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僭王記  作者: 玉兎
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第一章 緋色の凶賊(八)


 緋賊の新たな襲撃目標であるラーカルト・グリーベルの邸宅はホロッカ区にある。

 ホロッカ区はドレイクの中央に位置する都市の心臓区画であり、評議会館をはじめとした主要施設が集中していた。

 したがって警備はきわめて厳重なのだが、わけてもグリーベル邸の防備は別格であった。



 広大な敷地を囲う壁は厚く高く侵入者を拒み、要所にたてられた見張り台には私兵が詰め、弩や弓を手に昼夜を問わず四方を警戒している。

 事情を知らない旅人や商人が不用意に近づき、見張り台から矢で狙い打たれたこともある。

 ラーカルトがおしげもなく私財を注いでつくりあげた邸宅は、さながら砦のごとき様相を呈していた。



 この水も漏らさぬ警備に守られながら、日々金集めと権力基盤の構築に勤しみ、夜になればそれらを用いて女色に耽る。

 それがラーカルト・グリーベルという男の日常であった。



 今日も今日とてラーカルトは自室にお気に入りの女性を引き入れ、艶事に励んでいる。

 日暮れと共に始まった情事は夜を徹して続けられ、東の空が明るくなった今に至っても終わっていない。

 と、一晩中ラーカルトの相手をさせられていた女性の口から、断末魔にも似た甲高い叫びが発せられ、唐突に途絶えた。



 糸の切れた人形のように寝台に倒れこんだ女性はぴくりとも動かない。

 ラーカルトは楽しげに口許を歪ませると、うつぶせに倒れた女性の臀部を強く叩いた。

 その衝撃でビクリと身体を震わせる相手に対し、帝国派筆頭議員は粘つく声を投げかける。



「愉快愉快。ずいぶんといい声で鳴くようになったではないか。貴様の家族のためにも重畳なことよ」



 答えは返って来ない。おそらく言葉を発する気力も残っていないのだろう。

 当初、ラーカルトに向けられていた反抗的な眼差しも、すっかり力を失っている。

 それを見て満足そうに息を吐き出したラーカルトは、ここでようやく窓の外が明るくなっていることに気がついた。



「いかんいかん、つい夢中になってしもうたわい。あやうく公開処刑に遅刻するところであった」



 と、その独り言が終わらぬうちに、コンコン、と力ないノックの音が室内に響いた。

 ラーカルトが冷めた声を扉の外に向ける。



「なんじゃ?」

「……あの、そろそろお時間です、子爵閣下」



 そう言って部屋に入ってきたのはラーカルトの妻にあたる女性であった。年齢は二十歳を過ぎたばかりで、一歳になる息子がいる。

 部屋にたちこめる異臭に怯んだように足を止めた妻は、寝台に横たわる女性に気づいて面差しを伏せた。



 一方のラーカルトは妻の様子を一顧だにしていない。

 かつては懸命に機嫌をとった相手であるが、所詮は爵位を得るために利用しただけの女。子も産んだからにはもう用はない。

 ラーカルトに爵位を譲った先代グリーベル子爵はすでに鬼籍に入っているため、この妻を粗略に扱ったところで、どこからも文句が出る恐れはなかった。





 妻に寝室の後始末を命じたラーカルトが部屋を出ると、幾人かの側近が報告を持って近づいてきた。

 そのほとんどは今日行われる公開処刑に関するものであり、異変を伝える内容は一つもない。準備は万端といえた。



「人の集まり具合はどうだ?」



 すでに広場は市民で溢れんばかりになっている、との答えを得て、ラーカルトはくつくつと喉を震わせる。



「さてさて、庶民とは残酷なものよ。処刑は娯楽。義賊だなんだと称えておった相手でも、それはかわらぬと見える」



 公開処刑が一種の娯楽として扱われるのはドレイクばかりではない。むしろ、それを禁じている国家の方が少ないくらいである。奴隷剣闘士が命がけの戦いを繰り広げる闘技場が常に満員であるように、民衆は自らを安全な場所に置いて他人の血を見ることを好むもの。

