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3・ 東風

3・  東風



 肥沃なナガ平野から西の丘陵地に入ると、空気は大きく乾きだす。陽射しは強さを増し、一日の内の寒暖差が激しくなる。

 風景もそれに合わせて変わる。水路が一本も無い乾いた地面は、背の低い灌木ばかりになる。薄茶色の色彩が目立つ丘陵がどこまでも連なってゆく。

 このいささか単調な世界に、シュリエ城砦は建っていた。

 シュリエ城砦は、ワーリズム家の勢力地の中でも要衝の一つだ。時折に起こる周辺豪族達との衝突に備え、乾いた丘の頂で巨大かつ堅牢な姿を誇示していた。

 とはいうものの、今の様な安定の時期には、その機能も持て余し気味だ。広い城内を歩む人々――多くは兵士それに若干の生活者達――の数も少なく、静かに落ち着いていた。突然に女主人を迎える事になったこの数日間も、シュリエ城砦の中は退屈な程の平穏に覆われていた。

 ……

「お早うございます。穏やかな良い朝です。ご機嫌はいかがですか、シャダー様」

 シュリエの名代城主・カラクは、文句の付けようのない上品ぶりで挨拶を垂れた。

「ええ。お早う。本当に良い朝だわ。気持ちが良い」

 シャダーの方もまた、満面の笑みでこれに応える。

 彼女は上階の、広々と丘陵を見下ろすテラスに座って東風を感じていた。装飾の付いた杯を握ったまま、上機嫌で相手を見返した。

「山羊乳は足りていますか。外に何か召し上がりたい物が有りましたならば、どうぞご遠慮なく仰って下さい。貴方様に御不自由をおかけする事は決して出来ません」

 カラクは優雅な微笑みだ。四十歳絡みの年齢だろうか。今朝もまた洒落た、染み一つない上質な濃紺の長衣を、着慣れた風にまとっている。

“奴は抜け目がないな。外面が良すぎる。まあそれはそれで優れた力量だが”。

 いつだったか父親がぶっきら棒に言ったのを、彼女は覚えていた。その通り、たった今も自分の横に立つカラクは、慇懃なほどに完璧な対応ぶりだ。

「ありがとう。だったら後で何か甘菓子をお願いするわ」

 だがそれも当り前だと、シャダーは思っている。

 だってこの男は、かつては父親から、今は弟から城主を任命されているワーリズム家の臣下なのだから。自分に向ける態度としては、これが当然なのだ。何かと自分に文句を向けてくるナガ城館の家臣達の方が、神の名において間違っているのだ。

「ねえ、カラク。まだナガの戦闘は決着していないの?」

「鳩が運ぶ通信によれば、いまだに五分五分での戦況が進行中の子です。勿論ラディン殿は善戦をなさっていますが、悔しいことに敵方も未だに戦力を保っている様子です」

「善戦は当たり前よ。ナガ城館の城壁は堅固なのだし。ワシールもいるのだし。最後にはラディンが勝つのは分かっているけれど、でも何でこんなに長引くの? コルム方にこんなに長く包囲を続ける力なんて無いと思ってたのに」

「確かに。予想外のしぶとさではありますね。勿論、ラディン殿の実力を考慮すれば最終的には勝利を収められるでしょうが。

 貴方様が御優しい姉上であればこそ、弟たるラディン殿への御心配は尽きないのでしょう。ましてや敵方が、かつて可愛がられた従弟との事では、さぞ御心苦しいでしょうに。御察し致します」

