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5・ 霧雨

5・  霧雨



 シュリエ城砦の建つ乾いた丘陵地から、さらに西へ。

 丘の連なりは間もなく、ジュバルと呼ばれる山地になってゆく。

 丘陵の単調な風景は、標高が上がるにつれて変じてゆく、崖や谷といった豊かな変化を帯び出す。まばらな灌木は消え、高い木が増え、木々は深く茂り出し、やがて深い森へと成ってゆく。雨と湿度が増してゆく中、平地より進んだ秋の中。こちらでは早くも黄葉が始まっていた。

 ワーリズム家のシャダーの馬車は、この黄色く彩られた山道をたどっていた。

 ……

 朝からずっと、繊細な霧が留まっていた。濡れた黄葉に薄霧の白が混ざり、世界は不思議な色合いだった。

 しかしシャダーはそれも見ない。強張った顔で、膝に置いた自分の手だけを見ている。同じく何一つ喋らずに堅苦しい顔を貫く護衛兵達に囲まれながら、うねった山道をたどっていく。

 唯一の例外は、少年兵のティフルだった。彼だけが、

「シャダー様。見て下さい。霧が少し薄れて来ましたよ。黄色い森が綺麗ですよ」

 馬車の横に馬を寄せて、必死に女主人に笑いかけていた。

「ずっと山道が続いて馬車が揺れますから、お疲れですよね。でも、もうそろそろ峠の頂きです。もう少しで到着します。もう少しでアール卿の城に着きます。馬車を下りて、火の焚かれた乾いた部屋で休めますよ。今夜は寝台で眠れますから」

 憔悴しきった顔の女城主は、ぽつんと呟いた。

「早く、休みたい。――早く全てが終わって、帰りたい。ラディンに会いたい」

 シュリエ城砦での悲劇的な出来事から、すでに二夜が過ぎていた。

 城主カラクからは厄災者呼ばわりをされ、城を追い出された。その際に浴びせられた罵倒の句に、

「貴様のせいでラディンもワーリズム家も飛んでも無い悪運に捕まったんだ! 俺もだっ、貴様にかかわったばかりに飛んでも無い面倒に巻き込まれただろうが! 悪魔とでも寝やがれ! 呪いを受けろ!」

 そのあまりの酷さに衝撃を受けてしまい、何の反論もできなかった。絶句したまま、カラク城を出発した。

 果てに今、陰鬱な霧の山道を進んでいる。こんな寂しい、人けも無い僻地で、内臓を絞られるような屈辱をかかえながら、暗い表情と酷い顔色をさらしながら馬車に揺られている。

 ティフルは一生懸命に気遣って話しかけてゆく。

「シャダー様。城主のアール卿の事をもっと話して下さい。どんな方ですか? 昨日も少しお話を伺いましたが、続きをどうぞ教えて下さい」

 シャダーは少しだけ目を上げた。少年を真似て少しだけ笑おうとした。

「そうね。どこまでを話した? 彼がナガの為にグータの領主との友好を取り付けるのに成功をして、それに父上が感謝して、城館で祝宴が催された話はした?」

「いえ。まだです。是非聞かせて下さい」

「あの時は、普段無愛想な父上も上機嫌になって、アールにしきりと酒を勧めて。私にも酌をするように命じて。確か私が十五歳の時だった……?

 アールの一族は代々にわたってワーリズムの忠実な臣下だから。だから私に対しても存分な敬意を示してくれて。実際、一度は私との婚礼の話が出た事もあったし。あの男は本当に優れた卿だわ」

 言葉と共に思い出す。あの時、大宴会は光に満ちていて。大変な人数が満ちていて。誰もが賑やかな笑い声と喋り声で。アールは完璧な騎士然で。愛する弟がいて。自分も心から笑って。

