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リンとフレディ

左右確認、出来たら上下も

 午後の終わり。連打されるチャイムを完全に無視し、フレディは青白いディスプレィをひたすら睨みつけている。今日中に後8枚は書くと決めていた。いつだって、仕事は創作意欲が沸いているときに限って立て込むのだ。予想できる限り、次に落ち着いてパソコンの前に向かう事が出来るのは、今日から10日後。集中力を一瞬で燃焼させるのが仕事である作家にとっては、永久にも等しい時間。コーヒーを淹れる10分間、風呂に入る30分間で、アイデアは消えてしまう事もあるというのに。生活に追われる焦燥感のせいで、一体どれだけの才能ある小説家が挫折し、自らの頭に鉛玉をぶちこんだであろう。だが、自分は違う。少なくともこれだけは書き上げる。本屋のショーケースに貼られたモノクロの写真。『夭折の作家、フレディ・ストーン渾身の一作!!』。平積みされた本を手に取り、レジ前の長蛇の列に加わる老若男女。遺言により、印税は、全て愛する妻と息子へ捧げられる。



 軽やかに動き続ける指への快感と、泉の如く湧き出る文字への興奮に浮かび上がり、そこへ甘い悲劇性まで加わる。今ならば、交響曲第五番を作曲している瞬間におけるベートーベンの心情を世界で一番理解しているのは自らただ一人だとすら自負できる。芸術は不滅であり、存在は約束されているのだ。




「お前なぁ、これが警察だったりしたら、確実にハンマーで鍵ぶっ壊されて突入だぞ」

 狭いマンション、玄関の怒鳴り声は一直線に部屋まで届き、確実に集中力をそぎ落す。もし声の主が心中に僅かでも芸術の素養を持つ人間ならば、こんな暴挙を振るわないだろうし、仕事に没頭したアーティストへの理解もそれなりに示しただろう。ただフレディの場合、余罪と前科が多く、反省の色も認められないという致命的な材料が存在する。たとえ相手がどれほど温情のある陪審員だったとしても、評決が覆される可能性は低かったかもしれない。喉声のくぐもった相槌だけで情状酌量を求め、再び物語の中に閉じこもろうとするフレディのもとへ、執行官は容赦なく近づいてくる。彼が漸くかぶとを脱ぎ、切れ長の目から眼鏡をはずしたのは、ポマードできっちりと撫で付けた頭が視界の端に映ってからの事だった。 


「窓から丸見えなのに居留守してるうえ、風呂の水は出しっぱなし、ジャッキーは表で泣いてる。児童虐待と間違われて通報されたらどうする」

「出しっぱなしだと」

 慌てて立ち上がろうとしたフレディを押しとどめ、リンはうんざりした表情を浮かべた。

「今止めたよ。それより、大切な一人息子君に何か言う事があるんじゃないのか」

 自らの首にかじりついたままのジャッキーを抱えなおす。目が合った一人息子は、擦りすぎて充血した黒い瞳のまま、父親を見下ろしていた。味方を見つけたと言わんばかりの憎たらしい表情で。その目つきと、尖らせているむっちりとした唇が妻そっくりときては、流石のフレディも呵責を覚えざるを得なかった。

「なんだい、ジャッキー」

 腕を伸ばせば、8歳にしては華奢な体躯が膝の上に下ろされる。頬に張り付いた髪を払ってやっても、一度険しくなった目はなかなか元に戻らない。

「今度の学芸会、何をやるんだって」

 頭を撫でるリンが助け舟を出す。

「ライオン。『オズの魔法使い』の」

 膝の上で握り締められた小さな拳が、ますます頑なになる。

「来れないんでしょ」

「いつだっけな」

「来月の18日」

 背後のカレンダーを見ようと首を捻る。愛用しているフェイクレザーの安楽椅子が軋んだ。ガレー船の写真の下に並んだ数字。該当箇所には軒並み憎き赤丸がついている。

「仕事がある……」

「息子の晴れ舞台にそれは無いだろうよ」

 頬を膨らませたジャッキーの怒りを、リンが代弁する。

「融通の利く仕事の癖に。それに、どうせ大して稼げもしないだろ」

「そりゃ、法律に反してないからな」

 じろりと睨み上げる。

「お前とは違うんだ」

「それにしたって。俺なら、何があっても行くね」

「子供、いないじゃないか」

 言いながらも、既に心は決まっている。もう一度、指の背で熱を持った頬を撫でる。

「行くよ」

「本当に?」

 丸めた手で胸を押す。フレディは頷いて、荒れた鼻の下にこびりついた汁をティッシュで拭ってやった。

「ああ。何があってもな」

 わざとゆっくり言葉を切れば、リンが肩をすくめる。まだ半分は信用していないながらも、目の前のスポーツシャツを握り締めることで、とりあえずジャッキーは示談を受け入れたようだった。



 

 自らがまとめた親子の絆を一頻り見物したあと、リンは汗ばんだジャッキーの手に10ドル札を握らせる。買ってくるのがポールモール、これは暗黙の了解。同時に発せられた指令が、「30分ほど家に帰ってくるな」であることも、利発な少年は理解している。



 窓の外には、リンが毎週いつくしむようにしてワックスをかけているグレーのポンティアック。ミラーと花壇の狭い隙間を、息子がすり抜けていく。小さな後姿を確認してから、フレディは手持ち無沙汰に脚を揺らすリンへ再び向き直った。

「ポーリーンのこと、いつ話すべきなんだろうな」

「ジャッキーは馬鹿じゃない」

 リンはまだ、春の強い日差しを映しこむ愛車のボディへ顔を向けたままだった。

「うすうす気付いてる。けど、自分の口から言いたく無いに決まってるさ。母親に捨てられたなんて」

 顔を顰め意思表示することで、フレディは明け透けな物言いに対する苦情を飲み込んだ。

「お前の方に、連絡はないのか」

「お袋は、あんなろくでなし、うちの娘じゃないっていうのが口癖だよ。幾ら旦那が輪をかけたくそったれでもな」

 口調に皮肉は含まれていない。それどころか、左手でゆっくりとフレディの肩を叩きながら微笑んですら見せる。

「何か情報が入ったら、絶対連絡する」

 薬指に光る指輪こそが最大の皮肉だと思う自らの弱った心を叱りつけ、フレディは静かに頷いた。




 9年間、ポーリーンはよく耐えた。グレート・ギャッツビーの上昇志向よりクラーク・ケントの恋の行方に興味を持つ中学生に文学を教えていた夫の給料だけでは息子が大学にいけないと悟り、ジャッキーのおしめが取れてすぐにスーパーのレジ打ちの職を見つけてきた。夫が一人息子の育児にあまり興味を持たずとも、何一つ文句を言わず、食べ零しのついた服を洗い続けてきた。何よりも、彼女は小学生の頃から、作家になりたいと願い続けるフレディの妄想に近い理想を聞いては、その都度違った言葉で懸命に励ましてきたのだ。



 だからこそ、小さな出版社に持ち込んだ甘ったるい冒険活劇が本になると決まった途端、有頂天のあまり職を辞してしまった夫の笑顔を見て、神経を焼き切らしたのである。服と精神安定剤を詰め込んだ彼女のトランクを持ってやったのが誰か、フレディは知らない。夏なのに、上から下まで黒の背広を着ていたというのは、父親が帰るまで一人テレビの前に座っていたジャッキーの証言である。リンはモルモン教だと推測したが、行方はようとして知れることがない。この半年の間、親子は当てにならない興信所からの連絡を待ちながら、2LDKの狭い空間すら持て余している。


 妹の失踪と、幼馴染の落胆を検分した結果、リンは目の前で涙に暮れるフレディへ手を差し伸べる気になったらしい。昔からよく遊びに来てはいたが、ここのところ訪れる回数は更に増えている。あるときは妻と喧嘩し泊まる場所がない、あるときは表面上の禁制品であるハバナの葉巻を一時期部屋の隅へ置きに来ると、妹同様様々な言葉を考えながら。


 今日はどんな理由を作るのだろうか。フレディが乾いた目で見上げると、リンは一つ咳をしてから、落ち着かなくこすり合わせていた人差し指と中指の動きを止めた。

「明日な。『ルースター』でちょっと騒ぐんだ」

 見知った店の名を出し、それから一度、ためらうように舌先で唇を湿らす。

「ほら、この前……プロデューサーの件。お前が紹介した」

「ああ」



 紹介したと言うほど大したものでもない。話をしたら、この馬鹿たちは本当に盗んでしまったのだ。相手はフレディが脚本を持って出入りするローカルテレビ局のプロデューサー。ターゲットは、彼が父親から受け継いだ巨大なルビー。

「あれ、結構な金になったんだ」

 未だに良心の呵責に襲われる、酒の席でのちょっとした与太話。

『この前家に行ったとき見せてもらったんだが、凄かったぞ。13カラットだったか、これくらいあって』

 と、フレディは目を輝かせるリンの前で指を丸めて見せたものだった。

『家宝だそうだ。火事のときはアレだけ持って逃げれば、暫く生活に困らないだろう』

 ピジョン・ブラッドの名を冠する宝石の煌きがビールの泡の中で弾ける。紅と黄金色のコントラストをふんわりした笑みのまま眺めていたら、急に胸が苦しくなった。

『ポーリーンも、ああいうものが欲しかったのかな』


 途端、男同士の気楽な空気は泣き言の嵐へと姿を変える。紅茶色の瞳に涙すら浮かべ始めたフレディの背中を、リンが苦笑いしながら叩く。あまり役に立たない慰めの言葉をかけながら、彼はひたすら血の色をした宝石について考えていたに違いない。いつまでたっても、子供っぽい冒険心を捨てきれないで男である。問題は、その目的を達する手段すらも、若い時分から変えていないということだったが。


 二日後、普段は反吐が出るほど尊大なプロデューサーは目と口に青痣を作って出社してきた。フレディが恐れたのは彼の歪んだ顔と腫れ上がって潰れた目ではない。一人につき一丁の銃とバンダナで強盗を成功させてしまった友人の運のよさに、背筋が凍るほどの寒気を覚えた。

「お前も功労者だしなぁ。来いよ。気晴らしに」

「僕なんかが行っても」

「大丈夫だって。水臭いな」

 口ごもったフレディの肩へ、乱暴に手を振り下ろす。

「ジョンにトレヴァー、お前も顔見知りの奴ばっかりさ。それに、きっちり用意してあるんだぜ、取り分」 


 言いながら、薄紅色の派手なシャツをめくり上げる。スボンにはさまれた紙袋へ向けられる当惑した視線をどう受け取ったのか、リンは微かに困惑の混じったはにかみを色素の薄いブルー・アイに浮かべた。

