浜辺の腕
根津浜は昨日三品たちが見た通りの、穏やかな風が吹き波打ち寄せる砂浜の様相を呈していた。代々の住職が修行で運んできたという林立する岩々の陰ではカニがこそこそ這っている、いつもと変わらぬ風景。ただ一点、いつもと異なる光景があった。それは砂浜に幾人かの人だかりができていること。そしてその日常と異なる一点が大問題であった。三品たちがそこへ近づくと、人だかりの中央がやや開けており、そこに人の右腕が無造作に落ちているのが見えた。その腕はまるで肩から先を無理やり千切ったように、腕には着物の袖が残っている。
「おいおい、なんだこりゃあ……」
木暮と一郎は刑事らしく人混みを退けながら、落ちている腕を凝視する。腕の周りは血の滲み乾いた砂が点々とあるばかりで、その腕の持ち主が誰なのかはわからない。集まっている見物人も不思議そうにそばの者たちと言葉を交わしている。
「誰の腕だろうか」
腕や指のごつごつとした感じから、おそらく男のものであることまでは推察できるが、それ以上のことは不明であった。残されている着物袖に見覚えはないかと木暮と一郎が見物人に訊いている中、そのわきを三品はうろうろと探った。
「……何かあるのか」
「いえ、前回の浜口氏の時のように『モグルガイ』からの置き手紙があるのかな、と思いまして」
「そういえば、何もないようだ」
一郎が見物人たちに他に何か見なかったかと訊ねたが、誰も何も見ていなかった。と、そこに道の向こうから敏彦が駆けて海澄寺への坂を登ろうとしている姿が木暮の目に留まった。
「オオィ。こっちだ」
根津浜の人だかりと、そこに辰治や一郎、皆がいることに気がついた敏彦はすぐさま現場へとやってきた。
「どうしたので──ウワッ!」
敏彦は腕に気が付くと驚きその場で尻もちをついた。口元を抑え千切れた腕を直視しないように横を向いている。
「何ですか、それは」
「今朝方、近所の人がたまたま見つけたということで、我々も驚いているのです。其の上誰の腕だか皆目見当がつかないで困っておりまして。敏彦さん、この着物に見覚えはありませんか」
木暮は着物を腕から外すとそっと敏彦に見せてみた。心底嫌そうな顔をしてチラリと見た敏彦の顔が、今度はみるみる内に青ざめてゆく。
「……もしかすると、これは兄の聡の着物の袖かもしれません」
ぎょっとして、辰治は敏彦を振り返った。
「本当ですか」
「おそらく……この色柄は聡兄さんが気に入っていた信濃紬によく似ている。それに実は──」
と、敏彦は先程走ってこちらへ向かっていた理由を話し始めた。
「皆さんが帰られてから程なく、私も渡瀬家を出て家に戻ったのです。しかし、兄は二人とも家に居りませんでした。昨夜の片付けを終えそのまま泊まり込んでいた料理人に話を聞くと、野次馬連中も飽きて帰りだした頃、ようやく二人は落ち着いたそうです。いやはや、もう家の中は滅茶苦茶ですよ。──とにかく、落ち着いた二人は何事かをボソボソと語らうと、揃って家を出ていったというのです」
「家を出ただと!?」
「はい。これはいよいよ二人が幸さんを襲う算段なんじゃないかと私は思い、渡瀬家へ全力疾走で逆戻りです。ところが、そちらは何事もなく平穏無事でした。また家の周囲に危うい人物の気配は全く無い。それでも一応皆さんにお伝えしなければと思ってこちらへ来た次第で……」
敏彦は朝から右へ左へと奔走していたようだ。ぜいぜいと喘いでは大きく呼吸をしている。
「見れば見るほど、矢張りその袖は昨夜聡兄さんが着ていたものに酷似しているように思います」
彼の言葉に見物人からは「おう」と、どよめきが起こった。
「ではこの腕が聡のものだとすると、やったのは長兄の一路ということか?」
「いや──そうとは限りませんよ。着物は聡さんのものでも、この腕もそうだとは限らない。もしかしたら一路さん──あるいは、全く別人のものという可能性だってあります。それによく見てください、この腕を。付け根のあたりが少し潰されたようになっているでしょう。おそらくだがこの腕は何かに押し潰されるようにして千切れたんだ。鋭利な刃物で斬り落とされたのではなくね。とてもじゃないが単独でやれる仕業とは思えない」
