8・ 薄雲
8・ 薄曇
陽が何度も昇り、何度も沈み、月も昇り、星も沈み、その間に、山も湖も城も冷えていった。刻々と秋が進んでいった。
この時間の中、ハンシスは必死で、自分に出来る事を行っていた。
彼は、とにかく寝続けた。寝続けることで、拷問のような激痛から自らを守った。
起きてしまった時間には、朦朧としながらも食べられる物を食べた。物を食べる事には強い苦痛が伴う が、それが自分に必要である最大の事として必死に食べ続けた。
この単純な努力が、慈悲深い神の御眼に留まったらしい。彼は高熱を発することも無く、傷口が腐り出すことも無く、少しずつ危険の状態から抜け始めていた。まだほとんど体を動かせない。勿論、右腕は動かせない。ズキズキと傷口を苛む痛みに意識もぼやけがちだが、しかし彼は不屈の気力をもって回復へと向かっていった。
黄葉が風に舞い出した頃には、ようやく痛みから解放されてゆく。
黄葉が完全に散った頃には、人と長い会話ができるまでに回復を遂げる。そして最初に行ったのは、ルアーイドを呼び出して質問する事だった。
ルアーイドにとっての、その時が来たのだ。
……
その時。
がらんとした室内。大きく取られた窓からは、秋の薄い色の空と、鈍い色合いのブハイル湖が見えた。いきなりハンシスは訊ねてきた。
「なぜ、君がここにいるんだ?」
簡素な寝台に横たわったまま、ハンシスは顔を横に傾け、真っ直ぐに見てくる。荒い息づかいは聞くだけで苦しさが伝わるのに、それでも事実を知りたくてたまらないという気持ちを示して見てくる。
「ナガの包囲戦はどうなった?」
「今、私がここで負傷していることを、誰が知っているんだ?」
「この怪我はいつ頃完治するのか? 腕は元通りになるのか?」
視線に正面からさらされる。音の無い二人だけの室内、ルアーイドは寝台の横に固く態で座っている。
「なぜ居るかって? だって、それは――」
極めて強張った表情だ。茶色の眼が神経質に揺れながら、低い声で答える。
「だって……貴方が突然失踪をして、私が探さないはずないだろう……? 夢中で……必死で貴方を探し、追いかけた……」
「ナガ城館は、とっくに降伏をしている。貴方の勝利だ。ナガの豪族達は皆、貴方を認めているそうだ。貴方が一族の当主だ。ワーリズム家は貴方の望む通り、貴方の許に一つにまとまった」
「貴方の負傷について、というか貴方がここに居る事についてを知るのは、この城内で働く数人を除けば、貴方の従姉殿と、イッル――カティルと、私だけだ」
「傷は本当に酷かったんだ! いつ熱が出るかと――もし傷が腐り出したらと、――ひたすらに神に祈って……。だから、回復が叶ったのは、貴方自身の体力と気力と、後は神の御加護だったと思う」
そして。
「私に矢を射たのは、誰だ?」
ついにその時が来た。
「一体誰が、シャダーと私に向けて弩弓を撃ってきたんだ?」
物音はない。無音の中、ハンシスが真っ直ぐに見据えて来る。
「……。貴方に矢を射たのは――」
言葉は一度、喉で詰まる。友の信じ切った眼を受け止め切れずに、土色の眼は瞬く。冷えた風の中に長い沈黙となり、
「分からない」
そう答えた。
「イッル……カティルが――彼も貴方を追いかけて来た訳だが――、彼が言うには、やったのは誰か……おそらく、ナガ方に属する兵の誰かだろうと……。彼はそう言っていた。包囲戦の決着ならばとっくに付いたっていうのに、今さら……。呪われた奴だ……」
ハンシスの眼が、じっと、無言で見ている。
「……」
緩い風が身を切るように冷たい。なのに体の芯は熱くなってゆく。体内を締め上げられる感覚がする。
「その矢はあるのか?」
「……え? 何?」
「私の体から抜いた矢だ。今、どこにある? 見れば誰の者か判るかもしれない」
「……矢」
矢――。それでシャダーを殺そうとし、失敗し、貴方を瀕死に追い込んだ。それをやったのが自分とは、知られてはいけない。それだけは何が有っても、例え神の御前であっても、この嘘は守られなければいけない。
「……矢は、捨てた」
「捨てたのか? なぜ?」
「カティルが、捨てた」
「カティルも呼んだのに、どうして来ない? 今、城内にいないのか? それに、君はさっきイッルと言った。奴の事を知っているのか?」
「いや。知らない――いや、違う――。違う、……知っている。本人が話してくれて……驚いたよ。貴方の知り合いだったんだ。彼はつまり、貴方の――」
「私の? ルアーイド。どこまでを知ってるんだ?」
「違う! 知らない」
限界だ。悲愴な表情で首を横に振る。
「だから私は、知らないっ。矢も、イッルも分らないから……だから……。信じてくれっ、だって私はいつも貴方の未来を思っているっ、だから頼むっ、嘘はついていないから!」
違う! 嘘をついている!