「さっき車停めたら、駐車場の近くでおまわりがいてさ。とっさに」

 微妙なぬくもりを保つ茶色の袋には、軽く500ドル以上の紙幣が無造作に押し込められていた。

「これ……」

「いいんだ、受け取ってくれ」


 畏れる手つきで札束を掴むフレディに、すかさず手を突き出す。水色の瞳が、細められた。これも、昔と変わらない。時々感情が混線する、あまり一般社会では見かけない目つき。たとえば今も、ポーリーンにちょっかいを出していた少年の額をロッカーの角に叩きつけていたのとそれほど変わらぬ目の色で、リンは瞬きを続けるフレッドを見下ろしていた。定期的に呼び起こされるその事実を忘れ去る事は出来ない。ただ、高確率の推測は出来る。目の前の少し下がり気味な口角は緩やかに持ち上がっていた。すなわち、今の彼は機嫌がいい。

「悪いよ」

「大した額じゃない」

 シャツの裾を押し込みながら、反対側の手を振る。何のことはない。上機嫌だ。

「な。たまにはいいじゃないか。ジャッキーは俺んちに預けりゃいい、メレディスも喜ぶ」


 リンが伸ばす視線の先を見やれば、ポールモール1カートンと、つり銭で買ってきた漫画本を抱えたジャッキーの旋毛。すぐに、軽快な足音が部屋に飛び込んできた。

「なぁ、ジャッキー。おまえ、コーンキャベッジ好きだろ?」

 煙草を差し出しながら、ジャッキーはこっくりと頷いた。

「じゃあ決まりだ。メレディスおばさんが、最高に美味いのを作ってくれるからな」

 すぐさま、この年にして言葉の裏を読む能力に長けてしまった息子の、大きな瞳がこちらに向けられる。責めてはいなかった。ただ、次に自らが取るべき反応をどうするか、その手がかりを求めている。直線的な視線に追い詰められ、進退窮まったフレディには、諦観たっぷりの横目を投げかける以外の道は残されていなかった。窮状を理解した瞬間、潤んだ瞳は父親からコーンキャベッジへ自動的にアングルを変える。本当に、聡い子だった。人の意を汲む能力は、明らかに母親から受け継がれたものに違いない。

「ちょっとパパを借りるけど、留守番、出来るな」

「うん、大丈夫」

「おまえの息子は利口だな。俺の血が入ってる割に」


 淋しがっていた指へ煙草を手挟み、リンは口調と裏腹に平和極まりない笑顔を浮かべた。ジャッキーも、普段どおりの無感動さで薄っぺらいコミックを撫でている。恒常的であるようにと作られた4つの目は、椅子に埋まったまま動かないフレディのリアクションを待ち構えていた。血縁とは、馬鹿にならない。同じ色の気遣いを嫌というほど感じ取り、フレディは渋々と自らの役割-妻に逃げられ沈みがちな小説家-に沿って、気まずそうな笑みを口の中で発した。





 州道沿いにある『ルースター』は地元のギャングスターやペテン師、いうなれば健全なごろつきたちが集う溜り場の一つとして名を知られている。尤も今日は普段の喧騒も見当たらない。ささやかな祝宴に紛れ込む輩を排除するため、駐車場にはチェーンが掛かったままになっていた。カレッジボーイだった若かりし頃、既に銀行強盗の際における有能なドライバーとして可愛がられていたリンにつれられ、多くの夜をこの場所で過ごしたのも懐かしい思い出。入り口から向かって右側で、シェイカーを振っているバーテンは代替わりしていたが、壁紙の色、少し赤みがかった照明、その多くが、ほろ苦さの中から優しい懐古を揺り起こした。ポーリーンと結婚することを告げた夜、複合的な衝撃のため正体をなくすほど酔っ払ったリンが大の字に伸びていた丸テーブルも、昔と変わらぬ場所に鎮座している。その感傷を呼び起こす家具では今、見知った顔の男たちがカードに興じていた。奥に座っていた小柄な一人が立ち上がり、リンの半歩後ろに続いて入ってきたフレディへ手を上げてみせる。



「英雄殿のおなりだ」

 フレディの顎までしかない背丈にも関わらず、腕を広げたジョン・ライムはその闊達な喋り方と相俟って普通以上の迫力を持ち合わせていた。まずリンを抱擁し、ついでフレディへも腕を伸ばす。

「お前、何年顔見せないつもりだ? あんまり見かけないから、てっきり死んだと思ったじゃねぇか」

「まぁ、それなりに」

 10ほど年上の男はぴしゃりと手札をテーブルに叩きつけ、バーテンへ合図した。

 バイトらしい若いプエルトリコ人は、黙って背後の棚から酒瓶を取り上げた。

「へっ。シケた面しやがって」

「あれは生まれつきだ、変わりゃしないさ」

 濃い髪と赤らんだ顔を持つ40がらみの男が、緩みきった薄笑いを浮かべてジョンの腕をたたいた。

「気が滅入ってるんだよ」

「あんたもか? トレヴァー」

 リンがふざけて肩を突くと、トレヴァー・ホーバスはささくれ立った椅子の上で思い切り身体をのけぞらせ、搾り出すような笑い声を発した。フレディの掌に純度の低いコカインを握らせた初めての男であり、どんなジャンキーよりも手に負えない男。数回で興味を失ったフレディとは裏腹に、売人として自らの商売品に手を出すと言う最悪のパターンを踏みながら、彼は未だのらりくらりとこの世界に居座り続けている。すっかり力の抜けた肩を震わせ、フレディもトレヴァーと手を叩き合わせた。



 一通り怒鳴ったり手を叩いたりした後、リンはテーブルの端へ寄るように座っている青年へ、ちらと視線を投げかけた。ショットグラスを握り締め、苛立ちを隠そうともしない若さに、しまりのない唇が更に綻び、からかいに変形する。

「こいつは知らないか。このマークって奴は、道に停めてある自動車からカーナビを引き剥がしては叩き売るのが趣味で、今回の仕事では一人大好きな車の中でお留守番してた」

「あんたが待ってろって言ったんじゃないか」

 むすっとした表情のまま再び手元に顔を落とし、カードを並べ替える。ジョンが爆発的な笑いを発し、体格の良いマークの肩先を乱暴に叩いた。

「こいつ、取り分をここに全部落としていく気満々だぜ。ま、金は天下の回りものっていうからな!」


 曖昧な笑顔を浮かべていれば、いつのまにかカウンターを往復していたリンにロックグラスを一つ押し付けられた。これほど上等なスコッチを口にしたのは久しぶりだった。アルコールの力を借り、ほんのりと肌寒い春の夜から抜け出すことに成功する。引き寄せた椅子に腰を下ろし、素早く賭けの状況を確認した。みな懐が暖かいせいか、酒とトマトケチャップの染みが飛び散ったみすぼらしいテーブルへ、当たり前のように10ドル札が積まれている。マークの一人負け。もしかしたら、ジョンとトレヴァーが示し合わせているのかもしれない。ジョンはカード、特にラミーをやらせれば右に出るものがいなかったし、トレヴァーは薬に関すること以外では、非常に貪欲な金銭感覚の持ち主だった。何よりも彼らのような人種は、格下と見た人間をからかうことを、職務の一種だと心得ている。




「ジェムは来てないんだな、まだ」

 肉付きのいいフレディの肩を小さく突いてスペースを作る。行儀悪く椅子へ馬乗りになると、リンは辺りを見回した。

「いや、地下に降りた。取っときのワインをあけるとよ」

 機嫌よくカードをめくっていたジョンが、大ぶりの唇を笑みの形にゆがめる。

「今夜はついてるぞ。なぁ、トレヴァー」

 トレヴァーは無意味なにやけ面で手札を見下ろしていた。

「おまえ、ジェムと会ったことないよなぁ」

 ジョンの手札を覗き込んでは頭を小突かれ、貧乏揺すりで鳴らす床の軋みにより皆から顰蹙を買う。落ち着きなく身体を動かしながら、リンはフレディの横顔に自らの鼻先を突き出した。 

「俺たちの近所に住んでたんだぜ。ほら、煙草屋の向かいのレストラン。あそこがジェムの愛人の経営で、しょっちゅう出入りしてた」

「パエリアの美味い?」

「そう」



 この店の経営者であり、近辺の揉め事を取り締まる男、ジェム・スミス。アル・カポネやラッキー・ルチアーノとは行かないが、50を目前にして近隣一帯の信頼を集め、信託預金の残高も悪くはない。彼に対する敬意が隅々まで行き渡っている証拠は、眠りながらですら人を殺すことが出来ると噂されるジョン・ライムが、わざわざ上納金を渡しにこの場所へやってきたいう事実だけで十分だろう。

「なんだ、知らなかったのか? あそこの駐車場で、よくかっぱらってきた商品を積み替えたりしてよ」

 滑らせた手札を捲ったジョンが、小さく口笛を吹く。

「そういえば、昔リンが掴んできた情報で」

「やめろって」

 脚をばたつかせ、リンは頭を振った。

「確かにありゃ俺のミスだよ。いい加減忘れてくれ」

「作家先生にネタを提供してやってるんだよ」

 ジョンが顎をしゃくれば、トレヴァーも擽ったそうに笑う。

「なぁ。輸入してきたミンクをたんまり積んだトラックが、港から市内へ入ってくるって話を聞いたとしろよ。真夏だったが、カナダ経由で意外と売れるんだ。それで、早速俺たちは道路で待ち構えてた」

 ジョンのウィンク。情けない顔つきのリンを心底愉快な気持ちで見下ろしてから、フレディは続きを促した。

「ま、運転手も保険に入ってるって知ってるからな。あっさりホールドアップして、アホ面浮かべてたよ。俺たちはホクホクさ。思いがけない夏のボーナスが手に入ったんだから。それで、夜中にあのレストランの駐車場へトラックを入れて、荷台を開けたら」