三品は腕の断面ををくるりと木暮の方に向けて見せた。木暮は思わず顔をしかめる。
「岩でも使ったのでしょうか」
と、一郎がごろごろとある岩の群れを見た。しかし、特に変わった岩は見受けられない。
「この腕が誰のもので、どう切り離されたのかは当事者に聞けば良い。どちらにせよ一路と聡が何かを知っていることには変わりあるまい。二人を探すのが先決だろう」
木暮がそう言った瞬間、敏彦が「まさか」と叫んだ。
「一路兄さんは、我々をここに引き付けておくつもりで、本当の狙いは──」
言い終わらないうちに、敏彦は駆け出している。真っ青な顔のまま駆けゆく彼に続いて、一郎も後を追い走り出した。暫し遅れて辰治も駆けてゆく。
「渡瀬家か……三品、我々はどうする」
「……僕は敏彦さんとは違って、二人はモグルガイの手にかかり既に殺されていると考えています」
「モグルガイ?あれは浜口氏の悪戯という可能性もあるのだろう?」
「その可能性は最早消え失せました。モグルガイは最初に浜口氏を殺害し彼の衣服の端と書き置きを残し、続いて今回は二人を殺害し一人の腕を残したのです」
「……見つかったのは腕だけだ。浜口氏の死体すらまだ見つかっていないのに、計三人も殺されたと思う理由はなんだ」
「勘、ですよ。──探偵のね」
野次馬たちが三々五々、渡瀬家の方へと移動をし始めた。彼らの背中を眺めながら、人食いの島か、と木暮は誰にも聞こえぬように呟き島の中央に聳える新切山を見上げる。薄っすらとかかる雲が、陽をわずかに遮っていた。
***
結局、その日の正午を過ぎても渡瀬家では異変も何も起こらなかった。何かが起きそうで何事も起きないという不整合な事態を、人は不気味に感じるものだ。島の人々は集会場でもある寺の本堂へと集まると、木造の観音菩薩像が見守る中、この事態にどう対処をすべきか相談をし、その結果本日夕刻より山狩りをすることと決定した。
「何も、誰も、出ないだろうと僕は思うが……やると決まった以上はやらねばなりませんね」
と、一時解散となった後の離れ座敷で三品が呟いた。茶を啜りながら木暮がやり返す。
「三品、山狩りは『何かを見つける』ためだけでなく『何もないことを確認する』ことも兼ねているのだよ」
「同じことです」
「だが、心持ちは違ってくるだろう。それに何も出ないとは限るまい」
「鬼でも出ますか」
「蛇かもな」
山狩りを行う前に、まず渡瀬家の周囲から捜索が行われそこから広がりながら山の麓へと向かい、山へ登る段取りとなっている。三品は「足手纏いになるから」と、理由をつけて寺に残ろうとしたが、それを木暮が黙らせて半ば強制的に山狩りの一員に加わらせたのだった。
「だいたい、君は昨夜ぐっすり眠ったのだからいいじゃないか。私らなど一睡もしておらんのだぞ」
「そうですねえ。敏彦さんもだいぶ気を張っていたようだから、すぐに眠ってしまいましたからね」
「──実の兄の片腕が見つかり双方行方知れずとなっては……精神の限界がきてもおかしくありません」
と、本堂を閉めてきた辰治がのっそりと座敷に顔を出した。木暮だけでなく、辰治もこの場に居ない一郎も、肉体的にも精神的にも疲れがきている。そんな中、敏彦だけは座敷とは別の離れの一室で、布団を敷き倒れるようにして仮眠を取っているのだった。夜を徹して渡瀬家に詰め、朝からはあっちへこっちへと走った彼である。仮眠とはいっても、山狩りが始まる時間には起きられないほどに熟睡していた。三品たちは敏彦に気を使い、彼は眠らせたままにしておこうと暗黙の内に決めている。
「辰治さん、あなたもだ。昨夜から一睡もしていないところに色々重なって無理をしていませんか。今は一眠りしてはどうです。寺の番なら私が見ますよ」
「有り難いのですが、私も山狩りに加わる腹積もりです。ほとんどの島の人のお手を煩わす以上、潮家の人間も行かねばならんでしょう」
「……三品、君は自分が山狩りに出たくないものだからそんな殊勝なことを言ってるのだろう」
「違いますよっ。嗚呼、人を疑うことしか知らぬ職業人のなんと浅ましいことか」
三品はわざとらしく長嘆息すると、湯呑の茶を一息に飲み干した。