自分は最悪の噓をついている。全能の神様っ、私を罰して下さい!
耐え切れず、胸が大きく上下する。思わず何かを喚き出そうしたした直前、いきなり扉が開いた。両者は同時に振り向いた。
シャダーが、立っていた。
青色の簡素な服をまとったシャダーが、食事の盆を持って立っていた。その眼をもう、ハンシスへ向けながら。
「来ていたの? 何を話していたの?」
シャダーは落ち着いていた。
静かで確固たる印象だ。明らかに以前とは大きく異なった存在感だ。自分を愛するのが誰か、自分が愛せるのが誰かを自覚したことで、彼女は変容していた。何より、確かに綺麗だった。
(人は、この様に変われるのだろうか)
それとも、シャダーという女だけなのだろうか。この様に素直に愛を受け入れることが出来て、その事であっさりと一つ高い場へと移っていけるのは。
だとしたら、あれ程に執着していた弟への感情もまた、あっさりと消すことが出来るのだろうか。
「もう出て行って。これ以上ハンシスに話をさせて疲れさせないで。出て行って。早く」
落ち着いた口調だ。だが反論の余地を与えない。
「早く」
逆らえない。過日に自分が殺そうとした存在に、逆らうことが出来ない。
「……。じゃあ。ハンシス。いつでも呼んでくれ。貴方の為に何でもするから」
この二人が共にいる様を見たくないと願望した。だから強張る足で立ち上がり、部屋から出て行った。通廊に出て扉を閉じ切った時、呻くような息を吐いてしまった。
(これから、二人きりで、何を語り合うのだろうか?)
二人で、互いの眼を見て思う通りを、感じる通りを語り合うのだろうか? 何の曇りも無く心のままに言葉を交わし、そうやって一層に信頼と愛を深めていくのだろうか?
薄暗い通廊の右端に向かう。そこにある薄暗い螺旋階段を、呼吸を詰めながら登る。
最上階にある物見テラスに出た瞬間、全身に冷たい外気を感じた。薄れた色の空の下に、葉の無い木々とぼやけた湖が広がっていた。
(世界は、良い方向へ進んでいくのだろうか?)
ハンシスは、望みの通りシャダーを手に入れた。シャダーはハンシスの愛を受け入れて、より高い場へ昇った。
シャダーはもう完全に、弟への執着も消したのだろうか。結ばれた二人は揃ってより良い場所へ、曇りの無い調和の場所へ立つのだろうか。
(世界は光の射す方へ進んでいくのだろうか?)
どんよりと曇っているのに、光が眩しい。なのに風は身を切るように冷たく、ぞっとするような寒さを覚える。ブハイル湖の色は鈍く、暗く、見続けていると息が詰まる。
嘘は湖の底へと沈めてしまえるのだろうか?
