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4・ 東風Ⅱ

4・ 東風Ⅱ



 ナガのワーリズム城館の持つ五つの門の内、聖カドス門は南西の角に位置している。

 ここから外へと出ると、目の前はなだらかな下り坂になる。坂はやがて開けた草地へ連なり、この草地が小さな広場のような役割を果たしている。

 今日。夕刻が近づいた頃合い。

 すでに草地の広場からは人が遠ざけられていた。広々と東風の抜ける空間が大きく、がらんと空けられていた。

 ……

「朝から東風が強い。雲の量も多いし、もう完全に秋に入ったな」

 戦闘が停止し、物音の消えた自陣の中を歩きながらハンシスが言った。

「……」

 それを聞き受けながら、横に共に歩むルアーイドは敏感に、とっくに察していた。簡素な口調で返した。

「朝から、ずっとだ」

「何が?」

「機嫌が良い」

 ハンシスは振り向く。指摘の通り、妙に明るい笑顔だ。

「当然だろう? だって今日一日は休戦だ。これが守られた御陰で、丸一日ずっと皆と落ち着いて話し合いが出来た。食事もゆっくり取れた」

「……」

「それにこれから久し振りに従弟に会える。上手く行けば包囲戦にケリを付けられる。私にとっては勿論、ラディンとっても良い方向の道筋を作れる。ワーリズム家を取り巻く皆に、良い未来を作ることが出来るんだ。機嫌が悪いはずないだろう?」

「それだけか? それ以外にも何か理由があると思っていたが」

「何のことだ?」

 東風の中、主君の笑顔を生真面目な眼がじっと見つめる。見つめながら、彼は迷っている。この戦役が始まって以来ずっと心に引っかかっている疑問を今、このまま問い詰めるべきか考えてしまう。

(また勝手に出た。自分達臣下に一言も無く、勝手に会見の場を作ってしまった。先日の嵐の日の単独行動と同じだ。

 どうしてだ? 臣下達と充分に意見を分かち合うのが、貴方のやり方ではなかったのか? この戦役が始まってからの貴方は、少しおかしくないか?)

 いや。やはり今は止めておこう。

「貴方があんまりにも上機嫌そうだったからだ、ハンシス。――そうだな。会見が万事上手くいくといいな」

「勿論、上手くいくさ。だって私とラディンは子供の頃、ずっと仲良しだったんだ」

 風は夕刻が近づいても納まらない。灰色の雲が次々と現れては、西へと流れてゆく。変わりやすい空模様が、秋が進み出した事を告げている。二人はナガ城館の方へ向けて、坂を登ってゆく。

 目指す草地では、すでに準備は整えられていた。草地の縁には、事前に決められた人数――それぞれ五人の兵と五人の家臣達が、二陣に分かれて向かい合って待っていた。ハンシスは、草地の手前側にいる自身の家臣達の許に達し、横に並んだ。

 夕刻を前に風はいよいよ強まる。草を吹き分ける音が耳に響いてくる。東風の中、遠い前方のカドス門が開くのを待ち、待ち続けていき、やがて、――

 門が開き、老ワシール卿が現れてきた。

 風音のみの、それ以外には静まっている草地を意識しながら、ワシールは呟いた。

「やはり時間を変えるよう求めるべきだったのでは。夕刻を指定してくる会見など、あまり先例を聞いた事がありません。相手の意図が読めません」

「何を恐れているんだ?」

 二歩を遅れて、ラディンが出てきた。

 小柄な、丸切り少年のように小柄な全身が、東風を受ける。長い黒髪が乱れ、顔の表情は一層に内心を読ませない。子供っぽさを残す造作に、不釣合いを与える。

「ハンシスの申し出が気に入らないのか」

「いえ。会見の設定自体は望ましいものです。今日一日を休戦にするとの約束が守られている事も有り難い事です。ですが。

 一日とは、夕刻の日没をもって終焉しますので」

 ラディンの闇色の眼が、草地を超えたさらに遠方を――城館を囲むコルムの陣営を見捕えた。

 敵軍勢は休戦日とはいえ、陣の体系そのものは解いていなかった。兵達はのんびり座り込んだり歩き回ったりはしているが、しかし持ち場を離れているという訳では無かった。つまり、聖典の教えを畏れず休戦約束を破ろうと思えば破れるという事だ。

「つまり。今、休戦協定を逆手に取れば、ハンシスは勝利に掌中に出来ます。

日没の瞬間、貴方様の身柄をこの場で確保してしまえば、彼はこの長引いた包囲戦に終止符を打てます。望んで止まないワーリズム家当主の座を、完全に手に入れる事が出来ます」

