第八章 鋼鉄の都(二)
晴れ渡った空から燦燦と夏の日差しが降り注いでくる。
陽光に照らされた鉱山都市はじっとしているだけで汗ばむような陽気に包まれているが、山頂から吹き降ろす風が適度な涼をもたらしてくれるので、過ごしにくいという感覚はない。耳を澄ませば、どこからか野鳥のさえずりが聞こえてくる。草むらに横になって目をつむれば、心地よい午睡を楽しむことができるだろう。
ただし、そんなのどかな一時を楽しむためには、ガンプを攻囲する数万の大軍を退かせる必要があった。
三日前、ラーラベルク軍は公女レオンハルトの作戦によって敵本陣を急襲し、討伐軍の総帥ドルレアク公爵をあと一歩というところまで追いつめることに成功した。くわえて、敵の主力である紅金騎士団の団長に手傷を負わせることもできた。
この間、ラーラベルク公ヘルムートは生還した皇女と共に反撃の先頭に立ち、本陣襲撃で混乱する討伐軍を城内から掃き出すことに成功している。
この勝利によってラーラベルクの軍民はおおいに士気を高めた。
討伐軍の襲撃に備える兵士や住民の声は忙しげではあっても混乱した様子はなく、敵軍への恐怖や、先の見えない戦いへの苛立ち、諦念といったものは感じられない。むしろ、討伐軍何するものぞという気概に満ちた者が多かった。
活気が充溢する都市内の様子は、この状況の立役者であるレオンハルトにとって喜ばしいものである。
しかし、だからこそというべきか、街路を歩く公女の表情は冴えなかった。
「敵を城外に追い払ったとはいえ、ドルレアク公と紅金の団長はともに健在。多少、兵の再編成に手間取っているようだけど、それもじきに完了するでしょうね。次の総攻撃、どうやって防いだものかしらね」
彼我の戦力差は依然として大きく、破壊された城門の修復も終わっていない。討伐軍がもう一度本格的な攻勢に出てくれば苦戦はまぬがれないだろう。そして、紅金騎士団を後方に下げてまで部隊再編を急ぐドルレアク公爵にその意志があることは火を見るより明らかであった。
ラーラベルクの一族として、レオンハルトはこれに対して何らかの手を打たなければならない。お忍び用の衣服に身を包んでそぞろ歩きなどしているのは、軍議続きで硬直しつつある頭をほぐすために他ならなかった。
レオンハルトは腕組みしながら、右手をあごにあてる。
奇襲によってドルレアク公を討ち取るという起死回生の策が失敗した今、ラーラベルク軍が打てる手段はほとんど残っていなかったが、無為無策で滅亡を待つ気はない。
自軍のみで活路を見出せないのであれば、次に考えるべきは他所から援軍を求めることであろう。
これに関してはすでに手を打っている。
三日目に奇襲を行った際、レオンハルトの手勢の何人かは城に戻らずに周辺領主のもとに向かっていた。ガンプに第一皇女ありという事実を伝え、広く援軍をつのるためである。
皇女の生存と、それにともなう宰相の謀略が白日の下にさらされれば、これまでの態度を改めようと考える諸侯も出てくるだろう。宰相の権力の源泉は皇帝を擁していることであるが、アーデルハイトの存在はその源泉を枯らす一手になりえるのである。
とはいえ、そのためには本当に皇女が生存していることを諸侯に示さねばならない。皇女本人が訪れたならばともかく、書状で生存を知らせるだけでは、どれだけ使者が巧弁を駆使しようと諸侯を説得することは難しいだろう。討伐軍の攻勢に窮したラーラベルク家が苦し紛れの一手を打ってきたと思われるのが関の山だ。
今のガンプに援軍を送るということは、宰相であるダヤン侯爵をはじめとした帝国中枢に反旗を翻すということ。失敗すれば、自身はもとより、家族、臣下、領民にも被害が及ぶ。もしレオンハルトが援軍を求められる側であったとしても、真偽の定かならぬ一通の書状に自家の命運を託す気にはなれないに違いない。
「だからといって、アトに足を運んでもらうわけにはいかないし」
他者がいれば硬くなる口調も、ひとりでいれば自然と砕けてくる。