 ここでテーブルを見回し、最後に掌で顔を押さえているリンへ唇を吊り上げてみせる。

「積んであった箱には、ドイツ語のロゴとペリカンの絵」


 一瞬の沈黙のあと、誰よりも巨大な笑い声を破裂させたのは、他ならぬリンだった。

「ったく、インクとミンクだなんて、あんまりだよな」

 濃い眉を八の字に下げ、大げさに膝を打つ。大きく息をついてから、フレディの背凭れに引っ掛けた腕で身体を引き寄せ、唇の端を下げて見せる。

「使えないだろ? こんなくだらない話」

「どうだろう、話の繋ぎに」

 まだ止まらぬ笑いを口元にくっつけながら、フレディはグラスの中身を一口含んだ。

「インクとミンクか」

「くだらねぇ、本当に」

 ネクタイを緩め、ジョンが怒鳴った。

「あの時は俺とリン、運転席にいたのはキュウだったけな、黒人野郎の。奴があんぐり口をあけてる様、見せてやりたかったぜ」

「しょうがないだろ、垂れ込んできたのがルーイだぜ」

 上目遣いでジョンへの懇願を発しながら、氷の溶けはじめたウイスキーを啜る。

「あのどもりの言う事なんて、分かりるもんか」

「結局、半分はジェムのところに持っていって引き取ってもらってよ。おっと」

 手札を広げ、ジョンは得意げに鼻を膨らませた。

「え? これでどうだ」

「あっ、くそっ」

 テーブルの上に散らばるクラブのフラッシュと自らの手元を見比べたマークが顔を顰める。

「あんた、今日どんだけツイてるんだ」

「人生はままならねぇ」

 大きく節くれだった手が、50ドル札へ伸ばされた。

「それだからこそ、面白いんだよ」

「まぁ待て」

 上機嫌でテーブルの上から金をかき集めようとしたジョンの手の甲へ、トレヴァーがカードを叩きつける。7と6のフルハウス。

「残念だが」

 手の下から紙幣を引き寄せて、顔色を変えたジョンへ薄笑いを突き出す。

「人生はままならないな」

 数百ドルが財布の中に消えるまで、ジョンはかさばる紙の感触をなくした手をぼんやり見下ろしていた。現実の喪失に気付いた後、小柄な男は、自分よりも5インチは背の高い男の頭を平手でぴしゃぴしゃ叩いた。

「このやろ、ラリってるのかと思ったら、一人で企んでやがったんだな!」

 叩かれたトレヴァーはおろか、周りの皆がまた笑いをはじけさせた。気が済むまでトレヴァーの髪をもつれさせた後、ジョンは大きく息をついて、落ちるように椅子へ腰をおろした。


「ま、取り分が手に入れば問題ないけどな」

「まだ貰ってないのか?」

 器用な手つきでカードを切るリンが、笑いながら言った。

「ジェムの奴、お前の金遣いの荒さを知ってるらしいな。出てこない理由が分かったよ」

「お前、ジェムに全額渡しっぱなして言うんじゃないだろうな」

 身を乗り出したジョンの瞳はめいいっぱいまで見開かれている。木製の椅子が派手な音を立てて床を擦った。

「おい、リン。金はお前が持ってるんじゃないのか」

「だって、故買屋を知ってるのはジェムなんだから」

 急に真剣な声色を出したジョンへ、リンは濃い睫を数度瞬かせる。

「お前も、とっくに分け前は貰ってるもんだと」

「おまえ、馬鹿じゃないのか」

 噛み付くようにしてジョンは叫んだ。

「あのキツネ野郎にルビーを預けただと?! しかも、その言い草じゃてめぇ、ついて行かなかったんだろう!」

「行ったさ。けど、素人の俺に何が出来る」

 力が篭った掌の中で、氷がかちかちと音を立てる。唇が薄く開き、舌が縮こまっていた。




 ぼやけた視界へレンズを被せるような鮮明さで、記憶が蘇る。今よりももっと騒がしかった店内。カレッジのロゴが入ったベストの場違いさに気まずさを覚える自分。馬鹿笑いで肩を叩くリン。自慢話に花を咲かせるジョンが腕を振り上げる。通りかかったウェイターの持つトレーがひっくり返り、ジョンご自慢のヴェルサーチ-似合いもしないのに-ワインをかぶったスーツ。ウェイターが怯える暇もないすばやさで、ジョンは手元のビールジョッキを驚いた顔に叩きつける。分厚いガラスが粉々に砕け散り、青年の顔に食い込んだ。降りた沈黙と、紅い照明を反射するガラスのかけら。短い胴から上着をむしりとり、ジョンは何食わぬ顔でネクタイを緩めた。

「どこからだ? ペニーの店で、女を引っ掛けたところからだったか?」

 血を流したウェイターよりも青い顔色で、フレディは背を椅子へと押し付けていた。リンがそっと肩を叩く感触すらも針のように痛む。気まずさはおろか、それを認識する世界観すら遠くへ吹き飛ばす、非現実的な恐怖。




 今は、リンも幾分緊迫した表情を浮かべ、勢いよく唾を飛ばすジョンの顔を正面から見据えている。

「車の中で待ってたさ。ジェムの話では、少し傷がついてるから、一万ドル」

 痙攣するような唇の動きで、笑みを浮かべる。

「その場で俺が2000ドル。ジェムのポケットへ2000ドル。残りは、近々呼び出して渡すって」

「冗談じゃねぇ、押し込んでから2ヶ月も経つのに、電話の一本も掛かっちゃこないぞ!」

 身体の割には分厚い掌でテーブルを殴れば、傷んだ天板が支柱ごと傾いだ。

「いつの話だ?!」

「手に入れてすぐだったな。なぁ、ジョン。きっと今から分けるのさ」

 口調に比例して、固まった聴衆の助けを得る事の出来ないリンの顔はますます硬度を高めている。

「俺はたまたま、その場にいただけさ。普通に考えりゃ分かるじゃないか。此処に全員を呼び出したのは、金を渡すだめだって」

 強張って動きをなくしたリンの首が、固い動作でフレディの方向へ捻じ曲げられる。黙ってろの合図。言われなくとも、言葉など出てこない。



「俺はもう渡された」

 一斉に注目。テーブルの上に両掌を乗せたマークは、がっしりした顎を喉元に埋めたまま、ゆっくりと言葉を切って発音した。

「仕事の終わった2週間後、ジェムに呼ばれて。2000ドル」

 

 若者の瞳に浮かんだ優越感は、場を冷やす材料としてはまさにうってつけだった。凍りついた周りとは裏腹に益々顔を赤くするジョンの歯軋りが、静まり返った部屋における唯一の効果音として、空気を締め付ける。嫌でもいかる肩をほぐす術を見つけられぬまま、フレディは隙を盗んで隣を窺った。ただでも薄い色素を持つリンの瞳は瞼のほうへ吊り上り、白目を剥いているようにすら見えた。

「俺は……まだだな」

 

 威圧感を跳ね返す事は到底及ばなかったが、最大限の努力は認められる声で、トレヴァーが呟いた。いつもの夢想的な色は消え、指で押さえつけるようにして灰皿の縁をなぞり続ける。

「となると、分け前は2000、2000ってことか?」

 間の抜けた声が、天井で埃を被っている照明たちの間を一回りしてから、空気に溶ける。バーテンはいつの間にか姿を消していた。決して大きい店ではないが、かといって5人で占領するには有り余る広さを持っている。無論、たった一人が発散させる苛立ちを満たすにしては規模が大きすぎる。かといって、残りの4人が逃げ切れるほどスペースがあるわけでもない。フレディは自らの膝を強く握り締めたまま、潰れたマルボロライトの箱をじっと見つめていた。




 ふっと、鋭い息が吐き出される。

「ははっ、2000ドルか」

 体を前後に揺すりながら、ジョンが立ち上がった。

「いい額じゃねぇか。なぁ、リン」

 緩んでいたネクタイを引き抜いて、隣のテーブルへ放り投げる。わし掴むようにして自らの肩へ乗せられた手に沿って、リンが恐る恐る視線を上げていく。頭上にあったジョンの顔は、先ほどと変わらない笑みを浮かべていた。

「こんなシケた店じゃ、一晩で使い果たせない金だ」

「そうだな」

 次にいつもの薄笑いを取り戻したのはトレヴァーだった。

「2月のスーパーボウルの賭けを取り戻してやる」

 そろそろと手を伸ばし、フレディの視界からマルボロライトを引き離す。

「まさか、カージナルスが負けると思わなかったんだよ」

「あんなところに賭けるなんて、バカだな」

 まだ固さの取れない声だが、リンも口を挟む。

「オッズ見りゃ分かるじゃないか……大した賭けじゃない」

「クラップス狂のおまえに言われちゃ可哀相だ」

 ジョンが大声で吼える。

「この前ベガスへ行ったときの金、返せよ」

「あれはこの前の奴でチャラにするって話だろ」


 まだ言葉の糸口こそつかめないものの、すぐに参入できるだろう。胸をなでおろし、フレディは背凭に張り付いたままだった背中を浮かした。正面で腕を組んだままのマークは気に掛かるが、他の人間は誰一人として彼に目を向けようとはしない。

「1万ドルか」

 フレディは何気ない口調で呟いた。

「悔しいけど、仕方ない」

 低い声でマークが答える。

「俺は、車の中で待ってただけだから」

「そうさ、ぼんやりしてただけで金をもらえるんだ! ありがたく思え!」

 ジョンのテンションは留まるところを知らず、引きずられるままに、テーブルの空気は上がり続けていった。酒とカードと、少しのスリル。十分すぎる要素だった。




 可憐なベルの音は、だみ声にかき消されそうになりながらも精一杯自己主張する。カウンターの奥の扉から、灰色の髪をきっちりと左右に分けた、長身の男が顔を出した。

「すまんな。ティリーの奴が奥のほうに詰め込んでやがって」

 

 一瞬、視界からジョンの短躯が消えた。フレディがそれを認識し、リンがカウンターの男へ手を上げようとする前に、何度か空気が爆発して反響する。その瞬間を、フレディははっきりとは覚えていない。ぶれた残像が静止したとき、身を起こしたジョンの右手に握られていたのは年季の入った拳銃。黒い物騒な塊の先端から上がる煙だけは、この瞬間確かに目に入っている。硬直は刹那に身体の隅々まで行き渡り、ガラスの割れる音を、銃声で震える鼓膜の端で申し訳程度に拾ったとき、フレディはようやく事態を知る事だけはできた。



 男の体は腹に命中した4発の弾に吹き飛ばされて棚に激突した後、飾られていた酒瓶ごと床に崩れ落ちた。地域の与太者から尊敬を集める男、ジェム・スミスは、派手な音とガラスの破片に見送られ、その短くもなければ長くもない生涯を終えた。



 耳の奥でこだまし続ける音と入れ替わりに、今度は熱を持って鼻腔を刺激する硝煙の匂いを知覚する。口で呼吸していた事に、ようやく気付いた。夕食はとっていないのにも関わらず限界まで膨らんだ胃が、握りつぶされているような感覚だった。緩慢に湧き上がってくる吐き気。頭が動かない。