「――」

「ラディン殿。聞いていますか。貴方自身の身柄に危険があるという話なのですが」

「ハンシスが約束を破るような男で無いとは、貴様だって知っているだろう? 破るとしたら俺の方だ」

 素っ気なく言い切るや、ラディンはいきなり坂道を走り出す。すでに兵士と臣下達が待ち構えている、風を受ける草地の縁へと下っていき、そして。

 ……両者ともが、ほぼ同時に相手を見た。

 両者ともが、相手の姿を充分に見た。互いの服装の作りや、髪の長さや、そんなどうでも良い細部を、充分に見て取った。

 それから同時に、草地の縁から歩みだした。広い草地の真ん中へとゆっくり進み出た。こうしてワーリズム家の従兄弟同士は、会いたかったのか会いたくなかったのか良く判らない相手と、二人切りで間近から見合うことになったのだ。

「久し振りだな。少し背が伸びている」

 先に声をかけたのは、ハンシスだった。

「二年振りだな」

 ラディンも応じた。意外にも先に笑みかけた。猫の様な笑みだ。

 草地の両端からは、“こんな対面の仕方は危険だ”と主張してきた両陣営の臣下達が、不安顔で遠巻いている。ちらっとそちらを見ながらハンシスが笑う。

「お前の側の臣下――ああ、勿論ワシールは連れてきているな。懐かしいな、彼とはゆっくり話したいんだけどな」

「ワシールも、貴様と話したがっていた」

「そうか。その隣の、あの背の高い男は誰だ? 髪色が薄くて変わった男だな。お前の新しい側近か?」

「貴様がいた頃から、俺の周りに何の変化も無いとでも思っているのかよ」

「――。いや」

 怒っているのか、それとも親しみの冗談か。従弟の笑顔は、何とも隙が無く見えた。昔からそうだった。親しくはあっても、何を考えているのかは決して掴ませない。この二つ年下の、人好きのしない従弟は。

「確かにそうだな。二年も経てば、変わってないはずはない。変わって当然か」

「そうだよ」

「私達の立場からして大きく変わった。お互いに支配者の座に就いた。全てが変わらないはずないか。

 毎日、好き勝手に遊んでいたのにな。あの頃は楽しかった。私はナガ城館で本当に良い時を過ごさせてもらったよ。色々な人と出会って、学んで、遊んで、ずっと、本当に幸せだった」

「だからか」

「え?」

「だから貴様は昔の時間を取り戻そうと、こんな大掛かりな戦役を始めた訳だ」

 猫の顔がまた笑う。それが何を意味しているのか本当に判ららず、ハンシスは背中にチリチリと冷えた感覚を覚えた。

 ……

 日没が近づき、東風はいよいよ強さと冷たさを増していた。

 風下の側では、コルムの五人の臣下達が風を受けながら、真剣に草地の中心の二領主を見ていた。

「どう思う? あの二人は何を話しているんだ?」

 重臣の一人が隣のルアーイドに話しかけたのだが、

「……」

 ルアーイドだけは、違う場所を見ていた。主君達を越したさらに向こう、相手側の陣営を見ていた。そこにいる、やはり熱心に主君を見ているナガ城館の臣下達を必死で見捕えていた。

 ルアーイドの神経質な顔が、ぴりぴりと緊張し始める。

 知っている気がする。敵陣の中の一人。高名な老ワシール卿の隣に立つ、あの男。背の高い、珍しい髪色の。珍しい、薄い色合いの眼と髪の……。

「イッル……?」

 向こうも今ちらっと、灰色じみた眼で自分を見たか?

「イッルじゃない。カティルだ」

「え?」

「あの褪せた髪色の男だろう? カティルという名前のラディンの護衛だ。一年少し前からナガ城館に居ついた、ラディンの気に入りの異邦人だ」

 左側から、緒戦で寝返ってきたイーサー卿が興味もなさそうに教えた。

「――。カティル……」

 東風が絶え間なく吹き付ける。ルアーイドの背中の隅で、暗い感覚が大きくなってゆく。

 ……

「あの二人、笑ってるぜ」

 面白がるようにカティルが言う。

 それを横耳で聞きながら、老ワシールは微動だにせず主君達を凝視し続けている。

「どう見ても仲が良さそうじゃないか。戦敵同士どころか、あれじゃ絵に描いたように仲良しの従兄弟同士に見えるんだが。ワシール」

「……」

「ワシール、聞いてるか?