 統治の原則は「パンと見世物」だ。公開処刑は見世物としては少々血生臭いが、だからこそ刺激があり、だからこそ庶民は喜ぶ。広場に詰めかけているという市民たちが、この考えの正しさを証明している。



 ラーカルトは全身の贅肉を震わせて笑い声をあげた。

 みずからの智謀を誇るように。



◆◆



 ドレイクの評議会館は、その平和的な名称とは裏腹に軍事的な側面を併せ持っている。

 周囲は深い堀に囲まれており、館自体の造りも城砦に近い。それもそのはずで、評議会館はかつてのリンドドレイク王国の王城を改装してつくられた建物なのである。



 市街から評議会館に入るためには、南北につくられた二つの跳ね橋を通る必要がある。

 ドレイクにおいて大広場といえば、北の跳ね橋が設置された北広場と、南の跳ね橋が設置された南広場に大別されるのだが、公開処刑が行われるのは北広場に定められていた。

 理由は単純である。

 ホロッカ区における議員邸宅の分布は、シュタール帝国がある北側には帝国派議員が、アルセイス王国がある南側には王国派議員の邸宅が集中している。

 そのため、帝国派の催しは北広場で、王国派の催しは南広場で行われることが慣例化されているのである。



 北広場に到着したラーカルトは、そこで報告どおりの人だかりを目の当たりにした。

 ラーカルトが設えた処刑台は、北広場のどこからでも処刑が見物できるように計算されているのだが、集まった人々はより近くで見よう、より良い位置から見ようと、そこかしこでひしめきあっている。

 場所の取り合いが高じて殴り合いの喧嘩が起きたり、広場に隣接する家屋の屋根に人々がつめかけ、屋根が抜けてしまったりといった騒動も起きていた。

 が、これらは風物詩のようなもの。自分が直接の被害者にならないかぎり、人々はそういった騒動をも娯楽の一つとして楽しんでいた。



 評議員の席は最も処刑がよく見える位置につくられている。

 ラーカルトが到着したとき、すでにパルジャフとフレデリクは席についていた。

 苦虫を噛み潰したような顔をしているパルジャフに、ラーカルトは意地悪く笑いかける。



「これはこれは元首どの。今日は絶好の処刑日和というべき好天ですな。これも我らの日頃の行いが善いゆえでござろうて」

「……議長だ、ラーカルト卿。それに、陽光は主神ウズの恵み。神はこのような血生臭い催しのために恵みをくだされているわけではない、と私は考えている」

「『公開処刑は民を血に酔わせる』でしたかな? くく、公開処刑廃止を提案した議長どのに反対票を投じたのはわしばかりではありますまい。公開処刑の存続は、いわばドレイクの総意。これを尊重することこそ議長の務めである、とわしは考えておりますぞ?」



