異世界行っても楽しい思いできるとは限らないものである。
上林暁美と書いて、かんばやしあけみと読む。彼女には苗字が少々珍しいという以外、特に目立つところはなかった。
普通の女子高生である。
しかし、彼女は今、明らかに他とは異なる存在となっていた。
彼女が変わった訳ではない。周りが変わったのだ。彼女を取り巻く状況が、人々があまりにも変わってしまったので、彼女は今とても異質な存在となっている。
彼女は、その場で座り込みながらあたりを見回した。
沢山の人がいる。
見慣れない格好をした、全く知らない人々だった。いつだったか映画でこんな風景を見たことを思い出す。確かそれは中世ヨーロッパを取り扱った作品だった。
それから彼女は床を無意識のうちに指で撫でた。
大理石のひんやりと冷気を放つ床だ。
天井は彼女の真上だけ驚くほど高く、ステンドグラスで作られた丸い天窓から太陽の光が差し込み、彼女を様々な色で照らしている。
周囲を取り囲む人々によって全てを見ることは出来ないが、石でできた壁にはそこにいる様々な人の背の倍もあるような絵画が飾り付けられている。そのどれもが神話の一部を抜き取ったかのような場面がかかれていて、更には彼女の目線の先、この建物の正面には壁に飾られているものよりも更に大きくて立派な、女性が天使によって処刑されている絵が飾られていた。裸体の女性が後ろ手に縛られており、その上半身を台の上に無理やり押さえつけられている。女性は瞳孔を見開き、背後にいる天使に向かって悲痛な叫びをあげている。しかし天使はすべてを包み込むかのような微笑みで女性の首筋に鋸をあてがい、慈悲深い目をたたえながら鋸を引く。女性の首からは鮮血が勢いよく吹き出し、その真っ白な裸体を流れ、足元に血だまりを作る…
「おい!」
厳格そうな男の人の声だった。
暁美は背後から聞こえてきたその声に驚きやら恐怖やらで肩を揺らし、そして緩慢な動作で振り返った。
そこにいたのはこの部屋の中に飾られている絵画から抜け出したのではないかと勘ぐってしまうほど、美しい男性だった。
「お前達は、どちらが聖女か。」
厳しい顔付きで男のひとが問うた。
暁美は質問の意味がわからず首を傾げ、それからはい、という声が横から聞こえてきて慌ててその方を向く。
いつの間にかそこには暁美と同じ年くらいの少女がいた。ふんわりとした茶色の巻き毛に同じく茶色の瞳。小動物のような可愛らしい少女がちょこんと手を挙げていた。
男の人はふむ、と頷いて少女に手を差し出すと、少女はその手を取り緩やかに立ち上がった。
暁美はどうしていいかわからず、ただただそれを見ることしかできない。
「では聖女よ、こちらへ。そこの女はここに残れ。」
それだけ言うと男の人は少女を連れて部屋を出てしまった。
それに続い。て周りを取り囲んでいた沢山の人々も部屋から次々と消えていく。
気づいた時には部屋には暁美しか残されていなかった。
暁美は何が起こったのか、そもそもここはどこなのかがわからずしばらく呆然としていたが、慌てて人々が出て行った扉に駆け寄った。扉にはドアノブは付いておらず、ただ金色の取っ手が付いていた。二つ付いているので両側に開く扉なのだろう。とても大きな扉だ。
暁美はここから出ようと試みたが
扉は木製のように見えるのに重く、もしかしたら鍵がかかっているのかもしれないが…押しても引いても開かなかった。
暁美は暫くその場に座り込んだ。そうしている間に日は落ちていき、ただでさえ暁美が先ほどまでいたところからしか光が入らなくて薄暗い室内が、さらに暗さを増す。
…そもそもなぜ自分はここにいるのだろう。
暁美は考える。
しかしどうしてもわからなかった。それもそうだろう、暁美は普段通りの道を通って学校から帰り、特に何かの事件に巻き込まれるでもなく家に着き、そしてドアを開けようと手を伸ばした瞬間この場にいたのだ。