「なにやってんだ、おまえ!」

 リンの怒鳴り声へ、条件反射で目を細める。

「殺す必要なんてなかっただろうが! ギャングの真似なんかしやがって!」

「あいつは俺たちのことを馬鹿にしてやがったんだ!」

 ジョンも負けず劣らず大声で喚いた。右手にはまだ、細い白煙を燻らす拳銃を握り締めている。

「ほっといてられるか、この仕事をやったのは俺たちだ!」

「ジェムはディフロンゾの遠縁だぞ!」

 椅子を蹴ったリンの顔が、ジョンの額へくっつけんばかりに近づけられた。

「シカゴのボスのだ! 俺たちが手を出して良いような人間じゃない!」

 指一本動かせないでいる3人の視線が集まる中、小柄なジョンを押しつぶしてリンの剣幕は続く。身体にぴったりとくっつけられたジョンの腕が、小さく震えているのを、フレディは目にしてしまった。

「この馬鹿が! バレたらただ殺られるだけじゃ済まない事くらい分からないのか!」


 ジョンの口角から、軋り続ける奥歯が覗く。普段は聞こえない、こつりと鈍い音は、その場にいた全員の耳にしっかりと届いた。リンの瞳が見開かれる。

「馬鹿だと? そりゃ、てめぇのことだろう」

 目の前の男の米神に銃口を押し当て、ジョンは喉声を出した。噛み締められたままの下唇は笑みの形に歪み、口の端に溢れる泡が増えた。

「おめぇがジェムのところにルビーを持ち込まなけりゃ、こんな事にならなかったんだ」

「ジョン、落ち着けよ」

「黙ってろ!」

 一喝され、トレヴァーは怯えたヤク中の目で、椅子ごと後ろに下がった。

「間抜けなおまえの話を信じたとして、残りの金がきっかり4000ドルあるってことにしといてやる。じゃ、それはどこだ? すぐに渡すって言うくせに、2ヶ月もほうったらかしだ。ギャングの風上にもおけやしねぇ」

「だからそれは、今から」

 それでも気丈に、リンは正面を見据えていた。正確には、額の熱せられた固さから意識を逸らそうと、懸命に気力を振り絞っている。

「どこまでお人よしなんだ、てめぇ」

 目を見開いたままジョンは笑った。嘲りの声は、歯の隙間から漏れる息に変わって、張り詰めた空気を突破する。

「イタリア人は信用ならねぇ」

 額に滲んだ汗のせいか、へこむほど押し付けられた銃が微かに滑った。

「まぁ、別にイタ公だろうがポーラックだろうがかまやしないが、俺は裏切りだけは我慢ならねぇからな」

 親指で弾かれた撃鉄が耳障りな音を立てる。リンの唇が、薄く開かれた状態からエフの形に曲げられた。怒りと恐怖の混合物が、ライトブルーの瞳孔を収縮させている。

「なぁ、リン。てめぇ、裏切っちゃいないだろうな」

 とうとう人差し指が引き金の上に乗せられた。撃鉄を鳴らす音は益々早くなり、息も鋭くなる。

「金の場所は知ってるのか」




 狂っているようにしか見えなかった。既視感を覚えたのは恐らく昔に見たギャング映画の影響で、けれど、現実として目の前で繰り広げられると、これほどまでに恐ろしいものだとは。二人の男を見上げながら、フレディは視界の端で誰かが動き出すことを期待し続けていた。『なぁ、そこまでにしとけって』。これが映画なら、きっともうすぐ声をかけるシーンに差し掛かる。いや、似たような台詞は先ほど耳にしていた。ジョンのすげない拒絶。トレヴァーは怯えきった上目遣いで睨みを発しているだけで、組んだ腕を解く気は一向になさそうだった。マークも、既に身が引けている。


 

 それじゃあ、自分が待ったを掛ければ? 無茶にも程があると、堅固な守りに入った理性が引きずり戻す。これは、自分の世界ではない。こんな目に遭うなんて、聞いてない。ありったけの力で肘を掴む指、腰から下は石のように固い。頭の中で意味を求められない思考回路を組み立て、その中を喚きながら走りまわる。意味がないのだから、ゴールもない。彼にはどうする事も出来ない。



 金属がぶつかり合う音と、荒い呼吸に起因するもの以外の全てが静止している。空気を読まずに場を横切る蝿の羽音が、きっかけを与えた。

「知るわけないだろ」

 リンの低く掠れた声に、フレディは本人よりも遥かに引き攣った表情を浮かべた。

「いい加減にそれ、しまえよ。くそったれ」

 こそどろの癖に、ギャングぶっているのはリンも変わりはしない。フレディは内心歯噛みした。型に嵌められた台詞に向けられるのは、決まりきった行動。ジョンは奥歯を鳴らし、右手に力を込めた。相手に覆いかぶさる体勢のまま、それでもリンは一歩も動こうとしなかった。



「死体は」

 揺れる声はとっさに飛び出したもので、しかも驚くほどよく通った。発したフレディ自身が一番驚く。

「死体は、どうするんだ。隠さないとまずいんじゃないか」

 それ以上は唇の震えが阻む。

 拳銃を突きつけたまま、ジョンはまじまじとフレディを見つめた。数拍遅れて振り向いたリンが目を見開いている。続いて、トレヴァーとマークも。張り詰めたままの肩をいからせれば、脇の下にぐっしょりと掻いた汗が空気に触れて冷えた。

「地下は……」

「それは、あんまりいい手じゃねぇな」

 銃口と友人の額の間に、僅かながら間隔が開く。

「万が一おまわりが踏み込んできたら、一番に調べる。どこかに埋めるのも……」

 首を捻り、トレヴァーへ視線を移す。

「おまえ、何かいい場所知ってるか」

「ハントレーのゴルフ場は」

 身じろぎした後トレヴァーは言った。

「ほら、この前潰れた」

「駄目だ。あそこ、どこか州外のIT企業が買い取って工場にするらしい」

 ジョンの冷静な声色。

「そうだな。要は見つからなきゃ良いんだろ」

 あれほど誇示されていた銃が、するりと右足首のホルスターに消える。

「ああ、場所なんかどこでもいい」

 リンがぐったりと自らの席に腰を下ろし、振り乱した前髪をかきあげた。

「ジョン、流石のおまえも石灰を持ち歩いたりはしてないよな」

「ダーラが園芸用に買いこんでたはずだ。足りねぇな」


 ほんの数分前に人間を一人撃ち殺した手で、ジョンはマッチを擦る。咥えられたシガレットを見た途端、フレディはやめていたはずの煙草が無性に欲しくなり、知らずとポケットに手を突っ込んでいた。

「運ぶときに、どっかで買やぁいい。テーブルクロスはどこだ」

「そんな上品なもの、この店にあるもんか」

 マークが不機嫌そうに吐き捨てる。

「店の奥に、バスタオルか何かあるんじゃないか」

「丸侭じゃまずいか」

「乗せるのはおまえの車だぞ、ジョン」

 険の名残を見せる表情で、リンは立ったままの男を見上げた。

「かまわないのなら」

「分かった分かった、女みたいに絡むな」

 まだ長い煙草を、灰皿で押し潰す。目の前で濃く昇った煙に、それまでぼんやりとテーブルに目をやっていたトレヴァーがバネ仕掛けのような勢いで立ち上がった。

「下だな。探してくる」

 ぎこちない動きでカウンターへ向かう。躯が崩れているのであろう場所を通るとき、どんよりと曇ったトレヴァーの眼が、数秒だけ足元を凝視した。

「ワインと血が混ざって、どっちがどっちだか分かりゃしない」

 


「それで、先生は死人を見たことあるのか?」

 ジョンの悪辣な笑みを、リンが手で追い払う。

「やめろ。フレディ」

 見つめてくる蒼い瞳の中に誰かがいる。目を眇めて覗き返した。奨学金でアイヴィーリーグに入り、卒論を手放しで絶賛された男が、自尊心とアイデンティティを粉みじんにされた挙句の絶望を顔いっぱいに浮かべて、縮こまっている。

「大丈夫か」

「ああ」

「座ってろ」

 投げかけられる心配を払拭しようと、フレディはテーブル上で忘れ去られていたグラスを手に取った。ガラスの内側で、琥珀色の液体が小刻みに揺れている。リンはとてつもなく傷ついた表情を浮かべ、それを隠すように、死体のほうへ向き直った。



 戻ってきたトレヴァーの腕には、黄ばんだリンネルのシーツが抱えられていた。足でスツールを蹴飛ばしてスペースを作り、床に広げる。


 ジョンが亡骸の脚を掴んで引っ張ろうとする前に、対面に回ったリンが腰をかがめた。カウンターの影で、小さく二言三言、言い捨てる。 テーブルの上に持ち上げられた椅子に阻まれて、死顔が見えなかったのは幸いだった。後ずさりするジョンのわき腹の位置から、力の抜けきった手が覗いている。死語硬直どころか出血すら止まっていない。服から滴り落ちた雫が、白地に小さく赤い染みを作る。遺体が投げ出された途端、広がる色は益々鮮明になった。文学的レトリック抜きで、フレディはたった今飲み干したスコッチの味が血に変わる奇跡を体現した。行儀悪いと思う前に、喉が勝手に動いて床へ唾を吐き出す。ジョンから車のキーを受け取り、店を出て行くマークが、通りすがりに哀れみの視線をなげ掛けた。


「静かに坊や、ねんねして。ママがモノマネドリを買ったげる」

 幾分調子の外れた声でジョンが歌う。

「モノマネドリが歌わなければ」

「縁起でもない」

 リンがぶっきらぼうに呟く。

「なんだってんだ。今夜は」

「そういう夜だってあるってことさ。そう……歌わなければ、ママがダイヤの指輪を買ったげる」

「人生はままならない」

「しつこい野郎だ。済んじまったことは仕方ねぇや」

 包み終わったのか、仕上げに血まみれの手をシーツになすりつけた。

「サボるなよ。血が残ったら事だ」

「分かってるさ」

 どこからか持ってきたバケツにモップを突っ込みながら、トレヴァーは言った。既に水は赤く染まり、重く揺れては安っぽいタイルの床に広がる。

 リンとジョンは大儀そうな掛け声と共にまだら模様のシーツを抱えこんだ。リンがまた何か言ったが、ジョンは意に介さず、場違いな鼻歌の調子を高める。

「シャツが汚れちまった。メレディスになんて言い訳すりゃいい」

「捨てちまえ」

「あいつ、自分の選んだものを着なくなったら物凄く怒るんだよ。これ、先週買ったばかりだ」

 通り過ぎるシーツの端がゆらゆらと揺れている。円筒形をしたちょうど真ん中の辺りが一番色濃く赤に染まり、思い出したように雫を落としていた。くるまれる事で人が存在している実感はほんの僅かに薄められていたが、代わりに茫洋とした喪失感が身体に行き渡る。