 顔色一つ変えずに述べる。その通りと言わんばかりにシャダーは大きく頷いた。

「そう。そうなの。心配なの。だから私は早く帰りたい。帰ってラディンの無事の顔を見たい。ナガには一刻も早く勝ってもらわないと困るのに」

 相手が口許を皮肉気に上げたのには、全く気付かなかった。

 乾いた丘陵を流れる東風は、朝の冷気と埃の臭いを含んでいる。太陽はゆっくりと天空を登ってゆく。

今日も、昨日と同じ穏やかな一日になるはずだ。彼女は城内の人々を相手に他愛ない会話を交わしながら、暇を潰すはずだ。そうやって長い一日を過ごすはずだ。

 そのはずだったのだが。――だが。東の地平線の辺り。

「あれは、貴方が送り出した伝令兵か何か?」

 先に気づいたのはシャダーだった。彼女は眩しい光に目を細めて指さした。

 カラクも気づいた。陽射しの差し込む方向、丘陵の連なりの上にある街道を、二頭の騎馬が走っている。背中側から朝日を浴びながら、こちらに向かって疾走して来る。

「ねえ、貴方の兵なの? きっとナガの状況を運んでいるわよね。やっとラディンが勝って平和が戻ったのかしら? どう思う?」

「……」

「どうしたの?」

 カラクの表情が変っていた。皮肉気な笑みが引き締まった顔に転じていた。

「どうやら、私達は客人を迎えるようです」

「貴方の兵ではないって事? だったらこの城砦の、貴方の客人でしょう? 私達って?」

「このままこちらでお待ちを。おそらくすぐに貴方様をお呼びすることになりますので」

 硬い笑みを浮かべると、カラクは踵を返しテラスから立ち去った。

残されたシャダーには、状況が全く判らない。全速で走る二人の騎士の黒い輪郭は、どんどん城砦に近づいて来る。

 ……

 カラクが言い残した通りだ。

 まだ山羊乳を飲み終わらない内にシャダーは突然、城の中庭へと呼び出された。

「だから一体、何があったの? まだ頼んだ甘菓子が来てないのに」

 光のあふれる上階テラスから地階の中庭へ。長い長い階段を下ってゆく間にも不満を漏らした。上着を持ってくればよかったとも。日向から一転した城内の暗い通廊と階段の冷やかさが不快だと思った。

 そして到着した中庭もまた、日陰だった。残されていた夜の空気の冷たさに、それ以上に目にした光景に、彼女は驚いた。

「どうしたの? なんでこんなに兵達がいるの?」

 四角い中庭のその四辺にそって、二十人を超える城の守備兵がずらり並んでいたのだ。

「一体何? この二人は誰なの?」

 庭の真ん中には、先程到着したばかりの騎士二人――たっぷりと汗と砂埃とをあびた壮年の男と少年が、厳しく引き締まった態で立っていた。

 前に立つカラクもまた、強張った顔だ。中庭の全体が緊張感に覆われているとは、さすがのシャダーも感じとった。

「この二人は、貴方の配下の兵なの?」

「配下の者と接見するのに、場を衛兵で囲ませたりは致しませんので」

 丁寧な物言いの中にトゲがあり、これにも彼女は困惑する。

 二人の騎士は、シャダーに近づいてくる。まずは片膝を折り敬意を示し、それから述べた。

「初めてお目にかかります。ワーリズム家のシャダー様。

私の名はリサール。これは私を補佐する息子です。我が主君・コルム領主ハンシス殿より貴方様宛に至急の伝達を携えて参りました」

 途端、シャダーの脳裏には数日前の嵐の中の従弟がくっきり蘇えった。驚きと苛立ちとを同時に覚えた。

「どうしてハンシスは私がここにいるのを知っているのっ」

「貴方様の避難先については、我らの主君は、ナガ城館の某人物を通して早々に情報を得ていました」

「ナガ城館に裏切り者がいたって事? 誰よっ。 それに包囲戦は? ラディンは?」

「包囲戦につきましては、我らの出立時点では、いまだ継続中でした。ラディン殿も城内にて、引き続き篭城応戦中です」

 弟の無事にほっと息を突きかけた時、

「今のところは、ですが」

 使者のわざとらしい言い足しに、シャダーは即座にむっとした。

「失礼な言い方はしないでっ。必要なことだけを早く言いなさい」

「失礼を致しました。ナガのシャダー様。あらためて申し上げます。

 現在、ナガ・ワーリズム城館の包囲戦は続行中です。しかしながら戦局は明らかに我等の主君の側が優勢です。この先時を置かずにラディン殿は降伏を強いられ、ワーリズム家当主の座から下る事になりましょう」

