第七章 蹂躙(六)
踏み込む、抜き放つ、薙ぎ払う。
一連の動作はそれこそ瞬きのうちに。
波状剣が閃くや、謁見の間にいた二人のドルレアク兵の首が宙を飛んだ。
ただ一振りで二人を葬りさったインは、そのうちの一人の身体を無造作に蹴り飛ばす。首なしの死屍が宙を飛び、後方にいたドルレアク兵と衝突した。
まったく予期せぬこととて、その兵士は正面から同僚の死体を抱きとめる格好となった。首から吹き上がる鮮血をまともに顔に浴びた兵士は、一瞬後、状況を理解して悲鳴をあげようとしたが、なぜか声が出てこない。
胸のあたりに奇妙な鈍痛を感じた兵士は、血で染まった目元をぬぐい、赤く染まった視界で胸元に視線を向ける。
気がつけば兵士の目の前にインが立っていた。まっすぐに突き出された波状剣が同僚の死体を、そして兵士の胸元を貫き通している。兵士の背中から生えた剣の切っ先は二人分の血を吸って赤黒く濡れていた。
「が……ごばッ!?」
驚愕の声は、喉から這いのぼってきた大量の血に邪魔されて、意味をなさない濁音に変じてしまう。
次の瞬間には、インは二人の身体から無造作に剣を引き抜いていた。甲冑をまとった人体二つを貫いているというのに、まるで土から引き抜くかのような滑らかさであり、これだけで波状剣の恐るべき切れ味をうかがい知ることができる。
レオンハルトとアストリットの姉弟を逃がさないよう、二人の背後を塞いでいた兵士の数は両手両足の指を使っても数え切れない。
かりそめにも公爵家嫡子の直属部隊である。リュディガーに鍛えられた彼らは精鋭と称するに足る錬度の兵士であったが、このときばかりは相手が悪かった。
たちまち三人を斬り捨てたインは、みずから切り開いた陣列の隙間に飛び込んで波状剣を大きく振りかぶる。
周囲すべてこれ敵兵という状況で同士討ちを案じる必要はなく、容赦する必要はさらにない。
人の身長ほどもある長大な剣が凶悪な輝きを発し、謁見の間にドルレアク兵の叫喚が炸裂した。
「があああッ!?」
「ひぐぃッ! ああ、あああああッ!?」
「ああ、くそ、腕が、俺の腕がくぞおおおおおッ!!」
密集していたドルレアク兵は、両手剣を扱う者にとって好餌以外の何物でもない。
波状剣が一閃する都度、ドルレアク兵の首が飛び、胸が裂け、腕が落ち、腹が割れた。豪速の剣の前には胸甲も篭手も意味をなさず、切断される鋼鉄のきしみが悲鳴のように鼓膜を揺さぶる。
「殺ッ!」
大喝と共に波状剣を振り下ろす。対峙していた兵士は脳天から股下まで切り下げられ、悲鳴をあげることさえ出来ずに、驟雨のように血をまき散らしながら絶命する。
斬る、斬る、斬る、ただひたすら斬り続ける。
舞い散る血煙は濃霧のごとくあたりを包みこみ、指や耳、腕、足の形をした肉塊が周辺に飛散していく。
たったひとりが生み出した鋼鉄の颱風は、たちまち十名以上の敵兵を冥府へと送り込み、ドルレアク兵はたまらず後退した。
結果、敵兵の隊列に大きな穴が開く。
インが声をかける必要はなかった。それまでインの一挙手一投足を見つめていたレオンハルトは、今がこの場を脱する最大の好機であると判断し、抱きしめていた弟の身体をそのまま両手で抱えあげた。
「アーシャ、しっかり掴まっていなさい」
「は、はい、姉様!」
弟を横抱きにしたレオンハルトは、迷うことなく入り口に向けて走り出す。
このとき、レオンハルトは動揺する兵士を襲って武器を奪うことも考えたが、弟の手を引きながら戦って突破するよりは、抱きかかえて強引に走り抜けてしまった方がいい、と判断した。インの戦いぶりを見るに、近くで戦う人間はかえって邪魔になってしまうだろう。
このレオンハルトの動きに真っ先に反応したのはリュディガーである。
ウルリッヒの傅役を務めていた初老の騎士は、素早く狩猟弓を構えて矢を番えた。