「ダイヤの指輪が真鍮だったら」

「黙れ」

 本気で怒るリンの声は、蹴り開けた扉が閉まるにつれ、尻すぼみに消えていく。ジョンの声もやがて遠ざかり、後に残るのはモップの立てる小さな水音ばかり。フレディは黙々と作業を続けるトレヴァーへうつろな目を向けた。



「こんなことって、しょっちゅうなのか」

 手の震えは収まったが、抜き取られたように鈍った知覚はまだ戻らない。

「まさか。ここまでのことは、そうそう」

 色のついたバケツの中の水を、床にぶちまける。

「あいつの気の短さは、分かってるだろ」

「けど……」

 分厚いビールジョッキとウェイター。銃とギャング。10年で桁違いに。目の前に広がった血の色も、余りに鮮明すぎる。

「目の前で人が撃たれるなんて、初めてだ」

「見たことないのか」

「あるわけないだろう」

「まぁ、そうだろうな」


 モップをドアの向こうに放り込む。店主が殺されるためにここへ来たときと同じ涼やかな音色が、人気のないホールに広がった。さっきはこの直後に銃声が轟いた。沈静化した今は、トレヴァーがボトルの封を切った間抜けな音だけが耳に届く。

「リンだって怒っちゃいるが」

 直接口をつけて流し込む透明なジンからスローベリーの香り。此処に漂いつくまでの間に、鉄分の匂いで汚されてはいたものの、頭の芯にぼんやりした光を点す幾分かの手助けにはなった。

「おまえがいたから、あれだけ意地を張ったんだ。いい格好、したかったんだ」

「そんなことしなくても」

 フレディはため息をついた。

「寿命が縮まった」

「ジョンが引き金を引かなかったのが奇跡さ。あいつも大概気取り屋だが」

 恒常的な禁断症状から、瓶を置いたトレヴァーの手は震えていた。

「誰がいようと、自分のしたいことはする」

 頷く代わりに、フレディは力の入った肩を持ち上げた。今晩、ジョンの血走った目が夢に出てこない事を祈るしかない。




 奥の壁にかけられた年代物の時計の針が、はっきりとした音を立てて進む。11時を回っていた。死体を車のトランクに放り込むには十分な時間が経過したにも関わらず、まだ3人は店の中に戻ってこなかった。排気音が聞こえないので、出かけたわけではあるまい。漠然とした不安に急かされ、フレディは何度も時計と入り口を見返していた。


「遅いな」

「生き返ったか」

 何気ない口調に、思わず振り向く。

「まさか。あれだけ撃たれたのに」

「よくある話さ。ロバート・デ・ニーロの映画であったじゃないか。そういえば、ジョー・ペシはジョンに似てるよな、チビで、すぐぶちギレる」

 自らの言葉がつぼに入ったのか、トレヴァーはいきなり「うはっ」と大声をあげる。

「へへっ、いいな、それ。デ・ニーロはリンかな。ちょっと情けないか」

 ボトルに触れていた手がカウンターに移り、ぴくぴくと跳ねている。

「誰だっけな、あと一人いたぞ」

 肘をつこうとして一度揺れる身体。顔こそ笑顔を作っているが、額に浮いた汗は隠しようがない。典型的な禁断症状だった。

「あと一人」

 どう声を掛けるべきかと思案し、カウンターに身体を向けたフレディは、不意に忘れていた不安を思い出した。

「あと一人」

「誰だ?」

「違う、バーテンは?」

 若いプエルトリコ人の青年は、ジョンが最初に癇癪を起こしたときから既に姿が見えなかった。

「もしも警察に通報したら」

 腰が浮き、明確になった恐怖が一気に血の気を頭から引き摺り下ろす。何故気付かなかったのか不思議なくらいだった。

「現場は見ていなくても」

「大丈夫さ、あいつはジョンの怖さをよく知ってる」

 手の上に乗せた顎を何度も飛び上がらせ、再び癇に障る声で笑った。

「一度頭からホットウイスキーを浴びせられて、それからずっと喋りかけもしない」

「でも、もし……」

「心配すんなって、フレディ」


 とうとう肘杖から滑り落ちた頬が、カウンターに落下して鈍い音を立てる。嗄れた笑いの発作で途切れがちな声をどうにか引き伸ばしながら、トレヴァーは戸惑うフレディへ上目遣いを向けた。

「は、おまえは心配しすぎなんだって。そうだよ、思い出した。レイなんたらだったな。3人目は。は、は、は、通報だって? こんなところにいる奴が、少しでも警察の厄介になろうなんて絶対に考えやしないよ。大丈夫だって、上手く行くから。全部、上手く行く。もう安心だ」




 困惑の瞬きで理解するための猶予を作ろうと、フレディは黙ってカウンターの向こう側を覗き込み続けた。普段口の軽い方ではないトレヴァーが身体を縦に揺すりながら、判別できない言葉を口の中で呟き続けている。顔色は蝋のように白く汗でぬめり、目つきも明らかにおかしい。

「はっ、これで死体さえ始末したら、俺はもう帰るからら」

 これがリンやジョンだったならば、縺れた語尾をからかって話は終わるのだろう。

「帰してくれたら良いんだが」

 フレディに出来たのは、病的な舌の回転に辛気臭いため息を上書きすることだけだった。




『いいカッコ、したかったのさ』

 馬鹿げてる。笑い飛ばしたいのに、落ち込んだ心では声を出す事もできない。

 リンとの付き合いは幼稚園の前からで、恐らくたいていの事は知っている。12歳のリンが父親が大切にしていた象牙のパイプを勝手に持ち出してマリファナを吸い、挙句に柄を折ってしまったこと。これをフレディは今まで誰にも話した事がない。フレディが10歳のとき初めて書いたラブレターは同じクラスにいた赤毛の少女に当てられたものだったこと。結びに書かれた「君は甘い蜂蜜みたい、一口僕にも食べさせて」という台詞は、ソープオペラでその台詞を発見したリンがどうしても入れろと強く勧めたもので、数日後少女の母親が電話で苦言を申し立ててきたという笑い話。


 いつ頃から、違う道を進んでいたのだろう。ポーリーンと結婚したときか、ハイスクールか、もしくは、それよりもずっと前に。否、最初から違っていたのに、気付かなかっただけだ。これまでも、気にしないようにしてきた。物事を綺麗に修飾するのがフレディの仕事だから、様々な言葉でごまかしては何も言わずに笑っていた。今になって、つけがまわってくる。ポーリーンはいない。リンは別世界にいる。


 死体の前でリンが見せた表情は、手に負えない断絶となって脳の奥に刻み付けられた。酒でごまかすのは弱者のやることだとわかっていたが、フレディは非現実的な現実を混濁させる術を他に思いつくことが出来なかった。何故自分はこんな場所にいるのか。無事に帰ることが出来るのか。アルコールが注ぎ足されるたび、慢性的な危機感は混ざり合って一つに固まっていく。ここは、自分の世界じゃない。




「あるわけないだろ」

 最後の結論を思いつこうとする寸前、リンの甲高い声に後頭部を殴られる。腕まくりをした両手から水が滴っていた。肘で扉を押し中に入るとき、いつの間に強まっていたのか、低い風の唸りが店内にも吹き込んできた。

「家か銀行さ、諦めろ」

「絶対ここだ」

 ジョンが苛立って唸る。

「俺は知ってるんだ。去年くらい、ジェムが分け前を地下室に隠しに行ってた」

「あいつに限ってそんな無用心な」

 リンがかぶりを振った。


「地下には、店の奴も出入りするだろう」

「この目で見たんだ。それによ、リン。おまえのご意見を尊重するとだな。ジェムは今日、俺とトレヴァーに金を渡すために呼び出したんだろ。それなら、絶対この店に金があるはずだ」

 疲れきった顔つきで、リンはテーブルのほうへ足を向けた。僅かだが、顎に血がこびりついているのが見えた。

「ああ、うんざりだ」

 顰め面で言いながら、何気ない風を装って腰を折り曲げる。

「んん、少しは顔色も良くなったみたいだな」

 表情を緩めたのは、フレディではなくリンだった。見つかりかけた結論は、途端に霧消する。

「もう流石に」

 今度こそ、しっかりと掌の中に収まっているグラスに悲しくなり、フレディはあやふやに微笑んだ。

「大丈夫さ」



「トレヴァー、てめぇもここにあると思うだろ?」

 だみ声のジョンが答えを要求する。

「さぁな」

 にやにやと笑いながらトレヴァーは言った。

「俺は知らない。さっき地下に降りたときは、見なかった」

「きっと、おっそろしく手の込んだ場所に隠してあるに決まってらぁ」

 振り返り、後からのろのろと入ってきたマークに向き直る。

「ルーキー、あ、おまえはさっさと貰ってやがったのか」

 返すことなく、陰湿な目つきでジョンを見据えている青年は、元いた席に再び腰を下ろした。

「なぁ、どうしようもないだろう」

 片腕をテーブルで支え、リンは大声を出した。

「ジェムのことは、もうどうしようもない。生きてる間に聞くのが一番だったのに、死人に口無しって言うからな」

 ニュアンスが違う、と抗議したげなフレディに宥めるような視線を投げかける。ジョンが酷い眇目のまま何か言おうとする前に、リンは言葉を続けた。

「今しなけりゃならないことは、一刻も早く死体を捨てて、周りが動き出すまで何食わぬ顔をしてることだ」

「そりゃ、てめぇは分け前を手に入れたからな」

 ジョンは吐き捨てた。

「身勝手すぎるんじゃねぇか?」

「話をややこしくしたのはおまえじゃないか」

 リンの口調に、再び尖った色が浮かぶ。

「いきなり銃をぶっ放すなんて、正気の沙汰じゃない」

「あいつが俺をコケにしてやがったからさ!」

 銃よりも破壊力のある大声に、マークがびくりと肩を揺らした。リンの眼が、ジョンの右足首に走った。

「いいか、俺達は今から地下を探す」

 がなり声でホールを占領することにより、今回は身を屈めることなく仲間を威圧する気らしかった。油断は出来ないが。

「金はここにあるんだ。きっとどこかに」



「別になくても構わないさ」

 間延びした声に、みなが勢いよく視線を向けた。

「なくてもかまわないだろ」

「おまえ、気でも狂ったのか!」

 薄笑いを浮かべているトレヴァーへ、ジョンは大股に近づいた。左手に握り締めていたジンを取り上げ、横面を張り飛ばす勢いで怒鳴る。

「2000ドルだぞ!」

「だって、もし2000ドルがなくても、他の金があればいいんだから」


 唇の端から、甘い果実酒が零れて顎を伝っている。宇宙人でも見るような顔で相手を見据えているジョンとは裏腹に、リンの目元が面倒くさそうに歪んだのを、フレディは視界の先で見た。

