第七章 蹂躙(八)
ドルレアク公の天幕では、命令を受けた諸将が一斉に動き出そうとしていた。
ラーラベルク軍の、おそらくは最後の抵抗を叩きつぶすために。
他方、彼らの主君であるメルヒオールは大天幕にしつらえた椅子から動こうとはしなかった。
メルヒオールは指揮官たるの責務を心得ている。指揮官の責務は何よりも「死なない」こと。自ら兵を率いて前線に立つ行為は賢明でもなければ勇敢でもない。
「それを指して匹夫の勇というのだ、ヘルムート。戦場の一武将ならいざ知らず、公爵たる身がなすことではない」
宰相ダヤン侯爵とは異なる意味で目の上のコブであり続けたラーラベルク公、その顔を思い浮かべたメルヒオールは声に失望を込める。
メルヒオールの目には、今のラーラベルク軍の反抗がいかにも浅ましいものに映っていたのである。
「勝つにせよ、負けるにせよ、貴賎というものがある。勝つために手段を選ばぬのは身分低き者の特権よ。悪あがきしおって」
メルヒオールは、ヘルムートの出方によってはラーラベルク一族の命をとらずに済ませようかと考えていた。
しかし、偽皇女を持ち出すような往生際の悪さを見せつけられると、その気も失せる。帝国貴族の在り方を示す意味でも、完膚なきまでに叩きつぶしてくれよう――メルヒオールがそう心を決したときだった。
天幕の入り口から衛兵の誰何の声が響いてくる。
それは時をおかずに怒声へと変じ、さらに抜剣の音が続いた。
変事の発生を悟った諸将が剣を抜くのとほぼ同時に、腕を斬られた衛兵が苦痛の声をあげて天幕の中に転がり込んでくる。
その後を追って天幕に斬り入ってきた曲者の数は三人。先頭に立っている人物はドルレアク兵の防具を身に着けており、他の二人は囚人兵のごとき粗末な装いをしている。おそらくはドルレアク兵に扮したガンプの手勢であろう、と天幕内にいた将兵は考えた。
このとき、諸将の中で最も驚きをあらわにしたのはウルリッヒであった。
ドルレアク家の嫡子は侵入者の顔にいやというほど見覚えがあった。その口から驚愕の声がこぼれおちる。
「貴様、レオンハルト……!?」
「先刻はどうも、ウルリッヒ公子。あなたにも言いたいことは山ほどあるけれど、それは後回し」
血に染まった抜き身の剣を持ったレオンハルトは落ち着いた足取りで歩を進める。
その視線の先には討伐軍を率いるドルレアク公爵の姿があった。
レオンハルトは眦を決して討伐軍総指揮官を見据える。
「ドルレアク公メルヒオール殿。レオンハルト・フォン・ラーラベルク、父ヘルムートの代理としてまかり越しました。礼なき客人には刃をもって応じるのが我が公爵家の作法なれば、お覚悟を」
このレオンハルトの宣告に対し、メルヒオールは憮然とした面持ちで応じる。一瞬の驚きが去った後、公爵の顔に残ったのはこれまで以上の失望と落胆であった。
「久しいな、レオンハルト嬢。皇帝陛下に背きたてまつり、刑死した皇女の偽者を持ち出した、さもしき公爵家の一族よ。皇家の藩屏たる誇りを忘れ、雑兵に身をやつして暗殺者の真似事か? 昔日の賢明さがわずかでも残っているのであれば、礼がないのはいったいどちらであるのか、思いをいたすがよい」
両者が言葉を交わす間、ドルレアク軍の諸将は公爵を守るようにレオンハルトとメルヒオールの間に壁をつくる。さらに本陣警護の衛兵が入り口を塞ぎ、たちまちレオンハルトと二人の部下は包囲されていた。
あまりにもあっけない決着に、メルヒオールは興ざめしたように頬を歪める。
「二、三の部下のみを引き連れて姿を見せるとはいかにも不用意。おそらく、混乱にまぎれて我が首をとる目論みであったのだろうが、それならばいま少し機を待つべきであったな。それとも正面から少数で訪れれば、こちらが隙を見せるとでも思うたか?」
