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僭王記  作者: 玉兎
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第八章 鋼鉄の都(八)

 ラインラント子爵バルトロメウスの訪問は、ジークリンデにとって決していとわしいものではなかった。

 バルトロメウスは話し手として話題が豊富であり、語り口も軽妙で、訪問のたびにジークリンデの心をなごませる贈り物を持参するので、むしろジークリンデはこの貴公子の訪問を心密かに楽しみにしているほどである。

 宮中でまともな話し相手のいないジークリンデにとって、バルトロメウスの訪問は孤独感を癒すよすがだった。



 もちろん、ジークリンデの周囲に人がいないわけではない。常に女官や侍従武官がはべっているが、彼らに何かをたずねても「申し訳ございません、私にはお答えできかねます」という答えが返ってくるだけであり、仮に誰かが話に付き合ってくれたとしても、後でその者がダヤン侯に処罰されかねないとあっては軽々しく声もかけられない。

 実際にジークリンデに親身に接してくれた女官が、叱責の上で皇帝の傍付きから外されるということもあって、それ以来、ジークリンデは自分の行動が他人の迷惑にならないよう言動に細心の注意を払っていた。

 バルトロメウスにはこの種の気遣いは必要ない。それだけでもジークリンデにとってはありがたい相手であった。




 そのバルトロメウスの口からヒエロニムスの名前が出たとき、ジークリンデは一瞬表情の選択にまよってしまう。その名はジークリンデにとって浅からぬ意味を持っていた。

「――ヒエロニムスと会ったのですか、バルトロメウス?」

「はい。先刻、闘技場でお会いしました。今年もまた闘神として陛下の御前に立ちたいとおっしゃっていましたよ」

 にこりと微笑むバルトロメウスに、ジークリンデは小さくうなずく。

「そうですか……ヒエロニムスと」

 前年度の闘神。そして、さらにその前の年も闘神となった女性剣士のことはもちろん知っている。

 二年前、当時まだ健在だった父帝の前に進み出て『故郷を護る力が欲しい』と訴えた、若すぎる闘神。

 一年前はジークリンデ自身が皇帝として彼女の前に立ち、勝利を寿ことほいだ。



 願いは去年かなえてもらったからと、一年前のヒエロニムスは優勝者の権利を行使しようとせず、そのこともあってジークリンデの脳裏にはヒエロニムスの姿が他の廷臣よりも深く刻まれている。

 もっとも、それは必ずしも良い意味ばかりではなかった。

 ジークリンデは悲しげに眉根を寄せる。

 ヒエロニムスのことを思い出せば、どうしても武闘大会で見た光景を思い出してしまうのである。



 ジークリンデは姉とちがって武器は扱えない。姉やレオンハルトから、いざという時のために護身術を学びはしたが、その腕前はつたないものだった。才能を云々する以前に、誰かを傷つける、あるいは誰かが傷つくということに対し、ジークリンデはどうしても身がすくんでしまう。

 当然のように戦に出たこともなく、自分の意思で闘技場に足を運んだこともない。二年前は皇族の責務として、一年前は皇帝の義務として決勝を観戦した。

 この記憶を思い起こしたとき、ジークリンデの脳裏に映るのはヒエロニムスの剣技の冴えではなく、ヒエロニムスによって斬られ、倒された者の姿であった。



 少女帝がこれまでの生涯で我が目で見た『殺し合い』はわずか二度。そのいずれにも血にぬれたヒエロニムスの姿が映っている。

 ゆえに、ジークリンデはヒエロニムスに対して虚心ではいられなかった。



 こんなことではいけない、と己に言い聞かせてはいる。

 実際に言葉を交わしたのは数える程度だが、ヒエロニムスの人柄はジークリンデにとって好ましいものであったし、姉アーデルハイトやレオンハルトも好感を持っていた。

 その相手を、目の前で誰かを傷つけたから、という理由で敬遠するのは理不尽というものだ。

 そもそも、ヒエロニムスが闘神となったのは我が手で故郷を守ろうとしたからであり、それはつまり、シュタール帝国がブラウバルト州を守れていなかったことを意味する。

 今よりもさらに幼かったジークリンデにブラウバルト防衛の直接的な責任はないが、皇族として、なにより皇帝として、ジークリンデはシュタール帝国の過去すべてに責任を負う立場にいる。