「地下が金の隠し場所だったっていうなら」

「他の金だってあるかも知れないってか」

 リンは倦みきったため息と共に答えた。

「ポケットから落ちた5セント玉でも転がってるかもな」

「なんにせよだ、トレヴァー。てめぇは手伝うんだな?」

 焦れたジョンが言っても、トレヴァーは無言でにやけ続けている。意思表示は、それだけで十分だった。


「てめぇはどうだ、ルーキー」

 口を一切開かず立ち上がり、ジョンの隣に進む。

「フレディ、見つけたら500ドル出すぜ」

「探したら満足するんだな」

 疎ましげな表情を更に深め、リンは肩を竦めた。

「仕方ない、さっさと始めるそ」

 リンがフレディに向き直る前に、ジョンがフレディへ畳み掛けた。

「おまえも来いよ、トレジャーハントだ」

 リンは目を細め、何度か薄い唇を動かそうとした。結局ドアのほうへ足を向ける。ひどく傷んだ店の看板をひっくり返す。openになっていたそれは、小さく揺れて曇りガラスの小窓にぶつかった。

「酷い話だよ、まったく」

 フレディが立ち上がったとき、通りすぎようとしたリンが呟いた。

「今の今まで気付かなかったなんて」




 狭い階段を一列になって降りる。電灯らしきものは一切なく、短い距離といえ足を滑らしかねない暗さだった。実際に二番目を進んでいたトレヴァーが段差を踏み外しかけ、前方のジョンに怒鳴りつけられている。地下室特有の湿っぽさとダンボールの懐古的な匂いが下から湧き上がり、酒のせいで滲んだ汗の存在を知らしめた。


 後ろの膝が大腿にぶつかり、フレディはあやうくバランスを崩しそうになった。慌てて手をひんやりとしたコンクリートの壁に押し付ける。

「気をつけろ」

「わるい。最近、鳥目なんだ」

 思ったよりも近い場所から聞こえたリンの囁き声に、すぐさま喫驚の第二波が心臓に直撃する。

「効くのはなんだっけな。ビタミンDか」

「違う、A」

 リンのとぼけた口調に、フレディは意味もなく押し殺した声で返す。

「野菜を食べろ」




 ジョンが壁のスイッチを探り、漆黒が黄色に好転した。


 裸電球の下に広がる、思ったよりもずっと大きな室内に驚く。天井ばかりは頭を打つか打たないかという程度の高さだったものの、奥行きの広さは正面の壁一面に取り付けられたアルミ製のキャビネット、それに詰め込まれた酒やつまみが助長する威圧感など物としない。階上にある店の半分はあろうかという地下室には、他にも大小さまざま、100は軽く越す数のダンボールや包みが無造作に積み上げられている。どの荷物にも埃は被っておらず、きっちりと管理されている事は明らかだった。


「思ったより広いな」

 ジョンが満足げに胸をそらせた。

「アリババもびっくり仰天だ」

 早足で荷物の間を通り抜けていくたび、踏みつけられた梱包用油紙の破片が音を立てる。

「ここで昔、シカゴからきたワイズガイたちがカードをやってたって」

 ひっそりと言ったマークの声が、壁に沿って響く。

「上じゃない。特別の客は、下へ降りて酒も飲み放題、話だって誰にも気兼ねなくやれるから。わざわざ蓄音機を持ち込んだりして」

「詳しいな」

 リンが振り向いた。

「ジェムに聞いたのか」

「この前」

 俯いて、ダンボールを蹴飛ばす。

「ちょっと、話をしたときに」

 語末は喉につぶされて不明瞭なまま終わる。



「これを全部ひっくり返したら、一晩で終わると思うか?」

 早速一つ目の箱を広げたジョンが、中を覗き込んで唇が裂けたような笑みを浮かべた。

「見ろよ、これ」

 つまみあげた薄い冊子は、値の張る光沢紙を下手糞な製本技術で束ね合わせたもので、見かけは主婦向けのカタログ。ページを開くと、アジア系の女二人と黒人の男、露骨にまぐわっている姿が大写しにされている。

「一冊持って帰りな」

「いるかよ」

 投げつけられた雑誌を壁に叩きつけ、マークは渋面を作った。

「それよりも、さっさと探して帰ろうぜ」

「おまえら、まだそんな馬鹿なこと言ってるのか」

 怒りを通り越して呆れすら混じった声で、リンは憤慨してみせた。

「どう考えたら、こんなところに4万ドルが突っ込んであるって思えるんだ」

「信用しないって言うのかよ」

 声にこそ怒りを滲ませながらも、ジョンの眼はダンボールへ完全に逸れていた。黒マジックによる読めない文字が側面に書かれた箱からは、缶入りの食用油が顔を出す。舌打ちをして脇によけ、隣の箱に手をかけていく。

「この中に隠してあるんだ」

「あるわけない」

 蹴り飛ばしたダンボールの中で、甲高い割れ物の音がする。リンが顔をしかめるより早く、閉じられた中から強烈な柑橘系の香りが漂う。

「あーあ、なんだこれ」

 念入りなガムテープの封を引きはがし、掌に乗るほどの大きさしかない小瓶を取り出す。

「これ……ああ、ヘル、エルメスの、なんだ、『アン ジャーディン スー レ ニル』」

「今何て言った?」

「フランス語なんか読めるかよ。でも知ってるぞ、これ」

 指の匂いを嗅ぎ、小首をかしげる。

「前、どっかの女がつけてたんだけどな」

 緑色の小瓶は、至って自然な流れで彼のポケットに収まった。

「メレディスが喜ぶと思うか」

「僕に聞くな」


 とうとう足跡だらけの階段に座り込み、フレディは額を押さえた。言いたい事はあったが、口に出してジョンの機嫌を損ねるのがどう考えても得策ではないことは、彼にも理解できた。

「僕は知らない。メレディスの機嫌も、金の場所も」

「別に、こいつらに賛同してるわけじゃない。馬鹿さ加減は分かってる」

 代替品にされたことを百も承知で、リンはマニュアルどおり言い訳がましく両腕を振った。

「ただ、死人にはこんなもの……宝の持ち腐れって言葉があるじゃないか……合ってるよな、使い方」

「合ってる」

「だから」

 卑屈な上目だが、既に手が二つ目の新聞紙の包みに伸びている。

「おまえも、何かいるものがあったら。サラダ油とか」

「いらない」

 膝の上で腕に顎を乗せ、フレディはこの上なく疲れ果てた声で言い放った。

「大丈夫だって。明日の晩フライでも作って使い切ったら、絶対アシなんかつかないって」

「そういう問題じゃないだろう」

「とりあえず全部開いて、気に入ったものがあったら持って行けばいいだろ」

 言いながら、マークが小さな梱包素材を広げた。掌の上で数度振ると、ストーン・カメオのブローチが転がりだす。

「きっと、2000ドルくらいには余裕で」

「たまにはまともな事も言うじゃねぇか」

 マークに対し、ジョンは初めて邪気のない笑顔を見せた。重ねた指の関節に強く顎を押しつけることで義理と義憤を何とかなだめ、フレディは俯いた。




 確かに、ギャングが蓄えていた品物が気にならないわけではなかった。家計は、正直いって苦しい。新しい小説は杳としてアイデアが浮かばず、そもそも一作目の売り上げ自体がかなり微妙なラインを辿っていた。ポーリーンのパートタイムと、うんざりしていた自らの教職がどれだけ偉大だったか、フレディはここのところまざまざと思い知らされていた。大学の恩師から斡旋された通信教育の添削や、外国人労働者向け市民権獲得講座の仕事を掛け持ちしているものの、貯金と支出の比率は明らかに後者の方が大きい。ジャッキーの学費だって真剣に考えなければいけないこのときに。彼女がいなくなってからようやく分かった家計の状況はトルネード状の螺旋を巻いて神経の中を吹き荒れている。



 けれど、彼は一般人であり、そうあろうと努力してきた。育った場所の治安こそ良くなかったものの、懸命に勉強して大学に行き、ポジティブなアメリカン・ドリームを胸に秘める市民として生活してきたはずだった。若い時分には羽目をはずす事もあったが、幸いな事に今まで留置所はおろか、小学校の社会見学以来警察署にすら行ったことがない。それが今、一体何を。一瞬思いついた考えを慌てて吹き消し、厳粛な表情を作る。この場で浮いていようと構いはしない。最低限の認識を、しっかり捕まえていなければ。ここは、自分の世界ではないのだ。




 魔法のランプというよりはパンドラの箱。混沌とし、不条理で、欲望ばかり刺激する。安物の脱法ドラッグ、キットの手袋、スパニッシュ・ワイン、象牙のパイプ、ピスタチオ、スイス製時計、アンティークのピルケース、ビニール袋、色鉛筆、鼈甲の靴べら、繊細な銀の彫刻を施したタイピン、またスパニッシュ・ワイン、左腕でマレットを振り上げる偽ラルフ・ローレンのシャツ、取っ手が取り外しできるホーロー引きの鍋、海賊版のCD、新聞の切り抜き、チューブ入りの歯磨き粉、柔軟剤、ランニングシャツを鋏で切ったクロスの束、煙草、ゴルフボール、ブランドのロゴが入ったキーホルダー。



 男たちは背中を丸め、懸命に袋の中身を漁っている。テープを切り、箱を引き破っては期待に目を輝かせる様は、子供がクリスマス・プレゼントをあけるような無邪気さすら見えた。貪欲で、浅ましい。違うのは、それを本人たちが自覚しているか否かのみである。黄ばんだ新聞紙が音を立てる以外何も耳には入らず、皆一言も口をきこうとしない。



 悪徳はまだまだ続く。パイナップルの缶詰、頭痛薬という名目のドラッグ、ライターオイル、ケーブル線、シルクのハンカチ、万年筆、箱いっぱいに詰め込まれた空の薬莢、指にはめるゴムサック、またまたスパニッシュ・ワイン、カメラのフィルム、携帯録音機、枕カバー、オーディオ機器の説明書、古びた子供用の野球バットとミット、使い捨てボールペン、iPodもどき、ゴムひも、NBAのチケットの束、『ウェストサイド・ストーリー』のポスター、封を切った手紙、切られていない手紙、本革の財布、目薬、10枚1組で売られるタオル、殺虫剤、ネズミ捕り、紅茶用ティーバッグ、洗剤、キッチンばさみと包丁のセット。