「嘘でしょう? 戦況は五分五分と聞いたわよ? コルム陣だってそんなに長く包囲を敷き続けることは出来ないだろうし――」

「いいえ。戦局は誰の目においても我等コルム側の有利です。ナガ方に勝利の余地はほぼありません」

「だってカラクが――彼がそう言ったのよっ」

 眼を大きく見開いて彼女は振り向く。が、カラクは彼女など無視した。使者達に据えた眼を全く動かさなかった。

 先程までのテラスはあんなに暖かかったのに、この場は底冷えしている。なのにシャダーの体は不満と不安と興奮とで熱くなってゆく。

「……。それで? 私に何を告げたいの?」

「コルム軍勢が包囲を突破して城館に突入した場合、ナガ城館には甚大な被害が予想されます。残念ながら場合によっては多数の死者も出かねません」

「嫌よ。駄目、そんなのは――」

「はい。ハンシス殿もそのような事態は望んでいません。それよりは交渉による開城を考えています」

「だったらすぐにワシールに連絡すればよいじゃないっ。ワシールだったら上手く整えてくれるわよっ」

「ハンシス殿は、貴方様を開城交渉の相手にと指名されました」

 カラクが驚きの息を漏らした。驚きはシャダーも同じだ。

「……どういう事?」

「和平への交渉ですが、その条件をお伝え致します。

 ワーリズム一族の当主座にはハンシス殿が就きますが、ナガにおけるラディン殿の宗主権はそのままに。つまり、領地も城館も引き続きラディン殿の所有です。

 その代わりに、貴方様においては、ナガを離れて頂きたい。ラディン殿と距離をおいて頂きたいとの条件です」

“シャダー、もうラディンから離れて下さい”……。

 まただ。また言ってきた。

 当惑し、当惑は即座に怒りへと変質する。

(なぜまた繰り返すの? なぜそこまで私を非難して、私とラディンの日常を邪魔するの!)

 怒鳴ろうとする直前、カラクが先回った。

「どうしてハンシスはそんな奇妙な条件を持ち出すんだ」

「それは私には分かりません」

「私も知りたいわっ。本当におかしい、ハンシスは何を考えているの? そこまでして私を非難したいって事なの!」

「残念ながら私には判断出来かねます。ですが。

 貴方様が弟のラディン殿に干渉をしすぎ、ゆえにラディン殿のみならずワーリズム家の全体に極めて悪しき影響を与えているとは、もっぱらにワーリズム家に関わるほぼ全員が認識しているところです」

 遠慮なく、真っ向から使者リサールは言い切ったのだ。

 日陰の冷えた空気の中、冷めた目のまま横に立ち、淡々とカラクは予測する。

(これは、火のように怒鳴り出すな。この女)

 似た事を、もう一人もまた思っていた。

(本当にこの人は、現実に気づいていなかったのだろうか?)

 十二~三歳ぐらいだろうか。使者の父親の横に立つ息子もまた、その年齢らしい潔癖の眼をもってナガの女城主を見せていた。

(俺だって知っているのに。自分の出しゃばりのせいでナガの臣下達はみんなラディンを嫌ってしまったのに。皆の不満を受け止める形で今回、ハンシス様が立ち上がったのに。そういう事に全然気付いていないのか?

 自分の弟よりハンシス様の方が遥かに宗主に相応しいっていう誰もが知っている事を、この人だけは知らないのか?)

 シュリエ城主の予測の通りだ。シャダーは激しい怒りを顔に剥き出している。突きつけられた現実に眉を吊り上げ、頬を赤くさせている。少年の目にはその顔が醜く、それ以上に無様で滑稽に見える。

(それなのに、どの聖者様が見てもハンシス様はラディンを優遇しすぎだ。いくら仲良しの従弟だったからって、完敗に追い込める相手にこんなに緩い和平条件を出しなんて。わざわざラディンに立ち直らせる機を作るなんて。姉と離れる機会を作ってあげるなんて)

 突然、振り向いたシャダーの視線と真っ向から合ってしまい、少年は驚く。シャダーは少年そして父親に向かって、上段から宣した。

「帰って」

「シャダー様。我らが主君へのご返答は?」

「あの恩知らずにはこう伝えなさい。例えこの先、お前の聖者も恐れない高慢通りに物事が進もうとも、私にだけは命令はさせないから」

「――。本当に、そうお伝えしてよろしいのですね」

「ええ。さあ、さっさと行ってよ、早く! さっさと出ていけ!」

 吐き捨てるように言い切った。カラクとリサールは同時に口端を引き上げて、小さな軽蔑を示しただけで、もう何も言わなかった。

 リサールの息子だけは、小さな溜息を突く。そこには、敬愛する主君・ハンシスを満足させられる返答を持って帰れない事に対する悔しさがこめられていた。それにもう一つ、

(来たばかりなのに、なのにあの長い街道をすぐにとんぼ返りするのか……聖天使様)

