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6・ 灰空

6・  灰空



 ジュバル山地の峠を越えると、緩い西風が吹き抜けていた。

 風が、温暖なナガ平野とも、乾いた丘陵地とも、山地の東側とも空気の質を変えて、また異なる風土を作り上げていた。湿った空気が雲を増やし、どんよりと曇らせていた。急速に秋を進ませていた。

 正面からの冷えた西風が、皮膚をかすめてゆく。枝の揺れる僅かな音を聞きながら、二人は狭い峠道を下ってゆく。

 ……

「何だか静かですね。鳥もいない。生き物の気配がしない。別の世界に来たみたいだ」

 妙に詩的な言葉をティフルが発した。

「――」

 シャダーは応えなかった。

 アール卿の城を出た後、ただひたすらに山道を下っていった。

 アールと護衛兵達が消え、目の前で城門が閉じられた時、彼女はもう叫ぶことも怒ることも出来ず、ただ泣いた。馬車もまた奪われ、僅かばかりの恩情で渡された馬一頭に乗り、ただ黙って峠道を西へと進んだ。

 たった一人残ったティフルが、馬の手綱を握る。時折にティフルが話しかけるが、もう応えない。狭くて急な崖沿いの道を慎重に、無言で、ただ下って行く。山道と時間だけが進んでゆく。

 やがて。狭い道の左手、急崖の下。木立越しに見え隠れる青色に先に気づいたのは、少年の方だった。

「あっ、ほら! シャダー様、見えてきましたっ。

 これが仰っていたブハイル湖ですね。ほら、もう見えています。もう少しですよっ」

 黄葉の狭間で、ブハイル湖の青色が雲間の薄日を受けていた。ティフルは馬を止めると、夢中で湖面を見つめた。

「ああ、ここからだと良く見える。湖って大きいんですね。ナガの貯水池なんて比べ物にならなく大きいです。生まれて初めて見ました。

 綺麗な青色だけれど、でも水が全然動いていない。何の音もしない。少し寂しいけれど、でも綺麗だ」

 だが女主人は、その詩的な言葉も風景も無視した。代わり、アール城を離れてから初めて心底の思いを発した。

「疲れた――」

 それが全てだ。

 もう馬に横乗らず男のように鞍に跨がっていたが、それでも背骨から腰にかけての鈍い痛みは抑えようもなくなっていた。

「今は昼すぎ頃? 薄暗くて判らない。今夜こそは寝台で眠れるの?」

「はい。それが叶う事を私も願っています。シャダー様。ブハイル湖の城へは、まだどのくらいかかるのですか?」

「知らないわ。子供の頃に一度来ただけの場所よ、そんな昔の事を覚えているはずないじゃないっ。湖沿いのどこかよ。お前が探してよっ」

「済みません。でも、道は間違っていませんよね。この道は人が全く通らないし村も無いし、確かめる事が出来ません。湖沿いに進めばすぐだとの貴方様の言葉――」

「私が間違えているっていうの? それで私を責めるの!」

「いえっ、そんなことは決してっ。ただ、思ったよりずっと大きな湖だったから、もし道を反対側に取ったら大変な遠回りになると思って――、一刻も早く貴方様が安全に休める場――」

「お前まで私を責めるの? 私が間違っているっていうの? 私が信じられないのなら、それなら今すぐナガへ帰れ!」

 甲高い声が真っ向から苛立ちをぶちまけた。

 ティフルは全身を縮める。すがるように女主人を見るその顔が、ほとほと疲れ切っている。たった独りで護衛し続けるという責務は、この少年には重すぎだ。もうどうしたら良いのか分らないという目をさらしながら、なのに心底から申し訳なさそうに謝った。

「失礼をお詫びします。シャダー様、お詫びします。済みません、ご免なさい」

 その哀れな顔こそが、さらに苛立たせる。シャダーを泣き喚きたいまでの気持ちに追い込む。

(どうして? 私はほんの先日のあの夏の終わる日まで、ナガの城館で楽しんでいたのにっ。

 それなのになぜ今、こんな誰もいない山奥で、薄ら寒い湿った場所で、疲れ切って、苛立って子供相手に怒鳴り散らしているの!)