瞬きすらしていない。まさに刹那の出来事だった。
今のところ全く状況が把握できず、誰かに聞こうと思っても誰もいないしさらにはこの部屋から出ることすら出来ない。
あたりは暗くなっていき、美しくも凄惨な絵画たちが不気味な怪しさを醸し出し始める。
大理石の床は冷たく、石の壁は堅牢で温かみがなく、それが暁美の恐怖をより一層深いものにする。
部屋は丸い形をしていて、広さは学校の体育館ほどもある。
暁美は中央にいると四方から得体の知れない何かに見られてしまう気がして、壁の方へとよった。
不安を必死に抑えようときつく足を抱いて体育座りをする。
ここには暁美しかいないが、もし、万が一何かを見てしまったらもう立ち直れない気がして暁美は目をきつく瞑って下を向いた。
既に日は落ち、暗闇のベールが部屋を覆っていた。それでも闇に塗りつぶされないのは、天窓から降ってくる月の光のおかげであった。
暁美は慎重に立ち上がった。
不安で押しつぶされそうになる胸を必死に励まし、部屋の入り口まで行きもう一度押してみた。鍵が開いているのではないか、今度こそ開くのではないか。淡い期待は打ち砕かれ、暁美は泣きそうになった。
それでも今度は座り込んだりしなかった。
隠し扉があったりはしないだろうか。
暁美はそんなことはないだろう、と思いながらも手探りで壁伝いに部屋を一周してみることにした。
決して部屋の中央、月の光が差している方向は見ない。彼女にとっては明るい中で何かを見てしまうかもしれない不安と戦うくらいなら、何も見えない不安を共にする方がよほどましだった。
暁美はなんとか一周回ったが、やはり隠し扉なんてものは存在せず、今度は神経をずっと張り詰めていたことからの疲れで、しゃがみこんでしまった。
そして等々涙が溢れ出した。
とにかく不安で仕方がなくて、訳がわからなくて、早く家に帰りたかった。
こんなにも心細いのは初めてで、嫌という程自分の小ささを実感する。
涙は幾らでも溢れ出してきてとどまる様子を見せなかったが、それでも暁美は無理やり手で拭うと自分を落ち着かせるように深く深呼吸をした。
ここで泣いていても、なにも始まらないのだ。そう自分に言い聞かせる。
…明日の朝になったら、誰かが来るかもしれない。明日の朝になったら、説明を受けられる筈だ。
暁美はそう思うことで自分を元気付け、壁の方を向いて横になった。
床がひんやりと冷たい。
それでも暁美は寝転ぶしかなかった。
夜通し不安に思ってこれ以上色々悩むくらいなら、寝て疲れを取ろう、というのが彼女の考えである。
暁美は確かに不安に思っていて、まだ泣き足りない気分ではあったが少なくとも寝ようと考えられるくらいには気丈な女の子だった。
その日はやはり随分と寝付けなかったものの、いつの間にか眠りに落ち、天蓋に太陽の光が差し込んだ頃、暁美は目を覚ました。
あたりを確認し、周囲が明るくなっているのを見てとると彼女は真っ先に扉を確認しに行った。
しかし、彼女の期待を裏切るかのように扉はビクともしなかったし、誰かがあれから中に入った形跡も、これから入って来る気配もなかった。
もし、万が一囚われている、なんていう状況だったら少なくともご飯は出て来るだろうがご飯どころか水さえ出されない。
思えば昨日のお昼以降何も食べていないことを思い出し、暁美は空腹から無意識にお腹をさすっていた。
そして、最悪の予想が彼女の脳裏をよぎった。
…もしかして、彼らはもうこの扉を開ける気はなくて、自分はここでずっと…餓死するまでずっとここにいなくてはならないのではないか。もう生きてこの外には出れないのではないか。
いや、と暁美は首を振った。