 素朴な徒労感もまた込められていた。

 ……

 中庭にいた全員が城門へと移動を終えた頃には、上空の陽射しは大きく眩しさを増していた。一層に強まってきた東風が、真正面から吹き付けていた。

 光と風と埃に、誰もが目を細めざるを得ない。強い風に服の袖や裾が大きく揺れている。城門の外に立つコルムの使者親子もまた、埃塗れの風に吹かれ続けている。

(ここに一刻すら滞在してないのに、もう出発するのか。全く無駄な道のりになったのに、それでもまた   走って戻るのか。服に付いた砂埃もまだ落としてないのに)

 風を受けながら、少年の体に疲れがのしかかる。これから自分がたどらなければならない長い長い街道を、どんよりと見つめる。

 と、突然、目の前に杯が差し出された。

「山羊乳を飲む?」

 動かした視線の先、つい今しがたまでの激怒から一転、優し気なシャダーの顔があった。

「喉が渇いているでしょう? 飲んでいきなさいよ」

「――。有難うございます」

 自然な優しさに、意表を突かれる。激昂はどうしたんだろう。取り敢えず気質そのものは優しい人なのだろうか。

 少年は差し出された杯を受け取ると、生真面目に、出来うる限り職務に相応しい台詞を選び取って返礼を述べる。

「貴方様が我らの主君・ハンシス殿の申し出を御受託下さらなかったことを、心から残念に思います」

「――。お前、使者の任務は初めてでしょう?」

「はい。今回父の補佐として、初めてハンシス様から任を命じられました」

「そんな感じがしてた。見るからに初々しくてぎこちないもの」

 気恥ずかしさに、少年の頬は赤らんだ。それに生来の優しさ通りに、一層柔らかく笑む。

「あの男の――ハンシスの言い分だけれどね。私とラディンが離れた方が一族の為だ、ラディンの為だなんて、嘘よ。

 あの男は単に、私達姉弟の仲の良さに嫉妬しているのよ。以前に仲の良かった分、一層にね。下らないやっかみから、こんな愚かな騒ぎを起こしただけなのよ。本当に馬鹿みたい」

 何でこんな事を自分に言うんだろう? と、杯を口に当てたまま少年が思った時だ。

 鼻で笑う声が聞こえた。今まさに馬に跨った父・リサールが聞いており、露骨に小馬鹿にした笑いを漏らしたのだ。

 むっとした顔でシャダーは振り向いた。

「何を笑うの? 無礼よ」

「失礼を致しました。伝令兵の立場にありながら、私情を見せてしまいました」

「そう思うのなら、もっと丁重に謝りなさい」

「申し訳ありません。心よりお詫び申し上げます。今よりは己の職務のみに徹します。一刻も早く貴方様のご返答を主君に、そしてコルム宮廷の諸卿に伝え持ち帰ります」

 そして強い東風の中、痛烈な言葉で言い切ったのだ。

「貴方様の、その哀れみすら覚えさせる御賢明ぶりこそは、きっと良い語り草となり、今後も長らく伝えられますでしょうとも」

(えっ、父上?)

 愚弄そのものの言葉に驚愕する。すぐさま少年が振り返った時、彼女の顔色は完全に変わっていた。

「おい。出発するぞ、早く騎乗しろ」

「済みませんっ。済みません、有難うございました、シャダー様っ」

 カラク城主と守備兵達の注目の中、彼女は火のように怒っている。怒りは瞬く間に限界に達する。正に相手が馬の腹を蹴ったと同時、およそ婦人に、増してやナガ城館女城主に相応しくない凄まじい声で叫んだ。