「いえ、そんなことは微塵も。つけくわえれば、機を待ったがゆえに、今この時、行動に移ったのです」
「ほう。それはつまり、おぬしら三人のみでここにいるすべての将兵を斬り伏せる、ということか」
メルヒオールの視線がレオンハルトの背後に向けられる。
そこには大剣を背負った二人の兵士が控えていた。一人は青年、一人は少年――いや、少女だろうか。
いずれも粗末な風体をしていたが、長大な得物を見るに、それなりの使い手ではあるのだろう――メルヒオールはそう考えたが、さして気にとめなかった。
しょせんは二人。レオンハルトを含めても三人しかいない。
対して、ドルレアク側は軍の主力である武将たちにくわえ、シュタール帝国最高戦力の一人が控えているのだ。恐れるべき理由はどこにもなかった。
「偽の皇女にくわえて道化じみた本陣急襲。奇策といえば聞こえはよいが、内実は苦しまぎれの悪あがきに過ぎん。窮すれば鈍するとはよくいったもの。先帝が将来を嘱目したラーラベルクの公女も、いまやただの小策士に成り果てた――」
メルヒオールが歎ずるように言葉をつむいでいる最中のことだった。
小さく、しかし、はっきりとした笑い声が、天幕内の空気を震わせる。
くつくつと笑うその声は明確な嘲りを帯びて、メルヒオールの耳朶を不快に揺さぶった。ドルレアク公がぎょろりと目を動かして、笑い声の主を見据える。
その視線の先にいたのは、レオンハルトの背後に控える青年――インであった。
「さすがは親子、獲物を前に舌なめずりする悪癖はそっくりだな」
そう言うや、インは波状剣を背負ったまま、レオンハルトを追い抜いて前に進み出る。
メルヒオールはそれを見て不快そうに目をすがめる。口を開かなかったのは、言葉をかわす価値もないと見なしたためであろう。
かわってテニエス伯が表情に険を宿してインの前に立ちはだかった。
「身の程をわきまえよ、雑兵。ドルレアク公爵閣下の御前であるぞ」
厳然とした警告に対する返答は、言葉ではなく刃でもたらされた。
テニエス伯は相手の行動を十分に予測していた。そして十分な勝算を持っていた。
インはまだ背中の武器を抜いておらず、一方、テニエス伯の手にはすでに剣が握られている。
相手が武器に手を伸ばした瞬間、一刀の下に斬り伏せることは可能だ、とテニエス伯は判断し、そして、判断したとおりに行動した。
テニエス伯の剣が銀光となって宙を走る。
正確無比な斬撃がインの頸部に迫った。一呼吸後には、切り裂かれた首筋からあふれた血が地面を汚すことになるだろう――そう確信したテニエス伯の視界が、不意に水晶のごとき煌きで覆いつくされる。
眼前まで迫った波状剣の刃の輝きであった。
「――ッ!?」
抜く手も見せずに振り下ろされた波状剣の剣身を目の当たりにしたテニエス伯は、信じられぬ思いで大きく目を瞠る。
相手より軽い剣を、相手より早く抜き、相手より先に斬りかかったのだ。
にもかかわらず、後れをとった。
凄まじいまでの打ち込みの速さであり、今まさに斬りかかろうとしていたテニエス伯には、この剛速の斬撃を回避する術はない。
顔に驚愕を張り付かせたまま、テニエス伯は自らの顔面が砕き割れる光景を幻視した。
しかし――
次の瞬間、その場に響いたのはテニエス伯の頭部が撃砕される音ではなかった。
宙を裂いて振り下ろされたインの剛刃が、すくい上げるように放たれた同種の剛刃と激突し、耳をつんざくような擦過音が天幕内にこだまする。
何が起きたのかを理解できずに呆然とするテニエス伯の視界を紅い色彩が覆った。
それで我に返ったテニエス伯は慌てて飛び退り、自分の視界を塞いだ紅色が甲冑の色であることに気がつく。
インとテニエス伯の間に第三者が割り込んできたのである。
頭の天辺からつま先まで鋼鉄で覆ったその騎士は、今しがた、横合いから刃を繰り出してテニエス伯を死の顎から救い出した人物でもあった。