リュディガーの弓はシュタール正規軍のものと比べれば小さいが、射程と精度、さらに威力においても優る逸品である。シュタール帝国北方に盤踞する騎馬民族の国 カザークから取り寄せたものだ。
カザーク人は狩猟と戦闘に長じ、馬と弓の扱いに長ける。彼らの弓は馬上でも扱えるように小型であり、それでいて歩兵の弓に優るとも劣らない性能を示す。リュディガーの弓は、そんな彼らが何ヶ月もの時間をかけてつくりあげた最高級の品であり、壇上からレオンハルトまでの距離など無いに等しかった。
弓弦が澄んだ響きを奏でる。弦を離れた矢は鋭い風切り音をあげ、まっすぐレオンハルトの心臓めがけて宙を駆けていく。
リュディガーの用いる矢は長く、太く、矢羽は鷹の羽でつくられていて、直撃すれば熊さえ一撃でしとめる威力を秘めている。鎧も着ていないレオンハルトが防げる代物ではなく、一瞬後には抱きかかえているアストリットごと身体を射抜かれているだろう。
もらった、とリュディガーは確信する。
無防備の女子供を背後から射殺すことに抵抗がないわけではなかったが、リュディガーはためらわなかった。相手は市井の民ではなく、れっきとした公爵家の一族だ。敵に背中を向ければこうなることは理解していよう。
ウルリッヒの口から「誅殺」という言葉が出た上は、重ねて許可を求める必要もない。
ラーラベルクの一族を葬ってしまえば、ウルリッヒの激情も静まるであろう、という計算も働いていた。
そんなリュディガーの思惑の前にインが立ちはだかる。
「させるかよ」
蹴りつけた床面が弾けるような音をたてた。前方に飛び出したインは、レオンハルトとすれ違いざま「行け」とあごで出口を指し示し、自分はそのまま矢の射線上に身をさらす。
波状剣が縦に一閃した。
紅の剣身は正確に飛矢を捉え、両断された矢はそのまま床に叩きつけられる。
それを見たリュディガーは眉間にしわを寄せたが、おもてにあらわれた失望はそれだけであった。
素早く二の矢を番え、再びレオンハルトめがけて射放つ。二の矢もまたインによって弾かれたが、その時にはリュディガーは三の矢を番え終えている。
今度はインが眉根を寄せる番であった。
リュディガーの速射の狙いが、レオンハルトを討つことではなく、インの動きを封じることであるのに気がついたのである。
「ふん、良い狙いだ」
自分を狙われたのならばどうとでも対処できるが、レオンハルトを狙われてしまうと、壇上のリュディガーとレオンハルトを結ぶ直線上に身を置かないといけなくなる。動きが極端に制限されてしまうのだ。
インとしては、このまま強引に敵兵をかき分けてウルリッヒを討つことも考慮していたのだが、仮にウルリッヒを討ったとしても、レオンハルトやアストリット、それに危険を承知でここまで案内してくれたカティアを討たれてしまっては何の意味もない。
ここにおいて、インはこの場の目的を逃走一本に絞ることにした。
しかし、ただで逃げては面白くない。
ひとつ余興でも見せてやろう、とインは口の端を吊り上げた。
三度、リュディガーの弓弦が鳴る。
射線上に立ちはだかったインは、しかし、これまでのように剣で矢を叩き落そうとはしなかった。迫りくる矢をかわそうともせず、両の目を皿のように見開いて飛来する矢を凝視する。
そして――
むんずと飛矢を掴み取った。
素手であれば、摩擦で手の皮が派手に擦り剥けていたであろう。皮革で出来た手袋が焼け、あたりに焦げた臭いが漂った。
「なんだとッ!?」
さすがのリュディガーもこれには驚愕を禁じえず、次矢を番えることも忘れて目を剥いている。今日まで多くの戦場を馳駆してきたリュディガーであるが、矢を真っ向から掴み取られたのは初めての経験だった。
その驚愕は、老巧の騎士に一つの疑念をもたらす。