「待ちなさい! 待て――! それが私に対する言葉なの! 私に――ワーリズム家当主の姉である私に対する――! 恥を知れ!」

 すでに走り出していたリサールが馬を止め振り向く。

「父上っ、行きましょう、私達は伝令です、早く行きましょう!」

「謝罪しなさいっ、この場で全員の前でしなさい!」

「いいえ。この弁について私は謝罪はしません。許されるのでありましたら、使者としての立場では無く、私個人の意見を述べさせて下さい」

 リサールはただの侮蔑ではない、確固な憤怒をもって発した。

「私は貴方様の愚鈍さに憐憫を覚えます。確かに人々の語るところは真実です。今回の戦役は、貴方様に起因します。貴方の愚かさ・傲慢さが、ワーリズム家の混乱を招いた訳だ」貴方の愚かさ・傲慢さが、ワーリズム家の混乱を招いた訳です」

「父上っ、もう止めて下さい!」

「一族当主たるラディンを無能の阿呆に育て上げただけではない。たった今も、せっかく優遇の許に終結できる戦役に、己の我儘だけを貫いて皆を疲弊させるとはな。愚かが極まっている。

その自覚はあるのか? 無いんだろう? 害にしかならない厄災の女が!」

「父上!」

 その時、少年の視界の中に考えられない光景が流れた。

 激怒のまま女城主は身を返す。後ろにいた若い衛兵に腕を伸ばす。兵の口が開き、シャダー様駄目です! と叫ぶ。

 だがシャダーは、矢がつがえられていた弩弓を奪い取った。素早く構えた。前方に。正面に!

 次の瞬間。

 音も無く放たれた一本の矢は、僅かな空気の振動を伴って少年の目の前を通り抜けた。直後に聞こえた短い呻き声。続き、地面に落ちる音・振動。

 少年は何も感じられなかった。

 ただいきなり涙が溢れた。父親は胸板を射抜かれ、その体躯は乾いた地面の上で砂に塗れた。

 乗り手を失った馬が短くいななく。と同時、少年の喉を凄まじい絶叫がつんざいた。

「父――上――――ぇ!」

「弩弓を奪え!」

 唖然の表情から一転、カラクが目を剥き叫ぶ。数人の兵が茫然と立ち尽くすシャダーから、弩弓を奪いとる。カラクはさらに叫ぶ。

「あの子供を捕まえろっ、早く!」

 その声に少年こそが反応する。力づくで父親から眼を離し、騎乗した馬の腹を蹴る。全速力で走り出す。

「弩弓を打て! 逃がすなっ、ハンシスの所に戻すな! 馬で追いかけろっ、早く!」

「……。なぜ……」

 横から、間の抜けたようなシャダーの小声が漏れた。

「“なぜ”――?」

 血走った眼でカラクは振り向く。あの鼻に付く慇懃さの一片も無い。頬骨の上に醜悪なまでの激憤を剥きだして喰らいかかった。

「なぜだって? この女、なぜと言ったのか!」

「……だって――ただ脅かそうと思って、私……だって酷い侮辱を……。まさか矢が当たるなんて――そんなのっ。神様、なぜ……」

「なぜだと! 自分の仕出かした事も解ってないのか!

 貴様は使者殺しの大罪を犯したんだっ、しかもハンシスの使者だ。すぐにワーリズム家当主になる男の、その伝令をこのシュリエで殺したんだ、奴の恨みを買ったんだぞ! 俺をハンシスの敵にさせる気かっ、どうしてくれるんだ!」

「……だって……なぜ? ワーリズムの当主は私の弟……なぜハンシス――」

「貴様の弟など、明日にでもナガから追い落とされて消えるだろうがっ、貴様のせいで! それぐらいなぜ解らないんだ!」

「父上が――死んだ――! 殺された、父上が……! 伝令なのに、殺された……!」

 丘陵の間から、東風に乗って少年の絶叫が響いた。真昼の光の下、少年は泣き声を上げながら街道をまっしぐらに帰還してゆく。射られた数本の矢は当たることなく丘陵のどこかに吸い込まれてゆく。

 背後ではようやく厩舎から数頭の馬が運ばれて、数名の兵士達が慌てて騎乗の準備をする。

「殺された――伝令なのに! 殺された、父上! ――父上!」

 叫びだけが風に乗る。街道を真っ直ぐに少年の馬が走る。それを追いかけて今、シュリエの兵が馬に飛び乗る。走り出す。

 大騒ぎとなった城門の前で、カラクが残忍なほどの顔でシャダーを睨み続けた。

 その視線の許、呆然とシャダーは動きを失った。




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