「……」

 また黙った。幸福な記憶が現実の惨めさを際立たせ、一層の疲労を覚えさせた。

 だが実際には、彼女よりもさらに疲れている者がいた。周囲の護衛兵達こそが疲れ切り、苛立ち、不満の念を内心一杯に溜めていた。

 しかしそれにも気付いてない。自身の失意と疲れのみを抱え、シャダーの馬車は少しずつ険しくなってゆく山道を登ってゆく。いつの間にか霧は小雨へと変わっていた。

 心より待ち焦がれたアール卿の城への到着は、夕刻になったのだが、

 ……

「ねえ。まだなの? 何をしているの?」

 護衛兵の一人が、小ぶりの城門をずっと叩き続ける。

「早くして。早く開けてもらって。疲れているから、早く」

 確かに彼女は疲れていた。先ほどティフルの手を借りて馬車を下りる際には、思わず老婆じみた溜息を漏らしてしまった程に疲弊してしまっていた。なのに待っていることも出来ず、自ら城門の前まで進み出て急かしてしまった。

「ねえ、早くしてもらってっ」

 ナガからまとってきた外套は、すでに埃と小雨とをたっぷり含んで重たくなっている。フードの下で前髪は額に張り付き、化粧も落ちている。

 本当に早くして欲しい。雨粒はもういい。早く乾いた空気に当たりたい。温かい食事と柔らかい寝台が欲しい。それらの全てが、この扉一枚の向こうにあるのに。

「なぜこんなに待たされるの? 門を叩いているのに気付いていないんじゃないの?」

 門前にいたカワーイド隊長が、冷淡な顔で振り返った。

「私達がここにいる事には必ず気づいています。必ず物見が出来る場から、こちらを見ているはずです」

「だったら直ぐにここを開けるはずよ。なぜ? 理由は?」

「理由は、私達が拒絶されている為です」

 直截の言葉を放った。途端、彼女の疲労は強い苛立ちに変じた。

「何を言っているの! そんなはず無いでしょう? お前だってアールは覚えているでしょう? 礼節を貴ぶ忠臣だったじゃないっ。今はナガ城館に出仕していないけれど、あんなにワーリズム家へ忠勤してたのよ? それなのに何でそんな事を言うのっ」

 苛立ちはさらに腹立ちへと変じる。外套の下で肩が小刻みに震え始める。

 何で皆、私の邪魔をするの?

 何がいけないっていうの? 私は何か悪いことをしたの? シュリエ城代の酷い言い様のように厄災の魔物に取り憑かれているの? 厄災はハンシスなの? まさかハンシスがここまで先回りしてまた邪魔しているの?

 顔が強張る。両の掌を強く握り締める。感情を抑えきれず、思わず大声で喚き出しかけようとした時だ、

「お願いします! 早く開けて下さい! ワーリズム家のシャダー様がこちらまで来ています、困っています、お願いします、開けて下さい!」

 唐突にティフルが飛び出し、叫びながら門を打ち始めたのだ。

「今、シャダー様は本当に困っています! ずっと旅を続けられて、災難に見舞われて、本当に困っていますっ、疲れています。ワーリズム家の忠臣であられたアール卿、お願いしますっ。シャダー様を休ませて下さい。拒否なさらないで、ここを開けて中に入れて下さい!」

 夢中で門を打つ。いくら叩いても何の変化も示さない城門を、それでも散々に叩き続ける。見る見る手の拳が赤味を帯びてゆく。

 意外な事に、ティフルの熱意は報われた。

 シャダー達の目の前で、城門が開いていった。そこに、当地の領主・アール卿が一人で立っていた。


               ・      ・      ・


 乾いた丘陵地の上でも、残っていた夏は過ぎ去り出していた。空は雲を帯び、陽射しの強さも減り、明らかに秋が始まっていた。

 ……

「全くもって不幸な偶発でした。 私もその瞬間にどうする事も出来ず……。

 誤って使者を射殺してしまった事で、あの御方は半狂乱に陥られてしまい、私が止めるのにも聞かずに……。

 何とか思い留まらせようと努めたのですが、どうしても叶いませんでした。大変申し訳ありません。心よりお詫び申し上げます」

 城主名代のカラクは、今日も瀟洒な刺繍取りのある長着姿だった。その姿で長々と、いかにも心底より苦悩したという顔を見せつけていた。

「シャダー様は当然ナガに御帰還されたのだと思っていましたが、違ったのですか? 街道ですれ違うことも無く? だとすると、まさかあの御方は別路をたどってお戻りになったのでしょうか? 何とも心配な状況です。