沈めてしまえば、湖に光は戻るのだろうか? 自分もまた、光の射す世界へと進んでゆけるのだろうか?
・ ・ ・
その頃からルアーイドは、憑りつかれ始めた。
(世界は――ブハイル湖は、そしてハンシスの未来は、光の射す方向へと進んでいくのだろうか?)
想いに憑りつかれ、眠れないことが当たり前になっていた。眠れぬ一夜を抜けた後に、物見のテラスに立つことが日課になっていた。高い場より神経質な眼で湖面を見、胸底の不穏に怯えることを繰り返していた。
その間にも湖の色は複雑に変化してゆく。ルアーイドは記憶を思い返すのにも困難を覚えだす。例えば、カティルが当たり前の様に独りで城を出て行った時。――それって、いつだった? 確か、昨日? 確か城門の脇でだったか? その時に言ったのは、何だった?
その時、確か。
「“この世は万事、事も無し”って事だな」
確かカティルは、そう言った気がする。
「ハンシスは完全に危険な状態を越えた。しっかりと体力を回復させている。見事に耐え抜いた。
もう心配は要らない。もう少しすれば、奴も馬の遠乗りが出来るようになるだろうから、コルムとナガに帰れる日も近づいてきたな」
口調には、ごく単純な喜びが込められていた。
「向こうは、新当主のハンシスが戻って来るのを待ってるだろうよ。ワーリズム家の新しい時代が来るのを、皆が待ち望んでいるんだ。勿論俺もだ。これからはハンシスが中心に立って、世の中が上手く回っていくんだよ。
おい、何を悲壮な顔をさらしてるんだよ。笑えよ。悲嘆主義者のルアーイド殿よ」
「……」
自分は笑えなかった。だって。
本当に、万事世は事も無しなのだろうか? だって。イッル。
君だってまだ隠していることがあるんじゃないか? 今もそうだ。君は頻繁にどこへ行っているんだ? アール卿の城へ通っていると言っているが、それは本当なのか? 実は私の知らないところで、勝手に物事を動かしてないか? 以前もそうだったように? それに。
あの、猫の様な少年。
「――ラディン」
「ラディンならずっとアール城内に閉じ込めているぞ。そう何度も言っただろう?
おい、心配ばかりで人を信じられないのか? 身動き出来ない老婆か?」
そう言ってカティルは、鼻で笑った気がする。
だが、その時思った。今も思っている。確かに思っている。
――本当にラディンはそこにいるのか?
本当にあの猫の様な少年は閉じ込められているのか? 今度こそ信じて良いのか? 今度こそ、神の御前に自分は安心して良いのか?
「ルアーイド」
びくりと身がすくむ。と同時、強い苛立ちと怒りが生じる。
またか? また気配を消して背中から近づき、そうやって私を愚鈍とか臆病とかからかうのか!
「いい加減にしろ! 私をからかうな!」
「――どうしたの?」
ちょうど、夜明けの曙光が差し込む場所だ。淡い光に縁どられるように、彼女は独りで立っていた。ルアーイドは驚いた。
「……。失礼をしました。申し訳ありません。――イッルと、……カティルだと勘違いをしました」
「どうしたら私とカティルの声を間違えられるの?」
驚くでも怒るでも茶化すでも無い。シャダーは静かに続ける。
「カティルは昨夜戻って来たの? 今どこにいるの?」
「彼ならば昨夜、かなり遅くになってから戻りました。滋養の薬草を手に入れたとかで、夜騎行で運んで来ました。今はまだ自室で寝ているはずです。起こしましょうか?」
「そう。いいわ。後で自分で行きます。彼に訊ねたいことが有るから」
それって?
イッルに訊ねたい事って何だ? 私の知らない事か? 二人で何について話し合うんだ?