 西風が吹き付けている。灰色の空に雲が動き、雲間からの陽射しが落ちる間だけ、湖面の色は青く透き通る。

「シャダー様――」

「話しかけないで!」

 自分がどうすれば良いのか判らない。彼女はいきなり馬の腹を蹴った。狭い泥の崖道を走り出した。

「シャダー様、待って下さいっ。道幅が狭いから危険です」

 待たない。無視する。

「待って下さいっ、私が手綱を取りますから待って。シャダー様、私と一緒に道――」

 声は途切れた。

 唐突に大きく物音がした。木立が折れる巨大な音に振り返った時、そこに少年の姿は無かった。

「ティフル?」

 一転、無音に戻る。現実が解からず、ただ呆けた様にたたずむ。

 ゆっくりと、崖を見下ろした。遥か下方、砂利がちの湖畔に、ティフルの身体が落ちているの見つけ出した。少年が泥に足を滑らせて崖から落ちたと理解したのは、浅い呼吸十回の後だった。……

 湖畔まで降りて行くことを思い立つまでには、さらに長い時間を要した。ようやく、急な崖路に入り、慎重に慎重にたどって泥と小石が広がる水際まで下った時にはもう、彼女は何も考えつかなかった。近寄る事もできず、その場に座り込んで、ぼんやり遠目に見つめてしまった。

「悪いのは、お前よ」

 ついさっきまで一生懸命に動いていた口は、ぽかんと開いたままになっていた。必死に気遣っていた眼では眼球が剥き出され、灰空のどこかに向けられていた。

 僅か十数年を生きただけで、傷と血と泥とにまみれてティフルは死んでいた。寂しい、人もいない場所で、動かない肉塊に化していた。

 ブハイルの湖面は、死に絶えたように静まっている。物音はなく、荒涼に沈んでいる。

「お前が悪い」

 座り込んだまま、彼女は何もしない。泣くことも無い。立つことも無い。

「足を滑らせるから」

 西風が湖面を渡る。その冷たさを、僅かに感じる。あとは漠然と、何も無い。

「勝手に落ちるから。だから――」

 音もない。死体と、湖面と、山を取り巻く黄色しかない。

 何も出来ない。何も考えない。何をすればいいか分からない。

 風が強く湖面を抜けた。冷えた風音が耳を突いた。

「シャダー」

 振り向いた。

 視界に、自分が乗っていた栗毛の馬が映った。その向こう側、秋の薄い陽が差し込む方向の湖畔から、水際を進んでくる輪郭が見えた。

 無音の中に、蹄音が近づいて来る。輪郭は大きくなってくる。やがてその葦毛の馬は自分の横で止まり、鞍から相手は下り、自分を見ている。

 どちらも喋らない。呼吸数十回分の間、無音の中に沈む。そして。

「なぜ、ここにいるの?」

 シャダーが言った。

「貴方を追いかけてきました」

 ハンシスが言った。

「なぜ」

 シャダーが言った。

「会いたかったから」

 ハンシスが答えた。

 その顔が、シャダーが知っているものと違っていた。固く強張り、感情が読めない。いつもならば臆せず真っ直ぐに伝えてくるはずの感情が淀んでいる。

 だからシャダーも当惑する。今、どの感情を選択すればよいのか解らず、混乱する。再び少年の死体を見る。

「ティフルが、死んだわ」

 ハンシスも振り向き、眉を歪ませる。

「崖から落ちたのか。可哀想に。まだ子供なのに」

「……。可哀想だわ」

「はい」

「――。本当に。可哀想だわ」

 微妙に語調が変わった。感情は怒りを選んだ。全く唐突、激しい怒りを剥きだし立ち上がったのだ。

「お前が悪いのよ! 全てお前が悪い! お前さえいなければ、ティフルは死ななかったのにっ」

「シャダー――」

「お前がワーリズムの当主座を狙わなければ、ナガ城館を攻撃しなければ、こんなことにはならなかったのよ! お前さえ大人しくしていれば何も狂わなかったっ、ティフルは死ななかった! こんな山奥の惨めな旅も無かった! 私はアールに裏切られることも無かった! シュリエ城砦を追い出されたり、伝令を死なせることも無かったのにっ」

「シャダー、その伝令の件――」

「お前が引き起こしたんだからお前が代わりに死ねば良かったのよっ、死ぬべきよっ、お前さえあの嵐の日にナガ城館に来なければ、全て平穏のままだったのよっ、私は今もずっとナガにいられたのよ!」

 いきなり駆け寄る。両腕を振り上げる。

「戻して! いつも通りのナガに戻してっ、この夏までのナガを! 私にラディンを返して!」

 感情のまま従弟の体を打とうとする。思わずハンシスはその手を掴もうとし、しかし逃す。手はハンシスの胴着の胸元に当たり、そこに収められていた短剣に触れた。それを掴んだ。

「駄目だっ、危ないから――っ」

 叫びは直後、苦悶の呻きに変わった。ハンシスは湿った砂利の地面に膝を落とし、左腕を体に押し当てて身を屈めた。

「……。お前も死ぬの?」

 右手に握る短剣に付いた血と、従弟の腕の血。それを見比べる顔色を変える。

「お前も、死ぬの? 今から? ティフルと同じに?」

「いいえ。かすった程度の傷です。多分血もすぐに止まる」

「本当に、死なないの――? 大丈夫……?