 それにしても、本当に、本当に、あの時私が無理をかけてもお停めしていればとは、悔いても悔いても悔いきれません。神の御前に幾重にも幾重にも、お詫びを申し上げます」

 ラディンもカティルも、無言だ。

 曇った空の下、二人は無言で聞いていた。城内に入ることもなく、巨大な城門の前で騎乗のまま、ただじっと長々の弁を聞き続けていた。その間にも、丘陵のただ中のシュリエ城砦は絶え間ない秋の東風を受けていた。

「ところで。――貴方様がここにいるという事は、ナガの包囲戦は終結したという事でしょうか? 私如きが僭越ではありますが、ナガの為、一族の為、そして姉上の為にも、貴方様は御帰還なさった方がよろしいのでは、ラディン殿?」

 大仰な心配顔を見せつけながら、彼はナガへと連なる東街道を指差す。

 だがラディンは、その道をたどらなかった。今馬を進めるのは、東街道の真反対の方向だった。さらに西の、ジュバル山地への道筋だった。

 ……

「城主名代のカラクが嘘を言っていると思っているのか?」

 シュリエ城砦を出てから五回目、またカティルは同じ質問を投げた。

 すでにジュバルの山道に入っている。少しずつ標高を上げ、少しずつ狭くなってゆく山道を、両者は馬を横に並べながら登ってゆく。

「俺も、あんたの姉はナガへ戻っていると思うがな。何をおいてもあんたに会いたいと願っているはずだ。たまたま帰路で何かが起こったんじゃないか? 事故か、もしくは何かしらの事情で身を隠しているとか」

 しかし。

「――」

 やっぱりラディンは応えない。今までの四回と同じだ。ラディンはシュリエ城砦を出てからまだ一言も口を効いていない。

 急坂になってゆく山道の周囲で、風景は著しく変わっていった。辺りはあっという間に深い森となり、木々は黄色く染まり出していた。空気が湿度を含み、空では雲が厚く、薄暗くなり始めていた。