夜明けの光が明るさを増してゆく。冷たい風が吹き抜けている。シャダーは手で髪を押さえており、毛先だけがゆっくりと揺れている。
光の中、あらためて間近から見る姿に当惑を覚えた。それ程に彼女は落ち着いた、成熟を感じさせる女性になっていた。もう過去の姿が思い出せないほど、いつの間にか見違えるほどに満ち足りた内面の美しさを身に付けていた。
「……なに? ルアーイド」
訊きたい。
(本当に貴方の心はもう、ハンシスだけで占められているのですか?)
今こそ訊いて、安心したい。
(本当にもう、ラディンへの執着は消えたのですか? あれ程の執着が今はもう無いのですか? 本当に?
今さらになってハンシスから心離れ、ハンシスを心底から哀しませることは本当に、本当に無いのですか?)
でも不安で訊けない。どのような答えを聞く羽目になるのかと思うと怖くて、どうしても訊ねることが出来ない。ただ呻くよう、喉から言葉を洩らす。
「……いえ。ハンシスは……」
「ハンシスが何? 彼なら今もまだ寝ているわ。昨日は馬に乗って一緒に湖沿いを散歩したの。そのせいで疲れたみたい」
「そうですか。ハンシスに充分な体力が戻って、本当に良かったです……。
シャダー様。ならば、そろそろここから出発出来るのではないでしょうか? この城には兵がいません。警備に不安があります。加えて、コルムとナガの状況を考慮するならば、一日でも早くハンシスには帰路についてもらった方が良いと、私は思います」
「それは駄目。まだよ。ハンシスの体に障るから」
「ですが――」
「そうね。今後の予定についてもカティルに相談したいのに。ねえ。彼は連日のようにどこに行っているの?」
「私も良く分かりません。でも、勿論、ハンシスとワーリズム家の為に動いているはずです」
「ハンシスとワーリズム家と、ラディンの為でしょう?」
びくりと、神経が逆立った。ラディンという単語をシャダーが口にした、それだけで恐怖を覚えた。
シャダーは、本当にもう弟への執着を消したのか?
あの不気味な猫は今、本当に拘束されているのか? もしかしたらイッルは本当は、連日ラディンの許に通っており、二人で何かを画策しているのではないか?
「じゃあ。ハンシスの所へ戻るから。――ここは寒いわね」
「……。はい」
誰も、真実を教えてくれない。誰を信じればよいのか、何をすれば良いのか解らなくて、息が苦しい。なのに時間は遅々と、じりじりとしか進まない。
……
一日が途方もなく長い。
物見テラスに長く留まり、やっとその場を去っても、行き先を決められない。ただ城の中を歩き回る。漠然と歩き続け、果てに気づくと城門に来ている。昨日もここに来た気がする。ここから長くずっと湖を見ていた気がする。何をすれば良いのか解らない時間が、神経を圧迫してゆく。
気づいたら、昼過ぎとなっている。気づいたら、城門の外に居る。ここでも湖は暗くて、薄い雲越しの 陽射しに鈍い色に染まっていて――、
はっと、蹄音に振り返った。
「イッルっ」
カティルが馬に跨りながら城門から姿を現した。
「また行くのか? どこへっ。昨夜遅くに戻ったばかりなのに、もう行くのか? アール卿の城に行くのか?」
無視して出ようとするのを、ルアーイドは強引に馬の手綱にすがり付いて停めた。途端、うんざりといった眼が鞍上から見おろす。
「邪魔だ。ルアーイド、退け」
「教えてくれっ、アール城に行くのか? もう昼過ぎなのに今からか? 行先はアール城か?」
「そうだよっ。何度も同じことを訊くんだ? アール城に行けば、鳩を飛ばしてナガの老ワシールと連絡が取れるからと言っただろうっ」