 あの二人が昔は仲良し同士だったって聞いた時、俺は信じなかったが、本当だったんだな。ならば奴がシャダー殿をナガから追い出したがっている理由は、やっぱり本当なのか? 本当にラディンの将来を気遣っての事なのか? 貴方はどう思うんだよ? 第一あの二人、今、何を延々と話し込んでるんだよ?」

「――。昔話でもしているんだろう」

 二領主の双方を一番良く知るこの老臣こそが、見事に状況を言い当てるところになった。

 その通り今、風の中、ハンシスとラディンは、楽しそうに昔話をしていた。他愛ない、本当に他愛のない思い出話を延々と、嬉しそうに、懐かしそうに交わしていたのだ。

それは例えば、

 ――ナガ城館の裏手のリンゴ林。そこの巨木に登り、枝に座り込んで酸っぱい若実を盗み食いしたこと、

 ――大市に旅芸人が来ていると聞いて、片道一日半のスックの町を目指して夜中にこっそり城館を抜け出たこと、

 ――同年代の遊び仲間で集まり、女達も総出で刈入れをしている麦畑の真ん中を、全員素っ裸で走り回ったこと(この時は、普段なら家人に無関心のワーリズム殿もさすがに激怒し、猛烈に怒鳴られたこと、でも夜中に思い出して二人で馬鹿笑いしたこと)、

 思い出は、一緒に面白く遊び合ったものばかりだった。思い出すだけで幸せだった。

「そう言えばほら、こんな事もあった」

 ハンシスはまだ続ける。

「ほら、お前が夜中にいきなり怒りながら私の部屋に来て、何とかワシールを言い負かしたいから手伝ってくれと」

「そんな事あったか? 何があったんだろう」

「確か、ワシールがお前に説教したとかだったな。『領民からの敬愛を得なければ、どんな善政を執っても意味はない』と。これを何とか言い負かせたいといって来たんだ。ああ、そうだ。寒い冬の満月の夜だ った。

 それで二人で色々と考えたけれど、結局私はワシールの説に同意してしまって、だからお前は私にまで怒り出してしまって――」

「有ったな。思い出した」

「次の日の朝一番、お前はワシールが登城するのを夜明け前から城門で待ち構えた。で、彼が坂道を登ってきたのを見た途端、いきなり言った――」

「言った。覚えている。俺はこう言ったんだ、

『敬愛なんて必要無い! 敬われるより恐れられる君主になって、その上で善政を執ればいい。そうすれば例え為政に失敗した時だって領民は黙っている!』」

 断言の口調だった。ただの思い出話に。

 そして、眼。あの頃から大きく変わり、従兄を寄せ付けなくなった深い黒い眼。……

 笑おうと開きかけていた口を、ハンシスは閉じる。冷たい東風が頬に当たる。現実に戻る。従兄のその繊細な変化を、いとも敏感にラディンは察する。

「何か言いたいんだろう?」

 さあ。幸せな思い出の時間は終わりだ。有るのは、現実だ。

「そろそろ、止めにしよう」

「――」

「お前は利口だ。もう解っているはずだ。ナガ城館は篭城に善戦しているが、でも、もうそろそろ限界だ。間もなく私が勝つ」

「そうだろうな」

「無駄な消耗はしたくない。これからのコルムの為にも。ナガの為にも。私にも。お前にも」

「そうだな」

「だから、ラディン。私にワーリズム家当主の座を譲れ。それだけで良い。お前には引き続きナガの領主としての権限を維持させる。そのままもっと学んで良い領主となればいい。それで良いだろ?」

「――」

「ラディン。他に望みが有るか? 何か望みは?」

「俺の望みだって?」

 その時、ラディンが陰湿に笑んだ。ハンシスの神経が反応し、固くなった。

「その前に、俺じゃなくお前の望むものの方だろう? 何だって? ワーリズム家当主座が欲しいんだって?」

「――そうだ。悪いか?」

「いいや」

「正直に言う。私はとにかく当主になりたい。実際に、私の方がお前より家臣からも領民からも信頼を得ている。何よりも私には、当主に相応しい力量が有る。お前より遥かにだ。

