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僭王記  作者: 玉兎
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第七章 蹂躙(五)

 謁見の間に駆けつける途中、レオンハルトは幾度も敵兵に行く手を遮られた。

 怪鳥けちょうのような叫び声をあげて囚人兵が襲いかかってくる都度、護衛のフーゴと共に切り抜けていったのだが、その戦闘の音を聞きつけて更なる敵兵が姿を見せ、二人の行く手を阻んでくる。この繰り返しだった。

 レオンハルトの長剣はガンプでも一、二を争う剣匠けんしょうが鍛えた業物わがものであり、ここまでの激戦を経てなお刃の輝きは失われていない。今もまた行く手を遮る囚人兵の一人が、鋭利な刃で頸部を切り裂かれ、絶叫をあげて床に倒れ伏した。



 レオンハルトの剣技と、凄絶なまでの剣の切れ味。

 その二つを前にした囚人兵は、しかし、一向に怯むことなく、倒せど倒せど刃虫のように湧いては躍りかかってくる。

 皮肉なことに、彼らの戦意をかき立てているのはレオンハルト自身であった。目に情欲の炎をともして襲いかかってくる敵の姿を見れば、そのことは瞭然りょうぜんとしている。

 レオンハルトにしてみれば、様々な意味で鬱陶うっとうしいことこの上ない。

 さっさと切り抜けてしまいたいのだが、すでにあらかた制圧されてしまった公宮内において、レオンハルトたちが発する戦闘音はことのほかよく響く。駆けつけてくる敵兵は増える一方であり、このままでは完全に前後をふさがれてしまうだろう。




 と、レオンハルトの背後から激痛を押し殺した苦悶の声があがる。続いて、興奮しきった囚人兵たちの喚声も。

 嫌な予感を覚えたレオンハルトは、斬りあっていた敵兵を血煙の下に沈めた後、背中あわせで戦っていたフーゴの方を見やる。

 視線の先ではフーゴが囚人兵の身体を袈裟懸けさがけに斬り捨てたところであった。それ自体はよかったのだが、フーゴの下腹部、鎧の隙間に敵兵の剣が深々と突き刺さっているのを見て、レオンハルトは唇をかんだ。



 間違いなく致命傷だ。並の人間なら激痛のために立ち上がることもできないであろうに、フーゴは傷をおして剣を振るい、とどめを刺しにきた囚人兵を返り討ちにしたのだろう。

「おのれッ」

 すぐさまフーゴを助けるべく足を踏み出しかけたレオンハルトだったが、他ならぬフーゴの声がその行動を阻んだ。

「姫様。はやくアストリット様のもとへッ」

 そう口にするや、フーゴは長剣を振り回して、近づこうとする囚人兵を牽制けんせいする。敵兵がレオンハルトの後を追う事ができないように。



 苦痛を堪えながら、早くこの場から立ち去るようにと進言するフーゴの後ろ姿を、レオンハルトは沈痛な面持ちで見つめた。

 その言葉が意味することは明らかすぎるほど明らかである。レオンハルトはそれを望まなかったが、ここで自分が留まれば忠実な騎士の覚悟を無駄にしてしまうこともわかっていた。それはきっと、何よりフーゴを傷つける。



「……わかったわ。必ずアーシャを、カティアを助けるから」

 相手の妹の名をあげて、レオンハルトはそう約束する。

 フーゴはそれに対して何か言葉を返そうとしたが、その声は囚人兵たちの叫び声によってかき消されてしまう。咎人とがびとたちは、君臣の別れに水を差すことをまったくためらわなかった。

 押し寄せる敵兵と対峙したフーゴの口から猛々しい雄たけびがあがり、レオンハルトは間髪いれずに前方――謁見の間に向かって走り出す。もっとも近くにいた敵兵を斬り倒し、左右から振るわれる刃を潜り抜け、囚人兵の包囲を斬り破っていく。

 その突破が成功に終わった直後、後方から聞こえていたフーゴの声が、何かに断ち切られるようにぴたりと途絶えた。レオンハルトはわずかに面差しを伏せたが、その足はかわらず床面を蹴り続ける。