 でも……、死んでも……でも、それはお前が悪いから……。だから仕方ないわ。お前のせいだから」

 左の肘を押さえたまま、ハンシスは見上げる。その目の前でシャダーの表情がさらに変わってゆく。

「あの日。五年前の、あの時。お前がナガに来なければ、私は今こんな所で――。

あの日には皆で幸せになれると思ってたのに。でも今、私はこんな所にいて――、なぜこんな事に? なんで?」

「――」

「なぜ、ラディンを攻撃したの? 他の連中ならともかく、お前なら気づいていたでしょう? あの子もお前に負けないぐらい力量を秘めていたのに――。

 まだ十六歳よ? これからも幾らでも良い方へ伸びてゆくのに、だから私が必死に護っているのに。なのに皆があの子には当主に相応しくないと言って、臣下からも領民からも信頼されないと言って――言い切って……。

 なぜなの? なぜあの子はそこまで責められなけらばいけないのよっ」

「まだ、ラディンの事を言うのですか?」

 緩い風の中、ハンシスの低い声が響いた。

「こんな場所に、ナガから離れたこんな寂しい所に追い込まれて、それでも貴方はラディンの事ばかりを言うんですか?」

「なぜ? 当たり前でしょう? だってあの子は私をこの世の誰よりも大切にしている、だから私もこの世の誰よりもラディンを愛している」

「だったら、私の事も愛して下さい。この世の誰よりも貴方を愛しています」

「――」

 雲に、陽は薄れている。緩い風が静かに抜けてゆく。

 長い沈黙になった。人けのない無機質の世界で、長く長く秘めたものを表したハンシスは、ようやく、静かに続けた。

「シャダー。駄目ですか。私は愛してもらえないのですか」

 また感情はぶれる。苛立ちに傾く。声を荒げて叫ぶ。

「私だって貴方を気に入っていたのに、なのに……! なぜよ! だったらなぜ、今、私をこんなブハイルの湖まで追い込んだのよ!」

「この騒乱を終わりにしましょう。ワーリズム家を一つにまとめましょう。ラディンはナガの領主として、ワシール卿の指導の許に成長すればいい。

 ――シャダー。コルムの私の城に来てくれませんか?」

「駄目よ! ナガにはラディンを信頼してない者が多いのよっ。敵の多い場所に独りで残すことなんて出来ない」

「まだ“ラディンが”ですか?」

「実の弟よ? 貴方より可愛いのは当たり前でしょう? 貴方にとやかく言われる筋合い――」

「だから攻めたんだ。貴方とラディンを引き離したくて、攻めた」

 率直に、真っ直ぐに言った。

 言う事が幸福だった。もう押さえ込まなくて良い。ひたすらに感情を抑えこむという長い苦痛から解放されたい。今、自分が何を想っていたのかを知って欲しい。

「私は、ラディンに嫉妬していた。ナガにいた時からずっと、貴方の眼を自分に向けたかった。猛烈に嫉妬していた。だから、その為に動いたんだ。

 私を受け入れて下さい。ラディンではなく、私の所へ来て下さい」

「でも、あの子――ラディン――」

「だからもうその名前を口にしないで下さいっ。

 アール卿の城に立ち寄った時に確認出来た。もうナガの包囲戦は決着してます。皆が望んでいるのは、私がワーリズム家当主になること、そしてラディンが自力で正道に則った統治をナガ領に敷くことです。だから、その為にも貴方は私の所に来て欲しい。お願いします」

「――」

「それでも、まだ貴方には不満が残るのですか?」

 目の前の従弟が素直な、真っ直ぐな顔になって言う。その言葉にシャダーもまた同様に、素直に、真っ直ぐに応じる。

(“不満が残るか”って? 皆が望んでいるからって私の日々を壊して、それで、不満が残るかって?)