単に矢を止めるのであれば、これまで同様に剣を使えばよい。あえて曲芸じみたまねをする必要はどこにもなかったはずだ。
しかし、相手はあえてそれをした。少しでもタイミングを誤れば致命傷をこうむることを承知の上で。
その狙いは奈辺にありや、と眉をひそめるリュディガーは、配下の兵たちがざわめくのを感じて、相手の意図を察したように思った。
曲芸。見世物。
そう、見せ付けたのだ。数に優る敵に対して心理的な優位に立つために、あえて危険なまねをしてのけた。自分は恐ろしい敵なのだと印象付けるために。
それを考え、実行するだけの力量をこの敵は持っている。
相手の底知れぬ力を感じ取り、リュディガーはインに意識を集中する。先にウルリッヒの槍の投擲を左手一本で受け止めたのは偶然でも何でもない。思うがままに暴れまわっているように見えて、その底には冷徹な計算が働いている。
この敵はここで討っておかないと後の禍根になる。そう直感した。
インは掴み取った矢を片手でへしおると、壇上のリュディガーを見上げて嘲弄した。
「数えて三度。女子供を背中から狙い打つのはそんなに楽しいか、帝国騎士?」
これに対し、リュディガーは表情をかえることなく、毅然として言い返した。
「これは戦ぞ、戯言をほざくな! 命が惜しいのなら武器をすててひざまずけばよい。むろん、そなたもだぞ」
「ひざまずくとはお前に対してか? それとも、横で腰を抜かしているお前の主君に対してか?」
嘲る表情はそのままに、インはリュディガーからわずかに視線をずらす。そこには、先にリュディガーに突き飛ばされてしりもちをついたウルリッヒの姿があった。
部下の視線が一斉に自分に向けられたことを悟り、ウルリッヒは顔中に憤激を満たして立ち上がる。
「ふざけるな、下郎! 誰が腰を抜かしたというのだッ」
「これは失礼、ウルリッヒ公子。子供相手に詐略を用い、女を口説くのも部下同伴。もとより腰抜けであるあなたが、今さら腰を抜かすはずもなかったな」
その瞬間、謁見の間の空気が音をたてて凍りついた。
あまりにも直接的な暴言に、誰もが唖然としてしまう。
ウルリッヒは反射的に口を開いたが、そこから意味のある言葉は出てこなかった。かりそめにもドルレアク公爵家の後継者たる身である。ここまで露骨に嘲弄されたことはかつてなく、意識に空隙が生じる。
その空隙から煮えたぎるような感情があふれ出すまで、さして時間はかからなかった。
「…………どこの誰だか知らぬが、よくいった」
ウルリッヒの口から発された声は奇妙に小さい。あまりに憤激が大きすぎて、かえって声音が平らかになってしまったようだった。
対照的に、両眼は噴火を前にした火口のごとく激しく揺らめいている。ひとたび爆発すれば、あふれ出る炎は容易に静まらないであろう。
「教えてくれぬか、下郎。貴様ひとりで何ができるというのだ? 何をするつもりでここまでやってきた?」
危険な静けさを漂わせる問いかけに対し、インは唇を捻じ曲げるようにして言った。
「蹂躙」
「……なに?」
ウルリッヒの太い眉がうごめく。
インは手に持った両手剣を一閃させ、昂然と言い放った。
「蹂躙の意味を教えてやると言ったんだ、腰抜け公子。蹂躙する快感はもう存分に味わっただろう? 次は蹂躙される痛苦をその身に刻み込め」
それを聞くや、ウルリッヒは張り裂けんばかりに目を見開き、口を大きく開いた。それを見ていた全員が、濁流のごとき罵声が発されることを予測する。
――しかし、次の瞬間、謁見の間に響いたのはウルリッヒの怒声ではなかった。
響いたのは鬨の声。百を大きく超える部隊の喊声が公宮を震わせ、謁見の間に届いたのである。
それはウルリッヒにとっても、インにとっても予想外の出来事であった。
