第四話 『名残惜しさを感じるほど幸せだったよ』中編
制服を着て、病院用のスリッパを履いたままの真白がいた。靴下は少し汚れている。
「お前、ここで何やってるんだ?」
「何しに来たの?」
不機嫌そうな顔で言われる。
「こっちが質問してるんだ。ここで何やってるんだ?」
「別に何をしてるわけでもないよ」
「びっくりしたぞ。病院の人がいきなり家に来て、お前が逃げ出したなんて言うから。みんな探してたぞ」
「みんな……紘幸君も?」
「だからここにいるんだろ」
「そう……だよね」
「薬、持ってきたぞ。これ飲んで」
「いらない」
「何で?これ飲まないと」
「記憶が全部消えるんでしょ?分かってる」
「なら何で」
「全部消してやりたいからだよ!」
真白は勢いよく立ち上がって叫んだ。
「全部……」
「そう。思い出だけじゃない。私の言葉も習ったことも、何もかも!消してやるために逃げ出したのに!」
「何でそんなことするんだ?」
「五月のあの日から今日まで、私すっごく楽しかったよ。だからこそ、今辛いの。私は紘幸君との思い出を覚えていられない。もうこんな思いしたくない!そのためには、私は一生病院にいるしかないの。外になんて出て行ったら、また紘幸君みたいな人と思い出を作っちゃう。そのたびに辛い思いをするし、相手にも辛い思いをさせちゃうの!私が外の世界にいたって、害でしかないの!もうほっといてよ!」
「本気で言ってんのか?」
「え?」
涙にまみれた顔を上げた。その目を僕はしっかり見つめる。
「害?僕はそんなこと微塵も思っていない」
「紘幸君は優しいから、そう言ってくれるとは思ってた。でも、実際に記憶を無くした私を前にして同じこと言える?」
「僕、悩んでたんだ。忘れられると分かっていて、お前と関わり続ける意味はあるのか。でも、僕はお前との思い出が欲しい。僕は覚えてる!望むなら、話してあげることもできる。過ごした時間が無意味なんてことはない。そりゃ、多少辛いかもしれない。でも、そんな辛さもお前は忘れるし、僕は次があるって思える。忘れても、また新しい思い出、作っていこうよ」
真白は自分の腕で涙を拭って、少し俯きながら、
「分かってる?今回だけじゃないんだよ?何回も何回も……生きてる限り続くんだよ?」
「そうしたらまた始めればいい。何度でも」
ハッとした様子で真白は顔を上げた。言い終わって、僕もハッとした。
そうだ。ずっと前に答えは出ていた。僕はあの日も真白にこう言ったじゃないか。
そう。何度も始めればいいんだ。真白に忘れられても、また友達、親友になるところから。今回はできなかったことをしよう。行けなかったところに行こう。そう前向きに考えられれば、お互いに少し楽なんじゃないかな。
涙を拭ったばかりなのに真白の目はまた涙で濡れていた。
「『嬉しい…』」
両手で必死に涙を拭う。
「『私にそうやって言ってくれた人、多分初めて。すごく、嬉しいよ』」
いつかと同じセリフを、あの日と同じように言う。
僕は深呼吸した。
「改めて言わせてもらうよ。僕とまた友達になってくれる?」
「『うーん』」
しばらく考える仕草をして、再び口を開いた。
「『嫌かな』」
あの日の僕はここで驚いて、変な声を出していた。でも今は違う。この後に真白が何を言うか分かっているから。
「そんな安っぽい関係はいらない。私たちは……」
だが、言い切る前に真白はその場に崩れ落ちるように倒れた。
「真白!」
突然のことに、僕の体は反射的に動き、真白を支えた。
「うぅっ……」
「真白!はっ、そうだ薬!」
僕はポケットから薬を取り出した。
「飲めるか?」
「う、うん……」
錠剤を真白の口の中に落とし込むと、真白はそれを飲み込んだ。これで一安心。
「大丈夫か?」
「大、丈……夫。それより、やっと、私のこと……名前で、呼んで……くれた、ね」
「そんなこと……」
「いつも……お前、って……」
「はっ!」
言われて気づいた。真白の前で僕は「真白」と呼んだことがない。他の人の前で真白を指す時は呼べるのに、本人の前では呼んでいなかった。気にしてたのかな。
「ごめん。ごめんな……」