 そのジークリンデがヒエロニムスを否定することは、二重三重の意味で不見識であるといえた。




「これは……失礼しました」

 皇帝の顔が曇ったことに気づいたバルトロメウスは、その理由を推測して頭を垂れた。

「陛下が争いを好まれないことは承知しておりましたのに、闘技場の話題を持ち出してしまうとは」

「い、いえ、大丈夫です! ちょっとその、昨年のことを思い出してしまっただけで……」

 わたわたと手を振るジークリンデを微笑ましく見やりながら、バルトロメウスは口にしかけていた話題を胸中に引っ込めることにした。



 その話題というのは、エックハルトが「見込みがあるヤツだ」と報告してきた仮面の熊殺しのことであった。奇をてらう外見とは裏腹に、無類の強さで予選を勝ち進んでいる気鋭の戦士。

 ただ強いだけの戦士ならいくらでもいるが、何を思ってのことか、この仮面の戦士は対戦相手の血を流さない戦い方を貫いている。これは争い嫌いのジークリンデの興味を引けるのではないか、と考えたのである。

 しかし、闘技場という言葉を聞いただけで顔色をかえるようでは興味を引く以前の問題だ。気詰まりな話題を持ち出して、皇帝に負担を強いるのはバルトロメウスの本意ではなかった。




 間もなく、バルトロメウスは皇帝の体調をおもんぱかって部屋を辞し、ジークリンデは部屋の外までこれを見送った。

 再び寝台に横になったとき、ジークリンデの手には小さな袋が握られていた。中には親指大の丸い菓子が入っている。

 小麦粉、卵、蜂蜜、クルミといった材料を混ぜ合わせ、球状に練って揚げたもので、最後にもう一度、とどめとばかりに蜂蜜をふんだんにぬりつけてある。

 祭の際などによく見かけるもので、これはジークリンデの密かな好物だった。それを知っているバルトロメウスが時折こうして買ってきてくれるのである。



 中の一つを手のひらで転がしながら、ジークリンデはいたずらっぽく微笑んだ。

「寝る前にお菓子を食べたなんて知られたら、女官長が目を三角にしちゃうよね」

 そう言うと、ジークリンデは手のひらに乗ったそれをまた袋に戻す。バルトロメウスからの贈り物だといえば取り上げられることもないだろう。好みの菓子は明日の楽しみとして、シュタールの皇帝は豪奢な寝台の上でそっと目を閉じる。

 その口から小さな寝息がこぼれるまで、さして時間はかからなかった。




◆◆◆




「……あの仮面をかぶった赤毛の出場者、インだよね?」

 宿にしている『黄金の卵亭』の一席で、ヒエロニムスにそう問われたインは素直にうなずいた。

「ああ」

「あ、あれ? あっさり認めちゃうの?」

 若干緊張していた様子のヒエロニムスが目を丸くする。

 それを見て、インは肩をすくめた。

「知られたところで俺は困らん。別人を装って二重に出場しているわけでもないしな」



「……それなら、どうしてあんな変装を?」

 怪訝そうに問うヒエロニムスに、インはまたもあっさりと応じる。

「一言でいえば目立つからだ。それに、闘技場の中はともかく、外で騒がれるのは面倒くさい」

 その答えを聞いたヒエロニムスは、やや疑念を覚えつつも納得した。

 武闘大会で貴族や豪商の目にとまるため、強さ以外に外見も強調するという考えは理解できる。それに、武闘大会で勝ち進めば勝ち進むほど有形無形の厄介事が増えていくことも実体験として知っている。