「ラディンは? 閉じ込めているのか?」
「勿論だ」
「ならば私も行く。ラディンを確認したい」
「馬鹿か? 貴様まで城を空けたら、ハンシスに何かあった時にどうするんだ。阿呆で無能な事ばかり言い出しやがって」
薄い陽射しの中に、カティルの眼の淡色が浮かび上がっている。その色合いだけで相手のことが解らなくなる。相手の言葉が本当なのか判じられなくなる。
「でも――やはり、本当は、……何か私に隠していんじゃないか?」
「そんなに俺の言葉が信じられないのなら、信じなくて良いぜ」
「やっぱり嘘なのか! 真実を教えてくれっ、隠さないでくれっ」
「しつこい、阿呆が」
「頼むから! 頼む――教えてくれ、毎日どこで何をやっているんだっ」
カティルのうんざり顔が突然、にやりと嫌みに笑った。
「じゃあ教えてやるよ。『こんな重要な事を、誰が貴様に教えるか』!」
ルアーイドは愕然と蒼ざめた。
そのまま、完全に動きが止まった。あまりに真顔ぶりに、カティルの方が驚かされた。
「何だよ、その顔は。――冗談だよ。からかっただけだ。貴様があんまりしつこいからだろう?」
「……」
「大体、何がそんなに心配なんだ? 外敵か? それだったら、このブハイル城は外周のほとんどが水に囲まれている。地続きになっているのは、この城門部分だけだ。城門が閉まっている限り、誰も侵入出来ないから安心しろ。老婆野郎」
「……」
「物事は良い方に進んでいるんだ。陰気な顔ばかりさらすな」
「……。ならば、私は今、ここで……何をすれば良いのかな……?」
「阿呆が。自分で考えろ。好きにしろ」
あっさり言い切った途端、もう見向かなかった。カティルは馬を走らせると、あっという間に湖沿いに去って行ってしまったのだ。
またルアーイドは、独り残された。
「……」
その体に、湖からの風が吹きつけてゆく。体の芯が冷えてゆく。
「そうだな。自分で考えないと。自分がやることを。ハンシスの為に……」
薄ら寒い感覚に追われるよう、逃げるよう城内へ戻ろうと、重い足を動かして振り返った時だ。
ぞくりと背筋に恐怖が走った。
視界の上方、物見のテラスに、シャダーとハンシスが立っていたのだ。
毎朝自分が立つ場所だ。先程まで自分が立っていた場所だ。そこに今、二人は並んでいた。
秋の薄日を受けて、二人の顔が良く見える。テラスへの螺旋階段も登れるようになったことを喜んでいるのだろうか、両者ともが穏やかな笑顔だ。こちらには全く気付かず、湖と空を見ながら互いに目を交わし、笑い合っている。嬉しそうに、幸せそうに喋り合う姿が、薄日の射す中に映えている。
「……光の射す方へ……。聖者様……」
唇が勝手に呟いた。
自分の感情を理解できなくなった。意味すら解らない涙が目ににじんだが、その自覚も無くなった。
……
時間は途方も無くのろのろと進む。また陽が沈み、夜が来る。
湖からの冷たい空気に、水の感触を覚えた気がする。
・ ・ ・
……水の匂いを感じた。
水の匂いと、冷たい空気。そして僅かな、水滴が石床に落ちる微かな音。それらを感じ、ルアーイドは闇の寝台から身を起こした。
闇だけだ。時間が流れるのか? いや、とどまっているのか? 今は真夜中なのか?
解らない。今夜も一晩中、燭台の灯を見ながらひたすらに朝を待つのだろうと思っていたのに、いつの間にか寝ていたのか? その間に、灯が消えたのか?
「誰かいるのか?」
気配を感じた気がする。何の? まさか。
「いるのか? 誰だ?」
闇の前方を見たまま、右側に腕を伸ばす。壁に立てかけてある長剣を掴もうとし、
右腕に激痛が走った!