このとき、公宮に突入してきたラーラベルク軍はおよそ二百。討伐軍と激しく干戈を交えていたラーラベルク公ヘルムートが、公宮奪還のため、そして我が子らの救出のため、苦心して捻出した援軍であった。
◆◆
インの決断は素早かった。
寸前までの自身の高言を蹴り飛ばし、あっさりと身を翻してウルリッヒらに背を向ける。
もとよりこの場は逃げると決めていたこともあって、その動きには一瞬の遅滞もない。ドルレアク軍の将兵がそろって唖然とするほど鮮やかな逃げっぷりであった。
リュディガーは半ば反射的にインの背に向けて矢を射たが、インは背中に目がついているかのような反応で、素早く横に歩を刻んでこれをかわしてしまう。
ウルリッヒが再度口を開きかけたときには、インの姿はすでに謁見の間から消えようとしていた。むろん、レオンハルトとアストリットの姿はとうにない。
残ったのは、インひとりによって斬り捨てられた十を超える死体と、血臭の中で呆然と立ち尽くすドルレアク兵だけであった。
ウルリッヒは激怒した。せっかく捕らえたラーラベルク一族をまとめて逃がしてしまうという大失態。しかもたった一人のせいで。
自分が間抜けな道化を演じてしまった自覚があるだけに、その怒りは深刻を極めた。
「おのれ、おのれ、おのれ、おのれぇぇぇッ!! リュディガー、何をぼけっとしている!? 追え、追って奴らを捕まえて、俺の前にひきずってこい! レオンハルトも、豎子も、あの男もだ! 四肢を切り離して豚の餌にしたあと、生きながら火あぶりにして、その様をヘルムートめに見せ付けてくれるッ!!!」
火竜の咆哮にも似た憎悪の叫びをあげるウルリッヒ。
リュディガーは怒り狂う主を懸命になだめなければならなかった。
「若、落ち着きめされいッ! 今は敵の増援に対処するのが先決ですぞ!」
ウルリッヒしか知らない抜け道をつかってやってきたドルレアク軍に援兵が来るはずがない。
必然的に、先ほどの喊声はラーラベルク軍のもの、ということになる。リュディガーの感覚では、数は百五十から二百というところだ。
今回の作戦において、ウルリッヒが揃えた兵力は囚人兵二百に直属の部隊三百の計五百。公宮襲撃で百近くを失ったものの、その大半は囚人兵であり、ラーラベルク軍二百を相手にできるだけの兵力は残っていた。
援軍といっても、ラーラベルク兵は今日までの篭城戦で疲弊している。対して、ウルリッヒの直属部隊は今日まで後方に置かれていたため、体力はありあまっている。一戦してラーラベルク兵を打ち破ることは十分に可能であったろう。
――すべての兵士が一箇所に固まっていれば、であるが。
公宮の制圧、敗残兵狩り、宝物庫および食料庫の確保、ラーラベルク軍旗の奪取とドルレアク軍旗の掲揚。
ウルリッヒは公宮襲撃に際して兵力を幾つにも分散しており、このため、公宮内に突入してきた二百のラーラベルク軍を単独で阻める部隊は存在しなかった。ウルリッヒ自身の部隊さえ――今しがたの予期せぬ損害のせいで――百を割っているのである。
もし敵軍にウルリッヒの存在を捕捉されてしまうと非常にまずいことになる。
その意味ではレオンハルトらを捕らえるというウルリッヒの案は決して間違っていない。彼らを捕らえてしまえば、ウルリッヒの所在が敵に漏れることはなくなろう。
しかし、逃げた者たちを再び捕らえることが可能かと考えると、リュディガーの心は否定に傾いた。脳裏に浮かぶのは鬼神のごとく暴れまわった青年の姿である。あれを相手にしながら、短時間で公女らの身柄を取り押さえることができるとはとうてい思えない。
もちろん時間をかければ可能だが、今はその時間がないのである。
では、各処に散った兵を呼び戻し、態勢を立て直してから敵軍を迎え撃つか。
一番堅実に思えるのはこの案だが、正直、これも遅きに失した感がある、とリュディガーは思う。