レオンハルトは小声で考えをまとめながら、さらに思考を先に推し進めていった。
再度の奇襲を警戒してか、討伐軍は自陣周辺の守りを厚くすると同時に、ガンプを抜け出ようとする者に対して相当注意を払っている様子だった。
おそらく、ラウラ山中には多数の兵が入り込んでいるだろう。今のラーラベルク軍にこれを退ける余力はなく、密かに都市を抜け出るのはほぼ不可能といってよい。
仮に抜け出ることが出来たとしても、援軍を求めに向かった先で皇女が捕らえられる危険がある以上、やはりこの状況で皇女を外に出すわけにはいかない。
だが、そうなると外から援軍を求めることはできず、自軍のみで討伐軍を退ける術もなく、ラーラベルク家は袋小路に追い込まれてしまう。
レオンハルトがぐるりと首をまわすと、肩のあたりからごりごりと乙女らしからぬ音が聞こえてきて、公女は思わず溜息をついてしまう。軍議続きでこりかたまっている両肩を自分の手でほぐしながら、レオンハルトは最悪の事態に思いをいたす。
このまま戦況が推移していけば、ガンプは間違いなく陥落する。
だが、仮にそうなったとしても城をまくらにして討死する気はなかった。いざとなれば、軍民を引き連れて山中に逃げ込むことになるだろう。それでも敵が諦めなければ、ヒルス山脈を越えて駆けつけてくれた者たちにならって、レオンハルトたちもあの天嶮を越えなければならなくなる。
しかし、総勢何人になるか分からない大人数、しかも女子供を引き連れ、ろくな準備もなしにとあっては悲惨な結果に終わるのは目に見えていた。
「ほんと、どーしよう」
軍議の席では決して口にできない言葉を漏らし、レオンハルトは天を仰ぐ。その際に目を瞬かせたのは、晴れ渡った空の青が寝不足の目には眩しすぎたからであった。
――犀利で知られるラーラベルクの公女といえど全能ではない。結局、これといった良案が浮かぶこともなく、レオンハルトは力ない足取りで公宮への帰路についた。
アーデルハイト皇女や、紅金騎士団長に匹敵しえるインの参戦はおおいに頼りになるが、今のガンプには彼らを十全に活かす余裕がない。どれだけ切れ味の良い宝剣を手に入れても、それを振るう体力がなければ意味がないのである。
できればもう少し時間をかけて考えたかったが、いつ敵の本格的な攻勢が再開するかわからない状況で、公爵家の人間が長く公宮をあけるのは好ましくなかった。
間もなく公宮というところまで来たとき、レオンハルトは思い切ったように己の両頬を強く叩いた。
公女がふぬけた姿をさらしては折角高まった士気が台無しになってしまう。頬を叩くことで心身に活をいれたのである。
と、そこでレオンハルトは公宮が奇妙な騒がしさに包まれていることに気がついた。もしや敵の攻撃が始まったのかと足を速めたが、聞こえてくる声音には緊張や驚愕こそ含まれているものの殺気だった気配は感じられない。何事かと首をひねりながら門をくぐったレオンハルトは、そこで自身を悩ます難問を一度に吹き飛ばす吉報を耳にした。
◆◆
「討伐軍が退いた?」
インにその報告をもたらしたのは、息せき切って部屋をおとずれたアトであった。
インたちリンドブルム一行はラーラベルク公爵家から賓客として迎えられている。
第一皇女を守ってヒルス山脈を踏破したこと。レオンハルトとアストリットを敵の手から救ったこと。そのレオンハルトと共に敵本陣を強襲し、紅金騎士団長ルドラ・エンデと渡り合ったこと。そういった諸々(もろもろ)が評価されてのことで、ガンプ内はもとより、ラーラベルク公宮を自由に歩く許可も与えられていた。
女官や兵士たちの対応もすこぶる良く、昨夜の食事は小麦でつくった白パンに、ニンニクと胡椒をまぶしてじっくり焼いた厚い羊肉、キノコとりんごのソテー、やたらと酸味の強い酢漬けのキャベツと、篭城中とは思えないほど豪華なものであった。
アトの報告を聞いたインは、久しぶりに剃刀をあてた顎に手をあてる。