 それを避けるための変装というのであれば納得するしかない。



 ただ、インが今さらそういったことを気にするのか、という疑問は残った。

 出会って四日とたっていない相手の為人をすべて見抜いたとは言わないが、それでも一度ならず言葉を交わした仲だ、ある程度感じるものはある。

 ヒエロニムスが見るところ、インは誰かの下につくことのない人間だ。そして、たいていの厄介事を苦もなく退ける実力も持っている。つい先日、ヒエロニムスに襲いかかってきた暗殺者たちを撃退したように。

 そんな人間が他者の興味を引くため、あるいは厄介事を避けるために仮面をつけ、さらには髪まで染めるというのは不自然な気がするのである。




 そんなヒエロニムスの疑念に気づいているのかどうか、インは運ばれてきた羊肉の腸詰をかじりつつ口を開いた。

「効果はあったぞ。今日も長ったらしい名前の貴族から声をかけられたしな」

「ああ、もしかしてラインラント子爵かな?」

 昼間の一幕を思い起こし、ヒエロニムスはそう言って麦酒を口にする。エックハルトが目をつけたインに、エックハルトの主であるバルトロメウスが誘いをかけるのは自然なことだ。

 しかし、インはかぶりを振ってヒエロニムスの言葉を否定した。

「声をかけてきたのはグナイゼナウ侯爵とやらだった」

「ぶふッ!?」



 予期せぬ名前を聞いたヒエロニムスは、あやうく麦酒エールをふきだすところだった。

「グナイゼナウ侯って、西部の大諸侯じゃないか!?」

「らしいな。闘技場を出る際、家臣とやらが近づいてきてな。侯爵閣下が貴殿にお会いしたいと仰せです、ぜひ侯爵邸へ、と言われた」

 それはよかったと言いかけて、ヒエロニムスは不意に口を閉ざした。

 四公に招かれるのは帝国貴族にとっても栄誉なこと、ましてや一介の剣闘士がその栄に浴するなど望んでも得られない幸運といえる。

 しかし、である。

 侯爵邸に招かれたはずの人間が、どうしてヒエロニムスの前で腸詰を肴に麦酒を飲んでいるのだろう?

 ヒエロニムスは疑念をただすために宿屋でインを待っていたのだが、日が落ちてからまだ一刻(二時間)と経っていない。



「俺に会いたければ侯爵が自分で出向け、と言ってとっとと帰ってきたからな」

「……うん、たぶんそんな理由じゃないかなあ、と思ってたところだよ」

 あはは、とヒエロニムスは乾いた笑いを浮かべた。

「グナイゼナウ侯は闘技場好きで知られているし、熊殺しの噂が耳に入ったのかな?」

「熊殺しはやめろ。俺は熊を殺した覚えはない」

 インは熊の爪牙から生き延びただけだ。ただ、その方法があまりに攻撃的なものであったから、人から人へ話が伝わっていく間に熊を殺したことになってしまった。



 熊や狼は人間にとって力の象徴であり、その毛皮をまとうことで獣の力を得るという思想は、それこそ神話の時代から存在する。

 主神ウズの麾下にあって最強をうたわれた戦士たち『ベルセルク』は熊皮をまとっており、このベルセルクと並ぶもう一つの最強『ウルフヘジン』は狼の毛皮をまとっていた。

 そういう伝説に親しんできた者たちにとって、インの武勇は神秘的なものに映るのかもしれない。

 何より『熊から生き延びた戦士』より『熊を殺した戦士』の方が話にインパクトがある。インが熊殺しに仕立て上げられた理由はそのあたりにあるのだろう。




 どことなく不機嫌そうなインを見て、ヒエロニムスが可愛らしく小首をかしげた。

「ボクが聞いた話だと、小山のような熊に恐れ気もなく近づいていって、口に手をねじ込んで舌をわしづかみにしたってことだったけど。それで熊はびっくりして逃げ出して、あとは時間切れまでそのままだったって」