「ううん……今、呼んで、くれた、から……嬉しい、よ……」
苦しそうだ。言葉も途切れ途切れ。それでも一生懸命伝えようとしてくれる。
「ねえ、紘、幸君」
「何だ?」
「また『私』と、仲良く、して、くれる?」
「ああ」
「また、お昼ご飯、一緒に、食べてあげてね」
「ああ。約束する」
「いろんな、ところに連れて行ってあげてね」
「今回行けなかったところにも、連れて行ってやる」
「今度は、いっぱい、名前を、呼んで、あげてね」
「分かった」
「『最後』に……」
こんな状況にも関わらず、涙を拭いて笑顔を見せていた真白の頬に、また一筋の涙が伝う。
「もう一度、名前を、呼んで」
「……真白」
「ありが、とう……紘幸、君」
僕は後悔した。
自分の中で気恥ずかしさがあったのは否めない。でも、もっと名前を呼んでやりたかった。名前を呼ぶだけでこんなにも喜んでくれるのに。
親友だって言ってくれた人に、名前もろくに呼んでやれなかった。
「何、泣いてる、の?」
気づけば僕も泣いていた。
「ごめん……ごめんな」
チャリン。
何か落ちる音がした。
「あっ……」
「キー、ホルダー……」
あの時、真白に貰ったキーホルダーだ。
「持ってて、くれたんだ」
「当たり前だろ?親友がくれたものだ」
「嬉、しい……」
そう言うと真白は徐にポケットからケータイを取り出した。
「私と、一緒だ……」
Mの文字。これが、僕たちの関係の証になるのだろうか。記憶を失った真白は、これを見てどう思うのだろうか。
「これ見せたら、真白は僕を親友だと分かってくれるかな?」
「どう、かな……分かってくれたら、いいね……うっ!」
「真白!」
再び苦しみだした。しかし、今回はさっきとは明らかに様子がおかしい。
「ああううううう……ぐっ、ぐああああ!!!!」
尋常ではない声。身体に力が入ってるのが伝わってくる。
「真白!しっかり!真白!」
「あっ、ああああ、あああああああああああああ!!!!!!!!」
ダメだ。僕の声が聞こえていない。
「そうだ!」
僕はケータイを取り出し、電話をかけた。
出てくれ!お願いだ!
『もしもし!紘幸!?』
相手は三コールで応答した。
「親父!真白を見つけた。何かうめき声を出し始めて、こっちの声が聞こえてないみたいなんだ!」
『何っ!?薬は飲ませたのか!?』
「ああ、それは大丈夫」
『ならいいんだが、それは今、〈メモリー・リブート〉がまさに起こっているところだ!』
「なっ!」
これが、〈メモリー・リブート〉。
聞いたことがある。記憶が時系列を遡るように脳裏に現れ、それがやがてぐちゃぐちゃに乱れる。患者はそれをみてパニックを起こす。そしてそれらが消えた時、患者の意識は途絶え、次に目が覚めた時には記憶を失っている。消える時の精神的負担を軽減するために、通常患者を眠らせておくものらしいが、真白は今回、起きたままだった。
「真白!大丈夫か!?」
「あうううがあああああ!!!!い、いやだ、いやだあああああああ!!!!!!!!」
『真白ちゃん!紘幸!真白ちゃんのそばにいてやってくれ!この状況じゃ俺たちはなにもできない!』
「あ、ああ……。真白!しっかり!」
叫び。いや慟哭と言った方が近い。
感情すらぐちゃぐちゃにかき乱されているのかもしれないが、絞り出される声の中には現状を拒むものが含まれていた。
僕はそれを見て、ただ見ていることしかできない自分の無力さに嫌気がさした。
「ううううう!!!!うがああああああ!!!!」
汗の滲んだ手で頭を押さえ、顔も汗と涙にまみれ、叫び続ける真白。
やがて、
「あああああ……ひ、ろゆ、き……く、ん……」
僕の名前を辛うじて呼び、意識を失った。
『紘幸!真白ちゃんは!?』
「眠ったよ」
『……そうか』
「そっちに運んでいく」
『ああ、表はもう閉めてあるから、急患用の入り口から入ってくれ』
「分かった」
そう言い電話を切った。
すっかり力の抜けた真白の体を抱え、持っていたハンカチで顔の汗と涙を拭った。そして横抱きにして立ち上がった。思ったより随分軽い。
「辛かったな。もう大丈夫だ」