「俺は間違ってないだろう? どうしてナガへ戻らないんだよ、ラディン。戻った方がいい」

「――」

「聞いてるのか? おい、聞こえないのか?」

「――」

 応答無し。いつまで無視されるんだと思った時だ。

 ラディンは、視線を動かさずに言った。

「シャダーはナガに戻っていない」

「やっと口を効いたか。俺はまた、あんたが愛しい姉の行方不明に気が動転して、喋れないのかと思ったんだがな。――で。今、どこにいる?」

「この先の峠を登り切った、アール卿の城だ」

「言い切ったな。絶対なのか? 見えてるのかよ。そんなにあんたは姉の事を知り尽くしているのか? “髪の毛から爪先まで”か?」

 その時、ラディンが振り向いた。真っ黒の眼が示した不快の怒りは、この無遠慮な友をしても一瞬黙らせる気迫だった。

「俺とシャダーを茶化す気なら、この場で殺してやるぜ」

「……。怒るなよ」

「シャダーなら、アールの所だ。あの男は父親の代から、ワーリズム家へ忠義を貫いていた。シャダーにも礼節を尽くしていた」

「それだけか? それだけが理由で、大勢いるワーリズム家臣下の中でアールとかいう奴に限定するのか?」

「ワーリズムの臣下で、シャダーに敬意を持つ者なんて他にいない」

「え……?」

 言葉の辛辣に、カティルは上手く反応できなかった。口ごもってしまった。

 ……

 その頃からジュバル山中では、空の暗さが目立ち始めた。薄い霧もかかり始めた。

 ラディンもカティルも、前方だけを見て進む。変わらない歩調で狭くうねった峠道を登ってゆく。

 もう口は利かない。風は無い。鳥も消え、物音は無い。馬の蹄音だけが不規則に響く。霧は白さを増し、木々の黄葉にベールをかける。霧が世界を包み始める。

 ――突然、静寂が崩れた。

 ラディンの猫の眼、カティルの淡色の眼がほぼ同時に捕えた。猫は小声で聖句を口走った。

「守護の天使は我が右肩にあり」

 彼らの左手、渓流が削った谷の向こう側だ。崖上の狭い小道を、ハンシスがたどっていた。

「天使は讃えられよ、神の栄光の御言葉と共に」

 深い黄葉の間に、確かに見える。濃緑色の外套をまとい目深にフードを落としたハンシスが、大柄な葦毛馬に跨りながら脇目も振らずに崖道を登っている。

「奴は全くこちらに気づいていないな」

 辺りには全く物音が無い。薄霧が僅かに動いている。ラディンは、丸切り感情を含ませずに言った。

「やれ」

「え?」

「早く。やれ」

「何のことだ」

「早くしろ。さっさとやらないと行ってしまう。今ならちょうど木立に隙間が開いている。すぐにやれ。早く弩弓を出せ」

「――。ここで、奴を撃ち殺すのか?」

 簡単に、ラディンは頷いた。


          ・           ・           ・


 当地の領主アールは、ただ一人で立っていた。

 彼は、雨よけの外套を着ていなかった。灰色の胴着も刈り込んだ髪も水滴をたっぷりと吸っており、この場に長く立ち続けていたとは明白だった。

「アール卿、ご無沙汰をしております」

 カワーイド隊長が頭を垂れて敬意を表する。が。

 アールは返さない。

 高い上背の背筋を伸ばしたまま、アールは全く動かない。三十歳程という実年齢よりよほど潤沢な実経験を感じさせる強い表情もって、無言で、ただ来訪者を見据え続ける。

(何か嫌な感じの沈黙だ)

 そう若いティフルの勘が察した時だ。

「アール!」

 シャダーがぎこちない足で斜面を登ってきたのだ。遠慮もなく相手の前まで達すると即座、夢中で相手の手を取り、握ったのだ。

「貴方、全然変わっていないわ。ああ、良かったっ、会いたかった。貴方がナガ城館に戻って出仕するのを、ずっと待っていたのに……。本当に会いたかった!」

 その言葉に偽りがないとは、誰の目にも明らかだ。苛立ちから一転、シャダーの顔は大きく笑んでいた。たった今までの憔悴が消え、鮮やかな生気を取り戻していた。

「ラディンの代になってすぐ貴方がナガから去った時は、哀しかったわ。あんなに止めたのに――。でも、こんな風に再会出来たなんて。本当に良かった。

 話したいことが一杯あるの。疲れているけど貴方とは直ぐに話しをしたい。中に入れて。話をしましょう」

 だが。

「アール? ずっと山道で揺られてて、疲れているの、早く中に入れて。どうしたの? とにかく乾いた空気にあたりたいから、早く」

 微動だにしない眼でただ見据え続け、そしてアールは感情を含まず言った。

「貴方を入城させません。お帰り下さい」

 一瞬、シャダーは意味が理解できないという顔になる。

 しかし、すぐに察した。表情はまた変わった。苦々しい苛立ちに戻った。

「ハンシスね」

「何の事ですか」

「誤魔化さないで。ハンシスね。あの恩知らずがここにも先回りしていたって訳ね。

 でもだからって。聖天使様、信じられません。貴方が――父上からあんなに信頼されていた貴方まで、ハンシスに買収されるなんてっ」

「私は買収など受け入れたことはありません。万事を自分の意思のみで決定します」

「だったら早く入れてっ」

「意志をもって、貴方を拒絶します。私は貴方と、貴方の弟に嫌悪を抱いています」

「……。何を言っているの?」

「早く去って下さい。さもなければ私は武力をもって貴方を追い返しますよ」

 白く細かい霧雨の中、言葉も態度も完全に冷徹だった。

 周囲の衛兵達は、誰も言葉を発しない。ただ、言葉を失ってしまった女主人を見据えていた。次の瞬間に彼女がどんな態を示すのか、何を言い出すのか、その言葉をそれぞれが予想していた。