ここがどんなところかは知らないが、流石にそんな非人道的なことはしないだろう、というのが暁美の考え…というよりは切実な願いだった。
とりあえず、まだ2日目なのだ。そんな風に最悪の考えをするには早すぎるだろう。
暁美はそうやって自分を納得させ、改めて壁一面の絵画たちをじっくり見てみることにした。
絵画の数は全部で19、一枚あたり横の長さが2メートル、縦の長さが4メートル程で、全てがとても大きな作品だ。そして扉からこの部屋に入って中央に見える絵画はやはり一際大きく、横の長さが4メートル、縦が6メートルほどもあった。
そしてそのどれもが…昨日は気づかなかったことだが、悲劇…少なくとも喜劇と言えるものではない題材を扱っていた。
中央のものは何かを暗示しているのかもしれないが、他のものは神話から場面を抜き出しているのだろう。
天使や巨人、美しい女たちが苦痛に顔を歪めている。そしてその苦痛を与えているのもまた美しい顔をした天使だった。
中には天使だけを扱ったものもあったが、血染めの剣を持って微笑んでいたり、また美しい女を扱っているものもあったが巨人の手のひらに乗っていたりとよく見るとどれも奇妙で不気味なものだった。
「本当に、ここは一体どこなんだろう。」
暁美は誰に問うでもなく呟いた。
もちろん答えなんて返ってくるはずもなく、結局その日も誰とも会うことなく、そして扉も開かれることはなく…1日を終えた。
3日目もなにも起こらず、そのまま夜を迎える。
暁美は空腹と不安とでもう気がおかしくなりそうだった。
喉が乾く。干からびてしまいそうだった。
もう立っている気力も体力もなくて、その場に寝転んだ。
そして4日目を迎える。
4日目も誰かが入ってくる様子はなかった。
体力の限界に近づき、もう寝ころぶことしかできなくなった暁美は芋虫のように地べたを這いずりながら、一縷の望みに賭けて弱々しく扉を押してみる。
暁美の口から笑いが漏れた。笑い声にすらなっていない、息を吐くようなか細い笑い声だった。
扉は、開いたりしなかった。
暁美はそのまま這いずりながら、天窓の下へと向かった。そしてそこで動きを止め、体の力を全て抜き五体を床に沈ませる。
暁美の悪い予感は的中したのだ。
もう笑うしかなかった。
自分は訳の分からぬまま、こうしてここで誰に知られることもなく死んでいくなんて、自分のことだというのに嘘みたいだった。
…なんで、こんな目に?
暁美の中でふとそんな疑問が浮かんだ。
それはここ数日間、ここに来てからずっと頭にあった思いだが、今回に限っては不安などではなく純粋に理不尽に対する怒りによるものだった。
自分は何故こんな目に合わなくてはならないのだろう。なにもしていない。なにも悪いことはしていない。それどころかこんなところに突然来てしまって被害者だと言ってもいいのに、なぜこんな扱いを受けねばならない?何故誰も、何も、質問させてくれない?全ては初めてここに来た時にいた男と、周囲の人々、そして自分は聖女だと答えたあの女がいけないのだろうか。いや、そうに違いない。奴らのせいで自分は今、死のうとしている。
ただここに来てしまったという理由だけで死のうとしている。
…許せない。
いつの間にかあたりは暗くなっていた。
頭上から月の光が差し込んでくる。
暁美はもう、見えない何かを見てしまう恐怖と戦うこともしなくなっていた。
異形のものでもいいから誰かの存在を感じたかった。
でもそれ以上に、今はこの理不尽に対する怒りが全てを占めていた。
許さない、と暁美は掠れた声でつぶやく。
今頃彼らは美味しいご飯を食べいて、その後柔らかい寝台に身を委ね、そして清々しい朝を迎える…そんなことを思うと益々怒りが増した。怒りで胃と胸が焼けそうだった。喉の渇きも怒りのせいではないかと思えてくる。
暁美は大理石の床を引っ掻いた。