日はとうに中天に達しているが、奇襲から戻ってからこちら、ほとんどの時間を寝て過ごしたインはつい先ほど目を覚ましたばかりであった。部屋にはもう一人、キルもいるのだが、こちらは今なお夢の中である。
「いったん退却すると見せかけて城側の油断を誘う――ふん、戦力差からして、そんな小細工をしかけてくる必要はないか。皇帝なり宰相なりが動いた可能性は?」
アトは左右に首を振ることでインに答えた。
「妹が軍事に口を出せるとは思えません。口を出したとすれば宰相でしょうが、現状で宰相があえてガンプから兵を退かせる理由はない、と思います。私が帰ってきたことはもう知らされているでしょうし、そうなれば是が非でもここでしとめようとするはずですから」
あの宰相のこと、皇女の生存を知って攻勢を強めるよう指示を出すならともかく、その逆はありえないとアトは言う。
しかし、現実に討伐軍は退却した。おさえの兵を残すことさえせずに――つまりは総退却である。予期せぬ戦況を前にして、アトの表情も声もかたく強張っていた。
そんなアトとは対照的に、インの方は表情も声音も普段と大差なかった。さすがにあくびをもらすようなまねはしなかったが、そうしても不思議ではない雰囲気をかもしだしている。
「皇帝は動けない。宰相の指示でもない。となれば、ドルレアク公の方に兵を退かざるをえない何かが起きたと考えるのが自然だな」
「兵を退かざるをえない何か、ですか?」
「ああ。この街の攻略どころではない、という差し迫った異変だ」
『何か』と口にしながらも、インはそれについて具体的に見当がついているらしい。
そのことはアトにも伝わったが、肝心の中身については想像もつかなかった。自然、顔に困惑が浮かびあがる。それを見たインが小さく肩をすくめて言った。
「俺たちがヒルスを越えるのに要した時間がだいたい一ヶ月。カイが用意を整えるには十分すぎる時間だ」
「カイさん、ですか? それは……」
「あいつにアルシャートを落とせと命じたことは言ったろう? あの要塞が落ちればドルレアク公は退かざるをえない」
「それは……確かにそのとおりだと思いますけれど……」
アトは戸惑いながらもうなずいた。
アルシャート要塞が陥落すれば、次に危機に晒されるのはドルレアク公の本拠地たる公都ドラッへである。また、ヒルス山脈の南北をつなぐ琥珀街道がリンドブルムの手で塞がれてしまえば、交易面におけるシュタール帝国の被害は甚大なものになる。ゆえに、アルシャート要塞が落ちれば、ドルレアク公はその奪回のために動かざるをえない。
紅金騎士団にとっても南部最大の要塞であるアルシャートの陥落は一大事である。南の勢力が大挙して侵攻してくる可能性が出てくる以上、ガンプに主力を配置しておくことはできない。もしアルシャートを落とした敵がドルレアク公すら飲み込んでしまった場合、これを止めることができる戦力は南部防衛の要である紅金騎士団のみだからである。
カイがアルシャート要塞を落とせばガンプの危機は去る。インの言葉に否定の余地はない。
しかし、今のドレイクの戦力でアルシャート要塞を武力占領することは果たして可能なのか。アトは疑念を抱かざるをえなかった。
先にドレイクで起きた騒乱において、都市守備にあたる六千の兵はほぼ無傷で残された。しかし、自由都市にリンドブルムの旗がひるがえってからまだ一月たらずしか経っておらず、外征に動かせる兵は六千の半分にも満たないだろう。
ひるがえって、アルシャート要塞には常時一万をこえる正規兵が詰めている。ドレイクでの騒動も考慮すれば、現在の要塞兵力は通常時の倍、あるいは三倍近くに達しているはずだ。
これまで緋賊は幾度も圧倒的な戦力差を覆してきたが、今のドレイクにはインも、キルも、セッシュウもいない。
カイの智略はアトも十分に承知しているが、一歩離れてカイという人物を見てみれば、そこにいるだけで他者を圧伏できるような迫力や容姿、あるいは名声を持ち合わせているわけではない。
