07
倉田惠美が、制服姿でカバンを持って、まだ慣れない雲海市の市街地を歩いている。スマホの地図アプリを頼りにして。陽はまだ高い。その時、スマホがフリーズした。
「あっ、まただ。再起動――」
いつものようにスマホを再起動しようとして、惠美は手を止めた。
「風のない満月の夜、風のない満月の夜」
小声でそう唱えると、フリーズが解けて、スマホがまた動き出した。
そうして渡辺家までやってきた惠美は、たいへん驚いている。
渡辺邸は、このあたりでは珍しい洋館だ。惠美は、少し前まで東京に住んでいたから、洋館には慣れっこだ。家の門に沿ってユリの垣根があるが、これも珍しいものではない。紅いかわらは、東京でもあまりないから目をひく。それだけなら、まだ普通だ。
この渡辺家のかわらの秘密に、惠美はすぐに気がついた。東側がオレンジ色で、西側が紅いのだ。彼女は、念入りに観察してしまったほどだ。それどころか「なんでかわらが紅いのかしら、それも二色? ここは近畿メルヘン街道?」と、ひとりごとを漏らしたほどだ。周囲を見渡して、ほかに二色の紅い屋根の家がないことを確認すると、彼女の疑念はますます深まった。
だが、考えても答えは出ないだろう。きょうは、この紅い屋根の家に用があって来たのだ、と惠美は気を取り直して、インターホンを押そうとして、いったんやめた。生け垣から漂うユリの花の香りを、胸いっぱいに吸い込んでから、今度こそインターホンを押した。
しばらくして、インターホンから『押し売りと詐欺はお断りだよ』と中年の女性の声がする。少々威圧的な声だ。
「倉田惠美といいます。渡辺真さんの新しいクラスメイトです」
インターホンから『ちょっと待ってて』と返答があった。声のトーンが変わり、こんどは優しい声だった。
玄関が開いて、渡辺璃々杏が出てきた。また黒のワンピースだ。
「あら早かったわね。私は渡辺璃々杏、真の母親だよ。あなたが倉田惠美さんだね」
「ご存じなんですか」
「息子から電話があったからね。さあ、入ってちょうだい」
こうして惠美は、璃々杏に招き入れられた。
ところが、惠美は当惑していた。初めて近くで見た璃々杏は――12年前は遠くから見ていたのだ――なんと髪を染めておらず、白髪交じりなのだ。化粧は多少しているようだが、それでもすっぴんに近いように見える。髪を染めて化粧をすれば、かなりの美人に見えるだろうことが予想される。なぜそうしないのか、惠美は不思議でならなかった。芸術に携わる者は、個性的な人が多いと聞くが、璃々杏もそのひとりなのだろうかと考えていた。
「靴は脱いでね。洋館だけど、衛生面では日本的なのよ」
「和洋折衷ですか」
「そんなところだね」
ふたりを吸い込んだ玄関が閉まった。
渡辺家の洋館の居間は、和洋さまざまな骨董品であふれかえっている。
璃々杏と惠美が入ってきた。惠美はさすがにキョロキョロしている。物珍しい品がいろいろあるからだ。値打ちものに見える古いメトロノーム、妖怪の描いてある屏風、おおきな熊の置物などだ。
「お嬢さん、座って」
璃々杏が、客用の椅子を引いてテーブルから出した。
「失礼します」
惠美がそれに座り、別の椅子に璃々杏も座り、ふたりはテーブル越しに対座した。
「惠美ちゃん……だったわね。相談があるんでしょう?」
璃々杏が促した。
惠美は、これまでのことを手短に話しはじめた。
「……というわけで、わたし、機械とかすぐ壊しちゃう体質で、いつもいつもなんとかしたいと思っていたんですけど。でも、病院に行ってもダメ、大学で調べて貰ってもダメで……。きょう、真さんから、お母様が同じ体質だとうかがったので、慌てて来ました。お母様は、どうやってコントロールなさっているのでしょうか」
「璃々杏でいいよ。それより先に質問があるんだ。真面目に答えてね」
「はい、璃々杏さん」
璃々杏は様々な質問をした。「水星と火星、どっちが好き?」「バラの香りと桃の香り、どっちが好き?」「海外旅行に行くとしたら、アメリカとイギリス、どっち?」などなどだ。
一通り質問を終えると、璃々杏ははっきりと宣言をした。
「間違いない。惠美ちゃんには魔女の才能があるよ。その魔女の力が暴走して、機械を壊していたんだ」
先刻の、真の見立ては当たっていたようだ。やはり倉田惠美は魔女だったのだ。ところが、当人は抗弁をはじめたではないか。