 面貌に嘲弄をあらわにしつつ、言葉だけは丁寧に話しかけてくるラーカルトの態度に、パルジャフの眉が不快げに上下に動く。が、言葉に出して反論はしなかった。

 過去、パルジャフが評議会で公開処刑の廃止を唱えたのは事実であり、その提議が帝国派、王国派、さらには独立派の中からも反対者が出て却下されたのも事実であったから。

 そんな二人のやりとりを、フレデリクは興味なさげに聞き流し、腹心の青年となにやら小声で言葉を交わしている。



 そうこうしているうちに時間は刻々と過ぎていき、処刑が行われる時刻はもう間もなくとなっていた。

 すでに処刑台には口をふさがれた五人の緋賊が引き据えられ、鉄兜をつけた首切り役人が頑丈な巨斧を握ってその時を待っている。

 それまで口々に騒ぎ立てていた何千という市民は、時刻が近づくにつれて誰からともなく口を噤んでいき、いつしかあたりはしわぶきの音一つない静寂に包まれていた。



 聞こえてくるのは、刑台の上でもがく緋賊のうめき声ばかり。

 ほどなくして、ホロッカ区にある聖堂の鐘が鳴り響いた。それは処刑時刻の到来を告げる合図であり、首切り役人が命令を乞うように評議員の席に視線を向ける。



 評議会を代表して立ち上がったのは、議長であるパルジャフではなく、今回の公開処刑の責任者であるラーカルトだった。

 肥えた身体を揺らして席から立ち上がったラーカルトが、右手を大きく振り上げる。

 耳が痛くなるような静寂。

 その静寂はラーカルトが右腕を無雑作に振り下ろした瞬間、微塵に砕かれるはずであった。

 しかし、次の瞬間、場の静寂を破ったのはラーカルトではなく――



「も、申し上げます!!」



 評議員席に駆け込んできたドレイク正規兵の一人だった。

 静まり返った広場に、その兵士の叫びはことのほか良く響いた。

 ラーカルトは思わず舌打ちしたが、かまわず処刑人に合図を送ろうとする。闖入者を咎めるのは処刑が終わってからでいい。



 しかし、騒ぎが起きたのは評議員席ばかりではなかった。

 広場でも見物人たちがなにやらざわめいている様子なのだ。警備についていた正規兵が慌しく動き回り、中には武器を掲げて走り去る者もいる。



 緋賊がのこのこ誘い出されたのか。

 ラーカルトははじめ、周囲の動きからそのように判断した。

 であれば、間抜けな賊徒を殲滅し、公開処刑をより血生臭いものにしてくれよう。内心で腕を撫したラーカルトであるが、次に駆け込んできた兵士の報告を聞いた瞬間、大きな両眼をひん剥く羽目になる。



 グリーベル邸襲撃を伝える報告であった。




◆◆◆




 少し時をさかのぼる。



 公開処刑の予定時刻に先んじてグリーベル邸を襲撃した緋賊は、手薄になっていた邸の警備を突破することに成功する。

 手薄とはいえ、子爵邸には五十人近い数の私兵が残っていたのだが、彼らの大半は処刑見物ができないことに不平を鳴らすばかりで警戒らしい警戒をしておらず、突風のように襲いかかってきた二十人の緋賊に初手から遅れをとった。



 見張り台に詰めていた兵士はアトの剛弓によって真っ先に射落とされた。

 正門を守っていた者たちはキルの大剣によって肉塊に変じた。

 頑丈な門扉は混乱に乗じて外壁を乗り越えたインの手によって内から開け放たれ、そこに待機していた緋賊が雄叫びをあげて突進していく。

 この時点で半ば勝敗は決していたといってよい。

 ラーカルトの私兵は邸内に立てこもって防戦しようと試みたが、イン、アト、キルの三人が先頭に立って攻撃をしかけると、防備はあっけなく突き崩された。

 かくて、グリーベル子爵邸は緋賊の手によってあっけなく陥落したのである。




 敵の抵抗が止んだと判断したインは、待機させていたゴズたち雑役夫を邸内に招きいれ、戦利品を運び出すよう命じた。

 平行して、アトにグリーベル邸内部を捜索させる。これは隠れている兵士を狩り出すためであり、同時にラーカルトに囚われている者たちを救い出すためであった。

 戦利品の運び出しが終わればグリーベル邸には火が放たれる。それまでにそういった者たちを邸外に連れ出さねばならない。



 命令を出し終えたインは、キルと共にゴズたちの様子を黙然と見守った。

 イン自身が邸内に踏み込まないのは、撤退のタイミングをはかりつつ、敵増援の対処をする必要があるからだ。

 カイがこの場にいれば任せてしまえる役割なのだが、緋賊の軍師はこの襲撃に加わっていない。セッシュウが予定の日を過ぎても戻らなかったため、急きょ役割を変更して本拠の守りについているのである。



 ゴズたちによって次々に邸内から木箱が運び出されてくる。金貨や宝石が詰め込まれたそれらは、一箱だけでも相当な財産になるだろう。

 今回の襲撃の目的は財貨ではなく、評議会に目に物を見せてやることであるが、だからといってあえて金貨を火にくべる必要もない。

 奪えるものは根こそぎ奪っておく、というのが頭目としてのインの判断だった。



 兜を脱いだアトが顔を青くしてやってきたのはそんな時である。

 彼女の報告を聞いたインの眉がかすかにあがった。



「地下牢?」

「はい。子爵に無理やり、その、手込めにされたという方がいまして。その方が言うには、この屋敷には地下牢があり、子爵に逆らった人たちがそこに捕まっている、と。実際に下りてみたところ、確かにたくさんの人が捕らえられていました。中にはひどい怪我を負っている人もいます」