公宮のつくりを知悉しているラーラベルク軍は、兵の移動と展開の速さにおいて確実にドルレアク軍を上回る。そして、そのラーラベルク軍はすでに公宮に突入してきているのだ。
今からウルリッヒが各部隊に使者を差し向けて、兵力の集結をはかるだけの時間的余裕があるとはとうてい思えない。各処で分断され、各個撃破の好餌とされるのは目に見えていた。
今さら言っても仕方ないことだが、やはり兵力を分散させすぎた、とリュディガーは苦く認識する。特に宝物庫に多数の兵を割いたのは失敗だった。
これは略奪を公認された囚人兵の手で、絵画や彫刻といったラーラベルク家秘蔵の美術品が失われることを防ぐための措置であったが、今となっては自縄自縛というしかない。
ウルリッヒはアストリットを確保したことで勝利を確信し、多少用兵が雑になった。
リュディガーはそこに危惧を覚えたものの、現在の戦況でラーラベルク軍が二百もの兵を前線から割いてくるとは予測できず、ウルリッヒの過ちを正すことができなかった。
君臣ともに誤断した結果が今の劣勢なのである。
――以上のことを考えた上で、リュディガーはウルリッヒに進言した。
「若、ここは退却すべきであると愚考いたします」
これを聞くや、ウルリッヒはくわっと目を見開いてリュディガーをにらみつける。
「ふざけたことをぬかすな! 豎子どもにしてやられた挙句、二百かそこらの兵を相手に尻尾を巻いて逃げ帰れというのか!? 冗談ではない、冗談ではないぞ! 俺に臆病者になれと言うのか、リュディガーッ!!」
ウルリッヒは言う。
分散させていた手勢を手元に集めれば、十分にラーラベルク軍と戦える。
敵の援軍を追い散らし、再びアストリットらを虜囚とする。しかる後、自らの手で八つ裂きにしてやらなければ腹の虫がおさまらない、と。
これに対し、リュディガーはその作戦が不可である理由を懇々と説いた。さらに、この退却が決して臆病者とそしられるものではないことを力説する。
「若! 報復というなら、ガンプを落とす以上の報復は存在しますまい! 我らはラーラベルク公宮を占領し、軍旗を燃やして敵兵の士気をおおいに下げたのです。しかも、ただでさえ数のすくない敵の軍列から、二百もの兵を引き出すことに成功しました。ガンプの街にどれだけの備えがあろうとも、それを生かす兵が無ければ意味をなしませぬ。間もなくメルヒオール閣下の軍勢はガンプの防衛線を突破するでしょう。すべては若の勲でござる! 身の危険をかえりみず、みずから敵軍の奥深くまで入り込んで勇戦した若を、いったい誰が臆病者とそしりましょうや!?」
リュディガーの言葉に嘘はない。
公爵家一族を捕らえることには失敗したが、ウルリッヒの奇襲がラーラベルクの軍民を動揺せしめたのは確かな事実である。
よほどのことがないかぎり、この一撃は鉱山都市にとって致命傷となる。アストリットやレオンハルトが生きて援軍と合流したところで、少数の敵兵に公宮を蹂躙された事実は消しようがないのだ。
ガンプ攻略が成れば、ウルリッヒの功績はまちがいなく上位に列せられることになるだろう。
ここらが潮時である、とリュディガーは判断していた。
そのリュディガーの判断に、ウルリッヒは理を認めた。怒り心頭に発しているとはいえ、情理を尽くした言葉が届かないほど耳目が曇っているわけではない。
しかし、理性が諾と言っていても、感情がそれを認めようとしなかった。
ウルリッヒにしてみれば、アストリットを手中にした時点でガンプ攻略はほぼ成功したようなものであった。
事実、アストリットを用いることで小生意気なレオンハルトも屈服の姿勢を見せていた。ラーラベルクの姉弟が服従すれば、他の兵士もこれにならったであろう。すべてはうまく運んでいたのである。
――あの豎子が反抗するまでは!