「許さない。」
暁美がそう呟いたと同時に、頭上から大量の液体が降って来た。誰かが入って来た様子はない。もちろんこの部屋の天井が吹き抜けているわけではない。
いったいどこからだろうか。
それに…
暁美は身を震わせた。
降って来た液体は妙に鉄臭く、そして粘り気を持っていた。
と、月明かりで床に撒き散らされた液体があらわになる。薄暗くて明確な色までは見えないが、それはやはり水にしては色が濃く…まるで血のようだった。
いや、血だ。
自分は今、大量の血を頭から被っている。
気づいたと同時に吐き気がした。
恐怖などはない。ただただ誰のとも分からない血を被ってしまったこと、そして血を被ったことによって粘つく体や服への不快感…それしかなかった。
いったい誰が、と見上げると、宙に二つの金色の瞳が浮いていた。
爬虫類…ワニのような、もしくは猫のような瞳だった。金色の瞳の中にナイフで切れ込みを入れたかのような一筋の黒。
暁美達は暫く見つめあい、暁美が何かを言う前に瞳の方がにんまりと笑った。
面白そうに目を細めたのだ。
「お前、ここから出たいかい?」
どこからともなく声が聞こえて来た。まるで部屋全体から発せられているような不思議な声だったが、暁美には声の主が目の前の金色の瞳だということがわかっていた。
普段の暁美なら取り乱していただろうこの状況も、今の暁美にとってはさして驚くべきことでもなかった。
暁美はただこの瞳に怒りをぶつけた。
「この血はあなたがやったの!?ふっざけないでよ気持ち悪い!!」
「おや、それは申し訳ない。私なりの挨拶だったのだけれど、お気に召さなかったようだ。で、お前はここから出たいのかい?」
「出たいに決まってるでしょ?でも出れないの。あの忌々しい奴らのせいでね!」
「そいつらが、憎い?」
「わざわざ言わなくてもわかるでしょ?!憎いどころか殺してやりたいくらいだよ!!そもそもあなたは誰?!」
暁美はこの得体の知れない存在に怒りをぶつた。そして次の言葉を吐き出そうとした時、糸が切れた人形のように血溜まりの中に沈んだ。
もう体力の限界だった。
顔を上げるのも、声を放つことすらできない。自分はここで死ぬのだろうか。
そんな風に思っていると、突然体が引き上げられた。
誰かに腕を掴まれ、立たされようとしているらしい。
しかし立つだけの体力がもうない暁美は、膝立ちのまま、僅かに残った気力を振り絞り自分の腕を掴む存在を見上げてみた。
腕を掴むのは真っ赤な爪。見上げると金色の瞳。他は闇に塗りつぶされたかのように見ることはできなかった。
「私がお前を助けてあげよう。」
暁美は朦朧とした目で金色の瞳を映した。
「お前の怒りは心地いい。ねえ、暁美。お前の憎しみを具現化してやろう。」
言いながらくすくすと可笑しそうに笑う闇に浮かぶ金色。
暁美はなにか言おうとして、そのまま意識を失った。
次の日、暁美は気怠い体をなんとか起こした。
起きてすぐに体を確認するが、昨日頭から被った血が跡形もなくなっている。床に痕跡すらなく、匂いもしない。
やはり昨日のは夢だったのだろうか…暁美は今度こそ、本当に希望を失って目を閉じかけた。しかし、そこで視界の端に映る何かに気づいた。
テーブルと椅子だった。
素晴らしい細工が施された木製のテーブルと2人分の座り心地が良さそうな椅子。そして、テーブルに並んだ湯気を立てている食べ物達。
暁美は信じられなくて、しばらくの間呆然としていた。それから思考を徐々に巡らせてみる。
…誰かが知らぬ間に中に入って来てご飯を用意してくれたのだろうか?いや、でもそれはあり得ない。だって、今更こんな風に気を使い始めるなんて可笑しいだろう。
そこで暁美の頭に昨日の金色の瞳が浮かんだ。
そしてすとん、と腑に落ちた。
これは、あいつが用意したものだと。
