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 ぎりぎりぎりぎり……


 ダドンリイ家当主の重厚な書斎に、耳障りな音が響いていた。


「お義父さま、歯ぎしりもいい加減になさいませんと、歯が折れますわよ」

「おのれ、ウルスの小僧め、うちの娘たちに近寄りおってからに……っ」


 あまりにも歯ぎしりがひどいので、見かねてユリアは苦言を呈したが、(しゅうと)は窓から中庭を見下ろし、そこで歓待を受けているエルク=ウルスへの呪詛を吐くばかりである。その形相の険しさは、伝説に聞く鬼の冥人(めいじん)もかくやというありさまだ。


 ユリアも窓辺に近づき、庭でのささやかなお茶会をながめた。


 色とりどりの花が咲く庭に置かれた小さなテーブルを、娘のシェーラと姪のラーナ、そして、友人マルキアの息子エルク=ウルスが囲んでいる。側では古参の侍女が一人、給仕をしていた。ラーナはこちらに背を向けているが、きっと戸惑っていることだろう。控えめな子だから、こんなささやかな社交の場にすら出ようとしないのだ。


 ラーナとのデート――が、この度の協力に対するエルク=ウルスが求めた報酬である。


 真珠を守る会(主な構成員はダドンリイ家とその使用人)での厳正なる審議の結果、館に招いて一緒にお茶を飲む程度ならかまわないだろうということになった。――いや、実はそれですらも男どもは大反対したのだが、今回のウルス家の協力は得がたいものであったし、ラーナに対して過保護がすぎると女側が押し切ったのだ。ウルス家は武器を取り扱っているだけあって、裏社会にも顔がきく。その方面から得られた情報は大きかったので、なんらかの見返りは絶対に必要だった。


「あ、あの色魔、ラーナに触ろうと――よし、カヤのやつ、よくやったぞ」


 ラーナがエルクにミルクピッチャーを手渡ししようとするのを見て舅がわめいたが、侍女のカヤが横からかっさらい、改めてエルクに渡していた。心なしかエルクの顔がひきつった気がする。


 と、その時、菓子をのせた盆を持ったティグが、館から出てきた所で転んだ。器用にも盆を手放さず、菓子をまったくこぼさずに、腹から地面に落ちた。

 ラーナが慌ててテーブルを離れ、ティグに駆け寄る。

 エルクが手で顔を覆って、大きく息をついていた。


「よし! ティグもよくやった!」

「あ、お義父さま、ティグで思い出しましたけど――」


 ようやく一息ついた舅に、ユリアは前から気になっていた事案を持ちかけた。


「ティグの護衛報酬用にやっぱり別に隠し財源を作らないと、そろそろラーナちゃんの目をごまかすのが厳しくなってきたのですけど」

「うむむ、なんとかならないか?」

「無理ですって。ラーナちゃん、優秀ですから。今回はドレスの仕立代でごまかしてなんとかしましたけど、ちょっともう限界ですわね」


 冒険者としてのティグに支払っている報酬はかなり高額だ。といっても、ダドンリイの経済力からいえばそう大したものではない。ただ、ラーナに知られたら彼女は驚くだろうし、護衛など要らないと恐縮して遠慮するだろう。だから、ラーナには隠す必要がある。


「そうか、分かった。検討しよう」

「やっぱり素直に会計院に就職させた方がよかったのでは」

「あんな男が大勢いる所にラーナをやれるか!」

「ハイ、ソウデスネ」


 大人げなく足を踏み鳴らす舅に、ユリアは過保護がすぎると逆に変な虫にひっかかりやすくなるのでは、という言葉を飲み込んだ。


 この件に関しては、舅と姑は対立している。ラーナが珍しく残念そうな気持ちを表に出し、それを見て姑が完全にへそを曲げたのだ。本来、姑はあまり国からは出ないが、今はあてつけのように元首の外遊につき合って不在にしている。そのせいで女主人役がユリアの肩にかかってきているので、とばっちりもいいところである。


