二日目の朝
翌朝、三品が目を覚ますと、炊事場の方で飯を作る気配がした。美味そうな味噌汁の香りが三品の食欲を呼び起こす。木暮を始めとする他の面子はまだ戻ってきておらず、三品だけの座敷はシンとしている。ただ炊事場から聞こえてくる包丁を動かす音がするばかりだ。
「……昨夜はごちそうをもっと食べたかったな」
三品はもぞもぞと起き上がると、脇腹を掻きながら寝ぼけ顔で炊事場へと向かった。足の裏に朝の床の冷たさを感じながら炊事場を覗くと、三品の朝飯を用意しているのは、昨夜の河野少年と瑠璃だった。
「誰が朝飯を作ってくれているのだろうかと思えば、ありゃあ、君たちだったか」
「お早う御座います」
二人は作業する手を一時止めると、声を揃えて三品に挨拶をした。
「ああ、お早う。辰治さんも一郎くんも、まだ帰ってきていないようだね」
「はい。昨夜、何かあったんですか?」
「まあ、ね……瑠璃さんはお兄さんがここにいると思って来たのかい?」
「ええ」
まだ三品に対してしこりを残している表情をして、瑠璃はプイとそっぽを向いた。
「兄さまがここにいるかと思ってきたら、三品さんはぐうぐう寝ているし河野くんは一人で慣れない包丁握ってるしで、放っておくわけにもいかないじゃありませんか」
と呟いた。家から持ってきたのだろう、割烹着を彼女は着込んでいる。たとえ辰治和尚が居たとしても最初から手伝うつもりだったのだ。なんだかんだと言って面倒見が良いんだな、と三品は心の内で呟く。河野もそんな瑠璃を頼って、細々と指示を仰いでいた。
「そうか。それは済まなかった。どれ、僕も手伝おうか」
「いえ、三品さんはお客様ですから。どうぞ座敷で待っててください」
「そうかい?ならお言葉に甘えて」
と、三品が座敷へと戻り布団を片付けていると、ガラガラと離れの引き戸が開く音がした。
「只今戻りました」
奥の方までよく通る、辰治の声が響く。炊事場の二人も、
「おかえりなさあい」
と大きな声で挨拶を返した。そして辰治と木暮と一郎の三人は、ぞろぞろと三品がいる座敷へとやってきた。敏彦の姿は見えない。
「おかえり……お、その様子だと昨夜はあれから何事もなかったようだね」
「ええ。徹夜で警護をしていたのですが、彼らは結局現れませんでした」
と、一睡もせずに見張りをし終えて、疲れがありありと残る顔をした和尚は頷いた。
「とにかく安心した」
「朝になると渡瀬家に近い親族も集まってきたので、私たちはお邪魔させてもらったのです」
「敏彦さんは?」
「もうちょっと残ると言っていた。まあ今は潮邸に戻りたくもなかろうよ」
木暮がウーンと欠伸をしつつ三品の問いに答える。
「ああそうだ。一郎くん。瑠璃さんなら僕が目覚める前から来て、朝食の支度をしてくれているよ。家に戻らぬ君を心配していたようだ」
「家に何も連絡しなかったからナァ……三品さん、あいつ、昨日の今日であなたに何か失礼な事を言いませんでしたか」
「何もないさ。根は素直ないい子なんだろう?」
一郎は炊事場の方へと向かうと、瑠璃に昨夜の晩餐会の料理を持ち出し損ねたことを報告した。三品たちの耳にも二人のやり取りが届く。
「えーーっ!約束してたじゃありませんか」
「仕方ないだろう、想定外の事態が起きて皆混乱していたんだ」
「もう!」
頭を掻きながら戻ってきた一郎を、木暮が笑いながらからかう。
「一郎くん、妹君に叱られてしまったな」
「ハハ、勘弁してくださいよ」
それから辰治が炊事場に立ち三人で支度を進めると、すぐに配膳の段取りとなった。
「お待たせしました」
「ありがとう。二人共朝早くからご苦労だったね」
