第一章 緋色の凶賊(九)
「シュシュの秘薬……インがそう言ったのですね?」
アトからインの伝言を聞くや、いつもは穏やかな態度を崩さないカイの雰囲気がはっきりと変化した。
目に勁烈な光が宿り、全身を包む雰囲気が戦士のそれにかわっていく。
キルは表情をかえなかったが、アトとゴズは思わず目を瞠って驚きをあらわにした。二人にとっては初めて見るカイの姿であり、表情であったのだ。
その後、カイは負傷者を除いたすべての兵に戦支度を命じた。今回、留守居をつとめた兵は当然として、アトやキルをはじめとした襲撃に参加した兵にも再度の戦いを指示する。
先にインがグリーベル邸を襲撃した時の兵は二十人ほどだったが、今回はその倍に達する四十人。現在の緋賊の全戦力といってよい。
たちまち慌しくなっていく緋賊の本拠にあって、カイは難しい顔で呟く。
「こうなると、セッシュウ殿の帰りが遅くなったことが悔やまれるね。仕方ないことではあるのだけど――ゴズ殿、申し訳ないのですが、ここの守りはあなたに委ねることになります。万一、敵が襲ってきたら地下水路をつかって避難してください」
今回の戦いは完全に攻めの戦となる。非戦闘員であるゴズたち雑役夫は連れて行けない。
かといって、貴重な人手を遊ばせておく余裕はないため、カイは戦力が出払って空になった本拠にゴズたちを配置することにした。
イン・アストラには敵が多い。緋賊云々は関係なしにインを恨む者も多く、彼らに備えておく必要があるのだ。
ゴズはそのあたりの事情を心得ている。ましてインから全権を託されたカイの言葉だ。一も二もなく従った。
「は、お任せあれ! 戦いの役には立てませぬが、なに、我らとて武器をもって立っていることくらいはできますからな」
「お願いします。繰り返しますが、敵が攻めてきても無理に戦う必要はありません。水路を使って逃げてください。万一に備え、他の人たちにも逃げる準備をしておいてもらいます。キル君とアト殿は再度出撃の準備を。これより僕らはグリーベル邸を焼き討ちし、ラーカルト・グリーベルの首級をとります」
淡々とした口調で苛烈な目的を口にするカイ。
アトとゴズはまたしても驚きを禁じえなかったが、反論することはなかった。できなかった、と言った方が正確かもしれない。
先刻のインがそうであったように、今のカイの言動も反駁を許さぬ迫力を帯びていた。
そんなカイに向けて、アトは一つだけ問いを向ける。
「あの、カイさん。シュシュの秘薬とは何なのですか?」
グリーベル邸でその名を聞いて以来、ずっと気になっていたことだった。
あの時のインは、これまでアトが見たことのない表情を浮かべていた。目の前にいるカイも常のカイではない。
いずれも引き金になったのはシュシュの秘薬という言葉である。気にせずにはいられなかった。
アトの疑問を受けたカイは、一瞬何事か考え込む素振りを見せたが、すぐに意を決したようにうなずいた。
「シュシュとは神話に出てくる悪神の一柱、自らの身体で毒を生み出す女神です。その名を冠していることから察しはつくと思いますが、シュシュの秘薬とは麻薬、劇薬、毒薬、そういった類の薬です。エンフィル草という植物からつくられます」
「エンフィル草、ですか?」
聞き覚えのない植物の名前にアトが首をかしげる。
カイはこくりとうなずいた。
「幻覚草のひとつです。もっといえば、最悪の幻覚草のひとつです。これを用いてつくられたシュシュの秘薬は、人の身体から痛みという痛みを取りのぞきます。同時に膂力、脚力、その他あらゆる身体の力を限界を超えて引き出すのです」
それだけ聞けば大いに有用な薬物であるように思われる。
だが、痛みとは危険を知らせる信号であり、それがなければ人間はおのれの限界を把握することも容易ではない。まして薬によって引き起こされた力を制御することなど出来るはずもなく、薬の効果が切れた後に残るのは、限界をこえて人体を酷使した結果、手足を動かすこともできなくなった廃人同然の使用者だけであった。
危険はそれだけではない。
シュシュの秘薬には副作用が存在する。
脳をかきまぜ、心を蝕む、呪いにも似た代償。それは人格が崩壊するほどの重度の侵食だった。
それを聞いたアトの顔が青ざめる。
薬師であるカイの言とはいえ、シュシュの秘薬の効能は容易に信じられる話ではない。けれど、グリーベル邸の地下で見た光景がカイの言葉に信憑性を与えていた。
手当てをしたリムカの肩や首には無残に食いちぎられた痕がはっきりと残っていた。
それをしたのは彼女が兄と呼ぶ男である。
すべてが一つの薬によって引き起こされたのだとすれば、これほど恐ろしいことはない。
アトは与えられた情報に慄然としたが、カイの話はまだ終わっていなかった。
「先日、アト殿に僕とインが出会ったときの話をしましたね。あの時、僕は毒を盛られたといいましたが、その毒というのがシュシュの秘薬なのです」
淡々としたカイの言葉にアトは目を見開く。
