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僭王記  作者: 玉兎
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第八章 鋼鉄の都(三)

 帝都シュトルツァの中心部、鋼玉宮にほど近い場所に主神ウズを崇める荘厳な建築物がある。

 シュタール帝国におけるウズ神信仰の中枢、ノルト・リヒト大聖堂。その中から一人の少女が姿をあらわした途端、帝都広場に集まった民衆の口から一斉に歓呼の声がわきあがった。

 皇帝ジークリンデ・フォン・アルトアイゼンは、眼下に集まった幾万とも知れない人々の声にこたえるように右手をかかげる。ただそれだけの動作で民衆の熱はさらに高まり、熱は風を生んで高所にいるジークリンデの頬に吹きつけてきた。



 統一暦六三〇年八月。

 皇帝の在位一周年式典を兼ねたプラムス祭は予定どおりに開催されようとしていた。

 常は鋼玉宮の奥で多数の兵士に守られているジークリンデであるが、プラムス祭の期間中は様々な場所に姿を見せる。一つ例を挙げれば、この後は帝都市民とのふれあいのため、馬車で市街をまわる予定が組まれていた。

 もちろんというべきか、ふれあいというのは一種の名目であり、実際にはジークリンデは護衛に囲まれて移動するため、市民が直接に声をかけることはできない。それでも間近で皇帝の尊顔を拝める好機とあって、皇帝の通過が予定されている街路は早くも多数の人間が陣取り、市街の混乱を助長する一因となっていた。



 やがて、大聖堂の大鐘が大きく揺れ、一拍の間を置いて重々しい鐘の音が晴れ渡った帝都の空に響きはじめる。

 ほぼ同時に、大聖堂から少し離れた場所に建てられた他の二大神――闘神バーレイグと女神ソフィアの神殿も、それぞれの大鐘を鳴らし始めた。気のせいか、闘神の鐘は雄雄しい音色に、女神の鐘は澄んだ音色に聞こえる。三大神の鐘の音がまじわり、合わさっていくにつれ、反比例するように人々の歓声は収まっていった。

 やがて三神殿の鐘の響きが消え去ると、広場は不思議な静寂に包まれる。何万という人間が一箇所に集まっているとは信じがたい無音のとばり



 そのとばりをジークリンデのやわらかい声が取り払う。

 少女帝の可憐な声がプラムス祭の開始を宣言するや、帝都広場は再び歓呼に包まれた。皇帝万歳、帝国万歳の声は途切れることなく続き、響き渡る歓声はたちまち広場を覆いつくして広大な帝都を包みこんでいく。

 澄みきった空の下、シュタールを称える歓声はいつまでもやむことがないように思われた。




◆◆◆




 プラムス祭の期間中に最も多く人が集まる場所を挙げろ。

 そう言われた者の多くは、武闘大会が開催される闘技場テアトルムを選ぶだろう。およそ七万人を収容できる巨大建造物はプラムス祭初日から熱狂的な観客で溢れかえり、立錐りっすいの余地がない状態となることもしばしばだからである。

 シュタール国内はもとより諸外国からの参加者も多く、参加者の総数は少ない年でも千を下回ることはない。多い年ならば倍ないし三倍に達することもある。それだけ多数の戦士たちが、それぞれの命と矜持きょうじをかけて死闘を繰り広げる武闘大会は、プラムス祭における最大規模の催し物の一つであった。



 ただし、催し物といっても、親子連れが仲良く見物できるたぐいのものではない。

 武闘大会は参加者の半数以上が死傷する血なまぐさい殺し合いであり、観衆は安全な観客席から麦酒エール片手に戦いを楽しむのである。

 公式、非公式を問わずに多数の賭博も行われており、武闘大会で動く金銭は小国の国家予算に匹敵するとも言われている。

 それほど危険な大会に、どうして毎年のように多数の参加者が集まるのか。それは危険を承知してなお挑むに値する価値があるからであった。



 優勝者に与えられるのは『闘神』の称号と、シュタール皇帝による願いの成就。

 大陸七覇の筆頭たるシュタール帝国が、国をあげて個人の願いをかなえてくれるのだ。およそ人の手でかなえられる願いであれば、全てをかなえることができるといっても過言ではない。

 むろん、そこにいたる道はなまやさしいものではなく、特に貴族や騎士団の推薦を受けられずに予選から参加する者――つまりは大多数の参加者――にとって、優勝への道は果てしなく険しかった。