 だから私がワーリズム家当主座をお前から奪うのは当然だ。その資格があるはずだ。それが悪いか?」

「いいや」

「なぜ笑うっ」

「おかしいからだよ」

「何がおかしいんだっ」

「“正直に言う”か。だったら正直に言えよ。貴様が本当に欲しいのは、そんなものじゃないだろう?」

「……?」

「シャダーだろう? 奪い取りたくて必死なのは。本当はそれが望みだろう?」

 ハンシスが顔色を変えた。雲間に見え隠れする夕陽の赤い光に、際立った。

 それを真正面で見ながら、ラディンは面白がる。聖典劇の観客よろしくじっくりと見据えた果てに面白がりながら言う。

「図星だからって情けない顔をさらすなよ。従兄殿」

「……。なぜ、私がシャダーを欲しているなどと言うんだ?」

「声も動揺してるぞ。今更隠すなよ。ほら、言えよ、

『神様、私はシャダーが恋しくてたまりません。昔、ナガ城館にいた時にシャダーに可愛がられたことが忘れられません。あの時に戻りたいんです。だから適当な大義を持ち出して戦役を起こして、力づくでシャダーを奪います』」

「……黙れ」

「『とにかく私は、常にシャダーと共にいるあの弟が邪魔でなりません。とにかく、何とか、あの二人を引き離したいんです。とにかくあの弟が憎いんです。嫌いです。だから殺したいんです』」

「止めろっ、違う!」

「そうか? 本当に違うと言い切れるのか?」

 違う! と繰り返そうとした言葉は、確かに喉の奥に詰まってしまった。

 それを見て、ラディンはいよいよ嗜虐的に笑った。

 ……

 老ワシールの顔が急速に引き締まる。

「二人の様子が変わったぞ」

 横に立つカティルは答えない。答えないどころか退屈したかのように、赤みを帯びてきた夕刻の空を眺めている。

「何が有ったんだ? ハンシスが動揺して、冷静を崩している。ラディンは何を言ったんだ?」

 空を見ながら、風を受けて邪魔になる薄色の髪を、紐で束ねる。それを終えてからようやくカティルは、主君の方へ目を向けた。

 ……

「従兄殿。どうした?」

 機嫌の良い猫の顔を、ハンシスは強張りながら見る。誰も知らないはずの事を平然と言い当てる従弟を見据える。

「何か言えよ。怒れよ。怒って俺を殴って、怒りまくりながら否定しろよ」

 動揺を抑え従弟をみる。

「感情で動くなど、しない。嫌いだ」

「逃げたな。貴様は昔からそうだったよな。綺麗事が大好きで、人に非難されることが怖くてたまらない。『領主は領民に愛されるのが最優先というのは真実だ。ワシールは正しい』か? 好きなだけ諸聖人から祝福されてろよ。

 シャダーへの執着も、他人に、特にシャダー本人にばれないように必死だったんだろう? ばれてシャダーに拒絶されたりしたら、なんにも保てなくなるものな。せっかくの幸せなナガの日々が一瞬で消えるものな。ご苦労な事だ」

「……」

「いつから気づいていた、って訊きたいんだろう? 言えよ」

「……」

「知りたいんだろう?」

「……。いつからだ」

「貴様が城館に来た最初の日から、すぐに分った。毎日、感じていた。

 そうだな。もしシャダーが貴様を気に入ったらと、ずっと不安だったぜ。シャダーはいつも一人の相手にしか愛情を注がないものな。貴様に奪われでもしたら最悪だ。だからもし俺に大金が有ったら、足のつかない毒を買ってすぐに貴様に盛ってた。悔しいが俺の持ってる金では、すぐにばれる安物しか買えないからやらなかったけどな」

「……」

「毎夜寝ながらずっと、貴様を殺す手段を練っていた。でも、どんな手を使ってもこっちも返り血を浴びそうで、だから実行しなかった。まあそんなところだ」

「――」

「それだけだ。どうだ?」

「――。そうか」

 ハンシスはそう答え、それから。

 無言で従弟の頬を平手打った。

 ……

「殴った!」 

 ルアーイドが信じられないという顔をさらす。

「嘘だろう? ハンシスが人を殴るなんて有り得ない! どうしてっ」

 すぐにも駆け寄りたい、が、踏み出せない。会見中に主君達に近づくことは事前に禁止条項とされた。その約束を破ってはハンシスの不名誉になる。ただ歯ぎしりするように見据え続ける。

「何があったんだ、何してるんだ、ハンシス!」

 ……

 草地の中心で、どちらも喋らない。ラディンは怒っているようにも笑っているようにも見える。その眼の前でハンシスは大きく息を突いてから、吐き捨てた。

「下卑た当て推量を上段から嬉々と語る馬鹿が」

「――」

「ならばお前も正直に言えよ。

『私はいまだに姉の匂いから離れる事が出来ません』。

 それに、こうだろう?