 閉じ込められている人間の数は、なんと五十人を越えているという。

 広大な邸宅の地下には、広大な地下牢が広がっていたわけだ。

 牢に閉じ込められているのは、ラーカルトに反抗した部下や逃げ出そうとした奴隷、帝国派の内情を探ろうとした間諜、借金を抱えて夜逃げしようとした一家、そういった者たちだという。

 ようするに、様々な意味でラーカルトの邪魔になった者たちがまとめて押し込まれているのだろう。



 中には満足に動けない者もいるらしく、彼らを逃がすには時間がかかる。間もなく評議会の兵が来ることを考えれば、すぐにでも地下から連れ出す必要があるが、アトにあずけられた兵だけでは手が足りない。

 それを聞いたインは即断した。



「ゴズ!」



 雑役夫をまとめる禿頭の部下を呼ぶと、アトを指して命じた。



「連れて来た十人、全員をつれてアトについていけ」

「承知しました!」



 ゴズはうなずくと、すぐに荷運びをしている男たちを大声で呼び集めた。男たちは自分たちが運んでいる荷物に未練がありそうだったが、ゴズの傍らにインの姿を見つけると、即座に表情を改めて駆け寄ってくる。

 このような時、ぐずぐずしていると頭目の怒りを買うことを彼らはよく知っていた。



「あの、イン様?」



 アトは戸惑ったようにインを見る。

 インは相手の困惑を意に介さず、短く告げた。



「人手が欲しくて戻ってきたんだろう?」

「それはそうなのですけど……」



 アトはちらりとゴズたちが運び出そうとしていた品々を見る。

 軽く見積もっただけでも金貨一千枚はくだらないであろう戦利品。イン一人であれば一生、対象を緋賊全員に広げても数年は食うに困らない富である。

 ゴズたちが虜囚にかかりきりになれば、当然のこと、これらの品々は諦めなければならない。インがこうも素早く略奪品を諦める決断をしてくれるとは思っていなかったアトは、何をいうべきか迷っている様子だった。

 先日のやり取りの影響もまだ残っていたかもしれない。



 インはそんなアトの心情を忖度そんたくしない。

 さっさといけ、とばかりに手を振った。



「俺とキルで評議会の兵をおさえる。急げ」

「……は! 承知いたしました!」



 今は躊躇している場合ではないと割り切ったのだろう、アトの声に張りが戻る。

 そうして、各々が動き出そうとした時だった。



「た、大変だ、アト隊長ッ!」



 何者かに突き飛ばされたかのような勢いで、一人の青年がグリーベル邸からまろび出てきた。

 青年はインの姿も目に入らない様子でアトの前まで走り寄ると、そこで両膝に手をつき、ぜえぜえと肩を上下させた。



「――何があったのですか?」



 尋常ではない相手の様子を見て、アトの顔に緊張が走る。見れば青年の右の頬が大きく腫れ上がり、唇の端から一筋の血が垂れている。

 青年は手でその血を拭いながら報告した。



「あ、あのリムカって娘が、牢の中にいた奴に、襲われて……!」

「リムカさんが!? 牢の中に敵が隠れていたということですか!?」

「ち、違う、違います! 俺らと隊長が一緒に助けた、あの鎖で縛られてた奴です! 娘が兄さんて呼んでた、あいつですよ! 隊長が上にいってしばらく経った後、目を開けたと思ったら、い、いきなりすげえ声をあげて飛びかかってきやがって!」