「そうそう」


 ユリアはここに来た用事を思い出し、姑から届いた厚みのある封筒を差し出した。


「お義母さまからこれが届きましたわ」

「――まったくあれは、一度怒るといつまでもねちねちと……」


 本来は舅に直接送られるべき資料がユリアを経由したことに、いまだ続く妻の怒りの(くすぶ)りを察して、舅は決まり悪げにぶつくさと文句を言いながら、封を開けた。鋭い目でざっと目を通す。


「あれも外遊先でガルケルの資金源を順調につぶしているようだ。あのババアも協力しているらしい」


 あのババアとはグラルツェン市国の元首のことだ。舅や姑より年上の矍鑠(かくしゃく)たる老女である。


 ガルケル子爵も、いち会計士を調査しようとしただけで、まさか国家元首が出張ってくるとは思ってもいなかっただろう。ラーナの件以前にダドンリイの財を横領した疑いがあるにしても――本当にご愁傷さまと言うより他ない。


 ちなみに夫のグストと息子のキースは商売でそれぞれ別の船団を率いて外国に行っているが、そこで色々画策しているらしい。嬉々とした手紙が早船で届いた。シェーラもこれまで培った人脈を通して、不穏な噂を流しているようである。友人マルキア=ウルスに至っては――彼女が何を企んでいるかなど、怖ろしくてユリアは考えたくもない。


 怖ろしくも(いと)しい人々を想って、ユリアは苦笑した。


「お義父さま、この度はわたくしの親戚がご迷惑をおかけしました」


 まだ一度も謝罪していなかったので、ユリアは改めて頭を下げた。


 しばらくの沈黙ののち、舅の足が再び窓の方を向く。そして、


「お前は嫁して二十年以上になるというのに、まだ帝国人でいるつもりなのか」


 ぶっきらぼうにそう言った。

 舅のことをよく知らない者からしたら怒っているように見えるだろう。実際、嫁いだ当初はユリアも舅のことが怖かった。だが今では知っている。これは舅なりの照れ隠しだと。


 ユリアはダドンリイの者なのに、帝国人がやらかしたことに謝罪するのか? それは的外れもいいところだ、と。


 ダドンリイの人々は愛しくはあれども、どこかしら皆、不器用な性格をしている。また、帝国の貴族家で物のように――ただ美しいだけの宝石のように扱われたユリアは、グラルツェンに来てしばらくは、まるで人形のように情緒が欠落していた。その頃のダドンリイ家は息苦しくて堅苦しくて、氷の牢獄のようだった。


 そこへラーナがやって来て、春の日ざしのように光を照らし温もりを与え、氷を溶かしていった。


(ラーナちゃん、あなたは小さかったから覚えていないでしょうね)


 その時の世界の変わりようはあまりにも鮮やかで、当時はまだ子供だったキースやシェーラにすら強い印象を残しているそうだ。いや、子供だったからこそ、より一層強烈に印象づけられたのかもしれない。


 ユリアは頭を上げた。


「わたくしはもちろん帝国人ではなくて、グラルツェンの、ダドンリイの者ですわ」

「ふん、分かっているならいい。――ウルスの小僧、シェーラにも近づきすぎじゃないか?」


 怒った顔で話題をさっさと変える舅に笑いをこぼし、ユリアはティグを気づかっているラーナを見下ろした。


(ラーナちゃん、わたくしたちの愛しい愛しい真珠姫)


 ダドンリイの者たちは皆、ラーナの幸せを守るためなら全力を尽くすだろう。




   ∞ ∞ ∞ ∞ ∞




「これは俺が知っているデートとは違うんだが!?」


 思わず覆ってしまった手をはずしながら、エルクはにやにや笑っているシェーラと、誇らしげに胸を張る侍女をねめつけた。少し離れた所では、ティグがラーナに気づかれないよう、自慢げに鼻をひくひくさせている。そして、見上げると、ダドンリイ卿が血走った目でこちらを見下ろしていた。


