第三話 『一時の幸せでも、不幸よりはいいだろう』前編
いつもより少し遅い時間のアラームで目が覚める。それでも瞼は重く、身体はベッドを離れることを拒んでいるようだ。
無理もない。昨夜はなかなか寝付けなかったから。
悩んでいたことがあった。それは決して重い話ではなく、むしろその心境は遠足を控えた小学生のそれに近しいものがある。
僕は思い切ってベッドから出て、一階にある洗面所に向かう。
顔を洗い、歯を磨く。私服に着替え、髪を整えた。普段でもここまで身なりに気を遣ったことはないな。
朝ご飯にトーストを一枚食べたところで、起床から約一時間。予定通りだ。
「行ってきます」
誰もいない家の中に向かってそう呟き、外に出た。親父は今日も仕事だ。
戸締りをし、振り向くと、
「おはよう!紘幸君!」
と、最近よく聞く声が僕を迎えてくれた。
「おはよう。待ったか?」
「大丈夫だよ!」
彼女はそう言ってくれるが、多分早くからいたのだろう。迎えに行くと言ったのに。まあ、これもある程度予想はついていたけど。
今日は日曜日。快晴。桜の時期が終わり、梅雨を迎える前という一年の中でも穏やかな季節の休日である。そんな日に、僕は真白と出かける。
提案したのは僕だ。あれから少し悩んだ。僕が真白と関わることでどんな結果を生むのか。何が変わるのか。分からなかった。でも、何もしないままだと、真白は独りになってしまう。自惚れかもしれないが、僕と関わり始めてから彼女はよく笑うようになったと感じている。僕と過ごす時間を楽しんでくれているのだと思っている。そう思いたい。
だから、いずれ消えゆく記憶だとしても、その中でいい思い出を刻んでほしいと思ったんだ。無表情に、無感情に生きてきた日々の中に、少しでも笑った時間の記憶を刻んでほしいと願った。
僕にどれだけのことができるか分からないけど、やれるだけのことはやってやろうじゃないか。
「そっか。じゃあ、とりあえず駅前に行こうか」
「うん!」
さて、ただのお出かけに見えるこの状況。実は少し厄介な点がある。この日を真白は楽しみにしてくれていたし、本来は僕も純粋に楽しむ予定だった。だが、そうもいかなくなってしまった。
二日前のことである。
昼休み。いつもの場所で。
『なあ?日曜日、空いてるか?』
『え?……うん。予定はないけど』
『日曜日にさ、どこかに出かけないか?』
『それって、休日に遊びに行くってこと?二人で?』
『い、嫌ならいいんだ!その日は僕も暇で』
『行く!』
『え?』
『行きたい!私、休みの日は病院にいることが多いから、たまにはお出かけがしたい!』
『そっか。よかった。じゃあ、空けておいてくれ』
『うん!』
そうやって約束をしたところまでは良かったんだ。あえて他の誰もいない場所とタイミングでこの話をし、あらぬ誤解を生んだり、噂話の餌食にならないように注意を払って切り出したのだが、勘のいいやつがいたものだ。
その日の夜。僕のケータイにメッセージが届いた。真白からではなく、黒沢から。
『日曜日諸星と出かけるんだって?』
思わず「はあ!?」と叫んでしまったよ。
『何の話だ?』
『とぼけなくていい。昼休みに話していたのは知っている』
どこで聞いていやがった!