木暮が礼を言うと、二人は照れ臭そうに頷いた。
「辰治さんも。疲れていただろうに甘えさせてもらって」
「大丈夫ですよ。これも修行のうちです」
早く頂きましょう、と、一郎が手を叩き場を仕切った。
「さあ座った座った。……っと、俺の朝飯が皆のと比べて、なんだか少なくないかい?」
「晩餐会のお料理を持って帰って来なかったからです。昨夜はいーっぱい美味しいもの、ご馳走になったのでしょう?」
妹の瑠璃がつっけんどんに言い放つ。
「チェッ、相変わらず可愛くない妹だな」
「まあまあ、おかわりの余裕はありますから」
朝飯のおかずは島の近海で獲れた鮴の塩焼きと寺の裏の畑で作った菜っ葉のおひたしに、大根の漬物。ふっくらとよく焼けた白身を箸で摘み口へ運ぶと、鮴の風味が程よい塩味を伴いやってきて、一口、二口、と三品の食欲を大いに刺激した。
「鮴は煮魚、と思っていたが、塩焼きも美味いな」
「新鮮ですからね。ご飯が進むでしょう」
「おひたしの味付けは河野くんがしたんですよ」
事細かく指示を出し彼を監督をしていた瑠璃が誇らしげに菜っ葉を口へと入れた。
「とても美味しくできてるわ。まあ、昨夜の料理ほどではないかもしれませんけど」
とチラリと恨みがましく瑠璃は兄を睨めた。
「いや──あれから何も飲まず食わずだったから、何よりも美味しく思うなあ」
と、世辞を述べ妹の視線を躱しながら一郎は手早く朝飯をかきこむ。黙々と食べていた木暮は茶を啜りようやく一息入れると、正座していた脚を崩した。
「ウン、昨夜も今朝の料理も、どちらも負けず劣らず美味しい」
木暮の言葉に辰治も「そうですね」と応じ箸を動かせている。
「……昨日の夜、何があったのですか?」
河野が隣に座る辰治に訊ねた。辰治は誤魔化すべきかどうか悩むように一瞬顔を歪ませたが、黙っていてもその内に子供らの耳にも噂は伝わると考えたのだろう、ぽつぽつと昨晩の出来事を語りだした。
「──ということがあったんだよ」
辰治が主だって語り、合間合間を一郎や木暮が補足しているうちに、皆、朝飯はすっかり食べきってしまっていた。炊事場へ膳を下げながら瑠璃はぷりぷりと憤る。
「あの人達、本っ当に最っ低ですね!」
「幸い今のところ何も起きていないがしかし、これから先は分からない。後で親父たちにも色々気をつけるよう言っておいてくれないか」
一郎が妹に頼む。
「兄さまはまだ家には?」
「ウン、俺はまだ渡瀬や潮の家に行かなにゃならん。一晩も経てば、あの兄弟とて落ち着いて話ができるだろうしな」
河野が食器を片付け始めた。そこに、軒先から男の叫び声に近い呼び声が響いた。
「辰治さん、ちょっと、出てきてくださいっ」
何事かと、一同揃って駆け足で玄関へと向かった。玄関に立っていたのは近くに住む男で、坂を駆け上がってきたせいで息を切らせている。
「どうしました」
「一郎くんも、ここにいたのか。ちょうどいい。それが腕が……」
男はしゃっくりをするように息を吸うと言葉を詰まらせた。
「何、腕がどうしたのです」
木暮が催促をする。
「根津浜に、片腕が落ちていた」
「根津浜」と男が言葉を発した瞬間、辰治の体は射出された矢のように飛び出していた。
「オイ辰治!」
「君たちはここで待っていなさいね」
木暮達三人は河野と瑠璃にそう指示を出すと、慌てて辰治の後を追う。報告に来た男も、慌てて坂を戻りだした。
辰治和尚の脚の速さは目を見張るものだった。全速力で走ると転びそうな下り坂を、少しも速度を緩めることなく風のように走り抜けた彼の背は、後を追う者たちが追いつく間もなく、うねり曲がる道の向こうへと行ってしまっていた。