真白にそう語りかけ、病院に向かった。
いつもは並んで歩いていた道を、真白を抱えて歩く。
足が重い。それは真白を抱えているから、ではない。このまま病院に着いてしまったら、しばらく会えない。それに次に会った時には真白は僕と初めましてになる。今になって、その現実を受け入れたくない自分が心のどこかに生まれたような感じがした。
初めて言葉を交わしたとき、彼女は僕を拒んでいた。後にも先にもないほど、僕は粘った。人付き合いが苦手な僕にあそこまでさせるほど、真白には惹かれるものがあったのかもしれない。
真白が目覚めた時、僕は彼女に何て言えばいいのだろうか。
友達だった。親友だった。過去形はおかしいか。友達だ。親友だ。
そんな言葉をかけられ、真白は素直に頷くだろうか。
彼女の性格はそのままなのだろうか。変わったりするのだろうか。そもそもひとつ前の真白と今の真白の性格も同じだったのだろうか。
考えても仕方のないことばかり、頭の中でぐるぐると駆け回る。
そんなことをしている間にも、病院が見えてきた。表玄関の前に誰かが立っていた。
「こんな遅くまでこんなとこにいてもいいのか?」
「親には連絡してある。なに、すぐ帰るさ」
私服に着替えた黒沢が、真白の状態を見て何かを察したように頷いた。
「またゼロから関係を作っていくのか」
「そういうことになるな」
「今度は怖がらせないようにしないとな」
「次は普通の友達として接してやってくれ」
「不謹慎かもしれないが、やり直せるのはいいかもしれないな」
「ははっ……」
ゆっくりと黒沢が僕の方に歩いてきた。僕のすぐ横で立ち止まり、肩をポンと叩く。
「お疲れ。かっこよかったぞ」
そう言って駅の方に歩いて行った。
かっこよかった。黒沢はそう言ったが、真白に対して最適な処置を行えなかったから、僕はその言葉を素直に受け入れられなかった。もっと早く見つけられて、もっと早く処置を行えていたら、あんなに苦しまずに済んだんだ。起きた状態での発症は時に命に関わる。人によってはショック死、もしくは衰弱死。真白は精神面が強く、また若くて体力があったからかそれらは免れたが、今後はそんなことがないようにしないとな。
「紘幸!」
声に振り返ると、裏の方から出てきた親父がいた。
「親父、悪い。あんな目に合わせて」
「何言ってんだ。お前はよくやった。お前がいなかったら取り返しのつかないことになってたぞ」
「なら、よかったのかな……」
下を向く僕の肩に親父はポンと手を置いた。
「あの状況じゃあれが最善だ。さあ、病室まで運んでくれ」
親父の言葉が本心なのか、僕に気を遣ってなのか分からないが、ひとまず事は収まった。
エレベーターで昇り、降りた階の通路の突き当り、「諸星真白」と書かれたネームプレートが壁に掛けられている部屋。
「ここだ」
親父は病室の扉を開けた。
「入っていいのか?」
「何を遠慮してる?」
「真白に悪いかな、って」
「まあ、確かに。ここは病室であり、家みたいなものだからな。とりあえず、真白ちゃんをベッドに寝かせてほしいから入ってくれ」
「お邪魔します」
親父の言う通り、ここは病室というよりプライベートルームのようだった。
ベッドこそ病棟のそれだが、部屋に置くような勉強机や、私服や制服がかけられたラック。
「うっ……」
それと物干し竿。
「どうした?」
「いや、洗濯物」
「ん?ああ、洗濯機は別の部屋にあるんだけど、大体の患者さんは各々自分の部屋で干してるよ」
「そういう話じゃなくて」
同級生の女子の部屋に無断で入るのもまずいけど、下着が干されてるのはもっとまずいだろ。
僕はなるべく見ないようにして真白をベッドに寝かせた。さっきの苦しんでいる様子が嘘のようにその寝顔は安らかだ。
「じゃあ、あとはよろしく」
「ああ、次に会えるのは明後日だ。またここに来てくれ」
「分かった」
「それまでに、真白ちゃんにどうやって自分のことを説明するか決めておいてくれ」
「……ああ」
僕は病室を後にした。
日は変わったが、明日も学校だ。とりあえず今日は休もう。
明日一日かけて考えよう。真白とのことを。