ウルリッヒは歯噛みする。
口許まで運んでいた成功の果実を、突然、子供のいたずらで横から叩き落されたようなものであった。
馥郁たる香りを嗅ぎ、唇に滴り落ちた果汁を一滴、二滴と味わってしまった後だけに、余計に怒りをかきたてられる。
必ず、思い知らせてくれる。
深甚たる怒気で顔を歪ませながら、ドルレアク家の嫡子はうめくようにそう呟いていた。
◆◆◆
「公子様、それに公女殿下も! よくぞご無事で……」
公子の教育係であるヒルデは、公爵家の姉弟の姿を認めて歓喜の声をあげた。日ごろ、あまり感情を見せない年配の女官が目を潤ませている。
ヒルデの声で周囲にいた女官たちも二人に気づき、次々に喜びの声をあげた。
アストリットは女官たちの無事な姿を見て顔をほころばせたが、その笑みはすぐに引っ込んでしまう。
心配そうにヒルデのもとに駆け寄った。
「ヒルデ、ヒルデ! 大丈夫!? 痛くない!?」
ヒルデの顔は、アストリットが見てもそれとわかるくらい痛々しく腫れ上がっていた。ヒルデだけではなく、その場にいる女官たちは誰もが同じような状態であり、衣服も見るからに乱れている。
そういうアストリットの顔もひどい状態なのだが、その傷が公子の心ばえにまで及んでいないことは今の言葉からも明らかであった。ヒルデは深く、深く安堵の息を吐く。
ヒルデは姿勢を正すと、アストリットの隣に立つレオンハルトに向かって深々と頭をさげた。
「公女殿下。敵の手に公子様を委ねてしまった不始末の責、ひとえにこのヒルデにございますれば、どうか他の者の罪は――」
「話はカティアから聞いているわ、ヒルデ。アーシャを守ってくれたことに感謝こそすれ、罪を問うたりするはずないでしょう。みんな、本当によくやってくれたわね」
レオンハルトは心からそう言った。この場にいる者たちには必ず報いる。敵の手にかかってしまった者たちにも、必ず。
そのレオンハルトの言葉を聞いて、女官たちの口からすすり泣きの声がもれた。
ラーラベルク公爵家の君臣が再会を喜ぶ輪の外側では、インとキルが低声で会話をかわしている。
インは、共に崖を下ってきたキルを公宮に連れていかなかった。傷ついたヒルデたちを守るためであったが、正直なところ、それは理由の一つに過ぎない。
キルを残した狙いは、突然公宮の裏手に姿を現したというウルリッヒの行動経路を探り出すことにあった。
まっとうに考えれば、ウルリッヒは何百という兵を引き連れて、道らしい道のない峻険な山を切り開き、ついには公宮の裏手にまわりこんだことになる。見張りの目にいっさい触れることのない完璧な奇襲といっていい。
だが、本当にそうなのか。決して不可能とは言わないが、ヒルス越えを終えたばかりのインは、それがどれほど困難なことか嫌というほど理解できる。
どこかに抜け道があるのではないか、という発想はごく自然なものであった。
「どうだ?」
「ん、見つけた」
キルはあっさりとうなずく。何しろ、普段はほとんど人が踏み込まない森の中を数百の兵士が歩いたのだ。痕跡を見つけるのも、痕跡を辿って抜け道を探り当てるのも、さして難しいことではなかった。
それを聞いたインは大きくうなずく。
「よし、でかした。いざという時のための逃げ道というところだろうが、ま、この際つくった奴の思惑はどうでもいい」
重要なのは、その抜け道を利用すれば、労せずして包囲軍の背後をとることができる、という点である。もっと正確にいえば、こっそり敵本陣に入り込むことができる、という点だ。
インの目的はあくまでガンプの救援。首尾よくレオンハルトとアストリットを助けることができたとはいえ、全体の戦況を見ればラーラベルク軍は押されっぱなしといっていい。
死んだはずの第一皇女が姿を見せれば、公宮を荒らされた動揺は一発で吹き飛ぶだろうが、それで五万を超える討伐軍を押し返せるかと問われれば、答えは否であろう。
このままでは数日を経ずして鉱山都市は陥落する。その前に何らかの手を打たねばならない。
何らかの手。
それはたとえば、大軍に守られた敵本陣を急襲してドルレアク公やら紅金騎士団長やらを討ち取るというような、それ一事で戦況を揺り動かす思い切った手段でなければ意味がない。