『昔、従兄が城館に居た時には、いつ姉の関心が従兄に取られるかが不安でたまりませんでした。なぜなら自分は、何の見どころも無い憐れな餓鬼だからです。その思いは今も続いています。今も必死に姉にすがり付いています』。

 違うか? 言えよ。ラディン」

「――やっぱり安物の毒でも何でも買って、さっさと殺しておくべきだった」

「片時も姉から離れられない乳飲み子」

「お前の望むものは手に入らないぜ。俺が全霊で邪魔をしてやる」

「貴様は早々に身を亡ぼす。私が見届けてやる。その手始めは、ワーリズムの当主座からの陥落だ。その上で、シャダーを私の許に呼ぶ」

 丸切り従弟の真似をするよう、ハンシスは陰湿に口許を引き上げた。その上でもう一回、相手の頬の全く同じ場所を打った。

 ……

「ハンシス! 止めろっ、貴方がこんなに感情的になるなんて有り得ない!」 

 ルアーイドが叫んだのと同じ時、草地の反対側で老ワシールが発した。

「さすがにもう尋常とは言えない。ハンシスが激昂している。この会見は中止させた方が良い」

「仲良しって言ったじゃないか。放っておけば良いんじゃかないか? ちょっとした兄弟喧嘩みたいなものだろう?」

 からかい半分にカティルが返したが、もうワシールは足を踏み出していた。絶対に出てくるなとの約束を無視し、風の中を二人の領主の方へ歩みだした。

「ハンシス殿! ラディン殿!」

の声に同時に振り返った両者の、何と表情の似ている事、――とは、その時のワシールの感想だ。だがたちどころに両者は、顕著な対照となった。

すっと冷静を取り戻すハンシスと。不貞腐れたかのような眼で見返してくるラディンと。

「会見中は全員が引き下がっている約束だぞ、ワシール」

「貴方が私の主君に手を上げるのを止めに来ました、ハンシス殿。らしくもない、これはどういう事ですか?」

「ただ昔を懐かしんでいて、ちょっとラディンと喧嘩をしただけだ」

「何を馬鹿な事を。貴方ともあろう方が公の場でこんな醜態をさらすなど。一体何を話して何をそこまで激怒しているのですか?」

「それは従兄殿も怒るよなあ。だって俺達二人は、同じものを争ってるからなあ。この世に一つしかないものをなあ」

 諧謔口調で口挟み、ラディンは笑った。即座、またハンシスの右腕が上がったのを、ワシールが腕を掴んで止めた。

「ハンシス殿! その子供じみた態を恥じるべきですっ。

 ラディン殿、貴方も笑うのを止めなさい。情けない、これでは本当に子供の喧嘩だ。ワーリズム家の領主二人が衆目の中でこんなは恥態をさらすなどとはっ」

「ワシール」

 ハンシスが呼びかけた。

 複雑な感情を含む眼が、老臣を見た。いつもの曇りの無い眼から大きくかけ離れ、不安とも躊躇ともつかない淀みを示していた。

『何を言いたいのですか?』

 と、ワシールは即座に訊ねるべきだったのだ。そうすれば、この後の二人の進む道筋は、大きく変わったのだ。

 だがその機は失われた。風上に位置するコルムの臣下達の間に、何やら騒動が起こり始めたのだ。ハンシスがそちらを向いた時にはもう、淀んだ感情を映す眼は消えてしまった。

「済まない、ワシール。私の陣で何か起こったらしい。悪いがここでこのまま待っていてくれないか」

「従兄殿、俺達の間の問題はもう何もまとまらないんじゃなかったか?」

「黙れっ。まだ話すことが有る。絶対ここから離れるな、ラディン。

 ワシール、必ず彼をに引き留めておいてくれ」

 言い残し、ハンシスは臣下達の方へ戻ってゆく。とは言っても危惧した通り、早くもラディンは草地から去り出す。

「交渉の場を尊重しなさい。ここで待つべきです、ラディン殿」

 どこまでも子供じみた主君を、老卿が深い息を吐きながら引き留めようとした時だ。

 彼は、コルム陣営の様子が急変しているのに気付いた。

(伝令か? まだ子供の? なぜ激しく泣き喚いているんだ?)

 少年はもう立ってすらいられないのか。大声で泣きながら臣下の一人に倒れかかる様すがり付いている。必死で泣きながら、叫びながら、何やらを訴えている。それを聞く家臣達・兵達の顔色がみるみる変わり出す。

 ハンシスもまた、大きく顔色を変えている。取り囲む臣下達、泣いてすがり付く少年伝令、空気が明らかに緊迫している。ルアーイドが主君の片腕を力任せに掴んだが、ハンシスはそれを振り払う。

 そしてハンシスが振り向いた。

 心底からの怒りの眼がこちらを――ラディンを見た!