 そうよ! 不満よ! と叫びたいと思った。顔を打ってやりたいと。――だが。

 静まった世界で、ハンシスは自分を見続けていた。

 雲にくすんだ光の下で、深い濃緑色の外套を纏い、真っ直ぐに自分を見ていた。

 五年前にやってきて弟同様に可愛がった少年は、とっくに成長をしていた。人が言う通り、宗主に相応しい存在を感じさせた。支配者の質と青年らしい感受性のどちらも兼ね備え、自分を正面から見ていた。

「シャダー。どうか――。どうぞ、私と一緒に来てください。お願いします」

 自分がどちら付かずの顔をしているのが自覚できる。

 今、どちらの選択をすれば良いのだろう。この青年を受け入れてよいのだろうか。

 静寂が耳に付く。だから、感情と思考を上手くまとめ上げられない。だから彼女は自身の質に従った。ただ素直に、思う通りをもらした。

「ラディンに会いたい」

 従兄の眼色が変わった。

 成熟感が消え、子供っぽい不満を表した。これはもしかしたら傷付けたかもと珍しくシャダーが自覚し、弁明しようとした前だ。

「私は勝者です。そして、貴方の大切な弟は敗者だ」

「――。それって、何?」

「意味が解りませんか? ラディンの事です。彼の身柄について、私は自分の裁量でどうにでもできる」

 ぱちんと弾けたよう、この一言に内面が反転した。生来の強い感情がよみがえった。目を大きく見開き、大声で言った。

「そんな事を言うの――?」

「――」

「言うの? そんな卑怯なことを。今、お前がっ」

 ハンシスの眼が濁る。自身の言葉を恥辱し、後悔した。

 この男、卑屈を帯びた!

 途端、感情は大きく嫌悪に振れた。まだ座り込んでいる従弟の姿があっという間に色褪せて見え、そう思った途端、もうこの男と同じ場にいることすら嫌悪を覚えた。

「人の心にまで命令できると思っているの?」

 面白いではないか。ハンシスの顔が、丸切り最初に会った時のような頼りない子供に戻っている。彼女は一層に不快を覚え、叫び上げたくなった。

 だが、本当にそれは不快なのか?

 感情の混乱ではないのか?

 出会ってからの五年間。再会してからのこの僅かな時間。その間に重なった感情をうまく整理・消化できないだけではないのか? ずっと可愛がっていた少年の、その成長した果ての感情に混乱しただけではないのか?

 ――そんなこと、自分に判るものかっ。

「もう見たくない」

 真っ直ぐに吐き捨て、彼女は自分の馬へと向かう。

「待って下さいっ、シャダー」

「見たくないって言った。苛立つから。もし今追いかけてきたら、生涯嫌悪するわよ」

 ハンシスは迷う。自分は今、追いかけるべきか。止めるべきか。

 決めた。シャダーに嫌われたくない。嫌われたらもうどうして良いのか解らなくなる。

「シャダー、今からブハイル湖の城に行くんですか、そこに泊まるんですか」

「ええ。――まだ血が止まってないわよ。動かないで。もう喋らないで」

「城はこのまま湖沿いに右手に、西に進むそうです。後で追いかけます。必ず私も行きます。城門の前で待ちます。

 もしもまた、あの最初の日のように私を受け入れてくれるのなら、どうか明日の夜明けに門を開けて下さい、私は必ず外で待っていますっ」

 シャダーはもう答えなかった。ゆっくりと馬に乗ると、もうハンシスを振り向かなかった。音の無い湖沿いに馬を歩ませていった。

 二人ともが曖昧模糊の中にいた。何をどうするのが正しいのか判じられなかった。どうすれば世界が進むのか。世界から肌寒い霧が消えるのか。

 くすんだ光が湖に射しこんでいる。ブハイル湖の風景からシャダーは消えた。

 ハンシスだけが残った。


               ・      ・       ・


 ハンシスが肘の血が完全に止まるのを待ち、それから気の毒なティフルを湖岸の眺めの良い場所に葬り終えた頃には、夕刻が近づいていた。湿気を帯びた空気が急速に冷え込み始めていた。

 ……それよりも数刻前。

 ブハイル湖から峰を一つ東に移った山中では、二人が冷えた視線で互いを見ていた。

「つまり――。誰かが、俺の後を付けているって事か?」

 その口調には、氷の様な冷やかさがある。複雑な陰質の眼が相手を凝視している。

 しかし、それに動揺なく答える。

「有り得る。だがそれ以外の可能性も有り得る。例えば、単純に夜盗に盗まれたとか。手綱の結びが解けて勝手に逃げてしまったとか」

「――」

「勿論、あんたの考えてる通りに、誰かに尾行されて妨害を受けているっていうことも有るけどな。ラディン」

 途端、ラディンはにんまりと、低く漏らすように笑い出したのだ。

 見据えるカティルもまた、釣られた様に口許を上げる。内心では勿論、相手の笑い声に不快と不穏を覚えている。

 今朝、野宿の夜が明けた時。木立につないでおいた彼らの馬が消えていた。

 誰かが行く手を邪魔しているのだろうか。それはアールだろうか。

『シャダー様ならば、こちらに来てはいません。全く見受けていません』

 昨日、ほんの短時間だけ城に立ち寄った時、城主のアール卿は全くの無表情で告げた。その態には白々と違和感があり、信用は出来なかった。奴もとっくに離反し、ハンシスの側についていたのだろうか。秘かに先回って、何か策謀を仕掛けているのだろうか。それともシュリエ城砦のカラクが、延々とここまで追跡してきたのだろうか。