「酷い……」

 聖者よ。予想通りだ。

 彼女は涙をにじませ出した。有り得ない現実に打たれ、口端を震わせながら必死で相手に憎悪をぶつけていた。

「貴方だけは、ワーリズム家の危機にも頼って良いと――誰よりも一番頼りになると、信頼出来ると思っていたのに……。裏切り者……」

「造反者呼ばわりは止めて下さい。私は、貴方の御父上にとって最高の臣下であったと自負しています」

「だったら私を助けなさいっ、すぐに私を城内に入れなさいっ」

「その愚かな頭を何とかなさい。

 無知で、傲慢で、現実を見ない愚者である貴方自身こそが、ワーリズム家に最大の害なしたとの自覚すら無いのですか? 哀れな」

 完膚なく放った。だがシャダーもひるまなかった。

 シュリエ城砦の時には、突然の罵声に何も言えなかった。為に惨めさに泣く羽目になった。もうそれを繰り返すのは嫌だ。

「私が何をしたっていうの! どこが無知で一族を害しているっていうの!

 私こそが現実を見ながらワーリズム家を支えてきたじゃないっ。貴方だって知ってるはずよ、母上がラディンを産んですぐに亡くなってからは、私があの子を育ててきた。ラディンが当主に就いてからだって、いつでもあの子を助けて――、それを――!」

「その身勝手な論理を止めて下さい。聞いていて恥ずかしい。

“私はどれ程弟を愛したか”ですか? その思い込みが挙句の果てに今回の内紛の戦役を引き起こしたと、なぜ気付かないのですか? そこまで愚鈍なのですか?」

「私はラディンを愛しているわっ、それのどこが悪いの? なぜ責められるの!」

「誰か」

 アールは同行の六人の衛兵達に問いかけた。

「お前達の誰か。現実を教えてやれ。この女の弟への執着が、それでなくても無能な弟を一層の阿呆に仕立て上げたと」

「呪われろ! アールっ、全ての聖者から罰を受けろ!」

「早く誰か言ってやれ。ナガ城館にいたお前達が一番良く知っているはずだ。この女の愛とやらの為に、ラディンはいまだに乳離れ出来ない阿呆になり、よって当然の結果として無様に当主の座から落ちたと」

「罰当たりな嘘を! 城館の誰一人だって私達の事をそんな風にっ、誰も私達――」

「『真実は驚愕と共に示される。雨夜の闇を割く雷光の如く』」

 霧雨の中から聖典句が響いた。

「神聖なる言葉が伝える通りです。私も、アール卿と同意見です。卿と同様に、貴方様を拒絶します」

「……」

 シャダーには、自分が今どのような顔をさらしているのか分からなかった。ただ喉の底から搾るようにして、やっと言葉をカワーイド隊長へ発した。

「……よくも、そんな事が言えるわね……。何年も何年も城館に仕えてきた果てに、そんな、醜い事を……」

「先代のワーリズム殿は、間違いなく尊敬に値する宗主でした。しかしながら。

 いくら血筋の良い猟犬だろうと、仔犬の時にきちんと躾けられなければ、殴られて追い払われるのが筋ではありませんか? それがラディン殿です。アール卿の言葉の通り、貴方様の弟への溺愛が、ワーリズム家を悪しき方へと招いていった。

