し部屋に戻ると、完全に扉を閉め切った。
「待って。開けて。私達を中に入れて」
扉の向こうから、シャダーの声が響く。
「開けて。ハンシスと話がしたいの。ラディンと、三人で」
無視する。先の状況の予測できない。今は駄目だ。取り敢えず今は何よりもハンシスの安全が最優先されるべきだ。そう思ったのだが。
「扉を開けてくれ。イッル」
はっと振り返った。
部屋の最奥、壁に背を当てて座り込んだままのハンシスの静かな顔が、一つだけの蝋燭の光に浮かび上がっていた。
「二人を中に入れてくれ」
「いや。駄目だ」
「良いから」
「あの二人が再会したんだ。ラディンがまた感情を変えるぞ。今は駄目だ。もう少しラディンの気持ちが落ち着いてからの方――」
「良いから。頼むから扉を開けて、中に入れてくれ」
「止めろ、止めてくれっ。こんな時に何言ってるんだっ」
「“こんな時に”?」
「――」
「君は何を知ってるんだ? イッル?」
静かな口調の中に、譲らない念が強く含まれていたのだ。
カティルの淡色の眼が揺らぐ。心からの想いを込めて嘆願してしまう。
「止めてくれ。頼む。頼むから。本当にもう、これ以上。貴方を危険にさらしたく無いんだ。どうしてもと言うのなら、俺も立ち会う」
「こちらこそ頼む。三人だけにしてくれ」
「ハンシスっ」
「三人で語り合う時が来るのをずっと待っていたんだよ。ナガをいた頃からずっと。
これを避けている限り、私達は三人とも未来へ進めない」
「……」
「安心しろ。私達は仲の良い従兄弟同士だったんだから」
揺れる光の中、ハンシスが作った笑顔に、カティルは思い知らされた。今まで自分は、独りで何でも判断でき実行できると信じて生きてきた。その自分にも出来ない事もあると、初めて知ったのだ。
――この三人の進む先に、もう自分は関われない。引きさがるしかないと。
気の利いた事を言おうとして、うまくいかなかった。カティルは右手を、扉の握りに置いた。
「聖者に賭けて、本当に充分に気をつけてくれ」
「有り難う」
「じゃあ」
扉を開ける。
薄闇の、音のしない通廊で、どこか似た顔立ちの姉弟が並んでいた。無言で、丸切り、扉が開くことが当然と信じた顔で待っていた。
彼は二人に中に入れ、そして自分は部屋を出て扉を閉じた。
後は、夜の無音と冷気だ。