みなし探偵の登場
コン、コン、と咳き込むようなエンジン音が海原を滑ってゆく。東京の南にある三宅島から更に南西方向へと向かうその小さな船に、二人の客が乗っていた。一人はくたびれ潰れたチューリップ帽を被りヨレヨレの着物の上にこれまたボロの外套を羽織っている。その男が今、一つくしゃみをして身体をブルリと震わせた。
「もう四月だっていうのに、まだえらく寒いじゃありませんか。え?」
話しかけられた男の方は、きちんとした洋装の出で立ちでサーベルを納めた鞘を脇に置いて悠々と横たわっている。その男はジロリとボロな男を見た。
「金を惜しんで着るものの一つでも新調せぬからだろう。吝嗇なんだ、君は。三品」
「立派なお勤め人の刑事サンには、庶民の窮状がわからぬものですかねえ」
三品と呼ばれたボロな男は嫌味を返す。と、そこに、船を走らせている男が大声で、
「御免なさいねえ!もうあと少しだから!」
と、叫んだ。二人の会話が聞こえていたのだろう。彼は船吉といって、三宅島で漁師を営んでいる男である。
「ホラ三品。君の無駄口、軽い愚痴のせいで彼に要らぬ心配をさせてしまった」
「僕のせいですか?ハハア、木暮刑事は己に瑕疵は無いと微塵も疑わぬご様子。いいでしょう、いいでしょう。僕が木暮さんの分も頭を下げておいてあげましょう」
三品はそう言うものの、船吉に向かって勢いよく手を振るだけである。
「なんだい、そりゃあ」
「今のが最新の礼の仕方なんですよ」
と、悪びれもせず飄々と答える三品に木暮は顔をしかめた。
「君には呆れたね」
船は、南西へコンコンとひた走る──。
彼らが乗る船が向かっているのは、奥之島と言う小さな島であった。休暇を利用して故郷であるその島に帰った、木暮の後輩である上林一郎からの手紙が、彼らを奥之島へと誘っていた。
「そもそも、なんだって僕がそんな田舎の島なんかに行かなきゃならんのです」
「だから再三言っているだろう。島で事件が起きた。が、自分だけでは対応できない。かといって木っ端な自分が本土の応援を呼ぶのも忍びないと。それで上林くんは私を頼ってきたんだ」
「それですよ」
ずり、と鼻を啜って三品は続けた。
「手紙にはこうあったのでしょう。『事件か事故か、それとも何事も無いのかもわからぬから、助けてほしい』云々」
「ウム」
「事件ならば宜しい、僕も知恵をお借ししましょう。商売ですからね。でも事故ならばどうです。それなら僕の出番は無さそうだ。その上、事件でも事故でもないとくれば、ただのお邪魔虫もいいとこだ」
「いや、事件で間違いないだろう」
この船に乗るまでも何回も繰り返したやり取りを彼らは繰り返している。要するに、二人は飽いているのだ。
「勘、ですか」
「まさか。上林くんは私ほどではないが、とはいえ優秀な人材だ。右も左も分からぬトンマのマヌケではない。それが何事かもわからぬ、と言っている。ならば彼の知性を超えた怪人、いや悪人が潜んでいる可能性が高いと見て良いだろう」
「僕は木暮刑事が太鼓判を押す人物、というだけで些か不安になるんですよ……」
一層強い風がびゅうと吹き、波が船を激しく揺らした。
「おっと」
「お客さん、御免なさいねえ!あとちょっとだからねえ!」
「先程と同じこと言っていますよ、彼」
「私らと似たようなモノさ。彼も退屈しているのだろう」
二人の今の会話も彼の耳まで届いたのかいないのか、それは風に問わねばわからない。しかし、船を操る彼は大声で話し続けた。
「しっかしまあ、お客さんたちももの好きだねえ!あの島、なあんにも無いよお!その上昔は『人食いの島』って呼ばれててなあ!」
「人食い!?」
と、三品も大声で返す。
「おおう!人食いよ!なあんでそう呼ばれていたのかは知らんがなあ!鬼でもおったんかなあ!?」
口を開け愉快げに笑う男の船の切っ先が波の飛沫をかき分けると、とうとうその島をかすかに捉えた。
「見えたぞお!」
「あれが奥之島か──」
帽子を手で抑えながら島を睨む三品の脳裏を、先程の会話から連想された『鬼ヶ島』という言葉が過る。
「さあて、上林くんが待ちくたびれてないといいが」
木暮は欠伸をすると小声で愚痴をこぼした、
「しかしそれにしてもアレだね。船の長旅というのは腰を痛めるね」
「見栄張ってシャンとした、お堅い格好で来るからですよ」
「庶民にはわからんだろうなあ。官憲のせせこましさ、というものが」
「なんですかそれ。自慢するようなものですか」
「お客さん、本当にあとちょっとだから!御免なさいねえ!!」
また手を振りましょうか?と、三品は目で語ったが、木暮は黙って首を振った。