 そうですね。今となっては、従弟のハンシス殿だけが御一族の唯一の希望です」

「――。黙りなさい。黙れ。

 カワーイド隊長。お前をナガ城館から追放します。今すぐ、どこへでも消えなさい」

「御言葉の通りに」

 カワーイドは深々と身を垂れる。そして歩みだした。

「……え?」

 シャダーの目の前、白い霧雨の中、そのままアール城主の許へと進んでいっった。絡み付く細かな水滴の中、貴方様の御名の許に私の忠義を捧げますというカワーイドの簡素な忠誠の辞が響いたのだ。

 事態はさらに進む。背後から泥を踏む複数の足音が聞こえ、それが自分の横を追い越してゆく。

 ティフル少年を除く残りの衛兵達全員が、カワーイドに従ってアールの側へと歩んでいったのであった。

「……」

 細かい水滴がシャダーの顔にも絡みついていた。彼女はもう、感情を上手く表すことが出来ない。呆然と言葉も動きも無くしていく。

「ワーリズム家のシャダー様。私の領地内から出て下さい」

 アールの無機質な言葉に、何も考えず返す。

「嫌よ」

「出て下さい」

「嫌」

「拒否するのであれば今、この場でカワーイド隊長に命じ、貴方を追い立てさせます」

「嫌よ――嫌だから――絶対に、出ないから――」

「もう止めて下さい!」

 ティフルが泣き出しそうな大声で叫んだ。

 彼にはどうして現実がねじれてしまったのか解らない。それに自分がどう対応すればよいのかも。ただ感情が高揚し、勝手に涙がにじんだ。純粋さと潔癖さだけで叫んだ。

「酷いです! こんなの――酷いです!」

 泣き喚く子供にもナガ城館の女城主にも見向かない。アールは背を向けた。たった今まで女城主に仕えていた衛兵達を引き連れ城内へと戻ると、城門は再び、固く閉ざされていった。

 物音が消え、霧雨が深まる。世界は白さを増してゆく。

 その時ティフルの耳は気づいた。白い世界の無音の中で、シャダーが声を上げて泣き出していた。

 ティフルにはもう本当に、何をすればよいのか解らなかった。


              ・      ・       ・


 濃緑の外套をまとったハンシスの姿が、黄色を帯びた崖沿いの道を黙々と騎行してゆく。それを猫のような細い眼で見据えている。

 ラディンはもう一度、繰り返した。

「奴を射ろ」

「……」

「お前の腕なら一矢で充分だろう? 巻上式の弩弓は殺傷力が高いから、確実に殺せる。本当に天使は肩に居たんだな。ここで邪魔者は消える」

「……」

 カティルは返答に窮する。相手の平然とした口調に当惑する。

「いや――。一応あんたにとっては幼馴染の従兄だろう? 草地の会見の時だって仲が良さそうだったじゃないか。何も殺さなくても……」

「俺に戦を仕掛けてきた男だぜ」

「今回の包囲戦ならば、明らかに交渉で決着出来た。おそらくハンシスもその筋書を敷いていたはずだ。それをあんたとあんたの姉が拒否したんだろうが。

 とにかく、ここで殺さなくても、このまま様子を見ながら後を追っていけば充分だろう?」

「早く。ほら見ろ、樹の隙間を通り抜けてしまった。次は、あの正面――あそこの岩の所でまた見通せる。早く狙え。あそこを過ぎたらもう狙えないぞ。早く。

 早く殺さないと、俺の方が殺される」

「それは無いだろう? ハンシスにはあんたを殺す気は無い。最初から奴の言動――」

「カティル」

 ゆっくりと首を動かし自分を振り向いたラディンの眼が、

「従わないのか?」

 凄まじい、とカティルは思った。

 一年少し前から護衛として、もしくは質の良くない友人として受け入れられた。一応は信頼を得ている関係と、ある程度は互いを理解し合える間柄だと思っていた。それでも、

 理解できない。ここまで本気の殺意はなぜだ?

 そこまで憎悪する必要はあるのか? 兄のように仲の良かった従兄に、そこまで覚えるのか? 本当に自分が殺されると、そこまでを思っているのか?