潰れた悲鳴を上げたと同時、その腕を引っ張られ寝台から床へ落ちる。途端、次の苦痛がまた右腕を襲った。
「誰――っ」
やっと振り上げた顔に――右頬に、ひやりと水の一滴が落ちた。次の瞬間、襟首を掴まれ強い力で引き上げられた。
「ハンシスはどこだ」
荒い息を吐き、もう一度闇に目を凝らそうとした途端、強かに脇腹を蹴られた。痛みの残る右の上腕を、相手が激しく踏みつけて圧した。
「言え。ハンシスはどこだ」
この声、覚えている、
「ナガの、ラディン――」
ほら! やっぱり嘘だった!
確実に拘束していると言ったくせにっ、心配無いと言ったくせにっ、イッル!
「言え、シャダーもいるんだろう? どこだ」
「……ラディン殿、どこから入ってきたんだ?」
水の臭いが酷い。闇に慣れた目がやっと捕えた。今、自分の顔の前に、小柄な輪郭の顔が有る。闇を通してすらはっきり分かる、怒りを剥きだした大きな黒い眼がある。
突然ラディンの右腕が振り上がる。顔を殴られる直前、ルアーイドは夢中で叫んだ。
「待て! 止めろっ、話すから!」
「早く言え!ハンシスとシャダーはどこだっ」
「――、今は、ここにいない」
「嘘をっ、この場で顔を潰すぞ!」
「嘘じゃない、二人とも今朝――城を離れて――、
ナガのラディン殿っ、どこにいたんだ? 貴方のことをハンシスがずっと探していたものを、どこに……」
すると、ラディンがにんまりと、嗜虐的に笑った。
ルアーイドも笑みを作り、相手の敵意を消そうとする。その間にも猛烈な勢いで様々な考えを巡らす。とにかくこの状況を崩さないと。この圧倒的な不利を何とかしないと。
視線を僅かに流す。闇の右隅に、壁に立てかけられたままの長剣が映る。
「おい!」
びくりと視線を戻した時、初めて気づく。相手の髪から水が滴っている。汚れ切り、いたる所が破れた服も、ぐっしょりと濡れている。まさか、
「……まさか、――泳いで来たのか? この寒空の真夜中に湖を……泳いで……?」
さらに気付く。自分の襟を掴む掌が酷い傷を負っている。本当に酷い、見るだけでも痛々しい傷と腫れが数えきれないほど両掌を覆い、一面に血と体液がにじんでいる。
「その掌……何が――」
「訊いているのは俺の方だぜ」
濡れた傷まみれの右手が、しかし平然と脇にあった燭台を掴んだ。顔を殴るべく大きく振り上げた。
「止めろ! だから二人とも、ここにはいないっ。ハンシスの傷を診てもらうために、近くの村に行っている」
「しゃあしゃあと言うぜ。真実だけを言えよ、糞がっ。ふざけやがって――おいっ、俺を見ろ! 打つぞ!」
「分った! 嘘は止めるっ、真実を言うから、だからラディン殿っ、殴らないでくれっ」
相手が恐怖に歪むのに、ネズミを追い詰めた猫じみた笑みを示す。絶対の上位に立つ者の冷虐の笑みだ。
その笑みが一転した。猫が凄まじい苦痛の声を発した。
ルアーイドが相手の左掌を掴み力づくで引き、思いきり噛んだのだ。即座、相手を押しのけ転げるように石床を動く。ぽつんと立て掛けられたままの長剣を目指す。
「剣!」
両者が同時に叫んだ。同時に手を伸ばした。
(掴んだ!)
一瞬早く掴んだ。これで勝てるとルアーイドは思う。今なら出来る。まとまらない思考の中でずっと考え続けてた事。決意しきれず混沌としてた事。光の未来の為の事。それが今なら自分に出来る。
(殺せるっ。ハンシスの未来から永久に抹消できる!)
ルアーイドは悲鳴を上げた。燭台で右肩を思い切り打たれた。握ったはずの剣が手からこぼれ、それをラディンが奪い取る。はっと視線を動かし、相手の顔を見る。
何の躊躇もなく人を殺せる眼が、自分を捕えている!