 武闘大会における予選とは多すぎる参加者のふるい分けを意味している。それも「選ぶ」ためではなく「落とす」ためのふるいであるから、容赦というものがまったくない。

 たとえば今おこなわれているのは、三頭の飢えた獅子を闘技場にあげ、そこに二十人の参加者を放り込んで一定時間逃げ延びた者を勝ち抜けとする、という試合方式であった。



 半数以上が開始前に震え上がって棄権し、なんとか闘技場にあがった者たちも、開始から一分経たずに二人が獅子の爪で身体を裂かれるや、半数以上が恥も外聞もなく降参した。そんな彼らには観衆から容赦のない罵声ばせい嘲笑ちょうしょうが浴びせられる。

 棄権もせず、降参もせずに最後まで残っていたのはわずか二人。おそらくは自分以外の誰かのために闘技場に踏みとどまった彼らが、獅子に殺されるまでにかかった時間はおよそ二分。結局、五分とかからずに二十名の参加者が大会から姿を消すことになった。

 最後の一人の首筋に獅子の牙が突き刺さった途端、観客席からは悲鳴と絶叫、そして歓喜の声がわきあがった。おそらく歓声をあげたのは全滅に賭け金を投じていた者たちであろうが、血と死と欲望に酔った観衆の声は、場の雰囲気に飲まれていない者にとって胸が悪くなるものであった。



「――あいかわらず、人も場所も野卑やひそのものだね。この大会で成り上がったボクが言うのもなんだけれど」



 すり鉢状につくられた闘技場の最後列でそんな言葉を口にしたのは、特徴的な琥珀色の瞳をもったひとりの少女だった。

 年の頃は十六、七に見えるが、それは人好きのする顔立ちのせいで、実際は十九に達している。

 羽根飾りのついた帽子からのぞく髪の色は、瞳と同じ琥珀色。すらりとした体躯に脚衣ズボンを履いていることもあって、見る者によっては線の細い男性に見えるだろう。背中にリュートを背負っていれば旅の吟遊詩人で通るに違いない。



 ヒエロニムス・フォン・ブラウバルト。

 それがこの少女の名であり、宮廷では『ブラウバルト辺境伯』として、市井では一昨年と昨年の二度にわたって武闘大会を制した『闘神』として、誰知らぬ者とてない名声を誇っていた。





 そんなヒエロニムスに近づく長身の影がある。

 どっかとヒエロニムスの隣に腰を下ろした金髪の青年は、どこか悪戯っぽい口調で話しかけてきた。

「これはこれは辺境伯閣下。先年の準決勝で槍をあわせて以来になりますか。お元気そうで何よりです」

 わざとらしさを感じさせる丁寧口調がまったく嫌味に感じないのは、青年の快活な声音ゆえであろう。

 いちおうは変装しているはずのヒエロニムスの正体をあっさりと看破かんぱしたこの人物、名をエックハルトという。帝都一を称される槍の使い手であり、当人が口にしたとおり、昨年の武闘大会でヒエロニムスと激戦を繰り広げた相手であった。つけくわえれば、エックハルトは一昨年の大会でもヒエロニムスと戦い、敗れている。



 むろんmヒエロニムスは相手の顔を覚えていた。肩をすくめて挨拶に応じる。

「久しぶりだね、エックハルト。偶然出会うような場所じゃないと思うんだけど、またボクをくどきにきたの?」

「ふむ。一昨年、昨年とくどき落とすには至らなかったが、世には三度目の正直という言葉もある。今年こそは俺の宿願も果たせるかもしれんな」

 近年の武闘大会で上位成績者の常連となっている青年は、真剣な顔つきであごに手をあてた。伊達男を自認するエックハルトは、二年前にヒエロニムスに敗れて以来、なにかとちょっかいをかけてくるのだが、それが本気か否か、ヒエロニムスは今ひとつはかりかねている。

 もっとも、仮に本気だとしても応じるつもりはないので、答えに迷うことはなかったが。



「二度あることは三度ある、ともいうね。ボクとしてはもっと別の宿願を抱くことをおすすめするよ。それはさておき――」

 ヒエロニムスは怪訝そうに問いを放った。

「どうしてラインラント子爵の推薦枠を持ってる人間が、わざわざ予選を見に来ているのかな?」

「それを言うなら、前年度優勝枠を持っているお前がここにいるのも不思議な話だな。ま、別に隠すようなことではないから言ってしまうが、雇い主に頼まれてな。見所がありそうなヤツがいないか見てきてくれ、と。おかげでプラムス祭が始まってからの三日間、ここに通いづめだ」