「ラディン殿っ」

 振り返った主君に素早くワシールは発する。

「何か大変な事態になっている、ハンシスが激昂している。とにかくすぐ走って皆の許へ戻りなさいっ」

「なんで? 俺の仲良しの従兄だぜ?」

 この状況での冗談口としては最悪だ。その間にも事態は最悪へ向かう。ハンシスが感情を剝いたまま従弟へ走ってくる。信じられない。あのハンシスが怒りを、敵意を剥き出すなんて。その従兄をラディンは動かず待っている。信じられない。面白がっている。

 あっと言う間、ハンシスはラディンを掴むと襟首を締め上げた。今日三度目、平手では無く拳で、今度こそ本気で横面を殴った。しかもそれだけでは――。

「止めなさい! 何を!」

 胴着から短剣を抜き出したのだ。

「武器を持ち出すなどっ、ハンシス殿!」

「黙っていろ、ワシール!」

「貴方ともあろう人がこんなに興奮し、しかも短剣――」

「黙れと言った! 黙らなければこいつを傷付ける!」

「ハンシスっ、何でだ!」

 ルアーイドが叫ぶ。

 嘘だろう? 嘘だろう? 嘘だろう? こんな光景が現実なのか! 自分の知っているコルム領主は、賢明で清廉でいつだって冷静に物事に向かうじゃないか。それがこんなに変わるのか? こんな卑劣に出るのか? あの眼――

 清澄なはずのあの眼が、憎悪に捕らわれるなんて!