「そんなのどこにあったんだ、半分よこせ」

「先にみつけたもん勝ちだ」

 伸ばしされたジョンの手から届かない位置へ箱を引き寄せ、リンは片眉を吊り上げて見せた。

「それにしたって、あんまりだろ」

 未練たっぷりの目で電子体温計を見つめながら、ジョンは高い声で嘆いた。

「てめぇ、自分の取り分は取ったくせによ」

「心配するなって、おまえの缶詰だって、レストランにでも売りつけたらそれなりさ」

 わざと言葉を切り、情けない顔つきのジョンを見下ろした。

「でもまぁ、そのポロシャツとポータブルラジオで分けてやらんこともないけどな」

「がめつい野郎め」

「なんとでも」

 リンが涼しい顔をする。

「集められるときが来たら、一気に集めるのが鉄則さ」



 思わずフレディは顔を上げた。心臓を鷲づかみにされたような苦しさを以って思い出すのは、去年の春頃、妻と二人で買い物に行った際の些細な会話。

『今の食器も、そろそろ欠けてきたりするじゃない』

 乳白色のパン皿を手に取ったポーリーンが、夢見るように言う。

『これで揃えようと思うんだけど、どう? ボーンチャイナって、見掛けのわりにけっこう丈夫なのよ』

『悪くないな』


 一回り小さな取り皿に手をやり、フレディは頷いた。それなりに値の張るものだったが、彼女が使いたいと思うのならば、反対はしない。むしろ、是非買ってやりたいとすら思う。普段は、迷惑をかけっぱなしなのだから。そこまでのところで思考をシャットダウンし、新しく顔を出した回路は、机の上に放り出してきた原稿についてのものだった。主人公は筏で川を下る。そこで誰に出会うか。思い浮かばない。あと一歩。

『毎月少しずつ買っていけよ。今月はこの大きい奴、次はあっちの皿』

 上の空で、無難な言葉が飛び出す。

『そんなの面白くない』

 そっと棚へ皿を返しながら、ポーリーンは首を振った。

『お金を貯めて、まとめ買いするわ。一気に集めた方が、感動も大きくなると思わない?』


 電気代や水道代を浮かせて費用を工面する計画を話していたポーリーンの横顔を、彼はおぼろげにしか思い出すことが出来ない。確かに隣で存在していたにも関わらず。あの時もっと真摯な態度で相槌を打っていれば、彼女は家を出て行かなかったのだろうか。




 今まであまり似ていないと思っていた彼女の兄は、子供のように無邪気なままで死人の遺した宝物を漁っている。真剣な表情を浮かべたときに伸びる目元の皺が似ている。思い当たった途端、纏う空気の共通事項が数え切れないほど浮かび上がってきた。それは、彼らがフレディとまったく違う性格の人種であるという事だ。それなのに、何故、自らはポーリーンを愛し、リンはいつでも家にやってくるのか。違いをはっきりと断言してしまうほど、鼻持ちならない自らを。



 どれほど尊大かはよく分かっている。けれど、フレディは感情に押し流されるままこの場で泣き出したくなった。ポーリーンへの恋しさまで同時に襲い掛かってくる。今ならば、この部屋で行われている全ての愚考を許す事が可能だと、彼は本気で思い込むことができた。




「ないな」

 気楽な口調で一言、トレヴァーは戦利品の入ったダンボールを抱え込んだ。

「4000ドルは、ない」

「絶対、ここに隠してたんだ」

 埃で黒くなった手を握りしめたジョンが、トレヴァーの後頭部をにらみつける。

「俺が、この目で見たんだからな」

「もうないんだ、ジョン。往生際が悪いぜ」


 リンが再び口元に不機嫌さを作る。身を動かすたび、ポケットへ大量に詰め込まれた金メッキの指輪がぶつかり合い、小さく音を立てた。露天やバザーで「14金」と銘打って売られているそれは彼のズボンを占領するだけでは飽き足らず、嫌がるフレディのスラックスにも幾つか収まっていた。

「ないんだよ。4000ドルは、どこか違うところにあるのさ」

「そんなわけねぇ」

 梱包材の山を掻き分けながら部屋を横切るジョンの顔には、動揺すら浮かんでいた。

「きっと、酒棚の裏に隠し金庫でも」

「全部引っこ抜いて調べたじゃないか」

 リンが顎で示した先には、アルコールの瓶が行儀よく並んでいた。幾つかは味見の名目で半分ほどに減っているものの、誰の足もふらついていないのは、さすがと言うべきだろうか。


「もう、何時だ」

「3時前」

 裸電球の下で、フレディは目を眇めた。声をかけられたことで、自らの中に燻っていた不安と焦りが共鳴する。同意を求める眼差しを送れば、リンも小さく頷いた。

「そろそろ潮時だ」

「なんてやろうだ!」

 がなり声はコンクリートへ盛大に反響する。

「自分が分け前を手に入れたらハイさようなら、ってか。え? リン。俺が今までどれだけおまえにいろいろしてやったか忘れたのか?」

「そんなことないさ」

 明らかに不満げな表情ながら、とりあえずのところは宥めるような口調を喉から出してみせる。

「おまえは大した奴だよ」

「おべんちゃら言ってる暇はねぇんだ」

 荒い鼻息の合間にジョンは舌を回す。


「早く帰りたいならさっさと見つけりゃいいんだ。おい、トレヴァー」

 人形へするように、頬を腕の中のダンボールにつけたままのトレヴァーが、鈍い動作で顔を上げる。

「ぼさっとしてないで、おまえも探せ。一つくらい取りこぼしがのこってるかもしれねぇ。どっかに隠し場所があるかも」

「これだけ探したのに」

 アルコールで禁断症状を騙し続けているせいか、身体が上下に揺れている。

「もう見つからないって」

 いつもは皆を諦めさせる薄笑いも、今回だけは効果がない。とうとうジョンの顔が、薄暗い中でもはっきりと分かるほど色を変える。

「この裏切りものめ!」


 小さな体から飛び出し、空気そのものを爆発させる怒号。体の横に張り付く力の篭った腕が上へ振り上げられ、壁に背をつけ狼藉に身を縮めていたスチールキャビネットを掴む。半拍で力を溜め、次の瞬間彼の手から離れた2メートルほどの棚は、その巨大な身をこちら側へ傾けた。スローモーションのように感じた事は、フレディも覚えている。階段を昇りかけていたマークが足を止め立ち竦むのと、フレディが裸電球に直撃するキャビネットの角を視界で捕らえたのは、ほぼ同時の出来事だった。




 ガラスが砕け、火花が散る。続いてリンの叫びと、それを追いかけるようにして床へ倒れ伏す棚の金属的な音。数秒の間、完全な沈黙が室内を制圧した。音の余韻が全て消え去るまで、フレディは階段で膝を抱え、身体を丸めていた。湿度の高い匂いは攪拌されて強まり、アルコールを含んだ汗と混ざる。力の篭ったつま先と手は熱いのに、冷汗すら滲まなかった。埃を交えた空気が鼻先を掠めていくのを感じる。強く閉じた目の奥で星が散り、そのまま視神経を伝って脳内へ流れ込んでは、崩壊しそうな正気を強制的に遮断していた。


「こんちくしょう」

 まったく覇気のない声で、ジョンが呟く。

「こんな上手い事行かないのも、久しぶりだ」

 耳慣れた音と、オイルの匂い。ジョンの手に握られたライターは、辛うじて部屋の半分を照らすことに成功した。

「リン?」

 蹲った身体は半分闇に囚われている。頭を押さえたまま、リンは低い唸りを一気に怒りへと変換させた。

「殺す気か、くそったれ!」

「大丈夫か」

 足元に転がる何かに躓きかけながら、フレディはなんとかリンの傍に到着した。

「大丈夫に見えるか」

「見えないが……血は出てない」

 ジョンが差し向けた光の下、型崩れした髪の間を覗き込む。

「でも、これ」

「いてっ」

「あ、悪い」

 大きな瘤に触れた指を慌てて引っ込める。

「冷さないと、腫れるぞ」

「死にゃあしないって」

 向けられたリンの物凄い憎悪に、ジョンは肩を竦めた。

「ったく……分かってるって。悪かったよ」

 唇を尖らせ、奥のほうにも光を回す。

「ルーキーは? 逃げやがったか」

「逃げてない」

 ぶっきらぼうな声が、階段の半ばから落ちてくる。

「あんた、ほんとバカだな」

「ケツの青いガキよかマシだよ」


 キャビネットをまたぎ、ライターを振り回す。くすんだ壁の上で、伸びた影と、棚の形どおりに張り付いた埃が踊る。

「まさか壁の中に塗りこんでるってことはないだろうな」

 握ったこぶしで壁を叩き、耳を澄ます。音が帰ってくる前に、額を押さえたままのリンはゆっくりと立ち上がった

「俺は帰るぞ」

 階段の上から不安げに覗き込んでいるマークが、身体を壁際にずらす。

「もう知らん。あとは好きにしろ」

 ふらつきながらも箱を抱えようとする姿を見かね、思わずフレディは力ない腕に手を伸ばしていた。

「リン」

「悪かった、余計なことに巻き込んで」

「いいんだ」

 失われた生気が、取り上げたダンボールの重みへ更なる圧力をかける。

「今更、言わなくてもいい」

「ジャッキーが待ちくたびれてるだろうな」

 笑みを作るのに失敗した目じりが、痛みをこらえるように下がる。

「ちゃんとつれて帰らなきゃ、俺まで一緒に叱られる」

 言葉を探すフレディの背中を階段のほうに押しやり、空笑いでその場を終わらそうとする。やりきれなさに腹立ちすら覚えながら、フレディは黙って階段に足をかけた。


「勝手にしやがれ」

 背後でジョンが吐き捨てる。

「1セントだってわけてやるもんか」

「最初からそんな気ない癖に、よく言うぜ」

 リンの捨て台詞を無視し、足を踏み鳴らす。

「おい、トレヴァー。さっきから何ごそごそ」

 移動する明かり。見なくても分かる、一瞬で張り詰めた緊張。

 