「紅金騎士団団長 ルドラ・エンデ」
静かな声で名乗りをあげるルドラの手には、一本の剣が握られている。
片手でも両手でも扱える型の長剣であり、片手半剣と呼ばれるものだ。ルドラのそれはウーツ鋼という希少な鋼を鍛えたもので、ダヤン侯爵がじきじきに授けた名剣である。その強度は、波状剣の斬撃を真っ向から弾き返した一事から推しはかることができるだろう。
インはこの相手をじろりと睨み、横なぎの一閃をもって名乗りにかえた。
ルドラは刀身の根元でこれを受け止める。そして、返礼とばかりに片手半剣の切っ先をインの顔面に向けた。
インは素早く首を傾けてこれを避けたが、額にかかっていた髪が数本宙に舞った。見切りを誤ったのか、あるいは完璧な回避が不可能なほどに鋭い刺突であったのか。
即座に繰り出された波状剣の反撃は甲冑の赤い塗装を削り落とすにとどまり、応じて振るわれた片手半剣はインの右袖を裂いて剣先に布地を残す。
挨拶がわりと呼ぶには鋭すぎる数合を経た後、両者は真っ向から激突した。
反撃が反撃を呼んで剣戟はやまず、絡み合う斬撃は甲高い金属音をまき散らしながら周囲の空間を切り裂いていく。
インの波状剣は言うにおよばず、ルドラの片手半剣も重量級の武器に分類される。二人はそれを小枝のように振り回し、激しい攻防を繰り広げた。
乱れ飛ぶ鋭刃から逃れるべく周囲の将兵は二人から距離をとり、戦いは一騎打ちの様相を呈していく。
「――ッ!」
「――!!」
声なき気合が双方の口からほとばしった。
互いの得物を力のかぎり叩きつけ、振り下ろし、受け止め、弾き返す。刀身が激突する都度、耳をつんざくような鉄の咆哮があがり、聞く者の鼓膜を激しく揺さぶる。
華麗さや優美さは一かけらもありはしない、原始的なまでに無骨で粗野な殺し合い。だが、だからこそ、この戦いは息を飲むほどの迫力と凄味に満ちていた。
「…………ばかな」
ドルレアク軍の陣列から呆然とした呟きが聞こえてくる。その声は信じられぬと言いたげに揺れていた。
ドルレアク家の家臣たちにしてみれば、ダヤン宰相の子飼いである紅金騎士団長は潜在的な敵手といっていい。今日は味方であっても明日には敵となる相手だ、戦死したところで嘆き悲しむことはない。
だが同時に、彼らは五鋼騎士団を率いるルドラの実力を嫌というほど承知していた。一人の戦士としても、一軍の指揮官としても、ルドラにかなう者はドルレアク軍には存在しない。忌々しいことではあるが、それが厳然たる事実というものであり、メルヒオールでさえそのことは認めていた。
そのルドラが、ラーラベルクの一兵卒相手に互角の戦いを強いられている。あってよいことではなかった。
打ちかわす剣戟の回数が三十合に達したとき、インとルドラは計ったように同時に後方へ飛び、互いに距離をとる。
並の兵士ならば一合ともたないであろう剛速の剣戟をかわしたインの息はわずかに乱れ、額には小さな汗の粒が光っている。その二つが、今しがたの斬り合いにおけるインの消耗の度合いを示していた。
一方のルドラは兜に包まれて表情が見えず、そこから消耗を推しはかることができない。ただ、構えにも立ち姿に疲労の影はなく、わずかに漏れ聞こえる呼吸の音にも乱れはなかった。
◆◆
紅い兜の口許から静かな声が発された。
「獣のごとき剣だ」
それはおそらくルドラなりの賛辞であったのだろう。
油断なく片手半剣を構えた紅金騎士団長は、兜の奥からじっとインを見据える。
「武器を捨てよ、と言ったところで無意味であろう。ゆくぞ」
言うや、ルドラは再び前へと進み出る。全身をよろう甲冑は、本来であれば歩くたびにガチャガチャと騒々しい音をたてるはずだが、ルドラの甲冑はわずかな軋み以外、音らしい音をたてなかった。密林を歩く虎のように、静かで危険な歩み。