『ああ、出かけるよ。で?』
僕は諦めて、開き直った。
『そのお出かけ。尾行させてもらう』
思わず「はあ!?」と叫んでしまったよ。パート2。
当然、言われて黙っている僕ではない。
『やめてくれよ。純粋に楽しませてくれ』
『お前に楽しいという感情があったのか』
『失礼なやつだ。とにかく邪魔はしないでくれ』
『研究の一環だ。邪魔はしない』
『真白も楽しみにしてくれていたんだ』
『バレないようにするから』
しつこく詰め寄ってくる黒沢。その目は真剣で、ふざけた様子もない。
『勝手にしろ』
こう返したのが正解かは分からない。でも、何を言ったところで黒沢は来るだろう。変に真面目なところがあるあいつのことだから、きっと邪魔はしないはず。僕たちの視界に入ることもないだろう。ただ、どこかにいると分かっていながら今日一日を楽しめるのだろうか。
「紘幸君?どうかした?」
「あ、いや、何でもない」
真白は知らない。僕も知りたくはなかったな。でも、それを言うのが黒沢の真面目さのいいところであり、悪いところでもあるのだろう。
ここは知らないふりをしておこう。
「そう。それで、どこに行くの?」
待ってたぞ。その言葉。エスコートする準備はできている。
「ここからバスに乗ってショッピングモールに行こう」
駅前のバス停から、近くのショッピングモールに行くバスがある。近くとはいえ徒歩では二十分ほどかかる。ここは素直にバスを使おう。
バス停に着き、ほどなくしてバスが来た。休日だというのに乗客は少ない。二人とも座席に座り、窓側に腰掛けた僕はふと外を眺めた。このバスに乗るのは初めてかもしれない。普段通学に使うのは電車だし、遊ぶ友達もいないし、親父は忙しいしで、何だかんだショッピングモールに行くのも初めてかもしれない。クラスメートが良く行く、いわば休日に遊びに行く定番の場所なんだとか。
普段より高い目線で見るロータリーは新鮮なもので、いつも見ているはずなのに違う場所のように思えた。
「お前はあのショッピングモール行ったことあるか?」
「どうだろうね。覚えてないだけかもしれないけど記憶にはないかな」
「そっか」
そりゃそうだ。普段学校か病院にしかいない子だ。この質問は野暮だったな。
「何か買いたいものでもあるの?」
「特に。僕も行ったことなくて、だから行ってみたくなったんだ」
「そっか、楽しみだね!」
無邪気に笑う真白。彼女は何も知らないで行くもんな。でも僕は違う。ショッピングモールのことは調べつくした。店内マップはこの脳みそにしっかりと叩き込んでやった。そして今日一日どう行動するかも決めてあるのだ。
完璧。時間を持て余したり、それで気まずい空気が流れることもない。足りないものを挙げるとするなら経験値だな。笑いたければ笑うがいい。
そんな他愛のない話をしているうちに到着した。
「意外と大きいな……」
ショッピングモールを目の前に圧倒される。普段行く店といえば近所のスーパーやコンビニくらいだからな。それらとは比べ物にならないくらいの規模だ。地図を見て、広いことは分かっていたがここまでとは。
さて、僕がリードしなければ。
「入ろうか」
一声かけ、中へ足を踏み入れる。
「あ、うん!」
真白も後に続く。
ここは中央玄関。ということはすぐのところにあるエスカレーターを上って西の方。ルートも完璧。ここにきてマップで調べているようじゃ決まらないからな。
僕が行こうとしていたのはゲームセンターだ。
「おぉ……」
ゲーセンを目の前にして目を輝かせる真白。
「初めてか?」
「うん!前から興味はあったけど、一人じゃなかなか、ね」
確かに。ゲーセンに行ったことのない年頃の女の子が、いきなり一人で行くのはハードルが高いかもな。まあ、僕と来たことにより晴れてゲーセン初入場となるわけだが、下調べがここで終わらないのが僕。何で遊ぶかも決めている。
候補は三つ。
まずクレーンゲーム。欲しいものや面白そうなものがあれば遊んでみるのも面白いだろう。前に動画サイトでプレイ動画を見て面白そうだった。知識はある。技術はない。
次に某太鼓のゲーム。一人でも二人でもできる優れもの。難易度もいくつかあり、その人のレベルに合わせてプレイできる。前に動画サイトでプレイ動画を見て面白そうだった。知識はある。技術はない。
もう一つはメダルゲーム。まあ定番だろう。メダルゲームのメリットは最初にメダルを購入して、ゲームを上手く進めていけば半永久的に遊べるということ。それにいろんなゲームがある。
これらの作戦を頭の片隅に置いておき、いざ行かん。
「入ろうか」
「うん!」