その視線の先には、常の穏やかさを凛然とした覇気にかえた軍師の姿があった。
「シュシュの秘薬は身体と心を壊す悪魔の薬。その効果のほどは身をもって知っています。あれはこの大陸にあってはいけないもの。扱う者は全力をもって潰します」
その言葉にアトは顔を強張らせて同意のうなずきを返した。
率直に言ってすべてを信じたわけではなかったが、事実だとすれば、カイの言うとおり放っておけるものではない。
と、ここで不意にキルが口を開いた。
「……昔は、ここでもつくってた」
「え、ほ、本当ですかッ!?」
驚くアトにキルがこくりとうなずいてみせる。
カイはキルが省いた事情を短く付け足した。
「キル君の父上はセーデ区でエンフィル草を栽培し、シュシュの秘薬を量産しようとしていたのです。その試みは九分九厘まで成功していました」
次々と明らかになっていく事実にアトは驚くことしかできない。
一月前に緋賊に加わったばかりのアトは、三年前に起きたというセーデの戦いの詳細を知らない。
キルの父ヴォルフラムとインとの死闘を知らない。
訊ねる機会はいくらもあったが、父を殺されたキルの心情を思えば、軽い気持ちで訊ねることなどできるはずもなかった。
ただ、今の話を聞いたアトは、これまで抱えていた一つの疑問の答えが明らかになった気がした。
その疑問とは、どうしてインやキルほどの力の持ち主が、カイのように明晰な頭脳を持つ者が、貧民窟に居を構えているのか、ということ。
それもただの貧民窟ではない。シュタール、アルセイスの二大国が角突き合わせるドレイクという都市の貧民窟だ。何故よりにもよってこんなところに、という疑問は当然のものであった。
その疑問の答えがシュシュの秘薬だったのだろう。
シュシュの秘薬を扱う者は全力で潰す、とカイは言った。今日の出来事を振り返れば、それはインの意志でもあるに違いない。
つまり、インとカイはシュシュの秘薬の噂を聞きつけ、それを阻むためにドレイクにやってきたのだ。そして、そこでキルやゴズたちと出会い、ドレイクに腰を落ち着けることに決めた。
二大国角逐の地であるドレイクだからこそ、騒乱に乗じて成り上がる機会も多いという打算もあったと思われる。
アトはそんな彼らとこの地でめぐり合った。思えば、それはどれだけ奇跡的な確率だったのか。
再出撃の準備に取りかかりながら、アトは内心でそんなことを考えていた。
◆◆◆
「ギヒィ!! キシュアアアアアアッ!!」
グリーベル邸地下に響く奇声はすでに人のそれではなく、怪鳥のごとき獣声に変じていた。
インの棍棒によって肩を砕かれ、膝を割られ、開かれた口からのぞく歯は八割がた折られていたが、それでも男は一向に動きを止めない。自由に動かない手足を引きずるように、なおもインに向かって這い寄ってくる。
常人ならば怖気をふるうであろうその姿を、インは眉一つ動かさずに見下ろしていた。
シュシュの秘薬を服用した者は筋力が増すと同時に痛覚が鈍る。さらに精神が高揚し、全能感とでもいうべき感覚に包まれる。
誕生するのは痛みを知らない狂戦士だ。
中毒性も高く、服用を重ねるごとに精神に異常をきたしていき、ついには人間の形をした別の何かに成り果てる。
今、インの前にいるのはまさしくそういう相手であった。
「……ラーカルト・グリーベル」
冷然とした表情はそのままに、インは屋敷の主の名を口にする。
シュシュの秘薬は劇薬であるが、一度や二度服用したくらいではこうはならない。ここまで人格の崩壊が進んでいるとなると、相当の長期にわたって多量の薬を飲んでいた、いや、飲まされていたに違いない。
その事実が示すものは、ラーカルトがかなり以前から相当量の秘薬を保有していた、という事実である。
ドレイクに居を構えて三年。インはシュシュの秘薬に関する情報には常に目を光らせてきた。
秘薬の存在を匂わせる情報は徹底的に洗い出し、関係している者、していると思われる者を排除したことも一再ではない。
ゆえに断言することができる。ラーカルトが保有している秘薬は、ドレイクの外から流れてきたものではない、と。
では、ラーカルトはどこから秘薬を手に入れたのか。
思い出されるのはキルの父ヴォルフラムだ。ヴォルフラムは生産したシュシュの秘薬を自身や部下に投与していたが、資金を得るために一部を売却したという噂があった。
結局、それについてはヴォルフラムを討った後も手がかり一つ見つからず、また、セーデや他の街区に新たな中毒者が現れることもなかったので、最終的にはただの噂だったということで決着したのだが……
「お前だったのか」
引き結ばれていたインの唇の両端が釣りあがる。
右手に持っていた棍棒を床に投げ捨て、左腕に巻きつけていた鉄鎖をほどく。その視線は今も床でもがいている男に向けられていた。
中毒の重篤化。
ここまで症状が進んだ相手を治す術は存在しない。少なくとも、インは知らない。
ゆえに。
ここで取る手段は一つしかなかった。