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ひとつの石をともに超えると友となり
ふたつの石をともに超えると真の友となり
みっつの石をともに超えたなら こころが永遠につながる
魔女とはそうした生き物なんですよ
作者不明の古い詩
第一章 転校生と魔法使い
散歩は気持ちがいいもので、それは魔法使いとて同じことだ。
ここは近畿地方の雲海市の住宅街だ。空は気持ちよく晴れ渡っている。五月晴れだ。この住宅街には、古い家、新しい家、ペンキを塗り替えている最中の家など、さまざまな住宅が並んでいる。
暖かい太陽が照らす中、あたらしい家の玄関がひらいて、母親と小さな男の子が出てきた。玄関を閉めた母親は、男の子に、何やら真剣に話しかけている。
その話に少し耳を傾けてみよう。
「ナオト、わかったわね。コンビニに行って、ポテトチップを買ってくるのよ。はい、200円よ。ちゃんとお釣りとレシートを貰うの。買ったらまっすぐウチに帰ってくるの。知ってる人に会っても、どこにも寄っちゃだめよ。あと、知らないひとと喋っちゃダメ。これは絶対にダメ。わかった? ひとりでできるかな?」
「ママ、わかった。がんばるよ」
男の子の名前は、『ナオト』らしい。ナオトくんは表面上は強気を見せているが、内心は不安なのか表情が固い。彼は、貰った100円玉2枚を、首から提げた財布にしまった。母親はニッコリと笑顔になった。
「よし、行っておいで」
母親は、ナオトくんの背中を押した。
どこかぎこちなく、ナオトくんは歩き始めた。だが、不安げに何度も家のほうを振り返る。その度に、母親は親指を立ててエールを送る。
母親は、とつぜんあらぬ方向を見た。その方角に、サファリハットをかぶり、サングラスをかけて、首にはマフラーを巻いたとても怪しい男性がいて、なんとナオトくんの追跡を始めたではないか。5月にマフラーとは、とんでもなく怪しいぞ。この人物はいったい誰だろう?
ナオトくんは、まっすぐ50メートルほど進んだあと、十字路を右へ曲がった。しばらくして、道の右側にコンビニが見えてきた。怪しい男性も、少し遅れてついて行く。
ナオトくんはコンビニに入った。怪しい男性はコンビニには入らず、近くの電柱の影から目をこらして見つめている。
怪しい男性に声をかけたひとがいた。警察官さんだ。
「ちょっと、あなた何をやってるんですか」
警察官さんは至極当然の質問をした。
「えっ、あっ。これには訳がありまして」
怪しい男性は小声で答えた。
「こっち来て」
警察官さんは、コンビニの駐車場に止めてあるパトカーに、怪しい男性を誘導した。
パトカーの運転席に警察官さんが座り、後部座席に怪しい男性が座って、尋問が始まった。だが、最初に口を開いたのは怪しい男性だった。
「お巡りさんも買い物ですか」
「いいえ、パトロールの途中で寄っただけです。で、なんでそんな怪しい格好をしてるんですか?」
警察官さんは手帳を取り出した。
「息子がはじめてのおつかいなんです。それで――」
「ああ、息子さんにバレないように、こっそり見守ってたんですか」
「そうです! そうです!」
怪しい男性は強く訴えた。
なるほど、ナオトくんは、はじめてのお使いだったんだね。怪しい男性は、ナオトくんのお父さんだったんだね。これには、お天道様もニッコリだ。
「でも、あなたが変質者だと困るから、身分証明になるものを見せてください」
怪しい男性をただで解放するわけにはいかないから、警察官さんは、その職務をまっとうしたのだ。
怪しい男性、いや、ナオトくんのお父さんは、コートやズボンのポケットを片っ端から叩いている。そして首をひねっている。
「あのう、お巡りさん、それがその……」
「身分を証明するものがなければ、住所、氏名、年齢、職業、電話番号を言ってください」
こういう事態に慣れている様子の警察官さんは、てきぱきと言い、ナオトくんのお父さんはポケットを叩くのをやめた。
「私の住所は、雲海市雲海町の――」
だが、こうしているあいだに事件は起きていた!