「大体そのとおりだ。今では俺が棍棒で熊の頭蓋を打ち砕いたことになってるらしいが」

「まあ熊の頭蓋を割るのも、口に手をねじ込むのもすごいことに違いはないと思うけど……イン、よくそんなことできたね?」



 昼間、ヒエロニムスがエックハルトから聞いた話によれば、インが戦った巨大熊は西部の山村で村人二十名以上を手にかけた獰猛な人食い熊であったらしい。

 本来であれば即座に殺処分されるところであったが、その凶暴性を惜しんだ闘技場の関係者によって助命され、エルガル(憤怒)と名づけられた。以後、エルガルは闘技場所有の猛獣として数多くの人間、同族をほふり、その血肉をすすって長らえてきた。

 帝都の闘技場ではへたな剣闘士より有名であったらしい。



 どれほどの使い手であれ、相手が人間であれば怯むことはない、とヒエロニムスは思う。

 だが、相手が野生の獣、それも人肉の味を知った猛獣となれば話はかわってくる。戦うにしても、自分から相手の間合いに飛び込んだりはしないし、できない。しかし、インはそれをしたという。

 よくもまあ、と今さらながら驚き混じりに感嘆したのだが、インはつまらなそうに酢漬けのニンジンをかじると、そっけなく言った。



「野生の猛獣に自分から近づくほどバカじゃない。その襲われた山村に俺がいたとしても、同じことはしなかったし、できなかったろうよ」

「それは、どういう意味?」

「そのままの意味だ。捕獲された当初はいざ知らず、その後は闘技場の上で人間があてがった獲物の血肉をすすっていただけだろう。それは獣ではなく家畜というんだ」

 家畜を退けて誇るなど道化のやること。

 インにとって熊殺しの名を甘受すること、グナイゼナウ侯の招きを受けることは自らが道化であることを受け入れるに等しかったのだろう。



 イン自身がそうと明言したわけではない。

 だが、このとき、ヒエロニムスは相手の内心を正確につかみとった。

 ヒエロニムスの目じりがわずかに下がる。なんとなしにではあるが、これまで闇の中に沈んでいたインという人間の輪郭が、うっすらと見えてきた気がした。




◆◆◆




 翌日、インの姿は鋼玉宮の近くにあった。

 シュタール帝国の中枢を守るのは、高く厚い防壁と深く幅広の水堀だけではない。門では重武装の騎士がたえず周囲を警戒しており、巡回の兵士は規律正しく、鷹のように鋭い眼差しで往来を行き来している。いずれも油断などかけらも見当たらない精兵ばかり。

 高い防壁の上には、こちらも精強な兵士が昼夜をとわずに見張りについているようで、有事の際にうち鳴らす銅鑼がかすかに見て取れた。おそらく堀の中にも、水中から侵入してくる者に備えて何らかの対策が施してあるのだろう。

 不用意に近づけば問答無用で詰所に連行されてしまうため、人混みにまぎれて近づくという手も使えない。

 インにできることは遠方からそれとなく観察の視線を送ることくらいであった。



 もっとも、それとていつまでも続けていては怪しまれてしまう。巡回の兵士は、何も防壁の周囲だけを見回っているわけではないのだ。

「まさしく鉄壁という感じだな」

 警戒厳重な建物に忍び込むことに関して、インはそれなりの経験と手管を持っているが、さすがに一国の宮殿ともなるとドレイクの評議員宅に忍び込むのとはわけが違う。

 単独での潜入はきわめて困難。少なくとも、帝都が静穏を保った状態では、この警戒を抜けることは不可能だろう。

 であれば、騒ぎを起こしてそれに乗じるしかない。

 それも大火や略奪のように人命が損なわれるものであってはならない。百万を超える帝都の住民、その人心を――心だけをかき乱す、そんな大騒ぎを起こす必要がある。



 それらのことを確認し終えたインは巡回の兵士に見咎められる前に踵を返す。

 向かう先は闘技場、今日は予選の最終日であった。



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