 そうして、追いすがる敵兵を振り切ったレオンハルトが謁見の間にたどり着いたとき。

 戦いは、すでに終わりを迎えていた。



◆◆



「久しぶりだな、レオンハルト。こうして顔をあわせるのは二年ぶりか」

 常であれば当主であるヘルムートが座している壇上の椅子に腰掛けているのは、銀糸が織り込まれたマントを羽織った巨躯きょくの若者だった。

 ウルリッヒ・フォン・ドルレアク。シュタール南部に巨領を持つ大貴族ドルレアク公メルヒオールの息子。

 レオンハルトはその名前を知っていた。別に覚えたくはなかったが、三度も縁談を申し込んできた相手だ、忘れることは難しい。



 そのウルリッヒルの傍らには、狩猟弓をたずさえた初老の騎士リュディガーや、巨大な槍を捧げ持つ従者が控えている。

 さらに、ウルリッヒを守るようにドルレアク兵がレオンハルトの前に厚い壁をつくっていた。

 彼らの足元には公宮守備のラーラベルク兵たちが倒れている。囚人兵たちの襲撃を受けた彼らは、公宮を敵の手から守らんと謁見の間に立てこもって懸命の防戦を続けていたのだろう。

 そこにウルリッヒたちの強襲を受け、ついに力尽きてしまった――この場の状況から、レオンハルトはそう判断した。



 決して強兵とは言えない守備兵たちがどれだけ奮戦したのかは、ラーラベルク兵と同数以上のドルレアク兵の死屍が物語っている。

 レオンハルトは心中で彼らの勇戦に敬意を表した。そして、不利な戦いを強いてしまったこと、援軍が間に合わなかったことを詫びる。




 それが終わった後、レオンハルトはキッとまなじりを決して、壇上から此方こなたを見下ろす敵の指揮官を睨みすえた。

 濃密な血臭が漂う謁見の間に、ラーラベルク公女の凛とした声が響きわたる。

「ここは皇帝陛下よりラーラベルク公爵に封じられた我が一族の公宮。敬意と礼節をもって訪れるならいざ知らず、血と刃もて押し入るのがあなたたちの作法なの?」

「才色兼備をうたわれたレオンハルトにしてはつまらぬ物言いだ。察するところ、時を稼ぐのが目的か。それとも他に何か気になることでもあるのかな? たとえば、次代のラーラベルク公の行方、といったものを」

 そう言うと、ウルリッヒは指を鳴らした。

 ウルリッヒを守るように展開していた兵士たちが割れて、そこから顔を蒼白にした男の子が姿を見せる。

 その子の顔を見た瞬間、レオンハルトは思わず叫んでいた。



「アーシャ!」

「…………あ、あ。ねえ、さま」

 震える声、震える身体。姉の姿をみとめたアストリットの目にたちまち涙の粒が膨れ上がる。それでも、粒があふれ出す寸前、アストリットは袖で目をこすって涙をこぼさなかった。

 アストリットの顔は赤く腫れあがり、衣服は血泥にまみれて元の生地の色がわからないほど汚れている。それを見ただけで幼い弟が何をされたのか、おおよその見当がついた。

 なにより、アストリットの首にはめられているのは――



「……私の弟を、ラーラベルクの後継者を鎖に繋ぐか」

 レオンハルトの低い声がドルレアク兵の耳朶を強く揺さぶる。

 押し殺した声に込められた感情の量は膨大ぼうだいで、濃密な敵意が聞く者の背に氷塊をすべらせる。ドルレアク兵の陣列からざわめきが生じた。 

 しかし、ウルリッヒは動じない。

 兵士に命じてアストリットを自分の近くまで連れてこさせると、椅子に座したまま、少年の小さな身体を膝の上に抱え上げた。



 突然のことにアストリットは顔を強張らせ、きつく目をつぶる。

 ウルリッヒはうつむこうとする少年の髪を力任せに掴むと、無理やり顔をあげさせた。

「このとおり、弟は無事だ、レオンハルト。時は有限、無意味な浪費は互いに好ましいことではないだろう」

「……要求は父の降伏と私の身柄?」

 それを聞いたウルリッヒは口角を上げる。

「さすがに話が早い。宰相閣下との約定により、ラーラベルク公領は我らドルレアク家のものとなる。その後、ガンプを治めるのはこの俺よ。公宮陥落の暁には、望むものをとらせると父上はおっしゃったからな。当然、貴様ら一族は叛逆の罪で処刑されることになるが、かりそめにもシュタール皇家の血を継ぐ者たちだ、今おとなしく降伏するのなら命だけは助かるように俺がはからってやろう。ヘルムートめとこの豎子ガキは僧院へ。そして貴様は妻として俺の横にはべるがいい。めかけではなく正妻だ」



 それを聞いたレオンハルトは、もちろん喜んだりしなかった。

 冷めた声音で言う。

「光栄のいたり、とでも言うと思う?」

「くく、威勢がいいな。が、そのような態度をとれる立場かどうか、今いちどよく考えてみるがいい」

 そういうと、ウルリッヒはこれみよがしにアストリットの髪を引っ張り、公子に悲痛な声をあげさせた。



 レオンハルトは奥歯をきつくかみしめる。

「貴様……ッ」

「俺は以前からお前の才知を高く評価していた。その美貌もな。だからこそ、婚姻を申し込みもしたのだ。残念ながらヘルムートめに三度つき返されたが、それが四度になれば――ふん、賢明なお前のこと、どうなるかは言わずともわかるであろう?」