「冗談はよしてください。わたしは真面目に悩んでるんです」
「そうかい、私も真面目に話してるんだけど。……ところで、お茶でも飲むかい」
「それでは、紅茶があればいただきます」
璃々杏は、隣のキッチンに行くと、ティーセットとクッキーをトレーに乗せて持ってきた。よく見ると、不思議なことに、茶こしはあるが茶葉がない。
璃々杏は、惠美の前に茶器を用意する。またキッチンに行くと、今度は小さな植木鉢を持ってきて、テーブルの中央に置いた。その植木鉢には、小さな芽が生えている。どうしていいものか、惠美はたいそう困惑した。
璃々杏が得意げに説明をはじめた。
「これから、惠美ちゃんに魔法をかけるよ。これは魔法を見えるようにする呪文だよ。ちょっとびっくりするかも知れない。今までと世界が違って見えるからね。いいかい?」
たいへんだわ、これは噂どおりの大変人だ。でも、手ぶらで帰るわけにもいかない、なんとしてでも有益な情報が欲しいんだ……と惠美は思ったので、この悪い冗談に付き合うことにした。
惠美が頷くと、璃々杏は魔法の杖を取りだして呪文を唱えた。
(一瞬、杖が光った気がするけど、もちろん見間違いに決まってるわ。でなければ、なにか仕掛けがあるんだわ)
マジックの仕掛けを暴こうと、惠美は聡い目になった。
璃々杏は、「始めるよ」と言って、呪文を唱えて、杖に明かりを起こした。その光があまりに強いものだから、とっさに惠美は手で目を覆ったほどだ。
「植木鉢をよく見て」
璃々杏が指示すると、惠美は指のあいだから植木鉢の様子をうかがった。なんと、小さい芽がぐんぐん伸びているではないか。手品だろうかといぶかったが、こんな手品は見た記憶がない。どうやら、杖の光に影響を受けて、小さい芽が伸びているようだ。小さい芽は、やがて大きな草になり、青々とした葉を茂らせた。
惠美は、左手で目を覆いながら反対の手を伸ばして、その草の一葉を取った。葉を観察するが、どう見ても本物の植物だ。
「適当だね。茶葉を摘まないと」
璃々杏は、また違う呪文を唱えた。杖は光るのをやめて、植木鉢の草にやや強めの風をおこした。草の葉が落ちてくるが、途中で止まり、空中に浮かんでいる。惠美は、手で目を覆うのをやめた。
「おっと、摘んだ茶葉はもまないとね」
璃々杏が、またまた呪文を唱えると、草の葉が空中に浮いたまま、勝手にねじれ始めた。かなり不気味な光景だ。惠美は呆気にとられている。
「もんだ後は酸化させないとね」
璃々杏が、これまた呪文を唱えると、杖から小さい稲妻が出て、草の葉に当たった。
「酸化させた後は、乾燥させないとね」
璃々杏が、こんどもまた呪文を唱えると、杖からまた強い光が出て、空中の葉を照らしはじめた。惠美は、また手で目を覆ったが、こんどは指のあいだから、注意深く観察している。空中の葉は赤く変色しつつある。
「よし、できあがり」
璃々杏が杖を動かすと光が止み、空中にとどまっていた茶葉が、ティーポットの茶こしにひらひらと落ちていった。
惠美は手で目を覆うのをやめた。言葉も出ない様子だ。
璃々杏はティーポットにお湯を注ぎ込み、茶こしを少しゆすってから、惠美のカップに紅茶を注いだ。
「璃々杏特製、アフタヌーン・ティーのできあがりだよ。角砂糖はいくつにする?」
惠美は、唖然としながら眼前のティーカップを見つめている。
「聞こえてるかい。角砂糖はいくつがいいんだい?」
「じゃあ、2つおねがいします」
惠美は、なんとか言葉をひねり出した。
璃々杏は、小さい陶器から角砂糖を2つ取り出して、ティーカップに入れた。
「どうぞ飲んで」
「いただきます」
スプーンでかき混ぜてから、ぐいぐいと勢いよく、惠美は紅茶を飲み干した。
「どうだい惠美ちゃん、魔女になるかい?」
「なります!」
惠美は力強く速答した。
「すぐに決めなくていいんだよ。『いますぐ決めろ』は詐欺師の常套句だよ。でもあなたの場合は、ほんとうに急いだほうがいいかもしれないね」
「どうしてですか」
「惠美ちゃんは、魔女見習いとしては、少々歳を取り過ぎてるんだ」
それを聞いた惠美が、困った顔を見せた。
「そう気にしないで。一週間くらい悩んだらいいさ。それくらいの時間の余裕はあるよ」
だが、すでに惠美の目の色が変わっていた。茶色い瞳がいっそう深い色になり、大きくなってキラキラと輝いていた。