 青年はまだ混乱しているようだったが、それでも何とか自分が見たものを伝えようと言葉を重ねていく。

 インが知るかぎり、この青年はアトにつけた部下の中でも特に勇敢だったはずだ。戦いにおいては常に先頭集団の一角を形成していた。

 そんな人間が顔を蒼白にして狼狽している。それだけで青年が見た光景が尋常なものではなかったことがうかがい知れた。

 インはかたわらでぼんやりと空を見上げていたキルに顔を向ける。



「キル」

「ん?」

「評議会の兵が戻ってきたら、門のところで足止めしておいてくれ」

「一緒に行っちゃだめ?」

「地下でその武器を振り回すのは窮屈だろう?」



 インの視線の先にはキルの大剣がある。

 キルは納得したようにうなずいた。



「ん、わかった」



 こくりとうなずいたキルは、大剣を肩に担ぎ、軽い足取りで正門へ歩いていく。

 少女に地上のことを任せたインは、アトたちを従え、先ほど攻め落としたばかりのグリーベル邸へと足を踏み入れた。

 ちょうどその瞬間、新たな悲鳴が邸宅内にこだまする。



「うああああああッ!!」

「ヒィィイイイイ!?」



 地下に続く階段から二人の緋賊が飛び出してきて、邸宅の廊下に転がった。

 先の青年同様、彼らもアトの下に配されていた者たちである。

 アトの指示で地下に残っていた二人は明らかに恐慌をきたしており、近くにいるインたちにまったく気がついていない。



「二人とも、落ち着いてください!」



 そんな二人にアトが声をかける。

 それを見たインは二人をアトにまかせ、みずからは地下へと続く階段に身を躍らせた。

 地下で何かが起きていることはもう疑いない。混乱する二人を立ち直らせている時間があるのなら、地下におりて自分の目で異変の正体を確認した方がてっとりばやい。



 階段の途中には松明が据えられており、視界は確保されている。時々、血の染み付いた拷問具が、あたかも装飾品か何かのように壁に飾られているのが見て取れた。

 どうやら邸宅の主は噂どおりの人柄であるらしい。

 そのことを確認しつつ、インは速度を緩めずに階段を駆け下りる。らせん状に伸びた階段は、予想していたよりもはるかに深くつくられていた。

 これでは地下の囚人がどれだけ声を枯らせても、その声が地上に届くことはなかっただろう。



 間もなく、インの視界の中で階段が途切れた。地下牢へと到着したのである。

 その直後だった。



「いやあああアアア!? やめて、やめて、兄さんッ!? 痛い痛い痛い痛イタイタイタイィッィィ!!」



 絹を裂くような女性の悲鳴がインの鼓膜を乱打する。

 その声に含まれた狂乱の響きにわずかに顔をしかめつつ、インは一気に地下牢に踏み込んだ。



 真っ先に目に入ったのは、立ち並ぶ無数の鉄格子。壁は築かれておらず、牢内の様子はすべて外から見えるようになっている。

 この構造は脱走を警戒してのものというより、牢内の囚人を精神的に痛めつけるためのものだろう、とインは推測した。何をしていても――それこそ用を足している光景も周囲から丸見えなのだ。まっとうな人間にはさぞきついことだろう。



