晩餐会、帰路
潮邸を抜け出して渡瀬一家を彼らの家へと送る途中、木暮が気の沈んでいる幸の両親に話しかけた。彼らは広間を出てからずっと無口で、目眩すら覚えているようだった。
「これは参ったことになりましたな」
「ええ……」
「幸さんは気丈なお方で。あの啖呵には胸がスッとしましたよ」
三品がちょっとからかうように幸を褒めると、先をズンズンと行っていた彼女はピタリと足を止めた。
「何度縁談をお断りしても繰り返し私に会いにやってくる聡さんに元々ウンザリしていましたけど、今夜で一路さんにも愛想がつきました。あのような人たちの元へ嫁ぐくらいなら、死んだ方がマシというものです」
「そのようなことは言わないでください」
と、辰治が諫める。
「辰治、そんなら君が娶ればいいじゃないか」
「……」
と、そこに後方から「オーイ」という掛け声と共に、足音を立て駆け寄ってくる人がいる。暗闇から姿を表したのは敏彦だった。ふうふうと肩で息をして、皆に深々と頭を下げた。
「先程は兄たちが失礼しました。まさかこのような事態になるとは」
「敏彦さんが謝ることではありませんよ」
「……晩餐会はどうなったんだい」
「ハア。何しろ兄たち二人が激しく喧嘩するものですから、巻き込まれたくない者は皆帰って、後に残るは野次馬ばかりという次第で」
「敏彦兄さんも抜け出してきたんだね」
敏彦は頷いた。
「今回ばかりはチョット私も付き合いきれないし、それに何より幸さんの身が心配になったものだから」
「私らもそれを案じておったところです」
再び渡瀬家へと歩み始めた一行だったが、その足取りは重く、ただ春の夜風だけが軽快に吹くばかり。三日月が少し満ちた月も霞みがかり、照らす明かりさえ重さを纏っているようだった。
渡瀬家は潮邸から道なりに更に南東へと進んだ場所にあり、平屋のありふれた一軒家だった。先程の晩餐会での騒乱をいち早く聞きつけた隣近所の人々が幸を心配し顔を出している。
「聞いたよ。幸さん、大変なことになったね」
「はい。でも皆さんがついているから、きっと大丈夫です」
「なんでも言ってくれよ、力になるからね。……それで、取り敢えず今夜はどうするんだい」
「其の事なんですが」
と、木暮が刑事の本分を発揮して切り出した。
「私──あ、失礼しました。私は木暮隆三と言います。東京で、この上林くんと刑事をやっている者です」
おお、と渡瀬家の近所の者たちは感嘆の声をあげた。
「そりゃあ心強い」
「何も無いことを願っていますが、しかし無策というわけにもいきますまい。そこで相談なのですが、私と上林くんとで幸さんを──渡瀬家の皆さんを警護しようと思います。渡瀬さん宅にお邪魔することになるのですが、宜しいですね?」
幸も両親も感謝しますと頭を下げて、安堵した。
「それなら、私も」
と、敏彦も名乗り出た。
「兄の不始末の責任は、私にもあります」
「それなら私も警護に加わろう。一応、私も潮家の人間だもの」
辰治和尚も名乗り出て、二人が加わることも渡瀬家の人間は了承した。
「……暴力沙汰ではからきし役に立たない僕は、寺の方へ戻らせてもらおうかな」
三品は伸びをしている。隣近所の目があり木暮達が渡瀬家に留まるならば充分安全だろうと判断したのだった。
「それならば、お客様に頼んで申し訳ないのですが、留守番に河野という子供が一人待っております。その子を帰らせてやってくださいませんか」
と、辰治が三品に頼んだ。
「勿論構わないとも。木暮さん、呉れ呉れも派手な刃傷沙汰にならぬよう、宜しく頼んだよ。穏便に済むなら其れ以上に良いことなどないんだ」
「任せておけ」
「ではこれで。幸さん、お気をつけて」
「三品さんもお気をつけてお帰りくださいね」
一同に簡単に挨拶をすると、三品は来た道をそのまま戻り海澄寺へと向かった。途上、潮邸の煌々とした明かりを放つ屋敷の中を伺ったが、まだ兄弟二人は元気に争っているらしく、断続的に罵声や何かの砕ける音がした。
「お盛んなことで。そのまま二人で喧嘩し続けて、気力も何も出し切ってくれればいいのだが」
などと三品は独り呟いて、関わり合いになるのは御免、とばかりにそそくさとその場を離れた。
三品が寺へと戻ると、辰治和尚が言っていた小僧が一人、膝に頬杖をついて石段に座り大人たちの帰りを待っていた。年の頃は十一、十二頃だろうか。瑠璃よりも少し幼い感じのする男の子だった。
「君が河野くんだね」
「……はい」
待ちくたびれていたのだろう。三品の問いに眠そうな眼でこくんと頷く。
「和尚さんからの伝言だよ。今夜は帰りが遅くなるから先に帰って宜しい、待たせて済まなかった。ということだ。ここからの留守番は僕がしよう」
「はい。……それでは失礼します」
河野少年はいそいそと立ち上がった。
「坂の下まで送っていってあげよう」
二人は並んで門を出ると、暗がりの坂道をぶらぶらと降ってゆく。
「君もモグルガイを名乗る人物からの手紙の話は聞かされたのかい?」
「はい。和尚様から聞きました」
「『モグルガイ』について聞き覚えとかないかい?似たような言葉でもいい」
「いえ……上林のお兄さんもそこが気になって島の人たちに大分聞いていたようですが、心当たりのある人はついに見つけられなかったと言っていました」
「そうなんだよ……しかし誰が書いたにせよモグルガイという言葉が使われている以上、何らかの意味を持ち合わせていると僕は思うのだよ。──そうだ、もしかしたら旧い言葉なのかもしれない。この島の歴史をまとめた書物でもないものだろうか」
「それなら似たようなものが、寺の書庫にあるかもしれません。明日和尚様に聞いてみましょうか」
「ウン、僕の方からも辰治和尚にお願いしてみよう」
河野少年と坂を下りきりそこで別れると、三品は再び坂を登った。一日で大分歩いたために、三品の脚は棒のようで、そろそろ限界を迎えようとしている。しかしそれ以上の興奮が座敷の布団で横になっている三品を眠らせなかった。
「さて、と……」
暇を持て余し三品は座敷から廊下へと出た。そこから右手の、入口とは反対の方へと進むと、窓から離れの裏が畑になっているのが見えた。辰治が作っているのだろう、菜っ葉類が収穫を控えている。四月の肌寒い夜風に震えながら三品は離れをウロウロと歩き回った。辰治の居住する部屋の隣が、先程河野少年が言っていた書庫のようだ。鍵がかかっている。一瞬悪戯心から、三品は泥棒の真似事をして辰治の部屋を漁り鍵を見つけ書庫に侵入しようかとも考えたが、流石に控えた。炊事場を覗き本堂へと繋がる外廊下を確認すると、細やかな好奇心を充足させた三品は座敷へと戻り、敷いてある布団の上にあぐらをかき座った。そして目を瞑り、今日のこと、失踪した浜口氏のこと、そして手紙のことに思いを巡らせている間に、うつらうつらとなり、気がつくと横になって眠りこけていた。