そうに違いない。
暁美は不思議と昨日よりも軽い体を立ち上がらせて、椅子に座った。
テーブルいっぱいに並べられた皿には、肉や魚、ケーキやプディングが所狭しと並べられている。ずっと何も食べていなかったのに急にこんなに沢山、それに胃に優しくなさそうなものを食べられるだろうか、と暁美は思ったが予想に反して食は進んだ。
それどころか食べれば食べるほどお腹が空いてくるような気がして、貪るように料理を口に運んだ。…と、明らかに料理の減りが早いことに気づいた。
先ほどまでは目の前にこんもりと盛ってあった白身魚のムニエルのようなものが、ごっこそりと無くなっている。
暁美はそっと皿から顔をあげた。
目の前にはいつの間にか人がいた。
器用にも、椅子の背の縁の部分に腰掛けてご飯を食べている人物。
食べ方も異様だが、見た目もまた明らかに異様な風体をしている。
体の線が出る道化師の服の上からマントのようなものを羽織っていて、黒い髪の頭からは真紅の山羊のような角が生えている。履いている靴はヒールが三日月型になっていて、いかにもバランスが取り辛そうだ。
その人物は、暁美が食べるのをやめて自分を凝視していることに気づいたらしい。
同じく暁美を見た。
あ、と暁美は声をあげた。
その瞳は、昨日の夜闇に浮かんでいた金色の瞳だった。
「やあ暁美。体の調子はどう?一応少しは回復させておいたんだけど、まあその食べっぷりからして大丈夫そうだけど。」
まるで十年来の友達であるかのように暁美に話しかけながら、奇妙な人物はにっこりと人の良さそうな…でもよくみると胡散臭い薄気味悪さをもった笑顔を浮かべる。
「……あの、あなたは何者?」
暁美は自分でも思ったのだが、本当に今更ながら、この人物を普通ではないと思い、そして警戒心をもった。
人間お腹が減って精神的にも不安定になり、死にそうになっていると正常な判断ができないものらしい。昨夜はまったくそんなこと思わなかったが、この目の前の道化師は今の暁美にとっては未知の、一種の恐怖であった。
だって、よく考えるとおかしいのだ。
いや、本当はよく考えなくてもわかるものなのだが…どうやってここに入り、どうして自分の名前を知っているのか、ということだ。
まずここに入るにはあのビクともしない大扉からしか入れない。しかし今日も昨夜もまったくそんな気配はなかった。まるでその場に突然現れたかのように、そこにいた。
名前だって暁美はこのわけのわからない場所に来てから言った覚えもない。
「何者って、紹介していなかったっけ?」
暁美の不安なぞ感じていないかのように…実際感じてないのだろう、あくまでも友人であるかのような口調で問うてくる。
暁美が遠慮がちに小さく頷くと、道化師は小さく笑いそして急に話題を変えた。
「ところで、昨日私が言ったことは覚えている?」
「助けてあげるって、言ってたのは覚えてる。」
「あともう一つ、あったんだけどね…ねえ、自分をここに閉じ込めた人間が憎い?」
「…まあ。」
「そう。私もね、凄く憎い。それで暁美の手伝いをすることにしたんだ。」
「手伝い?」
暁美は何か、嫌な予感がした。この目の前の男の表情は、以前年の離れた小さないとこが暁美に向けた笑顔に似ている。そのあといとこは笑いながら…暁美の苦手な蝉を握っていた手を開いて見せてくれた。
嫌な予感しかしない。
それでも、目の前の笑顔があまりにも楽しそうだったから、暁美は以前と同じく男に続きを話すように促してしまった。
「私はね、暁美の復讐を手伝いたいのさ。」
「……復讐?」
「そう。憎いだろう、こんなところに閉じ込められて、死にそうになって、復讐をしたいだろう?同じ目に合わせてやりたいだろう?だから助けてあげよう。その燃えるような憎しみの業火を完全に消し去るためにね。そのためには…」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