むしろ初対面の人間、それも戦いを生業とする屈強な兵から見れば、カイの繊弱な容姿は軽侮の対象になりかねない。長年、行動を共にしてきた緋賊の兵ならともかく、緋賊とは縁もゆかりもない――それどころか、ながらく敵対関係にあったドレイク兵がどれだけカイの命令に従ってくれるのか。ドレイクの資金で傭兵を雇い入れるにしても同じ問題はつきまとう。
こんな状況で作戦立案から実戦指揮にいたるまで、ほとんどすべてを一人でこなさなければならないカイの負担は相当なものだろう。
その負担を抱えた上でアルシャート要塞を攻め落とすのは――
「……いくらカイさんでも難しいのではないでしょうか?」
そういう結論に至らざるをえなかった。
このおそるおそるの指摘に対し、インは別段怒ったりはしなかった。
かわりに、再度肩をすくめる。
「かもしれん。その場合、討伐軍が退いた理由は別にあることになるな」
そう言われてしまえば、その理由に心当たりがないアトは口をつぐむしかない。
と、インたちのやりとりで目が覚めたのか、それまで寝台の上で寝こけていたキルがうめくような声を発した。
「……んぅ」
少女の目がゆっくりと開かれる。
むくりと寝台から上体を起こし、ぼんやりとした眼差しで室内を見回したキルは、んー、と大きく伸びをする。その仕草は子供そのものであったが、無邪気と形容するには傍らに置かれている大剣が邪魔であった。
「……お腹すいた」
開口一番、空腹を訴えるキルを見て、アトはくすりと微笑む。
インは卓の上にのっていた皿から、石のように硬くなった黒パンを掴むと、それをキルに向けて放った。片手で器用にパンを受け取ったキルは、そのまま大口をあけてかぶりつく。
皿には他に干し肉やらニンニクやらが乱雑に置かれていた。これらはヒルス越えのために用意した保存食である。味ではなく日持ちを優先させたものであるが、さすがに二月、三月と保つものではないため、インたちはこうして小腹が空いたときに処分しているのである、
キルに黒パンを放ったインは、自分はニンニクを手にとってガリガリとかじった。お世辞にもうまいとはいえないが、粗衣粗食に慣れた身にとっては苦にもならない。
卓上に置かれていた瓶に直接口をつけたインは、ややぬるくなった水を喉をならして飲み干すと、アトの方をむいて胸中の考えを明らかにした。
「帝都に?」
驚いたようにアトの声がはねあがる。
インは軽い調子でうなずいた。
「ああ、帝都に行く。今の時期ならプラムス祭と重なるから、普段より楽に出入りできるだろう」
「それは、そうかもしれませんが……」
菫色の双眸が戸惑ったように瞬いた。
胸に手をあてたアトは気遣わしげにインを見つめる。
「何故、とお訊ねしてもよろしいですか?」
「討伐軍が退いた今、俺がこの街にいても大してやることがない。この機会にお前の妹がいる鋼玉宮がどんなものなのか確かめておこうと思ってな。それに皇女生存の噂をまくなら、辺境でこそこそするより帝都でやった方が効率的だろう」
プラムス祭には帝国の内外から大勢の人々がやってくる。彼らは祭が終わった後、それぞれの故郷に帰って帝都で見聞きした話を自慢げに周囲に語って聞かせるだろう。その中に「刑死した皇女が実は生きており、ラーラベルク公と共に宰相に戦いを挑んでいる」という情報を混ぜておけば、労せずして帝国全土に皇女生存の情報を流すことができる。それも銅貨一枚投じることなく、だ。これを利用しない手はない、とインは言う。
それを聞いたアトの表情がかすかに揺れた。皇女の口が開かれ、しかし何を言えばよいのかわからないといった様子で、なめらかな唇が二度、三度と開閉を繰り返す。
やがて、アトは意を決したように声を押し出した。
「あの……こっそり鋼玉宮に潜入しよう、とか考えていらっしゃるわけではないですよね?」
「潜入できればいいとは考えているぞ。そうすれば、さっさとお前の妹をさらってくることが出来るからな。お前の望みはそれでかなう」
「確かにそうですけど、それは――!」
顔を強張らせるアトを見て、インは三度肩をすくめた。
「そんな簡単に事が運ばないことは承知している。突然あらわれた侵入者に皇帝が素直に従うとも思えないしな」