 一番最後に振り返ったフレディは、床に散らばった100ドル札の上に這い蹲るトレヴァーの見開かれた眼が、獣の如く一直線に踊りかかるジョンの分厚い背中に隠れる瞬間をしっかり見届ける羽目となった。フェイ・レイがキングコングに鷲掴まれたときでも、あれほど眼を剥いて喚かなかったに違いない。

「待て、ジョン!」

 無駄だと知りながらも、リンは精一杯声を張り上げた。

「殺すな! これ以上殺しちゃまずい!」





「ジョンが3千500ドル、トレヴァーが500ドル。結局一番ふんだくってやがる」

 後頭部に乗せた氷を揺らしながら、リンはふてくされた表情で唸った。何度再燃させたか分からない憤りに、後部座席のマークは狸寝入りを決め込んでいる。

「場を収めるには、他に方法がなかったから」

 田舎の州道周辺は店の閉まる時刻も早く、酒場ですら鍵を落とし、一台きりの車を拒絶していた。強風に引き寄せられた分厚い雲が月を覆い隠し、照明すらない道の先はどこまでも暗い。

「それに、始末は……二人でしてくれるって」

 ひびだらけのアスファルトにハンドルをとられそうになり、フレディは握り締める手の力を強めた。

「当たり前だ」

 相変わらず、リンはそっぽを向いている。

「ラリってるだけが能じゃなかったってことさ」


 

『箱の上に放り出してあった』

 鼻血でむせ返りながら、トレヴァーは懇願するようにジョンの腕へしがみついていた。

『シーツの近くに……魔が差したんだ。わかった、渡すよ』

 泡を吹いたジョンは、何も言わずに拳を男の口にめり込ませた。立ちすくんでいるフレディの前に立ちはだかっていたリンが、小さく息をつく。

『それくらいでやめとけよ』

 平坦な声。もっと酷い事をやった後では、恐れる気にもならない。そう思ってしまった自らに、普段ならもっと恐れ戦いているはずだった。けれど、疲れきった頭ではもう何も処理できない。目を瞑り、小さく歌を口ずさみだしたフレディへ、マークが呆れたような声を出した。


『あんた、肝が据わってるね』

『そりゃあどうも』

『疲れハイって奴さ』

 リンが草臥れた声で言う。

『作家先生は、本来神経が繊細なのさ』

『そうだといいんだが』

 フレディは気だるく首を振った。

『意外とあつかましいし、逞しいんだよ』

『馬鹿いえ。お前くらい軟弱な奴、そういないよ』

 自らへ言い聞かすように何度も頷く。

『いじめちゃ駄目な人種さ。おい、ジョン』

 猛烈な勢いで床を蹴り続けているトレヴァーの足から靴が剥がれ落ち、転がる。

『殺す気か?』

『ボール箱の上に放り出してあったんだ』

 リンの声を消しながらトレヴァーが喚く。

『本当だ』

 ジョンの気が済んだのは、それから10分も経ってからのことだった。




 つい先ほどの記憶は、正常値に戻りつつある理性の中において、とんでもない恐怖を形取って浮かび上がる。鮮明なイメージに蓋をしながら、フレディはフロントガラスの向こうをにらみつけた。

「でも、あれは」

「それ以上言うな」

 氷の入ったビニールごと、リンは手を振る。

「ジョンも知ってるし、トレヴァーも承知だった。だから、気軽に持ち逃げしようとしたんだ」

 ミラーに引っかけられた芳香剤が、エンジンのうなりにあわせて揺れた。

「じゃあ、一体どこにある」

 いけないと分かっているにも関わらず、フレディは問いを押さえ込むことが出来なかった。

「本来渡されるはずだった4000ドルは」

「俺に聞いたってしょうがないだろ」

 後悔したとおり、いよいよ気分を害したリンがヘッドレスに頭を押し付け、すぐさま痛みに飛び上がる。


「ああ、くそっ。どこに隠してようが、もう二度と手に入らなくなったことは確実さ」

 窓を開け、氷の袋を外に放り出す。潰れるような音は、車内に招き入れられた生ぬるい豪風にかき消され、遥か後ろへ流れていった。

「ジェムの奴、なんて業突く張りだ」

「ジョンやあんたらに比べちゃ、ずっと正直者さ」

 風にも負けぬはっきりとした口調へ、同時に振り返る。いつのまにか眼を開いていたマークは、射抜くようにフロントミラーを見据えていた。

「ただ、どうしようもなく運が悪かったんだ」

「なんだ、そりゃ」

 リンが乾いた声で笑う。

「確かに運の悪さは事実だが、あいつに限って正直は」

 向けられた視線に、フレディも薄く苦笑する。

「どこで降りるって?」

「この先の角を左、そこでいい」

 それからまた押し黙ってしまったマークへ、リンは腹立ち紛れの薄笑いをいつまでも投げかけていた。

「正直者って、便利な言葉じゃあないか」




 シャッターすらも錆びかける潰れた花屋の向こうで、車は静かにとまった。

「じゃあ、4000ドルは使い込まず、笑顔で手渡しする予定だった?」

「予定ならな」

 腰を浮かす。降りるそぶりの変わりに、青年は右腕を後ろ手に回し、シャツの下から皺だらけの紙袋を引っ張り出した。

「タイミングを逃しただけで」

 マークが今度こそドアを開け放つまで、二人はつかみ出された4000ドルを穴が開くほど見つめ続けた。



「ジェムが、俺にもそろそろ仕事を手伝えって」

 子供っぽい仕草で車から飛び降りながら、マークはあっけらかんと言った。

「贔屓はしない、初めはみんな使いっぱしりからやるのが、ワイズガイだもんな」

「でも、おまえ」

 粘っこい口調のリンが、ポケットに押し込まれた札束を眼で追いかける。

「それならさっさと金を渡しちまえば、こんなことには」

「誰に幾ら渡せばいいのか分からなくてさ。あんたがもう貰ってるって言ったときは、パニックになったぜ」

 トランクを指差す。慌ててフレディがレバーを引いた。


「誰も信用するなっていうのが鉄則だからな。嘘つかれて配り間違えでもしたら、俺どころかジェムの信用までガタ落ちだ。こりゃ聞いたほうがいいなって思った途端、ズドン、だ。結局、最悪だったけど」

 軽々と箱を担いでみせた青年の顔は、『ルースター』に居座っていたときの百倍は生き生きとして見えた。

「あの瞬間、俺はこの世界にゃ向いてないって思った。銃だけで震え上がるなんて、ギャング失格だよな。それに俺は、あいつらほど馬鹿じゃない」

 金は再び袋に戻され、箱の中に消えた。

「行方不明だった金が本当に消えたって、もう誰も驚かない。そう思った。間違っちゃいないだろう?」

 ジョンほどではないにしろ、それなりに口も回るはずのリンは、ただ呆然と蹴り閉められた車の揺れに身を任せていた。

「嘘だろ」

「ほんとさ。人生は、ままならない。けど、それが悪い方へ転ぶばっかりだとは限らない」

 にっこり邪気のない笑顔は、まだ敗北すら自覚できない彼らにはあまりにも眩しすぎた。

「これを元手にして、足を洗うよ」

 寂れたアパート街に消えていくマークの後姿に、先に自失から醒めたフレッドは最後の好奇心をぶつけた。

「一応聞くけれど、名前は」

 箱越しに振り返ったマークは、余裕の表情で肩を竦めてみせた。

「マーク・R・スミス。出来たら、言いたくなかったけどね」

「それは……なんと言っていいか」

「遠縁程度さ、気にしちゃいない」

 笑いながら、手を上げる。

「むしろ、せいせいした」

 口笛を吹きそうな気安さで、幅の広い肩は堂々と夜の闇を切り裂いていった。





「あんまりだろ、こんな結末」

 繰り返される言葉にいい加減腹を立てながら、それでもフレディはおとなしくリンの愚痴に耳を傾けていた。

「最後は一人勝ちか。畜生、損したぜ」

「いいじゃないか、もう」


 リンの一戸建ては既に明かりも消え、ひっそりと静まり返っていた。緩みそうになるのは気持ちだけではなく、うっかり滲みそうになった涙を強い口調でごまかした。いつの間にか、夜の帳もうっすらと白んできている。

「僕の500ドルを返してやるから、それで我慢しろ」

「いいって、そんなことしなくても」


 開け放たれたガレージへも、出来るだけ音を立てないようにと気を使いながら車を進める。二階の一室に光が浮かぶ。様子を窺っていたリンが、悲壮な表情を浮かべた。

「それと、こんな安物、いらないからな」

 エンジンを切ったフレディは、ポケットから金メッキのリングを掴み、リンの掌に乗せる。

「もう勘弁してくれ」


 車内灯の下で大げさな光を放つ指輪に暫く視線を落としていたリンは、やがてため息と同時に両手をポケットに突っ込んだ。

「ありがとな」

「最初から、いらないって言ってたじゃないか」

 ハンドルに顎を乗せたまま、憮然として目を向ける。ぐったりとシートに凭れ掛かったリンの横顔は、つい数時間前倉庫の中で見せた笑顔と同等の痛みを湛えていた。

「もしもお前をこっちの方向に引きずり込んじまったらって、気が気じゃなかったんだよ。ジャッキーになんて言い訳すりゃいい」

「僕の事、信用してないのか?」

 ついに堪忍袋の尾を切らし、フレディは苛立った声をあげた。

「ちょっとやそっとで転ぶもんか。僕はまともな一般市民だ」

 本気でにらみつけてくる視線を気だるげに受け止め、リンはまた一つ、今度は酷く酒臭いため息をついた。


「おまえ、ほんと馬鹿だよなあ」

 それが眠りに落ちる寸前の安らかな吐息だとは気付いたのは、彼の水色の瞳が半分以上瞼に隠れてしまったのを眼にしてからだった。

「俺の杞憂ってか。ああ、馬鹿らしい」

 とろりと視線を溶けさせ、頬をシートにこすりつける。

「こんなところで寝たら、風邪引くぞ」

 自らも大きな欠伸を漏らしながら、フレディはリンの肩を揺すった。

「家まであと数歩じゃないか」

「今夜はここで寝る」

 鬱陶しいと言わんばかりに手で振り払い、寝返りをうつ。

「家に入ったら、メレディスに撃ち殺される」

「僕も言い訳するよ」

「当てにならん」

 既に舌の縺れている友人をどうやって家に押し込むか、フレディは自らもすっかり緩んだ頭で必死に考えていた。




 -了-

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[良い点] 言い回し、比喩、固有名詞の使い方、すべてが好みであり、カルファーレ自身も目指すところであります。 海外作品特有なのか、むしろそれを訳された日本人のボキャブラリーに惚れ込んでいるのかは自分で…
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