 渓谷の向こう側、ハンシスの馬は規則正しく蹄を刻んで進んでいる。狙うならばあの、霧で湿った灰色の岩の所。あの前を通過する時、姿は完璧に見通せる。綺麗に標的に収まる。

「早くしろっ、早く弩弓を準備しろっ」

 カティルは馬から下りると、鞍に下げていた巻上式弩弓を取り出す。弦をハンドルで素早く巻き上げ、矢をつがえる。

 ハンシスは何も気づいていない。薄霧の中を真っ直ぐに死の場所へと近づいて来る。 カティルは弩弓を握り直す前にもう一度振り向いて、ラディンの喰いつくような眼を見、――見て、言い直す。

「奴に――仲良しの従兄に恨みがあるのはあんただろう? やりたければ自分の手でやれよ。この距離ならあんたでも外さないだろう?」

「俺に弓を渡すのか? そうか。てっきり俺は、貴様がわざと的を外して事を濁すのかと思ったのに」

 辛辣の台詞なのに表情は子供のように素直で、またカティルの眉は歪ませる。馬から下りると、差し出された弩弓を受け取った。それを目の高さに構えた。

「狙うなら首の付け根だ」

 もう応えない。十字の形をした弩弓のその支柱を、ぴたりと頬につける。

 音が無い。谷の向こう側、ハンシスのまとう濃緑色が、黄葉と薄霧の中を動いてゆく。あと呼吸数回で岩の前に達する。

 フードの下の、相手の横顔が見える。普段の明瞭さと違い、感情を淀ませた固い顔だ。何を考えているのかを解らない点で、従弟と良く似ている。こちらに全く気付かず、ただ山道を進んでいる。

 あと三呼吸。引き金にかけたラディンの指が微かに動いた。

 あと二呼吸。狙う。背中側の首筋、最も柔らかい、首の下。

 来る。岩の前に来る。あと呼吸一回。

 そこへ来た! ――矢は飛んだ。

 矢は音も無く右手の方向、見当はずれの林の中へ飛び、消えた。横から伸ばされた腕が、発射の瞬間に弩弓を押していた。

 ハンシスは何も気付かないまま、規則正しく山道を進んでゆく。その姿が、黄色の木々の向こうへ消えてゆく。

 カティルは黙っていた。何の弁明はしなかった。立ったまま、去っていくハンシスを遠目に見ていた。

 ラディンもまた、激怒することもなかった。ただ、無言で弩弓を上へと振り上げた。僅かな音をたてて護衛の顔を打っただけだった。

 霧が濃くなってゆく。山中に物音は無い。右耳の上に僅かに血をにじませながら、初めてカティルは発した。

「ハンシスの背中を見張りながら進むのが良い。あの様子だと、奴はあんたの姉の行く先を知っているな。俺達より先にシュリエ城砦に寄って、何か聞いてきたんだろう。多分シュリエ城代とは、以前から通じていたんだろうな」

「そうだろうな」

「あの気取って着飾った城代野郎。しゃあしゃあと惚けた顔で騙しやがって」

「そうだな。奴が俺を捕えなくて良かった」

 他人事のように答えた。その横顔にはもう、たった今までの冷酷な殺意はない。感情を捕えにくい眼で前を見据えている。

 ようやく今、カティルは、この若いワーリズム当主が周囲から憎まれている、というよりや疎まれ、距離を置かれている理由が解った気がする。それは単に未熟で生意気で傲慢な餓鬼というだけではない。

 怖いのだ。

 何を考えて何を行動するかの予測がつかず、だから薄ら怖いのだ。対応の予測が出来ないことに、無意識での緊張と、そして薄っすらの怖さを覚えるのだ。

「奴の後をつけよう。行こう」

 耳上の血をぬぐいながら、カティルは言った。霧と冷気と湿度と秋が増している。シャダーは先に進んでいる。ハンシスはそれを追いかけてゆく。ラディンとカティルもまたハンシスを、シャダーを追いかけてゆく。



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