だから余計な心配はするなとインは口にしたが、アトの顔から不安げな表情が去ることはなかった。鋼玉宮に潜入した後のことに言及しているあたり、インが何事か目論んでいることは明白だったからだ。
とはいえ、これ以上追及したところでインが本心を口にしないだろうことはアトにも理解できた。へたに行動を掣肘しようとすれば、いつかのように逆鱗に触れてしまうかもしれない。なにより、今のインの行動の根幹はアトの願いをかなえることにある。そのことがわかっているから強く制止することができず、それでいて心配は募るばかり。
そんな厄介な状態に置かれたアトにかわって、キルが口を開いた。
「イン。キルは?」
もきゅもきゅと硬いパンを咀嚼しながら問いかけてくる。
その問いに対する答えもインは用意していた。
「キルにはアルシャートに行ってもらう」
インの予想どおりに要塞が陥落していたなら、カイはそこにいるだろう。予想が外れていた場合でも、ドレイクにいるカイにガンプの情勢を伝えておくことは無駄にはならない。要塞近辺は常以上の厳戒態勢がしかれているに違いなく、余人では近づくことさえ難しいだろうが、キルならば外見で油断させるなり、実力で切り開くなり、あるいはヒルス山中を通るなりして対処できる。
「必要なら、そのままカイに力を貸してやってくれ」
その言葉にキルは小首をかしげた。
「インと一緒に行っちゃだめ?」
「今回は目立たないことが第一条件だからな。ついてきても息苦しいだけだぞ」
イン自身、素性がばれないように色々と工夫をする予定である。キルも同様にして連れて行くことはできるが、その工夫はキルにとって枷のようなもの。わざわざそんな面倒な思いをするよりは、カイのもとにいた方がのびのびと過ごせるだろう、というのがインの考えだった。
血臭が漂う状況をのびのびと形容することが正しいかはさておき、インがキルのことを思っていることは事実であり、それをくみとったキルは素直にうなずいた。
「ん、わかった」
そう言うや、キルは寝台からおりてインの前まで歩み寄り、そのままちょこんと膝上に乗っかった。寝癖のついた髪をインが梳いてやると、キルは日なたで眠る猫のように表情をやわらげる。
アトはそんなインたちを微笑ましそうに見守っていた。
◆◆◆
ジークリンデ・フォン・アルトアイゼン。
それはシュタール帝国第二十代皇帝の名前であり、女性の身で帝座についた者としては三人目にあたる。
皇帝が起居する宮殿――鋼玉宮は帝都中央に位置しているが、城壁と見まがう長大な壁によって街区と遮られているため、外から内部の様子をうかがうことはできない。常時、千人を超える近衛兵によって守備されている鋼玉宮の守りは鉄壁であり、不用意に近づけば武器を持たない市民であっても拘束されてしまう。
神経質なまでの警備体制であるが、実のところ、鋼玉宮の内部においてもこれと同様のことが起きていた。皇帝の住まう奥殿に宰相の許可なく近づく者は、たとえ高位の廷臣であってもただではすまない。
帝都シュトルツァの中にあって、シュトルツァから隔絶された領域が鋼玉宮なのだとすれば、ジークリンデの居室は鋼玉宮の中にあって鋼玉宮から隔絶されている。
十一歳の皇帝は、そこでごく限られた者とのみ顔をあわせて日々を送っていた。
夜半、ジークリンデは侍女を遠ざけ、一人窓辺に佇んで外の景色を眺めていた。
といっても、帝都の街並みは灰色の防壁によって遮られて見ることができない、皇帝の目に映るのは眼下の庭園くらいのものである。
先刻から少し風が出てきたようで、時折、庭園の木々がしなる音が聞こえてくる。
ふと視線をあげると、防壁の上を規則正しく行き来している灯火が見て取れた。見張りの兵が松明を掲げて職務に従事しているのだろう。
彼らに声をかけることができるなら、遅くまでご苦労様ですとねぎらってあげたい。ジークリンデはそう思う。