静から動の変化は急激だった。
鋭い踏み込みから放たれた袈裟斬りは神速の域。その動きを十分に予測していたはずのインでさえ反応が遅れた。
唸りをあげて振り下ろされる斬撃はいかにも重く、それでいて回避を許さない鋭さを秘めている。
とっさに波状剣を構えてこれを受け止めたものの、体勢がととのっていなかったためにあやうく剣を持っていかれそうになる。
剣勢におされ、二歩、三歩と後ずさるイン。
ルドラはこれを好機と見たのだろう、一気に踏み込んできた。
続けざまに打ち込まれる剣撃をあるいは受け止め、あるいはかわし、インはその場に踏みとどまって反撃の機をうかがい続ける。
が、ルドラの連撃は完璧だった。まったく付け込む隙が見出せない。
――強い。
ひたすら敵の攻撃をしのぎながら、インがルドラに対して抱いた思いはそれだった。
一撃一撃が重く、速く、巧い。はじめこそほぼ互角に渡り合ったものの、今となってはどちらが優位なのかは誰の目にも明らかだ。
別段、故意に不利を装っているわけではない。インは本気で戦い、その上で防戦一方に追いこまれている。こうしている今も、相手の攻撃で体力が削られていくのがはっきりと感じられた。
イン・アストラはルドラ・エンデに追いつめられている。
――ミシリ、と波状剣の柄がきしんだ。
万全の状態であればこうはいかぬ、という思いはある。インはドレイクからこちら戦い続きであり、その上でヒルス山脈を越え、休む間もなくラーラベルク公宮でも剣を振るった。ルドラはルドラで一月近い城攻めを続けた後だが、ヒルス越えを果たしたインに比べれば消耗の度合いは少ないだろう。この戦いは対等のものではない。
むろん、戦場にあって「万全ならば」という仮定に何の意味もないことはインも承知している。しょせんは負け惜しみ、疲労を押して戦場に――それも最も危険な切り込みに加わった判断が愚劣であっただけのこと。
その結果、全力を振りしぼっても勝てないかもしれない相手と対峙する羽目になっている。
――ブルリ、と大きく身体が震えた。
『クイーンフィア大陸に七つの強き国々あり。これを七覇と称す。最強なるはシュタールなり』
シュタール兵はそう豪語し、諸国の民もそのことを認めていた。武勇の誉れ高き帝国は、常に七覇の筆頭に挙げられる。
『シュタール帝国に五つの妙なる鋼あり。すなわち黄銅、黒鋼、青鉄、白銀、紅金。これを五鋼騎士団と称す。強兵を誇る帝国にありて、最強を誇る者どもなり』
大陸全土に鳴り響く五鋼騎士団の精強。最強を謳われる国にあって最強を誇る者ども、それはつまり、大陸で最も強い者たちということだ。
その頂点に立つ騎士団長の実力を、今日、身をもって知るにいたる。
――ペロリ、と舌で唇をなめた。
知らず、口許に楽しげな笑みが浮かんでいた。
どれだけ勝算が低かろうと、どれだけ敵が強大であろうと、自分の意思で戦うと決めた以上、インはその戦いを心から楽しむことができる。以前、アトに告げたこともあるこの性情に偽りはなかった。
ゆえに、イン・アストラに敗北はあっても屈服はなく、絶望や諦念などさらにない。敵に追いつめられている事実さえ、戦意をかき立てる糧になる。
レオンハルトはこの性情を感覚的に察したために、インに対して狂戦士という印象を抱いた。
そして、今まさに剣を交えているルドラもまた、レオンハルトと同種の感覚を抱き始めている。
――剣も為人も獣の性か。
ルドラは内心でそう呟く。追いつめれば追いつめるほどに笑みが深まり、精気を湧き立たせるインの様子は尋常なものではない。
しかも、ただ余力を振りしぼって暴れまわるのではない。戦いながらも冷静に機会をうかがい続けている姿は老巧の戦士そのものだ。
外見上は明らかにルドラより若いにもかかわらず、ルドラに優る死戦の経験を漂わせている、その不均衡さが紅金騎士団長の脳裏に警鐘を打ち鳴らす。