「――やっていることは、ドレイクのときと何も変わらんという話だな」
「一つおぼえ?」
大剣を肩に担いだキルが、無表情に見上げてくる。
インは肩をすくめた。
「仕方ない。それが一番効果的だからな」
数において優る敵軍に打ち勝つ方法を模索した場合、敵の大将を討ち取るという手段が真っ先に思い浮かぶのはしごく当然のことであろう。
と、二人がそんなことを話していると、横合いから声がかけられた。
「少しいいかしら」
そういって歩み寄ってきたのはレオンハルトであった。
ヒルデたちと合流するためにここまで行動を共にしてきたものの、公宮内では互いの状況を語り合うような余裕はなかった。したがって、レオンハルトはいまだにインの名前さえ知らないでいる。
そのあたりの説明を要求されるものと思っていたインの眼前で、レオンハルトが右の拳を胸にあてて頭を垂れた。
「遅ればせながら、心よりお礼を申し上げます、戦士殿。皆を助けてくれて本当にありがとう」
静かな声、短い謝辞には心からの感謝が詰まっている。インはそのことを感じ取り、かすかに目を細めた。
こちらの素性を問うよりも先に、まず礼を。その貴族らしからぬふるまいはアトを思い起こさせる。なるほど、親友というのもうなずける、と思った。
「と、お礼が済んだところで、そちらの事情を訊かせてもらいたいのだけれど」
顔をあげたレオンハルトは寸前までの謹直さをあっさりと捨て去り、けろりとした顔で問いかけてきた。
どこか軽さを感じさせる態度であったが、それがインたちへの軽侮を示すものでないことは、真摯な光に満ちた双眸を見ればよくわかる。
つまり、これがラーラベルク公女の素の姿なのだろう。
インは問われるままにガンプに来た事情を語った。
といっても、一から語れば時間がどれだけあっても足りない上、この場でそれを証し立てるものがない。どのみち、アトが姿を見せれば全ての疑問が氷解するのはわかっているのだから、ここで時間を費やす意味はない。
そう考えたインは、自分が第一皇女の頼みで動いていること、その第一皇女が間もなくやってくることだけを告げた。
それを聞いたレオンハルトは、はじめに目を丸くし、ついで半眼となり、最後にはインの内心を見定めるかのように、上目遣いで顔をのぞきこんできた。
レオンハルトは女性としては標準的な背丈であり、インと向き合うとどうしても見上げる格好になる。
無精ひげを生やしたインの顔を見上げながら、レオンハルトは考える。
アーデルハイトが生きていることは信じていた。とはいえ、今日はじめて会った相手から、第一皇女は生きていて、自分はその頼みで助けに来ましたと言われても、はいそうですかとうなずく気にはなれない。
あまりに説明が不足しすぎているのだ。
より詳しい説明を求めたいところであったが、相手は命の恩人だ、強いて問い詰めるようなまねは礼儀にもとる。それに、今の戦況を考えれば、ここでのんびり話をしているわけにもいかなかった。
そうこうしているうちにインが口を開く。
「ここにいれば敵に見つかることはない。援軍も来たようだし、俺たちが離れても問題ないだろう」
レオンハルトはそれを聞き、おとがいにひとさし指をあてた。
「それはそのとおりだけど、何をするつもりか訊いてもいいかしら?」
その問いは不審ゆえのものではない。今さらインがレオンハルトたちを売り渡すわけもないことは重々承知している。
むしろこのとき、レオンハルトはインのことを気遣ったのである。へたをすると、インはラーラベルク兵に囚人兵と勘違いされかねなかったから。
「なに、ドルレアクの兵に混ざって敵の本陣に乗り込むだけだ。連中が使った抜け道もキルが見つけてくれたしな」
「……いきなり聞き捨てならないことを言われちゃったわね。その抜け道、どのあたりにあったか教えてもらえないかしら」
キルが訊ねるようにインを見る。インはそれに対して軽くうなずいた。
心得たキルはいくつかの特徴をあげて、発見した抜け道の場所をレオンハルトに伝える。
それを聞いた公女ははっきりと柳眉をひそめた。
――間違いない、初代がつくった抜け道。どうしてウルリッヒが知っている!?