 それを聞いたレオンハルトは目を怒らせ――その後、たかぶる感情をなだめるように、一度、大きく息を吐き出した。

 ウルリッヒの脅迫じみた申し出など言下げんかに拒絶したかったが、アストリットを助けるためにも、ここは冷静さを保たなければならない。



 レオンハルトはつとめて平静な声を出した。

「叛逆者を妻にするなど、あなたの父親が認めるとは思えないけれど?」

「ラーラベルクの血を根絶やしにすれば、ドルレアク家は終生消えぬ悪名をかぶることになる。父上とてそれはわかっていらっしゃる。それに、お前たち一族が生きていれば、ガンプの民どももドルレアクに対する反抗心を捨てるだろう。その意味でもこの婚姻は有益だ」

 ウルリッヒはそこで一度言葉を切ると、いかにも楽しげに言葉を続ける。

「子の才能は、往々にして父よりも母のそれが色濃く出るものだ。お前が子をなせば、ドルレアク家は未来豊かな後継者を得ることがかなう。しかも、その子はドルレアク公爵家とラーラベルク公爵家、二つの公爵家の血をあわせた尊貴の身だ。いずれ俺がドルレアク公となり、その子が後を継げば――どうだ、これはなかなかに長期的なラーラベルクの勝利となるのではないか?」




 それを聞いたレオンハルトはわずかに眉をひそめた。

 ウルリッヒらしからぬ言葉だ、と思ったのである。

 レオンハルトが知るドルレアク家の嫡子ちゃくしは、決して無能な人物ではなかったが、万事に主観が先に立ち、相手の立場を思いやるということをしない。少なくとも二年前まではそうであった。

 そのウルリッヒが、人を説くのに「ラーラベルクの勝利」などという言葉を使うとは。圧倒的に有利な立場に立った者の余裕ゆえだとしても、いささかに落ちなかった。



 だが、それに関して探りをいれている時間はなかった。

 ウルリッヒが傲然ごうぜんとした態度で答えを求めてくる。

「さて、レオンハルトよ。返答はいかに?」

 いつかの舞踏会で見初めた濃紺の髪の少女を前にして、ウルリッヒは満足そうに唇を曲げる。形としては返事を求めているものの、答えなど一つしかない。それを知るゆえの表情であった。



 そのウルリッヒの表情を視界にいれながら、レオンハルトは火花が散るほどの勢いで頭を回転させている。

 相手の思惑は見え透いている、とレオンハルトは思う。

 妻などといえば聞こえはいいが、実態はラーラベルクの血を手に入れるための道具に過ぎない。子をうめば、すぐにでも正妻の座からおろされ、あとは単なる慰み者に成り果てるだろう。あるいは、あとくされがないように始末されるか。

 いずれにせよ、レオンハルトが我が子を抱くことは決してない。生まれた子はウルリッヒの下で育てられ、父の傀儡としてガンプの支配者の席に座らせられることになるだろう。

 僧院に入れられた父と弟も、遠からずブドウ酒の中毒か何かで死亡することになるに違いない。それはもう予想を越えた確信だった。



 ゆえに、ウルリッヒの申し出にだくを返すことは、間接的にラーラベルク一族の滅亡を受け容れるに等しい。

 レオンハルトはそう考えているが、だからといって、この場で否を口にしても結果はたいして変わらない。それがレオンハルトを悩ませていた。

 ここでレオンハルトがウルリッヒを拒絶すれば、ウルリッヒはためらいなくラーラベルク一族を処刑する。しかも、それだけでとどまる保証はない。



 そんなレオンハルトの内心を読み取ったかのように、ウルリッヒは告げた。

「ガンプが落ちれば、民どもは容赦のない略奪にさらされた後、奴隷として売り飛ばされることになろう。例外は腕の良い職人ぐらいのものか。その後、ドルレアクの民をこの都市に移住させれば、叛乱を企む者はいなくなる道理。実際、父上はこれまで幾度もそうしてきた」

 それはドルレアク公に限った話ではない。敵対的な都市を陥落させた後、しばしばとられる手段であった。



 ウルリッヒはなおも言う。

「それを止められるのは俺だけだ。お前の答えは公爵家のみならず、ラーラベルク公領の民すべての運命を決するものと思うがいい。そのことを頭に入れた上で、心して返答せよ」