ルドラは勝負を急がなかった。
この相手は、必要とあらば如何なる手段も為すであろう――そう心構えをした上で、冷静に、確実にインの反撃を封じ込んでいく。
実際、この時のルドラはほぼ完璧にインを押さえ込むことに成功していた。
ゆえに、状況の変化は異なるところからもたらされた。
ルドラは決して油断していたわけではない。
だが、意識の大半をインに向けたことで、本来ならば見逃さなかったであろう要素から目を離してしまったことは事実だった。これはルドラだけでなく、他のドルレアク軍将兵、さらにドルレアク公メルヒオールでさえ例外ではない。
天幕に侵入してきたのはレオンハルトとインだけではなく、少年とも、あるいは少女とも見える三人目――キルがいたのである。
小さな身体で、鉄塊のごとき大剣を背負うキルの姿は道化にも見えたが、この状況でレオンハルトがこけおどしの兵を連れてくるはずもなく、間違いなく警戒せねばならない相手であった。
だが、このとき、キルを注視する者はいなかった。
キルの姿が目立たなかったのは、公女の身で敵陣に姿をさらしたレオンハルトの大胆さと、紅金騎士団長と数十合も渡り合うインの勇猛があまりに強烈だったためであるが、キル自身、敵兵の目を引かないように気をつけていたという理由もある。いまだ大剣を抜いていないのもこのためであった。
インがルドラと向かい合ったその瞬間から、キルはずっと待ち続けていた。
ドルレアク軍将兵の注目がインとルドラに集まり、自身の存在が彼らの視界から消える、その瞬間を。
そして、その瞬間が訪れたとき、キルの身体は矢のように進み出る。
まっすぐに、ドルレアク公爵に向けて。
◆◆
公爵の前にはドルレアク軍の将兵が壁をつくっている。
キルはその壁に真っ向から突っ込んでいった。意表をつかれた将兵たちが戸惑いを見せる中、キルは小柄な身体を利して相手の足元に身を躍らせ、そのまま大剣を真横に一閃させる。
たちまち、苦悶と絶叫が炸裂した。
「があああああああッ!?」
「おぐ、ぎああ、足、足がああッ!」
先頭に立っていた武将は脚甲ごと両足を失い、その隣に立っていた兵士は左の膝を砕き割られ、たまらず地に倒れ伏す。
キルは倒れた兵士の傍らに立つと、持っていた大剣を逆手に握りしめ、切っ先を兵士の顔面に擬した。
「ま――ッ」
何事か口にしようとした兵士の声は途中で途切れ、かわりに何かが砕ける鈍い音が響く。
杵で臼をつくように大剣を突き下ろしたキルが再び大剣を構えたとき、その先端は真新しい鮮血に染まっていた。
膂力と身の軽さをいかしたキルは、狼のごとき剽悍さで敵兵に挑みかかり、大剣を縦横にふるって周囲の敵をなぎ倒していく。豪速の斬撃が閃く都度、血しぶきが飛び、天幕に絶叫がこだました。
ドルレアク兵もなす術なく立ちすくんでいたわけではない。少女の形をした魔獣を屠ろうと幾度も反撃を試みたのだが、キルはそれこそ獣じみた動きで敵を攪乱し、ドルレアク兵の剣は少女の影さえ捉えることができない。
この天幕にいる将兵はドルレアク軍の最精鋭といってよかったが、その精鋭部隊が少女ひとりに翻弄される姿は、どこか喜劇めいて見えた。
インと対峙していたルドラは、キル一人を相手に立ち騒ぐ友軍に気づいて兜の中で眉をひそめる。たった一人の少女を相手に何をやっているのか。ドルレアク軍の不甲斐なさに溜息が出る思いだった。
ドルレアク軍がルドラを潜在的な敵手とみなすように、ルドラもまたドルレアク軍に対して警戒を怠っておらず、仮にメルヒオールが討死したところで何の痛痒も感じない。
しかし、それはあくまでルドラ個人の感情。ここでメルヒオールが戦死してしまうと、ドルレアク公爵家が大混乱に陥ることは目に見えていた。