「ふーん、バルトロメウス卿がね」



 ヒエロニムスが口にしたラインラント子爵とは、ギルベルト宰相の孫であるバルトロメウスの爵位である。

 ヒエロニムスはぽりぽりと頬をかいた。

「つまり目的は同じなんだ」

「なんだ、そちらはそちらで兵として使えるヤツを捜しにきたのか」

「そういうこと。なにしろ我が家はできて二年たらずの新興貴族だから」

 人材が足りない。ヒエロニムスはそう言って、小さく息を吐きだした。



 武闘大会はシュタールの内外から腕に覚えのある者が多数集まってくるため、単なる催し物としてだけでなく、人材発掘の場としても機能している。

 たとえ闘神に至れずとも、大会で実力を示すことができれば、有力貴族から召し抱えられ、あるいは騎士団に誘われることがある。奴隷剣闘士の身からラインラント子爵直属の騎士として召し抱えられたエックハルトはその好例といえた。

 そうやって世に知られていない無名の者たちに立身の機会を与え、彼らを軍に取り込むことで、シュタール帝国はその陣容をより厚くしてきたのである。




 名の知られた貴族であれば、本選を勝ち抜いた者に手厚い待遇たいぐうを約束して自家に引き入れることができるが、今のヒエロニムスは個人の名声こそあるものの、統治する領地はとうてい豊かとはいえない土地であり、招聘しょうへいのために出せる条件には限りがあった。

 ある人物を招こうとした際に他の貴族と競合してしまえば、まず勝ち目がない。したがって、ヒエロニムスは他貴族ライバルたちが目もくれない予選にみずから乗り込み、目を皿にして有為な人材を捜し求めていた。



 バルトロメウスがエックハルトを派遣したのも似たような事情だろう。ダヤン侯爵家の後継者という立場であれば、本選の上位成績者に破格の条件を出すことも可能なはずだが、バルトロメウスは血統とは関わりのない自分自身の家臣を集めたいと考えているのかもしれない。そうでなければ、わざわざ予選に直属の騎士エックハルトを差し向けたりはしないだろう。

 そのあたりをつっつけば、ダヤン侯爵家内部の微妙な人間関係を知ることができるかもしれないが、他家の内情に興味のないヒエロニムスはあっさりと聞き流した。

 エックハルトの口許に微笑が浮かぶ。エックハルトもエックハルトで、ヒエロニムスがそういう性格だと知っていればこそ、平然と目的を口にしたのである。




 二人が言葉を交わす間にも予選試合は進められていた。

 先に獅子に殺された死者たちの亡骸は、慣れた係員の手でとうに片付けられており、人を食って腹を満たした猛獣たちも引っ込んでいた。次に行われるのは、どうやら五人一組の八チームで行われる勝ち抜き戦らしい。

 このあたりは催し物らしく、武闘大会では同じ形式の戦いが続くことはない。予選参加者をふるいにかけつつも、観客を飽きさせないように様々な工夫がほどこされている。



 そのいずれも、獅子との戦いに劣らぬ血なまぐさいものばかりであったが、見物するエックハルトの顔にはヒエロニムスのような嫌悪感はなかった。

 奴隷の身から脱したとはいえ、エックハルト自身は今なお自分を剣闘士であると考えている。その彼にとって闘技場における戦いは、たとえそれがどれほど理不尽なものであれ、立ち向かって打ち破るべきものであった。

 それができない者が死ぬのは当然のこと。まして、武闘大会の参加者たちは他者に戦いを強制されているわけではなく、自分たちの意思で参加を決めているのだ。

 そんな彼らが自身の力を見誤って死んだとしても、それは自業自得というもの。死にたくないのなら、はじめから闘技場にあがるべきではない。それがエックハルトの考えであった。



◆◆



 帝都の空が茜色から夜闇の色に染めかえられ、闘技場を取り囲むようにたくさんの松明が並べられていく。

 それを見て、ようやく日が暮れたことに気づいた観客も少なくなかった。闘技場には天井がないため、少し視線をあげれば天候や時間の流れを把握することはできるのだが、たいていの観客は戦いに集中して他のことなど気にとめない。試合から試合へ移るわずかな時間は、賭け券を求めて券売場に殺到するための時間であった。



「……さて、それじゃボクはここで失礼するよ」

 今日の最終戦を待たずに腰をあげるヒエロニムスを見て、エックハルトが不思議そうな顔をする。

「どうした? 貴族暮らしに慣れたせいで闘技場の狂熱にあてられたか?」

「さすがにそこまでヤワじゃありません。ボクもできれば最後まで見ていきたいんだけど、この後ベルンシュタイン公に招かれていてね」

 帝国北部に広大な領地を有する『琥珀公』ゼリアルト・フォン・ベルンシュタインは、南部のドルレアク公爵、西部のグナイゼナウ侯爵らと並ぶシュタール屈指の大貴族である。

 ヒエロニムスが治めるブラウバルト辺境伯領もその影響下にあり、特に毛皮や琥珀といった北部の重要な産物は採取から販売にいたるまで、ほぼすべてをベルンシュタイン公が取り仕切っているため、たとえ闘神といえども琥珀公の招きを無視することはできないのである。



