わたしの世界
桜舞う季節よりすこしはやいくらいに高校を卒業して、小町 涼はK大学に進学した。涼は新しい世界への希望で胸をいっぱいにして、未来への道を進んでいた。新しい洋服を買って、お化粧品もそろえた。高校では禁止されていた染髪にも挑戦しようと思っていた。だけど、それはかなわなかった。
涼は大学の写真サークルに入った。みんないいひとたちで、涼は最高の大学生活が送れると思っていた。涼は子供の頃から絵とか、写真とか、そういう「止められた一瞬」が好きだった。だから入学祝に買ってもらったカメラを、一生大事にしようと思っていた。
写真サークルの、新一年生の歓迎会が行われた。初めての飲み会で、もちろんアルコールは飲めないが、その場の雰囲気を目いっぱい楽しんだ。友達もできて、どんな生活が幕開けるんだろうと、わくわくしていた。
その、歓迎会の帰りだった。
「小町さん、ひとりで帰れる?」
駅を降りたところで、先輩にそう聞かれた。涼はうなずいた。
「はい、家、ここから近いので」
一人暮らしも始めた。ぜんぶ自分でやらなきゃいけないのは大変だけど、自由な生活に憧れていたのだ。
「じゃあ、気を付けてね」
先輩と別れ、暗い夜道を歩きだした。人通りはなく、涼の歩く音だけが耳に届く。月は雲に隠れ、道を照らすのは人工的な明かりだけだった。
一人暮らし、気を付けるのよ、と母親から言われていた。どんなひとが同じアパートに住んでるかわからないんだから、と。だけど、気をつけようのないことだって、あった。
一瞬だった。足音も物音もしなかった。どん、と衝撃だけがあった。
「え?」
それから痛みがやってきて、体に力が入らなくなった。すぅっと血の気がひいて、刺されたんだ、と理解した。涼の体は倒れ、視界は真っ暗になった。どうしてわたしが? これからの生活に期待を膨らませていたのが悪かったの? せめて犯人の顔を見ようと思ったが、首が動かない。
なにか、恨まれるようなことをしたかな、殺されるほど、恨まれることを。身に覚えはなかった。通り魔だったら、どうしようもないな。
死ぬのかな、と涼は思った。このまま死んで、お母さんとお父さんを悲しませるのかな。それは、すごく嫌だな。まだたくさんやり残したことがあって、まだ生きたくて、死ぬなんて、考えたこともなくて。ぼんやりとした頭で考えて、そのまま、意識を失った。遠くで雷の音がしていた。
「この子の状態は、死亡だろうか。ねぇ、古島君、どう思う? 私はただ眠っているだけだと思うね。なぜかって? 胸が動いているからさ! 古島君もそう思うだろう? うんうん。じゃあどうしてこの子はこんな森の中で眠っているんだろうか? 私はね、古島君。私たちと同じ境遇にあるんだと思うね。どうしてかって? それは私たちも同じ状態で眠っていたからさ! さて。この子を起こすべきだろうか。物語的に言えばこの子はきっと、王子様にキスをされて起きるのが一番なんだろう。しかし、この場に王子様はいない。なら誰がキスをする? 古島君か、私かのどちらかだ。ではその二択を、誰が決めるのか? それは私たちだ。しかしだね、古島君。君はこのいたいけな少女にキスなんてできるかい? できないだろう! ならば私がキスをしてこの子を起こすべきだと思うんだけど、どうかな? うんうん、私に賛成なんだね。わかっていたよ」
うるさいな、と思った。涼は顔の上でなされる話を聞いて『この子』が自分であることに気づいた。起きなきゃ、となんとか目を開けると、目の前にふたりの男の顔があった。
「おや、起きてしまったのかい? でも私はまだキスをしていないよ、眠り姫。さぁ、もう一度目を閉じて。私がキスをしてから起きるんだ。物語的にはそれが一番正しいんだよ。なぜかって? その方がドラマチックだからさ! だから、ほら、目を閉じて……」
「え、いや、起きたんで、いいです」
涼が断ると、男は残念そうに顔をそむけた。
「あの、ここは?」
上半身を起こし、涼は辺りを見回した。確か、わたしは夜道で刺されたはず、と記憶をたどる。病院でもなさそうだし、何より痛みがない。そして涼は草むらの上にいる。辺りは木々に囲まれ、どうやら森のようだ。こんなところに、けが人を連れてくるはずがない。
「ここは、森だね!」
紺のスーツ姿の男が、そう言った。さっきからよく喋っていた方だ。
「僕ら、死んだみたい、ですよ」
もう一人の、黒いスーツの方が言った。穏やかそうな男だ。
「そう、死んだみたいなんだよ。ここは、来世、とでも言おうか。私は生前の記憶があるんだ。何らかの理由で死んだ覚えがあるんだ。だけど、どうやって死んだのかは思い出せない」
「僕も、そうです。死ぬときを、覚えて、いないんです」
彼らはそう言った。涼も同じだ。あの刺された記憶が本当で、ここが夢でないなら、涼は転生したということだろうか。しかし、体の大きさも服装も、生前と同じままだ。
「申し遅れたね、私は百々 満だ。生前は高校の教師をやっていた。そして彼は古島 和。私の勤める高校の事務員だよ」
満と名乗った鷹色の髪の男はウィンクしてみせた。和と紹介された黒髪の男は、そっと会釈した。
「あ、ええっと。わたしは小町 涼といいます。十九歳です。大学の歓迎会の帰りに、誰かに刺されて、死んだみたいです」
涼が立ち上がってお辞儀をすると、ふたりは顔を見合わせた。
「うん、自己紹介も終わったし、これからどうする? そもそも、私たちが元いた世界とは、それぞれ同一なのだろうか。私と古島君は同じ学校に勤めていたから同じだとしても、このように他世界の存在を認めなければならないとなると、小町さんがいた世界が私たちと同じ世界だったかどうか、わからないね」
ぺらぺらと喋る満は涼の返事を聞かずに歩き出した。和もそれに続く。
「さて、ここで喋っていても何も始まらない。とにかく、我々は仲間だということにしようじゃないか。小町さん、君もここがどこかわからないんだろう?」
「は、はい」
「なら私たちは仲間だ。ね、古島君!」
「そうですね」
歩き出したふたりの後ろを、涼は続く。そんなに深い森ではないらしく、すぐに森の出口が見えた。小鳥の鳴き声が聞こえる。のどかで、だけど日本ではないように感じた。
森を出ると、城壁が目に映った。門番がいて、馬車が門をくぐっていく。あれは、街だろうか、それとも国だろうか。
「あっち、行って、みます?」
和が言うと、満は大きくうなずいた。
「そうだね。それが一番良い案であると言えよう!」
続く