暁美は思わず男の話を遮った。
それから少し後悔した。
というのも、先ほどまであんなに笑顔を浮かべていた男の顔が、まるで能面でも貼り付けたかのように表情を消して暁美の方に向いたからだ。
それでも暁美は言わずにはいられなかった。
「私、別に復讐なんてしたくない。」
実際、昨日はこのまま死ぬのかと思うと憎くて憎くてたまらなくて、必ず復讐してやる、なんて思っていたが今日になって、助かるということがわかるとそんな気持ちはすっかりなくなってしまった。
逆に自分をこんな目に合わせた人物と再び会うことへの若干の不安と恐怖を感じている。
しかし、暁美のそんな解答は許されなかったらしい。
道化師は優しく、あくまでも優しく暁美に笑いかけた。
「復讐するのと、今ここで私が消えてしまうの、どちらがいい?」
暁美は信じられない思いでその笑顔を見た。
態度は温和だがつまり、復讐しなければお前を助けない、と言っているのだ。
暁美は一瞬目の前が真っ暗になった気がした。どちらも嫌だ。でも、飢え死になんて、あんな辛い思いはもうしたくない。
「……復讐。でもその前に一つ教えて。あなたの名前は?」
今回の答えはお気に召したらしい。
道化師はまるで体重がないかのように机の上に飛び乗ると、丁寧にお辞儀をした。
そして、まるでこれから舞台でも始まるかのように言った。
「私の名前はアズエル。これからよろしく、お嬢さん。」
「…よろしく。」
本当はよろしくしたくないが、と心の中では付け加え、暁美は差し出された手を取った。
アズエルは机の上からひらりと…やはり重力を感じさせない動きで飛び降りると、暁美の手を握っていない方の手で部屋の大扉を軽く押した。
今まで暁美がどんなに頑張っても開かなかった扉がいとも簡単に開き、驚きと共に今までの努力はなんだったのだというやるせなさに脱力してしまったが、アズエルはやはり暁美の様子など気にも止めず部屋の外へと一歩出る。
出たいけれど出たくない、というのが暁美の本音だ。
これ以上この部屋にいるのも嫌だけれど、出て真実を知ってしまうのも怖い。
それでも暁美は勇気を持って一歩足を踏み出した。
途端、開いていた扉が音を立てながらゆっくりとしまっていく。
暁美は振り返り、その閉まっていく扉の隙間から見える絵画をもう一度見た。
穏やかな顔を浮かべた残酷な天使と、天使に首を切り落とされそうになっていて、恐怖に顔を歪める裸体の女性。
どうやらアズエルもそれを見ていたようで、一瞬だけ絵画に複雑な表情を向けたのを暁美は見逃さなかった。
しかしアズエルはすぐに道化師に戻ると行き先を告げるでもなく暁美の手を取って歩き出した。
ここがどこなのかもわからない。いまだに、自分の置かれている状況がわからない。家に帰りたいけれど帰り方もわからない。
隣にいるアズエルという人物の正体さえもわからない。
そんな中でも暁美は歩かなければいけなかった。
これは暁美にとって、ほんの序章にすぎなかった。
暁美が飢え死にしかけたことですら、大したことではなかったと、そう思えるくらい取るに足りない序章だ。
これからアズエルと暁美の奇妙な物語が始まるが、ここで全てを明らかにすることはしない。
しかし一つだけ言っておこう。
彼らの歩む道は決して幸福に満ちたものではない。しかしだからと言って不幸なわけでもない。
各々が様々な感情を抱えながら、未来と過去を生きている。それは複雑に交錯しながら物語を作り出し、そして、暁美にとっての長い…アズエルにとってはもっと長い物語が終わりを迎えるのである。
完結したと言える終わり方ではないので、多分続きを書かせて頂くことになると思います。