 それを聞いたエックハルトはからからと笑った。

「成り上がったら成り上がったで面倒事が増えていくのだな。やはり俺は今の立場がちょうどいいようだ」

 そう言うとエックハルトは軽く手を振り、それではまたな、と口にした。

「願わくば今年もまた試合場の上でお前とまみえたいものだ」

「キミが勝ち残れば、その願いはかなえられるよ」

 そういうと、ヒエロニムスは響き渡る歓声を背に闘技場を後にした。





 日が落ちると同時に帝都の四方を守る大門は閉ざされ、シュトルツァの内と外の出入りは不可能となる。

 一方で、内部の行き来は一部の区画を除いて自由であるため、街路の賑わいがとだえることはなかった。歓楽街などのように、日が落ちてからの方が活気を増す場所も多い。

 闘技場を出たヒエロニムスは祭事に沸く人波をかきわけて帰路を急いだが、麦酒エールをあおりながら笑いさざめく人々の声はヒエロニムスの足をぬいとめるのに十分な吸引力を有しており、その誘惑をはねのけるのは闘神といえど容易なことではなかった。



 ヒエロニムスは率先して騒ぐ性格ではなかったが、こういったお祭り騒ぎは決して嫌いではない。むしろ好きな方である。

「――うん。まだ時間もあるし、いいよね」

 結局、誘惑に抗しきれなかったヒエロニムスは、ひときわ良い匂いを漂わせる手近の屋台に飛び込むと、そこで麦酒エールと串焼き肉を買い求めた。右手に麦酒エールを、左手に串を握った格好で、立ち並ぶ街路樹のひとつに背をあずける。



 ゆげの立つ鹿のあぶり肉にかぶりつくと、鹿肉の濃厚な味わいが口中にあふれて、思わず頬がほころんだ。

 次いで、木製のコップになみなみと注がれた麦酒をあおる。芳醇な麦の風味が舌を洗いながら喉の奥へと流れ落ちていく感覚は何度味わっても飽きることはない、とヒエロニムスは思う。

 水の質がよくないシュタールでは往々にして水よりも麦酒の方が安くなるため、たいていの庶民は麦酒を水代わりに飲んで育つ。これはヒエロニムスも例外ではなく、辺境伯となった今も高価なブドウ酒ではなく、安価な麦酒を好んで口にしていた。




「…………はぁ」

 串焼きを食べ終え、麦酒を飲み終えたヒエロニムスの口から小さな吐息がこぼれ落ちる。満足の息ではなく、どちらかといえば溜息に分類されるものであった。

 ヒエロニムスは皇帝から帝都に屋敷を与えられているが、どうにもそこに帰る気になれず、ぼんやりと空を見上げる。



 一年を通して国境防衛に従事しているヒエロニムスが帝都にやってくるのはプラムス祭の期間のみ。本来であれば、ヒエロニムスはこんなところで油を売っている暇はなかった。

 ブラウバルト辺境伯領は、シュタール北方の草原に盤踞ばんきょする騎馬民族の国カザークと境を接している。ヒエロニムスがどれだけ剣術に秀でていようとも、ブラウバルト家の力だけでカザーク軍を撃退することはできず、他者の助力が不可欠であった。

 ヒエロニムスは領主として他の貴族や商人と親交を深め、宮廷での人脈を築き、ブラウバルト家を守るための備えをつくりあげなければならない。

 その意味で、北部の大領主であるベルンシュタイン公の招きは願ってもないものであるといえた。公爵邸には北部諸州の貴族や豪族、あるいは北部を販路に組みこんでいる有力商人たちが多く集まっているに違いないからである。



 辺境伯に任じられて二年。領民を守るためには、そういった付き合いも必要であることをヒエロニムスは十分に理解していた。

 しかし、だからといって好んでそれをやれるかといえば、答えは否である。ことに今は血臭に満ちた戦いを散々見てきたばかりであり、間をおかずに銅臭どうしゅうに満ちたやりとりをするのは気が進まないことおびただしい。