 いずれにせよ、馬無しでシャダーとハンシスを追跡するのは無理だ。馬の捜索に数刻を費やし、しかし結局見つからなかった。ラディンはとっくに苛立ちに捕らわれていた。その闇色の眼が冷やかに護衛を睨みつけた時、先程の台詞と冷笑になった。

「つまり、誰かが俺を付けているって事か」……

 ラディンの耳障りな笑いを聞きながら、カティルの思考には緊張が増してゆく。“さあ。この先どうするのが一番良いか”と、淡色の眼の奥で考え続けながら、陰湿な笑みと声を受け止めていると、

「馬はもういい。時間の無駄だ」

 唐突にラディンが笑いを止めて言った。足はもう湿った下り道へと踏み出していた。

「徒歩で追う気か? 無理だ。俺達はもう、あんたの姉の背中もハンシスの背中も見失ってしまった。この先どこへ行くんだ?」

「アールの所にいないなら、シャダーが向かったのはブハイル城だ。俺達の母方が持っていた小さな城だ。湖沿いにある。そこに行く」

「道を知っているのか? そこまで歩いてゆくって言うのか? もう無駄だ。どう考えてもハンシスの方があんたの姉に先に会う。もう手遅れだ。奴があんたの姉を奪う」

 途端、弾かれたようにラディンが振り返った。

「奪わせない!」

 泥を蹴り上げ走り寄るや、はるかに上背に勝る相手の首に腕を伸ばして鷲掴んだのだ。

「奪わせない! 聞いてるのかっ、奪わせない!」

 首を絞められ――違う、驚きによってカティルは応えられない。本気で締め上げてくる。冗談ではなく息が出来ない。

「奪わせるものか、絶対にそんな事を貴様の口から言わせないっ。忘れてないぞ。貴様は俺に逆らった、奴の射殺を邪魔した。その貴様の口から奪われるなんで言わせない! 解ったか!俺を怒らせるなっ、カティル! 解ったな!」

「……。解った」

と、息を潰して言わなければ、本当に絞め殺す気だったろう。

 最後にもう一度、切り裂くような視線で射抜くと、ラディンは手を放した。後は一瞥もなかった。小柄な身にまとう黒い外套を翻し、泥がちの峠道を下っていってしまったのだ。

 ……ジュバル山地に雲は低く、陽射しはとっくに消えている。

 鳥も鳴かない。風音も無い。静寂と、ひんやりと湿気を含む空気の中に、カティルは独り立ち続ける。

 彼は、己のすべき任務を心得ている。このままラディンと別れる気は全くない。ただ取り敢えず今は、心臓に残る鼓動の速さを、動揺を抑えることを優先させた。

 動揺? いや。違うか? 恐怖か? 明確な恐怖感を覚えたなんて、何年振りだ?

 すでにラディンは、黄色の木々の向こうへ消えていた。一度だけ、山鳥の甲高い鳴き声が響いた。カティルは深く長い呼吸を七回突き、それからようやく湿った土に踏み出し、そして十三歩を進んだところで――、

 再び止まる。振り返り、大声で怒鳴った。

「貴様は一人なのかっ、馬泥棒が!」

 カティルの淡色の眼は、泥道の後方をじっと見据え続ける。呼吸十回の間、無音は続き、木々の梢はほんの僅かの微風に揺れ、

 ……ようやく、泥を噛む蹄の音が聞こえだした。山道の上、ほんの少しだけ風に揺れる木立の間からゆっくりと、ゆっくりと騎乗の男が現れた。

「……。どうして、尾行していると分かった?」

「馬で後をつけて来るなら、もっと充分な距離を置け。こんな静かな場所だと馬の蹄音はかなり遠くまで響く。昨日からずっとだ」

「……」

「貴様、この前の草地にいた、コルムの臣下だな。今、貴様一人だけだろうな?」

「そうだ」

「ラディンはもう貴様の仲間に取っ捕まっているのか?」

「いや。本当に、私だけだ。今、本当に……。

 ナガの包囲戦がどうなったか、情報はあるか?」

「昨日アール卿の城に立ち寄った時に聞いた。勝敗はとっくに決着している。俺達が城館を出た翌朝には、ナガ側が降伏した。老ワシール卿が即刻にハンシスの当主座を認め、これにナガの家臣は誰も反対しなかった」