「何が起こった?」

 首筋に冷やかな刃の感触を覚えてながら、ラディンは平然と尋ねた。

「皆が驚いてるぞ。どうした? 感情を剥いて激怒するのが好きになったのか?」

「余計な口を効くな! 私の言う事を聞け! 一言も漏らさずに聞け! その前に、ワシール! 下がれ! 貴様もだ、ルアーイドっ」

 さすがに今は従った方が良いと、臣下達は判断する。日没直前の風が強く吹く草地に、また二人きりとなった。押し殺した声を、コルム領主の喉が発した。

「シャダーが――私の伝令を殺した」

「何だってっ」

「私の伝令を、殺した。貴様が避難させたシュリエ城砦で、私の使者を弩弓で――自分の手で殺した……!」

「嘘だっ、なぜシャダーがそんな事をするんだ!」

「それこそを私が訊きたい! ラディン、今すぐシャダーを呼び戻せっ。使者殺しは大罪だ、何が起きたか知りたい!」

 ラディンは、姉の予想もしなかった事態に動揺したラディンは、呼吸三回分無言になる。

 そして四回目の呼吸の時、彼は自分を取り戻した。

「俺が訊いておいてやるよ」

 本来の、あの複雑な陰質を取り戻した。

「俺がシャダーから聞いておいてやる。貴様も事情を知りたいなら、後で書簡でも送ってやる。だからもう関わらずに去れよ」

「ふざけるな! なにが書簡だ、私の使者を殺したんだっ、すぐに呼び戻せ!」

「もう関わるな。使者殺しでも君主殺しでもどうでも良い。貴様はさっさと引け。そこまですがり付いてして会いたいのか? 無様だし、それ以上に哀れだぞ。

 諦めろ。この先もう貴様の眼にシャダーが映ることはない。全て俺が妨げる」

「ラディン!」

 ハンシスの短剣を握る右腕が動く。ルアーイドとワシールが同時に叫ぶ。

「そこまでだ」

 思いがけないところから声が響いた。

 ハンシスは振り向き、素早く反応する。左腕で小柄なラディンの体躯を羽交い絞め、右手の中で短剣を握り直し、その上でゆっくりと発した。

「貴様。武器を置け」

 カティルは従わなかった。頬にぴったりと弩弓を当て、左目を閉じ、右の眼でハンシスを見捕えたままだった。

ハンシスが、あらためて力を込めラディンを引き寄せた。あらためて一語一語、噛み砕くように言った。

「弩弓を、置け。貴様」

「まずラディンの首から短剣を外せ。次に奴の体を離し、最後に俺に視界から消えろ。そうしたら弩弓を置いてやるよ」

「――。弩弓を置けと言っているんだ」

「俺は今からラカバ章の祈祷句を唱える。それが終わるまでに今言った事をやれ。そうしなければ矢を打つ」

「馬鹿か? その矢が貫くのは私ではない。私はラディンを盾に出来る」

 するとハンシスの腕の下、ラディンが小声で笑い始めた。乾いた笑いが神経を逆撫でる。ハンシスはさらに腕を締め上げ、即座に黙らせる。

「弩弓を置けっ。自分の主君を殺す気か?」

「あんたの方がラディンより背が高い。頭一つ分、出てしまっている。残念だったな。そこを狙えるんだよ。――ラディン、絶対に動くなよ」

「そんなことが出来るものか」

「信じないか? だったら見せてやるよ。あんたの両目の間を抜いてやるよ。嫌なら、哀れなウサギみたいに身を縮めて隠れな。必死にな。良い見世物になる。

 ハンシス殿。どこか射られたい箇所はあるか? 右目か? 左目か? さあ、祈祷句を始めるぞ。『唯一なる慈悲深き絶対者の御名において――』」

 強い東風が吹き抜ける中、本当に祈りの句を始めたのだ。

「ハンシス! とにかくすぐ戻れ!」 

 ルアーイドが叫ぶ。自分の主君がこんな非常識な行動の挙句に非常識な窮地に陥る事が信じられず、硬直した顔色に化す。

 そしてワシールも、状況の最悪さを判じる。相手を子供の時から知っているワシールこそは、ハンシスがこの手の脅迫を最も嫌う事を、それに屈することを最も屈辱とすることを良く知っている。ゆえに的確に判断出来る。

“ほぼ間違いなく、絶対に、ハンシスは要求に従わない”

「『その御意思の書き留めたるところは、人には知り難し。人は書き留めたるところを定めとして受け止め――』

 強い風の中、祈りは確実に進んでゆく。ハンシスの堅い顔がぴくりとも動かない。その間にも、獲物を前にした犬の様なカティルの祈祷は確実に、結びの謝句へと近づいてゆく。

「ハンシス! 皆の為に、頼むから止めてくれ!」

 ルアーイドの声は、もはや懇願になる。

「こんなのは貴方じゃないっ、こんなのは貴方の目指すところから大きく外れている、こんな事で身を危険にさらすな! お願いだから、頼むから止めてくれ!」

 ちらりと、自分を一瞥した。その、眼――

 淀んだ、凝り固まった重い感情の眼、先日見たあの眼と同じ。

 だからそれは何なんだ、ハンシス!

 祈祷の句は結びの、神への謝辞に入る。それでもハンシスは放さない、放すわけ無いとワシールは判じる。ルアーイドの声が絶叫になる。

「ハンシス! 頼むから止めろ――!」

 突然、東風が突風となって草地を抜けた。

 思わずルアーイドもワシールも、草地の全員が顔と目を伏せた。そして急いで目を開けた時、皆が“あっ”と思ってしまった。

 ハンシスが、ラディンを突き放していた。

 カティルは律義にも結びの謝句である“絶対者に輝かしき栄光あられ”の一言までを述べて、終えた。ようやく弩弓を下した。

 顔一杯に隠し切れない悔しさと怒りをにじませながら、ハンシスは懸命に従弟を睨んでいる。この時とばかりラディンは従兄の屈辱顔を鑑賞し、それから鮮やかに微笑んだ。そして愛らしい程に素直な声で言ったのだ。

「やっぱり弩弓で狙われた時には、素直に従うべきだよ。従兄殿」

 東風の中、ハンシスは大股で踏み出した。

 もう二度と振り返らない。主君に何を声がけて良いのかと狼狽するルアーイドや、座り込んで泣いている伝令の少年や、展開の意外に困惑する臣下達・兵達が待っている自陣に戻ってゆく。

 東風が絶え間なく吹いている。雲が激しく流れている。今日一日だけは休戦で静まっていたワーリズム城館では、もう陽が没しかけている。

 結局、子供の喧嘩じみた会見は、何の結果も産まなかった。

 かつて他者に見せたことの無い、異様なまでに感情に圧されたハンシスの姿だけが記憶される結末となった。


                    ・    ・    ・


 夜になっても東風は止まないどころか、さらに強くなってゆく。草も木々も大きく揺れ動き、不穏な音を立てている。風は雲も消しさり、夜空には多くの星が瞬いている。

 ルアーイドは天幕を飛び出した。

その瞬間、真っ先に目に映ったのは低い空に出たばかりの赤く染まった大きな月だった。

「あの――忌々しい月が!」

 寝静まった陣営内を走り出した。ルアーイドの顔は動転と怒りに蒼ざめていた。

 ……

 ナガ城館内にもまた、冷たい風が吹き抜けている。通廊の角ごとに据えられた松明の炎を、大きく揺らしている。

その通廊を、カティルは走るような大股で歩いてゆく。外套の裾を大きく揺らし、狂いの無い正確な歩幅で石段を上り、最上階の一室に達した途端、彼は挨拶も無しに扉を押し開けた。