レジ袋を持ったナオトくんが、コンビニから出てきて、もと来た道を帰り始めた。だが、店を出て左に曲がらないといけないところを、間違って右へ曲がってしまったのだ。どうやら、レジ袋に入っているポテトチップのコンソメ味に夢中のようで、家とは反対方向に曲がってしまったことに、まったく気づいていない。駐車場のパトカーの中にいるお父さんも、それに気づいていない。
ナオトくんは、そのまま進んで左に曲がり、とうとう見たことがない景色に出くわした。ナオトくんはうろうろしている。そして、たいへん動揺しているようだ。ナオトくんは迷子になってしまったのだ!
不幸中の幸いだろう、ナオトくんを見守っている青年がいた。それも地上ではなく、空中で! その青年は、竹箒に乗って、上空5メートルの高さにいる。ナオトくんの頭上だ。空を飛んでいるということは……、どうやら青年は魔法使いのようだ。
不思議なことに、通行人のだれも、空飛ぶ青年を見ていない。まるで透明人間のように、普通の人には見えていないのだ。
魔法使いが魔法を使うと、たいていは普通の人から見えなくなる。もちろん、見えたままの魔法もある。この本は魔術書ではないので、それらについて詳しく触れるつもりはない。興味のある方は自分で調べてみて欲しい。
青年は下降し、ナオトくんの後ろに降り立った。竹箒を手早く分解して――柄竹が4つに分割できるのだ――背負っていたバッグにしまった。魔法を使うのをやめたので、彼は普通の人にも見える状態になった。
中腰になって、ナオトくんに声をかける。
「キミ、どうしたの」
振り向いたナオトくんは、もじもじしている。
「ママがしらないひととしゃべっちゃダメだって」
「なるほど。それはとっても大事なことだね。キミは、ひょっとして迷子じゃないのかい?」
「うん……、じつはそうなの」
「もときた道を戻ればいいんじゃないかな」
「わかんない。どこからきたのか、わかんなくなっちゃった」
ナオトくんはもう泣きそうだ。あぁ、気持ちはよくわかるよ。迷子の経験をせずに大人になったひとは、そう多くないだろう。迷子になった時の、この世が終わってしまったかのような絶望感を、ナオトくんもいま感じているんだね。
「ふ~ん、そうなの。お兄ちゃんはね、これから近くのコンビニに行くところなんだ」
青年はさりげなく話題を変えた。
「コンビニ! ぼく、コンビニからかえるところだよ!」
ナオトくんの表情がパッと明るくなった。コンビニまでもどって、まがるみちをまちがえなければおうちにかえれる……とナオトくんは考えているのだろう。
青年はゆっくり背を伸ばした。
「ぼくはこれから近くのコンビニに行くよ。じゃあね」
バッグを持った青年は、ゆっくり歩き始めた。少し後から、ナオトくんが必死な表情でついてくる。青年が立ち止まって振り向くと、ナオトくんも立ち止まる。青年がまた歩き始めると、あわててナオトくんがついてくる。
ナオトくんが歩いていると、視界にコンビニが飛び込んで来た。先を歩いていた青年は、そのままコンビニに入った。ナオトくんは、コンビニの入り口で足踏みをすると、今度は正しい帰り道についた。
警察官さんから解放されたお父さんは、パトカーを降りると、ナオトくんを発見し後を追い始めた。
こうして、ナオトくんは無事、家に帰ることができたのだ。
みなさん、街並みがいいのにあまり住み心地が良くない地域や、一見地味だけれどなぜか心安まる場所があるのを不思議に思ったことはないだろうか。その理由がこれだ。魔法使いが住んでいる街は、治安がたいへんよいのだ。魔法は、正しく使えば街が元気になるのだ。
ここ近畿地方の雲海市には、魔法使いが住んでいる。だから、この街はとても安全なのだ。
ナオトくんが家に着いたことを空から確認した青年は、気持ちいい空中の散歩を切り上げて、自分も家に帰ることにした。魔法の箒を自宅に向けて加速する。
青年の名前は、渡辺真、18歳になったばかりの高校3年生で、魔法使いもどきだ。〝魔法使いもどき〟って何だろう? その疑問はごもっともだ。詳しい説明は、のちに、彼の母親の口から聞くことになるだろう。
真は、背の高さは平均で、顔はまぁまぁよい(あのガブリエル・ガルチェリには負けるが)。肌は明るめで、髪は黒く少々のくせ毛だ。彼は、まだ女性にモテたいとは思っていないので、おしゃれにはとんと縁がない。きょうもダサダサの私服だ。
彼が、この物語の主人公だ。
この本は、渡辺真の、あの名高い大冒険旅行の顛末を記したものである。