それはラーラベルク公爵家にとって秘中の秘とよべるもの。そして、今回の援軍なき篭城戦において、レオンハルトがただ一つ勝機を見出した起死回生の策の源泉でもあった。
レオンハルトの策はさして複雑なものではない。
まず、ガンプの備えを総動員して討伐軍の攻勢をできるかぎり防ぎとめる。彼我の兵力差を考えれば勝ち目はないが、それでも敵に打撃を与え続け、時を稼ぐ。
討伐軍が押し込んでくれば、当然のように敵の主力は都市内に入ってくる。彼らを引きつけるだけ引き付けた上で、精鋭をもって抜け道を通りぬけ、主力不在となった討伐軍の本陣を襲う。
糧食を焼き払った程度では討伐軍は退かない。いくらでも後方から補給を受けられるからだ。だから、なんとしてもここで総指揮官ドルレアク公爵の首をとる。
今回の戦いでラーラベルク軍に勝機があるとすればこの方法しかない、とレオンハルトは考え、ヘルムートもそれを諒としていた。
その抜け道がすでに討伐軍全体に知られていたとなれば、ラーラベルク軍の戦略は根底から覆ってしまう。
レオンハルトの受けた衝撃は小さいものではなかったが、すぐに自分自身でそれを否定した。
もし討伐軍が抜け道の存在を知っていたのなら、もっと早くに、もっと大勢の兵を送り込んできただろう。そうなれば、ガンプは早期に陥落の危機に瀕していたはずだ。
それをしなかったこと自体が、ドルレアク公が抜け道の存在を知らなかったことを示している。おそらく、ウルリッヒは手柄の独占を狙って味方にも抜け道の存在を隠していたのだろう。
もっとも、それも今日までのこと。ウルリッヒの行動で抜け道の存在はおおやけになってしまった。急いで封鎖しなければ、今日の部隊に数倍する大軍が送り込まれてくる。
結局、ラーラベルク軍の起死回生の策が使えなくなってしまうことにかわりはなかった。
このままではアトが姿を見せたとしても、最終的にラーラベルク軍は討伐軍によって磨り潰されてしまう。
であれば――
レオンハルトはインを見る。
そこにいたる道筋は違えども、結果として自分と同じ結論にいたった青年を。
何の気負いもなく「敵の本陣に乗り込むだけだ」と言い放った人物を。
インに対するレオンハルトの第一印象はいたって単純明快である。謁見の間ですれ違った際、多数の敵兵に囲まれた青年が楽しげに口許を歪めていることに気づき、思ったのだ。
ああ、これは狂戦士だ、と。
父がこの手の戦士であるからよくわかる。戦いが『手段』ではなく『目的』となっている人種。
勝利のために戦う者たちは、勝利を味わいたいがために命を惜しむ。
だが、戦いたいから戦う者たちは、命を惜しむということをしない。
だからこそ強い。
もっとも、それだけでは狂犬と大差はない。本当に厄介なのは、戦いを『手段』として用い、なおかつ『目的』にもできる者たちだ。
明確な目的を持ち、それを果たすために戦っているのに、その戦いを心の底から楽しむことができる知恵持つ獣。この青年はまさしくその輩だろう。
――まあ、第一印象はあてにならないことが多いけど。
レオンハルトはそうも考えたが、それでも自分の観測が大きく的を外しているとは思わなかった。
よくもまあこんな人物の協力を得られたものだと、この場にいない第一皇女に感心する。
再会したら是非ともその詳細を聞かせてもらおうと考えながら、レオンハルトは口を開いた。
眼前の相手に、今しがた脳裏に閃いた作戦への協力を求めるために。