「間者から報告だ」

 強い月光に、くっきりと横顔を浮き上がらせていた。眼下に広がる敵陣営を見ていた。見たまま言った。

「貴様が来る頃だと思ってた。

 さっきからコルムの夜営に、急に火が増えてきている。ざわつき出している。何が起きた?」

「ハンシスの単独失踪」

 はっと、初めてラディンは振り向いた。その顔がもう何かを敏感に察し、素早く再び外を見るや、

「月だ。充分だ」

「何が?」

「同じ事を思った。この月明かりだ。夜の騎行に充分だ。感情だけでは動かないなんて言ってたくせに、笑わせるぜ」

 窓枠から飛び降り、あっという間に部屋を横切って行こうとするのを、カティルが腕を掴んで止めた。

「どこに行く?」

「追いかける」

「ハンシスをか? どこに行ったか分かるのか?」

「奴と同じ事を思ったと言っただろう?」

「――?」

「シュリエ城砦」

 はっとカティルの脳裏に、鮮やかに笑う女の像が結ばれた。

 あの、ありふれた顔立ちの、美しくも何とも無い女。独善的で我儘で気分屋の、騒々しい女。果てについに一族に内戦にまで招いた女。

 あの女だ。疫病神となって、ワーリズム家をどんどん混乱させてゆく女だ。

 真夜中の冷気が風となって室内を抜けた。外套をまとい立てかけてあった長剣を掴み、ラディンがそのまま部屋から出ていこうとする時、

「待てよっ、忘れるな」

カティルは卓上にあった主君の手袋を掴み、相手に投げ渡した。

「俺も行くぜ」

 二人は素早く、松明の火の揺れる通路へと出ていった。

 ……

 月光と強風の中、ルアーイドの眼が必死で周囲を見渡してゆく。

 目の前には、ワーリズム城館が大きな影となって迫っている。ごつごつの分厚い石が積み上げられた城壁は、この数日の攻撃にも充分に耐えた頑健のまま高く、大きくそそり立っている。

 不安はもう不安だけに留まらない。恐怖へと進んでいる。自分のやっていることに大した意味があるとは思えない。でもやらずにはいられない。馬を秘かに進めて敵方の至近に、城壁沿いに主君の姿を探してゆく。

(守護の聖天使マリキ様……)

 つい数刻前。草地での主君の行動は、信じ難い異質だった。常に知性と冷静と客観をもって物事に当たる質が、あんなに感情を剥きだすなど。果てに武器まで持ち出し、為に自身を窮地に追い込むなど。

 そしてその異常の詳細について、自分達臣下に、――自分に、何一つ説明してくれないなど。

 主君がこの城館を出てコルムに戻ってから、二年。

 最初に再会した時から、その清廉さを印象づけられた。深い思考と落ち着いた言動に、理想の君主を感じた。何よりも強く前を見据える視線に、心から魅了された。

 以来自分は、誠意の限りに支えてきた。歳の近さもあり親友のような関係も築き上げ、コルム宮廷で最も主君を理解しているのは自分との自負があった。それなのに今、

 ハンシスの行動が、全く理解出来ない。

(マリキ様、ハンシスは今、まさか――)

 寒空の中、赤黒色から蒼白に転じた月が不安をかき立てる。至近から見上げる城砦は、真っ黒の輪郭を結んでいる。寒風の中、最悪の予測が現実味を増していく。

(まさか、この中へ……まさか……。まさか城壁の中に入るような真似――)

 ガタリ

 物が動く音が、風中に響いた。

(ハンシス!)

と叫ぼうとする喉を、寸前で止めた。

 大きな月の下に現れたのは、主君ではなかった。二騎士だった。固く閉ざされた五つの城門の内の最も小さな北裏門が僅かに開いて彼らが出てきたのだ。

(ラディンと――イッルだ!)

 鞍の前に付けたランタンの光が、ぼんやり揺れている。分厚い外套を着こんでいるのが分かる。彼らがこれから夜騎行に出るとは、すぐに判った。では、どこへ?

(光を帯びた輝く翼のマリキ様)

 ルアーイドが迷った時間は僅かだった。

 彼は自らの外套の襟もとをすばやく留めた。頭のどこかに、革手袋を天幕に置いてきてしまったなとの思いが過った。

 二頭の馬が斜面を勢いよく駆け出し、それを追いかけルアーイドもまた月光の中に進みだした。




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