テニエス伯とウルリッヒの確執を知るルドラは、公爵領で大規模な内乱が発生するであろうことが予測できた。
その混乱は間違いなく紅金騎士団の私領地まで波及してくる。必然的にルドラは兵を退かざるをえなくなり、結果としてガンプ攻略は失敗に終わってしまう。ダヤン宰相の命令を果たせなくなってしまうのだ。
それだけは何としても避けなければならない、とルドラは考えていた。
リンドブルムを名乗る勢力によってドレイク攻略が滞ってしまっている現在、ガンプの攻略まで失敗してしまえば、双方の作戦に関与している紅金騎士団の評価は大きく下落してしまう。
古来より、主人に不要とみなされた猟犬は煮殺されるものと相場は決まっている。部下やその家族をそんな目に遭わせるわけにはいかなかった。
――そこまで考えたルドラは、ふと今の自分の思考に引っかかるものを感じた。
何が引っかかったのか、紅い兜の下でルドラはその原因を探る。
ほどなくして、その感覚がドレイク、なかんずくリンドブルムという言葉に由来するものであることに気づいた。
リンドブルムという正体不明の集団によってドレイクが落ちてから一月近くが経つ。戦陣にあるルドラのもとにも大小さまざまな情報が届けられており、中でも最も詳細な情報をもたらしたのは、ひとたびは敵の虜囚となったドムス・エンデの報告書であった。
ドレイクの戦いで敗れ、敵の捕虜となったドムスは、ドレイクからの撤退を条件に解放されてアルシャート要塞にいる。この戦いで利き腕を失ったドムスは、それを為した敵のことも報告で綴っていた。
『黒の髪に黒の瞳、飢えを宿した眼光にしなやかな虎の肢体。その手に水晶のごとき剣を持った敵将の名は――』
その一文を思い出したルドラは思わず目を瞠る。
ドムスの報告にあった敵将と、あまりにも酷似した容貌を持つ眼前の敵兵。
それが何を意味するのかを悟った瞬間、ルドラの動きがわずかに止まった。
それは一瞬の半分にも満たない刹那の隙であったが、目を皿のようにしてルドラの隙を探し続けていたインが見逃すはずはない。
次の瞬間には、ルドラの眼前にインの波状剣の切っ先が迫っていた。刺突――ではない。至近距離からの投擲であった。
「ぬッ!?」
ルドラの口からはじめて驚愕の声が漏れた。ほんのわずかな隙を突かれたこともそうだが、それ以上に、敵の眼前で剣を手放すという相手の選択に驚きを禁じえなかった。
それでも、幾多の戦場をかけたルドラの身体は反射的に迎撃の姿勢をとっていた。
すくいあげるように放たれた片手半剣の一閃が正確に波状剣の剣身を捉え、宙高く跳ねあげる。
その瞬間、インの左手から伸びた鈍色の鎖が宙を駆け、剣の柄を握るルドラの右手に巻きついた。
「鉄鎖術――ッ!」
相手の狙いを察したルドラは、巻きついた鎖にかまわず、宙に伸びた鉄の蛇を断ち切ろうとする。
しかし、その時にはすでにインは次の行動に移っていた。左で鉄鎖を繰り、右手には、いつの間に抜き放ったのか、一本の小剣が握られている。
紅金騎士団の鎧は厚く、硬い。キルの大剣やインの波状剣のように、重量と勢いで叩き切る型の両手剣であればともかく、至近からの小剣の攻撃ではこれを貫くことは難しい。表面に引っかき傷をつけるのが精々であろう。
――それが、ただの小剣であれば。
インが持っているのは波状剣と同じく、ルチル鋼で出来た小剣であった。フェルゼンを出るとき、リムカから餞別として渡されたものだ。これであれば、鎧の隙間など狙わずとも真っ向から騎士甲冑を貫くことができる。
ルドラは突っ込んでくるインを斬り下げようとするも、先んじて鉄鎖を強く引いたインの妨害で体勢を崩してしまう。
かわせないと悟ったルドラは、小剣の切っ先を見定めてとっさに身体をひねる。
はじめに衝撃。次に痛撃。
