踏切を越える
※共幻文庫 短編小説コンテスト2015 第11回「手」《http://kyounobe.com/short-story-contest/schedule/page-2029/page-2379》投稿作品。
投稿規程:「手」をお題にした1000字~10000字程度の短編小説。
金が尽きた。
財布から最後の千円札二枚を出し、ネットカフェの支払いを済ます。残金は二百十七円。私は五歳の息子を振り返り、「行くぞ」と声をかけた。
三ヶ月寝泊まりしたネットカフェから出ると、外は雲ひとつない冬晴れの空だった。乾いた風が肌に冷たく吹きつける。割れた唇が風に痛んだ。息子の手を握る。冷たくパサパサとした自分の手に、息子のしっとりとした手があたたかく馴染んだ。
「どこにいくの?」
歩き出した私に息子が聞いた。答えられない私は無言で足を進める。
すぐにでも日払いの仕事を見つけなければならなかった。熱を出した息子を三日間看病した結果だった。息子の熱は引いたが、収入の途絶えはすぐに私を追い詰めた。
「おとうさん?」
息子の声が遠かった。ぼんやりとした靄が目と耳を覆っているようだった。日払いの仕事を見つけて、その先は? 自問に答える声はない。また息子が熱を出したら、その先は?
父のことを思い出す。遠い昔、今のように父に手を引かれて道を歩いた記憶があった。病気持ちで生活保護だった父はよく幼い私を連れて病院に通っていた。「生保です」と受付に話す、後ろめたさを引いた弱々しい父の背中。そんな父の背中を見るのが嫌だった。今の私の背中は息子にはどう見えているのだろうか?
カンカンと鳴る踏切の音が聞こえてきた。意識を戻すと道のむこうに踏切を通過する電車の姿があった。息子が呆けた顔で走り去る電車を見ている。
そのまま踏切へと歩きながら、私はそこで違和感を覚えた。どこかにこんな記憶がある。父とこうして歩いた記憶。再び踏切がカンカンと鳴る。
「……ああ」
そして思いだす。あのとき父は私の手を握り締めて踏切へと歩いたのだ。あのときもカンカンと踏切が鳴っていた。息子の手を強く握る。遮断機が下りてくる。あのとき父はその動きを目で追いながら、足を止めることなく踏切へと歩いていった。私を連れて父は。背中を走る慄えが私の足を動かす。カンカンと踏切が鳴っている。遮断機のむこう側。息子を連れて私は――。
息子が私の手を引いた。
振り返るとゴォゴォと通過する電車の音の中で、泣きそうな顔の息子が私を見ていた。
私は首を横に振る。
「ごめんな。だからそんな顔するな」
電車が通過する。遮断機が上がる。
息子の頭を抱きながら、私は父のことを思った。
結局父は自殺せず、私が高校を卒業するまで生きた。
あのとき私は父の手を引いたのだろうか?
私は踏切を越えた。