「ラディンはすぐにナガに戻らなくて良いのか」

「俺もそう思う。だが奴にはどうでも良いらしい。今後どうする気なのかは、俺にも分らない。望みが叶って姉と再会したとして、その後ナガに戻るのかどうかも分からない。まさか素直にハンシスに頭を垂れるとも思えないがな」

「そうだな」

「奇妙な状況だな。シャダーを追ってハンシスが動く。それを追ってラディンが。それを追って貴様が動いている。俺もだ。

 まるで子供の鬼ごっこだ。下らない鬼ごっこをしながら、皆がどんどん西へ、遠い場所へと進まされている」

「……。そうだな」

 その時、カティルは気付いた。

 鞍上に座ったまま、相手の生真面目な顔立ちは酷く強張っていた。微動だにせず、強い緊張を見せつけ、怯えるように、怯えながらも挑むように自分を見ていたのだ。

「何だよ。俺を殺したいのか?」

 答えない。

「それとも殺されたいのか? 何か言えよ。何だよ」

「この前の草地だけじゃない。ずっと、ずっと前にも、私達は会っている……」

口ごもるように上擦った声が、喋った。

「……覚えていないのか? イッル?」

「――。カティルだ。俺の名は」

 カティルの褪せた眼色が変わった。

「教えろ。いつ俺達は会った?」

「二年程前に。コルムの城館で」

「コルム城館に行ったのは一度きりで、しかもたった半刻ほど居ただけだ。それを覚えていた奴がいたのか」

「覚えていたよ。……覚えていた。忘れていない。ハンシスがこう言ったんだ。確か、こう――

『東域の、ダラジャ域の向こうのもっと遠い土地から来たんだって。イッルという名前だ。先日偶然知り合って友人になった異国人だよ』。」

 その瞬間にルアーイドもカティルも同じ記憶の情景を思い浮かべた。

 二年前のコルムの城館。まだ少年っぽさを残す新領主が、不安定ながらも懸命に為政を執り始めてから間もない頃。

 ほんの一瞬ほどの、城の中庭でのすれ違い様だった。ハンシスは楽しそうに目を輝かせながらルアーイドに言った。

『イッルという名前なんだって。言いにくい名前だろう? 弓の凄腕なんだ。俺はこっそり弓を習っている。ナガに居た時にシャダーに下手糞だって笑われた事があったから、上達して驚かせてやるんだ。

 イッルなんて、変な名前だろう? でも奴の国では、普通の名前なんだって。変な髪色だし、目色なんてまともに物が見えているとは思えないけど、でもこれが普通なんだって』

 確かに変わった見た目の異邦人だな、見るからに鋭そうな、腕の立ちそうな、どこか俊敏な猟犬みたいな印象の。と、その時ルアーイドは思ったのだ。

 確かに思ったのだ。覚えていたのだ。

「……。覚えていたんだよ。その薄気味悪い目の色も。名前も」

「俺の国では、どっちも普通だぜ」

「ならば貴様の国では、友人を裏切るのも普通なのか?」

「――」

「なぜだ……。なぜ貴様がラディンと共にいるんだ? ハンシスの友達だったんだろう? それなのになぜ……? 買収されたのか? なぜ今、ラディンと――。下劣な裏切者がっ」

「――」

 カティルはもう答えなかった。それどころかさっさと相手を見捨てる。再び泥の山道を下り出す。

「逃げるのか! 答えろっ、卑怯者!」

 歩いたまま背を向けたままカティルは言った。

「俺は卑怯者ではない。その質問に答える権限も無い」

「権限って何だっ、何の事を言ってるんだっ」

「ハンシスに禁じられている」

 え?

 ルアーイドはすぐ様馬を進ませ、カティルの前へ回る。行く手を完全に遮るように向かい合う。

「どういう意味だ? ハンシスが貴様に何を――?」

 面白くもなさそうにカティルは馬の鼻面を手で横に押しやり、再び歩む。

「待て! 言えっ。 いや、聞け――聞いてくれ。

 私は二年前にハンシスがコルムの城館に戻ってからずっと、従事してきた。会って直ぐに彼の清廉で潔白な質に、それに為政者に相応しい力量に驚かされたんだ。彼こそは理想の君主に成ると思って、彼の治めるコルムを見たいと感じて、だからずっと忠勤してきたんだ。彼が統治を安定させるまでの一番困難な時期も共に過ごし、だから一番近い臣下との自負を持っているんだっ」