 帝都の夜空を見上げるヒエロニムスの唇が苦笑の形をとった。

「剣の腕だけで全てを守れると思っていた頃が懐かしいね。ま、だからといって今の立場を投げ捨てる気にはならないけれど」

 投げ捨てるどころか、ヒエロニムスは意地でも今の立場を堅守する気でいる。

 今のブラウバルト家はヒエロニムス個人の名声によって支えられているといっていい。言葉をかえていえば、世にもめずらしい女性の闘神が領主であるからこそ、貧しいブラウバルト辺境伯領に防衛価値が生じている。



 本来、北部国境の防衛は五鋼騎士団の一、黒鋼こっこう騎士団の任であるのだが、大剣重装を主流とするシュタール兵はカザークの軽装弓騎兵と相性が悪く、数十、数百といった小勢で動き回るカザーク騎兵のすべてを国境で食い止めることは、いかに黒鋼騎士団といえど不可能だった。

 黒鋼騎士団と他の領主が協調すれば他に打つ手もあっただろうが、シュタールの軍制上、五鋼騎士団は外敵と同じく、内の勢力――つまりは北部貴族へ軍事的な睨みをきかせるという面を併せ持っている。

 このため、五鋼騎士団と他の領主が共同作戦をとることはきわめて難しく、ブラウバルト州はそのわりを食う形で度々カザーク軍の激しい略奪に遭ってきた。



 この状況はヒエロニムスが領主となることで改善されつつある。闘神の名声に惹かれた義勇兵も増え、他領からの物資の援助も行われるようになった。

 しかし、ヒエロニムスが闘神の座から転がり落ちてしまえば、ブラウバルト州を取り巻く環境は二年前に逆戻りし、かつてと同じ苦境にさらされるようになるだろう。

 だからこそ、ヒエロニムスは今年も武闘大会に参戦する。

 ヒエロニムス・フォン・ブラウバルトは闘神でなければならないのである。カザーク帝国の脅威が排除される、その日まで。





 ――そこまで考えたヒエロニムスは、もたれかかっていた街路樹から離れると、んー、と大きく伸びをした。

 表情はいまだ明るさを取り戻していなかったが、それでも鬱々(うつうつ)とした暗い影は麦酒エールと共に飲み下すことができていた。

 周囲の賑わいはいまだ衰える気配はなかったが、自分が祭りの熱にひたれるのはここまでだろう、とヒエロニムスは心中で呟く。

「さて、それじゃあ帰ろうかな。まだ十分に時間に余裕はあるし――」

 そう言って、屋敷の方向に足を踏み出そうとしたときだった。



 不意に、街路を歩く一人の青年の姿がヒエロニムスの視界に飛び込んできた。



 年はヒエロニムスと同じくらいだろう。地方からプラムス祭見物にやってきたのか、杖がわりに木の棒をついて歩いている。

 見たかぎり武器はもっておらず、衣服にもかわったところはない。黒い髪の色も、人の多い帝都ではそれほどめずらしいものではなかった。

 いってしまえば、これといった特徴のない通行人――そのはずであった。



 しかし、ヒエロニムスの視線は何故か青年から離れなかった。

 それは決して色めいた感情ではない。街中を歩いていたら、不意におりに入れられていない猛獣と向き合ってしまったかのような、そんな感覚がヒエロニムスを捉えていた。

 今も一歩一歩近づいてくる青年から漂う、あまりに濃厚な血の臭いが本能的な警戒を強いてくる。



 と、ヒエロニムスの凝視ぎょうしに気づいたのか、相手も視線を向けてきた。

 黒の瞳と、琥珀の瞳が正面からぶつかりあう。

 だが、それも一瞬。

 青年の視線はごく自然にヒエロニムスから外され、そのまま足を止めることなく傍らを通り過ぎていく。



 ヒエロニムスの口から安堵あんどの息がこぼれた。

 気がつけば血の臭いも消えている。

 もとより青年は武器をもっておらず、衣服には一滴の血さえついていなかったのだから、濃厚な血臭などというのはヒエロニムスの空想の産物に過ぎない。

 ただ、闘神として多くの死戦を経てきたヒエロニムスが、それを感じるだけの理由が相手にあったのは確かである。

 相手の正体が気にならないといえば嘘になるが、帝都にはわけありの人間など掃いて捨てるほどいる。その上、今のヒエロニムスには他者を誰何すいかする権限はない。

 ベルンシュタイン公との約束の刻限も近づいている。今は見知らぬ人間にかまっている時間はなかった。



 ヒエロニムスは青年が去っていった方向に視線を向ける。

 目的の人物の姿はすでに雑踏に飲み込まれ、影も形も見えなかった。



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