 完全に敵地である。


 この空気にまったく気づかないラーナが愛おしい。できれば他の場所で会いたかった。二人きりでなどと贅沢は言わないから。


「ごめんなさいね。これでも頑張っておじいさまとお父さまとお兄さまの譲歩を勝ち取ったのよ」


 くすくすと笑いながらシェーラは紅茶を飲む。ごめんなさいと言いながらも、面白がっているのを隠そうともしていない。


「前途多難だな……」

「当然でございます」


 エルクがぼやくと、貫禄ある侍女がふんすと鼻を鳴らした。


「ラーナさまと同じテーブルにつけただけで、十分光栄なことと思って下さいませ。あなたさまはとかく評判がよろしくございませんので、エルク卿」

「……」


 本当に先は長そうだ。


 館に招かれ一緒にお茶を飲むというのは、以前に比べたら長足の進歩には違いないのだが、いかんせんガードが固すぎる。予想はしていたものの、それをはるかに超えた鉄壁を、エルクは今、ひしひしと実感していた。


 今回の収穫は、母が協力的であると分かったことだろうか。仕事の虫で放任主義な人だが、さすがの母もエルクの素行には少々頭を痛めていたらしい。善良そうな笑みを振りまきながら平然と性悪な策を取る人なので、心強い味方である。


「まあ、一歩一歩、着実に進めるさ」


 そう言って、エルクは冷めた紅茶を一息にあおった。




   ∞ ∞ ∞ ∞ ∞




 運河の喧騒がここまで流れてきている。

 ティグの服についた汚れを払いながら、その明るげな音と潮の匂いをラーナは意識せずに感じとっていた。グラルツェン市国は狭い地なので、静かな住環境というものは望みようもない。そもそも庭がある時点でダドンリイ家は大変に贅沢であった。喧騒は幼い頃から聞き慣れて、肌になじんでしまっている。


 今日のラーナは少しおめかしをしていた。

 エルクをお茶に招いたとのことだったが、それにラーナも参加するよう言われ、とても戸惑った。エルクは……シェーラに会いにくるのではないだろうか、と。


 ウルス家の紋が入った船で訪れたエルクは、とても素敵だった。


 エルクとは仕事関係の場で偶然出会うことがほとんどだ。そういう場ではエルクはラフな格好をしているので、今日のようにかしこまった服を身につけ、髪をきれいに整えた彼は初めて見た。手土産に花束を贈られ、姫君のような気分を味わえてラーナは浮ついたものの、反面、ああこの人はやはり貴族なんだなあとちりちりとした痛みを胸に感じた。

 今もエルクはラーナには決して見せない困ったような表情を浮かべ、シェーラが楽しそうに笑っている。越えられない壁を感じた。横目で二人を盗み見している自分がとても嫌だった。


「ティグ、どこも痛くない?」

「……うん……」


 ティグの服の汚れを大体払い終えてそう聞くと、不思議な運動神経を持つ仔猫は可愛く笑ってうなずいた。転んだのにお菓子をこぼさない体の動きが謎で仕方なかったが、可愛いのですべてがどうでもよいと思えてしまう。


「じゃあ向こうに――」


 行こうかと言いかけて、ラーナはためらった。

 シェーラとエルクの二人の世界に、ずかずかと踏み込んでいってもいいものだろうか、と。ラーナにその資格はあるのだろうか、と。


 ラーナが躊躇していると、ティグがくいっと袖を引いた。


「……はやく、行く……」

「うん、そうね」


 ティグに引っぱられ歩きだすと、シェーラとエルクが華やかな笑顔で迎えてくれる。


(うん、今日はいい日だ)


 いつも通り平穏で、ちょっとだけ華やかで、とてもいい日だ――と、抜けるような青空を遠目に見ながら、ラーナはそう思った。

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