「だから何だ? 褒めて欲しいのか? 急いでいるんだ。じゃあな」

「待て! 頼むから教えてくれ! なぜハンシスの友達だった貴様が今、ラディンの護衛になっているんだ! それってどういうことなんだ、何かあったんだ?」

「二年だろう?」

「そうだ二年間、彼の側にいたっ」

「二年間もハンシスの横にいて何を見ていたんだ?」

「だから何をっ」

「笑わせるな。奴は清廉潔白の理想の主君なんかじゃない。そんな事あるものか。

 奴は、欲しいものがあれば、どんなに手を汚してでも手に入れる。どんな卑怯な手でも使う。でなければ、いくら生来の力量があるといったって、あの若さで、たった二年でコルムを完全に掌握し、小領主の地位から一族の当主座を要求するまでに登れるものか」

だから、何を言ってるんだ――?

 心底から言葉の意味が解からない。質問を返したいのに言葉が出ない。

 その目の前で、当然の様にカティルは発した。

「今回の戦闘での、ハンシスの本当の狙い。まさかまだ気付かない訳じゃないだろう?」

「……」

「黙るなよ」

「……。解らない。何を……」

「シャダーだよ」

「――。何を……」

「側にいたんだろう? なのに本当に全然気付かなかったのか? 気づけよ、阿呆面の間抜けが。

 確かに、ハンシスの素質は宗主として文句無しだが、唯一、あの従姉についてだけは異様だ。なにせあの女を手に入れる為に、戦役まで起こしたんだから」

「……違う! 何を言ってるんだっ。

 この戦役は一族とラディン双方の未来を熟考して上で、ワーリズム家の当主座という正当な地位――」

と言いかけた瞬間、ルアーイドの脳裏に、逆光の横顔がよみがえった。包囲戦を敷いてから六日目だったか? 丘の上からナガ城館を見ていたあの横顔。淀み、凝り固まったあの奇妙な眼。

 あの眼は、戦況を焦っていたんじゃなかったのか? 当主の座を欲して焦っていたののでは無いのか? まさか、

「……シャダーを、手に入れる為……?」

 初めてカティルが白々とした笑みを見せた。

「俺も貴様と一緒だ。国を追われた旅の途中でたまたまハンシスと出会ってすぐ、その力量と魅力とに惚れ込んだ。どんな領主となるのか見てみたいと思って、そのまま友となり臣下となった。

 で、一年半前だ。彼に秘密裏に頼まれて、ナガ城館に行った。ラディンと親しくなって監視をしてくれとね。ちょっと驚いたが、これは一族の当主座を狙っての計画だと言っていたし、何より面白そうだし、それ以上にハンシスの頼みだから引き受けた。

 そして、ラディンと親しくなってみてすぐ気づいた。本当に笑ってしまうぜ。ラディンも全く一緒だ。シャダーとなると狂い出してしまう。激しいほどの執着ぶりだ。

 なぜなんだ? 美女という訳でも無い、性格も鼻につくほど身勝手で我儘で苛立つあの女のどこが良いんだ? 俺には全く理解できないがな」

「――」

「ラディンはシャダーのせいで、臣下も城館も当主座も失う羽目になった。ハンシスもだ。戦役まで起こして、果てはこんな山の中まで独りで出奔して――。

 今後、ハンシスはどうするんだろうな。勿論、奴に限っては、馬鹿な従弟とは違う道をたどってくれる事を願うがな。

 どうだ? 貴様はどう思う? あの執着の果てに、この先奴はどの方向へ進むと思うか?」

「――」

「黙り込むなよ。良き理解者殿よ」

 三度目。カティルは相手を見捨てて、ぬかるんだ地面を進みだす。薄暗い山道の上、長身の後ろ背はどんどん黄色い木々の奥に吸い込まれてゆく。

 そしてルアーイドは馬上で動かなくなった。

 衝撃に動けなくなってしまった。二年にわたって敬愛し忠勤してきたはずの主君の真実に、たった今まで全く気付けなかった。気付けなかった自分の無能ぶりに吐き気をもよおす程に嫌悪を覚え、体は動かず、なのに手袋を付けていない冷えた指先は勝手に震え始めた。

(――駄目だ)

 今は動揺するな。駄目だ。考えろ。既にこんなところまで来てしまった。取り敢えずここで立ち止まる事は出来ない。とにかく、進むべき正しい方向へと道を進まないと。やるべき事をやらないと。――ハンシスの為に。

(考えろ)

 落ち着いて、冷静に考えろ。ハンシスの為に、ハンシスの最も良い将来の為に考えろ……っ。

 前方の木立を見る。もうとっくにイッルは消えている。樹々だけが、冷えた風に僅かに揺れている。

その黄色い葉の向こうへ、大声を発する。

「貴様はまだハンシスの友人なんだな!」

 答えは無い。静まり返ったままに黄色い樹々の向こうへ、もう一度叫ぶ。

「イッル! 聞こえているのか? 頼む、もっと私に教えてくれ。一緒にハンシスの為に出来ることを考えてくれっ。彼の未来の為に!