身体ごと突っ込んだインの小剣は甲冑越しにルドラの左わき腹に突き刺さった。さすがに紙を貫くようにとはいかず、またルドラが素早く反応したこともあって臓腑に達する深傷を与えることはできなかったが、それでも浅からぬ手ごたえが剣を通してインの手に伝わってくる。
だが、ほくそえむ暇はインには与えられなかった。
次の瞬間にはルドラの反撃が繰り出されてきたからである。
「フンッ!」
鋭い呼気と共に自由な左拳が振り下ろされる。ルドラの剛力と鋼鉄の篭手による殴打はたやすく骨を砕き、頭蓋を割る。インが更なる攻撃を目論んでいたら、この一撃を避けることはできなかっただろう。
が、インは第一撃の成果に執着することなく、素早くルドラから離れていた。
二人をつなぐ鉄鎖が音をたてて真っ直ぐ宙に伸びる。
「――こちらが貴様の本領か」
ぎりぎりと軋む鎖を見やりながら、ルドラはそう口にする。まともな騎士や兵士であれば、鉄鎖を操って戦うことなどしない。そして、戦う者同士を鉄鎖で結びつける戦闘方法は闘技場ではめずらしいものではない。
ルドラはインを奴隷剣闘士の類と判断した。
インは否定も肯定もせず、先ほどまでと同じように目を皿にしてルドラを見据えている。
今しがたのルドラの声にはひとかけらの苦痛も混じっておらず、平静な声音は負傷の存在すら疑わせるが、インが手にした小剣の切っ先には確かに赤い色彩が付着している。腹部の傷は深傷ではないだろうが、決してかすり傷でもない。
ここで手を緩める必要はなかった。
小剣をルドラに向けたまま、インはゆっくりと腰を落としていく。跳躍を前にした四足の猛獣のごとき動きを見て、兜の隙間からのぞくルドラの眼光が一際強くなった。
そうして、両者が何度目かの激突に移ろうとした、その寸前。
討伐軍の本陣である大天幕の一角が赤々と燃え上がった。
◆◆
この放火はラーラベルク公女レオンハルト直属の兵士たちによって行われた。
指揮をとるヨーゼフは、先の公宮での戦いを生き延びた人物であり、インたちの本陣急襲に先立ち、ドルレアク兵を装って糧食や武器の天幕に火を放つこともしている。
だが、これは主目的ではなかった。もとより、レオンハルトの狙いは糧食でも武器でもなく、ドルレアク公の首のみである。ヨーゼフらは輜重隊の天幕に火を放った後、本陣の近くに潜んで機をうかがっていた。
そして、インたちによって本陣の混乱が極まったと見えた瞬間、行動を起こしたのである。
兜の下でルドラは素早く両目を左右に動かし、鼻をひくつかせる。
視界をうっすらと覆う灰色のもや、どこからか漂ってくる焦げた臭い、その二つは至近での火災の発生を告げていた。
発生した火は、燃えにくいはずの絹を派手に焼きながら、驚くほどの速さで広がっていく。異常な火の回りの早さは、これが失火ではなく人の手による放火であることを物語っていた。
ほぼ同時に、火を放ったヨーゼフらが喊声をあげて天幕内に突入してくる。
これを迎え撃つべき将兵はキルによって引っかきまわされて対応ができず、ルドラもまた、インに阻まれて身動きがとれない。
ルドラの視線の先では、双眸に滴り落ちんばかりの戦意を湛えたインが、いかにも愉しげに唇をまげている。
状況は瞬く間に激変し、今この場において、追いつめられているのは討伐軍の方であった。
ルドラはゆっくりと口を開いた。
「――罠にかかったか。生餌として使われることを肯んずる器とは思えなかったが」
それはインが捨て駒同然の扱いを受けていることを驚く言葉であったが、当のインはそれを鼻で笑う。
「喰らえもしない相手を餌呼ばわりとは笑止。せめて片腕なりと持っていってからほざくがいい」
それ以上は互いに口を開かない。
炎と煙、喊声と剣戟の音が響き渡る大天幕の中で向かい合ったインとルドラは、じっと相手の姿を見据え、ほとんど同時に地を蹴った。