「殺す! 言え!」
「止めろ――!」
本能的な恐怖が身を縛り、動けない。思考と判断が出来ない。
「ハンシスはどこだ!」
「ハンシスは最上階の奥だ!」
しまった――!
なぜ言ってしまったんだっ、なぜ――!
夢中でラディンに手を伸ばす。だが目の前、ラディンは素早く立ち上がって走り、部屋の扉を抜けてしまう。
「待て! 違うっ――ラディン、待て!」
追いかけた鼻先で、扉は凄まじい音を立てて閉まった。
「開けろ! 待て……違うっ、ラディン、違うから――教えるから、起こった事を言うから聞いてくれっ。頼む、扉の錠を開けてくれ、ラディン! ――ハンシス!」
閉じた扉越し、石床を走る足音が響き、消えてゆく。
なぜ! 自分のせいでまたハンシスが傷付く。傷付き、死に追いやられるっ、自分のせいで!
「開けろ! 止めろ! ハンシス――!」
自分の剣でハンシスが殺される!
同じ時、カティルは夜の中を必死で馬を駆る。
(急げ!)
山道を駆け続け、ついに前方にブハイル湖が見えてくる。岸辺の遠く、僅かな雲間の月を受け、湖に付き出した城の輪郭が見えてくる。
崖路を降り切り、湖岸に達する。小石混ざりの泥の上、夜闇を嫌がり脚を鈍らせる馬を夢中で駆る。つい先ほどアール城で見た光景が、頭にこびりついて消えない。相手の力を甘く見ていたことに猛烈な後悔と歯ぎしりを覚えて止まない。
そうだ。なぜあれで充分だと思ってしまったんだ?
あの猫は欲するものの前には苦痛をなんか恐れない質だ。それを、ただ城内の一室に閉じ込めただけで充分と思ったなんて、自分の読みが甘かった。甘すぎた。でも、まさか。
まさか扉に火を点けて破るなど!
……
黒く焦げて破られた木扉を見た時、横に立つアール卿が唖然の顔をさらした。元来が冷静で知的な質の男が、丸切り呆けたように吐き捨てた。
「ここまでやるのか? ナガのラディンは?」
その言葉こそ自分と全く同じだ。まさかここまでをするなんて誰が予想したか。
配された食事の油と、燭台の火を用いたのだ。勿論その程度の火では、木扉は燃えない。獄内に扉を破る道具など何もない。
だから、両掌で、ひたすらに打ち続けたはずだ。扉を燃やした上で、凄まじい熱さと苦痛と大怪我を覚悟した上で全力で叩き、蹴り、体をぶつけ続けたのだ。それを繰り返し続けて、ついに破ったのだ。
その苦痛を恐れない、死すら恐れない執念に絶句した。
「この様子ならば、相当に怪我を負っているはずだ、まだ城内に潜んでいるに違いないはずだ」
冷静を取り戻して判ずるアールに、同意する。即座、身を隠しそうな場所を必死に探し続けた。城内を走り回った。しかしどうしても見つからない。ただ時間だけが進む。それでも懸命に厨房の地下の貯蔵庫を探っていた時、
はっと、カティルは気付いたのだ。
(奴なら、絶対にそんな事はしない)
なぜ気付かなかった?
奴なら、城内に潜んで痛みが薄れるのを待つなんて、そんな慎重な常道は取らない。怪我の激痛など無視しブハイル湖へ向けて走り出しているはずなんだ。あの凄まじい猫ならば。絶対にっ。
なぜ気付かなかったっ――大幅に時間を無駄にした!
後悔しても遅い。急げ、とにかく急げっ。
カティルは馬を駆る。ブハイル城の輪郭が、月光に鈍く浮かび上がっている。その城の上階に、たった一つだけ、小さな光が漏れている。その頼りない光が、背筋に極めて現実的な危機を予感させる。
(急げっ、早くっ、ハンシス――!)