最初はクレーンゲームコーナー。入ってすぐのところに何台も置いてある。それに様々なタイプのものが置かれていて、見ているだけでも楽しめる。
男子はかっこいいフィギュアとかラジコンとか、そういったものに惹かれるかもしれない。だが、真白のような女子だとぬいぐるみや小物類だろうか。対象の物が大きければクレーンで動かすのは難しくなるし、逆に小さければ狙いを定めるのが難しくなる。また、クレーンゲームは一回当たりのプレイ時間が短いため、気づけば大金を使い果たしているパターンも珍しくないんだとか。
「何か気になるものはあるか?」
真白に訊くと、彼女はクレーンゲームの機会を一通り見渡して、
「このお菓子好きなの。取りたい!」
見ると、慣れ親しんだお菓子。スーパーで百円弱で売っているもの。一プレイ百円。上手くいけば複数個ゲットできる作り。なるほど、商売がうまいものだ。
そう思考を巡らせている間に、真白は財布を取り出していた。
「待て」
僕はお金を取り出そうとする真白を制止した。
「僕がやってみる」
「やったことあるの?」
「ま、まあな」
嘘です。ごめんなさい。
とはいえ、真白よりは知識があると自負している。このネット社会、調べればクレーンゲームの攻略法なんてわんさか出てくる。
百円を投入し、構える。
まずは右にクレーンを動かす。次に奥。お菓子がタワーになっており、閉じたアームがその壁に力を加えるであろう位置に止める。
位置は完璧のはず。
「すごい!」
「よしっ!」
アームがお菓子の箱にかかり、押し出す……ことはなかった。
「弱っ!?」
取り出し口の方向に押し出すつもりが、思いの外押す力が弱く、景品を動かすことができなかった。
ここで諦めてはならない。
二回、三回、回数を重ねる。しかし、一向に進展しない。
「くそぅ……」
「私がやってみてもいい?」
見かねたのか真白がそう切り出した。
「いや、もう少し!」
「もう千円使ってるよ?」
「え?」
もうそんなにやってるの?クレーンゲームの沼、怖い。
「とりあえず、次は私ね」
半ば押しのけるように僕をクレーンゲームの前からどかせてお金を入れる。僕が取ることができなくて不服に思ったが、真白を放ったらかしにしてしまっていたのは良くない。ここは真白にも楽しんでもらいつつ、僕のように沼にハマらないように注意してあげよう。
「ん~……」
左目を瞑り、右目だけでアームの位置を調整。奥へ動かすときは台の横から覗き、腕を伸ばしてボタンを押す。
調整が終わり、アームの爪は箱の上に降りた。引っかけることができない位置。これじゃ動かない。
「あぁ……」
僕は思わず声が漏れたのだが、お菓子の箱は思わぬ動きを見せた。
箱の上から力を加えたアームの爪は表面をすべるように箱の頂点に移動。頂点にうまく引っかかり、箱は床に面している別の頂点を支点にくるりと回る。アームが上がり、支えがなくなった箱は出口へと真っ逆さま。
何と一発取り。
「なっ!?」
「やった!」
取り出し口から景品のお菓子を取り出し、無邪気な笑顔を見せる真白。その様子を見て、僕はただただショックだった。あれだけやったのに。あれだけ自信満々に始めたのに。
惨めだ……。
「紘幸君!やったよ!」
その無邪気な笑顔を僕のほうに向ける。その様子を見ていると、僕も表情筋が緩んだ。
「よかったな」
嬉しさ半分。悔しさ半分に言う。
真白は箱を開け、中のお菓子を取り出す。
「はい」
自分が食べるより先に僕に差し出す。こいつは人の失敗を笑ったり馬鹿にしたりしないんだな。正直、多少からかわれると思ったが。
「ありがとう」
懐かしい味。そのように思えた。いつ以来だろうか。これを食べたのは。
はっきりとは覚えていない。それほど昔の記憶か。そんなに長い間食べていないんだな。改めて食べてみたら案外おいしかった。たまには食べよう。
「じゃあ、紘幸君。次行こう!」
ゲームセンターではその他にもいろんなゲームで遊んだ。
太鼓のリズムゲームでは腕が痛くなるほど遊んだ。クレーンゲームは得意な真白だが、リズム感はあまりないようだ。
シューティングゲームではゾンビにビビった様子だったが、がむしゃらにぶっ放しているうちに敵を薙ぎ払っていた。
メダルゲームでは、僕が強運を発揮。五百枚ものメダルを獲得し、思いの外長く遊べた。
「ふう……遊んだな」
ふと時計を見てみると午後一時だった。
「そろそろ昼飯にするか」
「そうだね!」
僕たちはゲームセンターを後にし、一階にあるレストラン街に向かった。
諸事情により投稿がかなり遅くなりました。申し訳ありません。これからも少しずつ投稿していきたいと思いますので応援よろしくお願いします。