 ただ、この構造のおかげでインはすぐに悲鳴の発生源を突き止めることができた。

 最も奥まった位置にある牢。その扉が開け放たれている。

 そして、広くもない牢内には激しく揉み合っている二つの人影があった。



 組み敷かれているのは長い髪の女性、おそらく先ほどの悲鳴の主だろう。リムカ、とアトたちは呼んでいた。

 組み敷いているのはボロをまとった男性、こちらはもともと牢屋に入れられていた人物だと思われた。



 牢に入れられていた人間が女性を襲っている。眼前の光景はそれ以外のものには見えなかったし、事実として女性は男性に襲われていた。

 ただし『襲う』の意味が、大方の人間が推測するものとは異なっている。

 別の表現を用いるならば、この時、女性は喰われそうになっていた――文字通りの意味で。



 泥と埃で黒く汚れた男の顔に突然赤い穴がぽっかりと開く。男が大きく口を開けたのだ。

 それを見た女性の口から、再び狂乱したような叫びがあがった。



「やめてやめて兄さんやめてぇぇぇッ!!」



 聞いているだけで身の毛がよだつ恐怖に満ちた叫び声。

 だが、男にとっては蚊の飛ぶ音程度の意味しかなかったようで、大きく開けた口をそのままに、女性の首筋にかじりつこうとする。

 見れば、女性の首や肩は真っ赤に染まっていた。すでに幾度も噛み付かれ、血肉をすすられているのだろう。



 女性は懸命に逃げようとするも、馬乗りの状態で、しかも両方の手首をしっかりと地面に押さえつけられている状態では逃げ出すのは難しい。

 無防備な首筋に男の口が迫り、同時に荒い息づかいが聴覚を犯す。

 女性は恐怖のあまりきつく目をつむった。



 ――だが、恐れていた事態は起こらなかった。

 目をつむった直後、強い衝撃が女性の身体を揺らし、それまで万力のように身体をおさえつけていた重みが一気に消失した。



「…………え?」



 思わず目を見開いた女性の視界に、か細い松明の明かりに照らされたインの姿が映し出された。

 インは右手に愛用の棒を持ったまま、今しがた蹴り飛ばした男に鋭い視線を向けている。



「イン様、ご無事ですか!?」



 インにわずかに遅れて地下牢へ降りてきたアトは、とっさに状況がわからずに足を止めたが、その視線が女性に向くや、驚きの声をあげた。



「リムカさん!?」



 その女性――リムカはアトに地下牢の存在を教えてくれた相手だった。

 リムカの方も、全身を鋼鉄で覆ったアトの姿を見て、それが先ほど自分を助けてくれた相手だと気がついた。



「あなた、たちは……つうッ!?」



 何かを口にしようとしたリムカだったが、すぐに肩口からの激痛に襲われたらしく、口から悲痛な声がもれる。

 すると、まるでそれを合図としたかのように、インに蹴り飛ばされた男がゆっくりと起き上がった。

 ぎこちない、どこか昆虫を思わせる奇妙な動き。血管が破れたのか、真っ赤に染まった両眼を見開いた男の口から、人間のものとは思えない叫び声がほとばしった。



「ギブガギブガギブガァァァァァッァアア!!」



 次の瞬間、男の身体が跳ねた。他の者など眼中にないと言わんばかりに、リムカめがけてまっすぐに飛びかかっていく。

 直前の奇声で身を竦ませていたリムカはこの動きにまったく反応できなかった。土で汚れた唇から、ヒッと小さな悲鳴がもれる。



 しかし、リムカをくみ伏せようとした男の試みはまたしても失敗に終わる。

 宙を飛んだ男の腹に、インが放った槍のような中段蹴りがめり込んだのだ。



「ゴビュッ!?」



 たまらず吹き飛ばされた男はそのまま壁に叩きつけられる。

 並の人間であれば、そのまま失神してもおかしくない衝撃だったはずだが、男はさしてこたえた様子もなくのっそりと立ち上がる。

 これでようやくインを敵として知覚したのか、男は血に濡れた両眼をギロリとインに向けた。



 口の端からは栓を抜いたようにダラダラとよだれが垂れている。苛立たしげに足で床を踏み鳴らし、瞳に狂熱を満たしてインをねめつける姿は、男が正気を失っていることをはっきりと物語っていた。



「――アト」



 インの口から静かな声が発される。

 男の異様な姿に気を呑まれかけていたアトは、その声を聞いてハッと我に返った。



「は、はい、なんでしょうか!?」

「屋敷に火を放つのは中止する。ゴズにも伝えろ、総員撤退だ。全員、速やかに本拠に戻ってカイの指示に従え」

「カ、カイさんに、ですか? イン様は――」



 突然の撤退指示に困惑したアトが理由を問おうとする。

 が、インの一瞥を受けて反射的に口を噤んだ。

 インの目に反問を許さない強い光が浮かんでいたからだ。 



「カイには『シュシュの秘薬』とだけ伝えろ。あいつならそれでわかる」



 そういうと、インはリムカにちらと視線を向けた。

 その目にかすかに哀れむような光がちらついたのは、アトの気のせいであったろうか。



「その女と捕まっている連中を連れて、早く行け」

「……承知しました」



 一瞬の逡巡の後、アトはかしこまって頭を下げた。

 訊ねたいことは山ほどあるが、今ここで問いを重ねても答えは返ってこないだろう。それどころか、インの怒りと軽蔑を招くだけだ。

 それに五十人近い虜囚を解き放つためには相応の時間が必要になる。今は砂時計の一粒一粒が金貨にまさる価値を持つ。

 そう判断したアトは、インの指示に従うべく、一番近くにいたリムカに駆け寄った。



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