だが、それは不可能なことだった。たとえ味方の兵士であっても、ジークリンデが自分の意思で誰かに声をかけることは許されない。それをすれば、かえって相手に迷惑をかけてしまうことを皇帝は理解していた。
「…………はあ」
知らずため息を吐いている自分に気づき、ジークリンデは室内に視線を戻す。
気を晴らすために窓の外を見ていたのに、かえって気が重くなってしまっては意味がない。かといって、室内の豪奢な調度品を見たところで気がまぎれるわけでもなく、ジークリンデは椅子に座ったまま顔をうつむかせた。
皇帝の繊手が頭部に伸びる。真珠の大粒が飾られた髪留めを外すと、長い髪がさらりと音をたてて床に流れた。
ジークリンデの髪は淡いクリーム色をしており「月の光のような」と形容されることもある。シュタール帝国において、貴婦人の髪の色としては最高のものとされる色合いで、ジークリンデが母から受け継いだものの一つである。
髪の色自体はジークリンデ自身も気に入っているのだが、まっすぐに垂らすと、腰や膝下をこえて床まで届いてしまう長さは、正直なところ少し邪魔だった。湯浴みをするたびに侍女の手を借りなければならないのも申し訳なく思っている。
「お姉様くらいの長さがいいんだけどな……」
そう呟いてはみたものの、それが不可能なことを皇帝は承知していた。ここまで髪を伸ばしたのも、長い髪の方が見栄えが良いという宰相の言葉に従ってのもの。ジークリンデが希望を口にしたところで、あの冷たい両眼に見下ろされ、すげなく拒絶されるだけであろう。
皇帝が自身の髪の長ささえ決められない。端的にいって、これが今のシュタール帝国における皇帝と宰相の力関係であった。
「お姉様……」
ジークリンデの身体が小さく震える。
姉アーデルハイトが叛逆の罪に問われて刑死してから、もう八ヶ月。姉に懐いていたジークリンデは、叛逆に関してはでたらめであると確信しており、刑死したという宰相の言葉も信用していない。鋼玉宮と名づけられた壮麗な檻の中で、姉の無事を祈り続ける日々を過ごしている。
しかし、みずからの無力を思えば、祈るという行為さえ自分への言い訳のように思えて、ときどきたまらなくなるときがある。たとえば、今のように。
とくに二ヶ月前、ギルベルト宰相がガンプに兵を向けることを決定してからというもの、ジークリンデの胸奥にわだかまる無力感はこれまで以上に肥大化して幼い皇帝を苛んでいた。
ガンプを治めるラーラベルク公ヘルムートは先帝――ジークリンデの父にとって股肱の臣下であり、ジークリンデにとっても「伯父様」と呼びかけるほど親しい血族である。ヘルムートの子であるレオンハルトにいたっては、もう一人の姉のような存在だった。姉たちが宮中にいた頃、レオンハルトから帝国史を教わったこともある。
そんな人たちを叛逆の黒幕と決め付け、兵を差し向けることなど出来るはずがない。
しかし、宰相はジークリンデの許可を得ることなく万事を進めてしまった。常のごとく、ジークリンデが報告を受けたのは必要な手続きがすべて終わった後であり、止める術はどこにもなかった。姉の時と同様、祈ることしかできない自分の無力さに、ジークリンデは唇をかみ締める。
「お姉様、ヘルムート伯父様、レティ姉様。どうか、どうかご無事で……」
胸の前で両の手を組み合わせ、神に祈りを捧げる。どれだけ無力感に苛まれようとも、姉たちのためにジークリンデができるのは祈ることしかない。ゆえに、祈らないという選択肢は存在しなかった。
アルトアイゼン皇家が代々信仰しているのは主神ウズであり、ジークリンデも公の場では主神に祈りを捧げるのだが、一人の女の子としては女神の教えを尊しとしており、このような時に祈りを捧げる相手はもっぱら女神ソフィアとなる。
静まり返った室内に庭の草木がざわめく音が聞こえてくる。先ほどよりもさらに風が強くなってきたようで、時折、吹き付けてくる風が窓を強く揺らしている。そのたび、ジークリンデの肩がびくりと震えた。
間もなく嵐が来るのだろう。
怖がりの皇帝にとっては辛い夜になりそうであった。