 貴様に金を払うから、頼むっ、イッル!」

 すると。

 呼吸二回の後、木立の向こうから無愛想な大声が響いた。

「俺は金で雇われて動く間者じゃないぞ」


              ・        ・        ・


 秋の薄日の射し込む午後が、夕刻が近づいた頃。

 ブハイル湖へと突き出すように造られた、小振りな、しかし頑健なブハイル城へと、シャダーはたどり着いた。長い旅路の果てにやっと、数人の守番らのみの居る城に迎えられた。

 ようやく彼女は、焦がれて止まなかった乾いた、柔らかな寝床を得ることができた。今は何も考えたくなかった。ただ疲れ切っていた。眠りたかった。

 今。彼女は寝ている。

 小さな城の上階の一室で、窓を固く閉じて寝ている。

 閉じられた窓の外では、そろそろ陽が落ちてゆく。冷えた湖面に、闇が広がってゆく。夜が始まったばかりの空では、星の前を雲がゆっくり動いている。

 シャダーは寝ている。月は無い。音もない。


 ハンシスも決して、音を立てない。ただ小さな火を見ている。

 外套にくるんだ身を丸くかがめ、湖畔に座したまま、揺れる焚火の炎を見つめている。そうやって長い長い時間、無音と孤独の中にいる。

 目を上げた。

 真正面には、夜闇に落ちてゆく中に、僅かにブハイル城の輪郭が浮かび上がっている。何年かぶりで主を迎えた城には、消え入りそうな灯がほんの一つか二つ灯り、それ以外は全てが、陰を帯びている。

 頭の芯に眠気は無かった。この長い一夜に想うべき過去・考えるべき未来は多かった。自分が冷静なのか高揚しているのか、よく判らなかった。緩い風が運ぶ冷気と、肘の傷のひりつきだけを、神経のどこかで感じていた。


 薄れてゆく夕光の中、カティルとルアーイドも、馬を降りた。野宿の場と決めた狭い草地の上に立った。彼らの立つ場所からは下に湖、そして湖に突き出たブハイル城が良く見通せた。

 結局両者は、薄暗い午後を共に行動することになった。その現実が二人を、本来あるべき道筋から逸れさせた。特にルアーイドの道筋を、大きく変え始めていた。

(……ならば。……だから、私は――、何かをしないと……)

 カティルから知らされた現実に、ルアーイドは恐ろしい程に強張った眼になっていく。親友であり、主君であり、理想の君主になると視ていた者。その男の知りたくなかった現実を受け入れられず、思考と感情は締め付けられてゆく。責め立てられてゆく。

(だから――何かしないと……ハンシスの為に。ハンシスの未来が逸れないように……)

 夜を前に、湖面も暗い闇に落ちてゆく。それを無言で見下しながら、ルアーイドの感情はじりじりと呪縛されてゆく。

 その時、気づいた。

 夕闇の湖畔に、ハンシスがいた。城門の前に、小さな黒い点となっているのを見つけてしまった。

「……。なぜ」

 何をしているんだ?

 こんな人も居ない場所で。暗い湖の許で冷たい風を受けて。そうやってただ一人で夜を明かすのか?   なぜ? 何の為に?

 ――シャダーの為に。

 背筋に沿い、小さく震えるような感触を覚えた。

「ハンシスはあそこで野宿する気か? シャダーはもう城内か? シャダーが出てくるのを延々と待つ気か? どう思う、ルアーイド?」

 カティルにも応えない。彼の体内で感情は淀み、思考は粘りついて進まない。でも、それでも、その上でも考えないと。

 曇りの無い、歪みの無い未来――理想の君主たるべきハンシスの姿――その為に、やるべき事――。

 ――彼の未来を、正しい道筋に戻す事。

「おい。聞いてるのか?」

 ルアーイドは視線を動かさない。顔から、色が失われている。その緊張ぶりを見たカティルは、おそらくこいつはもう口を利かないな、今夜はきっとろくに眠れないなと思ったのだが。

 予想は外れた。ルアーイドは声を発した。闇に沈んでいく城と湖そしてハンシスを見下ろしながら小声で、だがはっきりと言ったのだ。

「動かないと。彼の為に」


 そして。

 ラディンは、姿を消した。

 無音と夕闇の世界のどこかに消えた。





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