 左腕でアストリットを抱えたウルリッヒが、空の右腕を宙に突き出す。心得た従者の一人が右手の篭手を取ると、こわい毛に包まれたウルリッヒの右手があらわになった。

「剣を置き、防具を脱ぎ、我が前に跪いて、忠誠の誓いをなせ、レオンハルト。それ以外のあらゆる行動を拒絶とみなす」





 武器も、鎧下――鎖帷子くさりかたびらも捨て、階の上に来て手の甲に口づけせよ。それがウルリッヒの要求だった。

 反抗はもちろん、躊躇ちゅうちょするだけでも拒絶とみなす、とも。

 煮えたぎるような熱を浮かべる眼光を見れば、それが単なる脅しでないことは理解できる。レオンハルトがわずかでもためらえば、ウルリッヒは本当にアストリットをくびり殺すだろう。



 どの道、アストリットが敵の手中にあるうちは逆らいようがない。この場は相手の要求に従い、後日、なんとか隙を見て反撃するしかない、とレオンハルトは覚悟を決めた。

 長きに渡って帝国南部に君臨してきたドルレアク公爵家が、そうそう隙を見せるとは思えなかったが、それでもこの場の反抗は無益である。歯を食いしばったレオンハルトは、持っていた長剣を床に放り投げた。

 からんからん、と剣が転がる音が響く。

 武器を手放し、鎧下も脱ぎ捨てたレオンハルトは、薄手の布服のみの姿となり、隠しようもない身体の起伏を晒しながら、ゆっくりと壇上のウルリッヒへと歩み寄っていく。

 この場は従うしかない。そう覚悟は決めたものの、望みもせぬ忠誠を強いられる屈辱はおさえようがない。ウルリッヒに歩み寄るレオンハルトの顔はかたく強張っていた。





 そんなレオンハルトを見下ろしながら、ウルリッヒは満足そうにほくそ笑む。相手が心から服していないのは表情からも明らかだったが、そんなことは些細ささいなことだ、とウルリッヒは思う。レオンハルトが何を企もうと、アストリットを手中におさめているかぎりは何もできない。

 ウルリッヒは閨房けいぼうの手腕には自信を持っており、時間をかけてレオンハルトを飼いならしてやるつもりだった。あくまで屈服しないようならば、子を産ませた後で始末してしまえばよい。欲しいのはラーラベルクの血であって、レオンハルト個人ではない。

 正直、レオンハルトの美貌や才知は惜しいと思うが、公爵になれば大陸中の美姫を我が物とすることもできる。それを思えば、公女ひとりに執着する必要はなかった。



 ラーラベルクの血を得ればガンプの支配はより容易になる。ウルリッヒはシュタール屈指の鉱山を手に入れ、居ながらにして富と武力を蓄えることができるようになるのだ。しかも、皇家につながる名族の影響力も我が物にできる。

 そうなれば、もはやテニエス伯など敵ではない。次代のドルレアク公爵に相応しい者が誰であるのか、万人の目に明らかになるであろう。

 ウルリッヒは深く満足していた。




 ――その満足が、一瞬、ウルリッヒの反応を遅らせた。

 それまで震えながら膝の上に座っていたアストリットが、いきなり動いたのだ。

 アストリットがウルリッヒの右腕につかみかかる。振り払うべきか否か、判断に迷ったウルリッヒは、次の瞬間、右手に走る痛みに思わず苦痛の声をあげていた。

「ぐッ!? この、豎子ガキがッ」

 力任せにアストリットの身体を突き飛ばす。

 アストリットは苦痛の声をあげて階の上に転がった。痛みに顔を歪めたアストリットは、それでも泣き声ひとつあげることなく立ち上がり、階段を下って姉のもとへと駆け出していく。



 忌々しげに己の右手を見たウルリッヒは、そこにくっきりと刻まれた歯型を目にしてピクピクとこめかみを震わせた。

 しょせんは子供のすることだ、と笑い捨てるだけの寛容かんようさは今のウルリッヒにはない。むしろ、子供に――政敵である弟を重ね見ていた子供にしてやられた屈辱で、その顔は朱泥しゅでいを塗りたくったように赤く染まっていった。




◆◆




「姉様! 早く、早く逃げましょうッ!」

 息をきらせながら駆け寄ったアストリットは姉の手をとってそう言った。

 この場から逃げられるのか。そもそも逃げきれたとして、今の戦況をどう覆すのか。そんな小難しいことはアストリットの頭にはない。

 幼い公子の頭にあるのは、姉を危険から遠ざけること。姉をはずかしめようとする者から、一歩でも遠くに姉を逃がすこと。ただそれだけであった。



 そんな弟を見て、レオンハルトは声を詰まらせる。

「アーシャ……」

 冷静になって考えれば、ここは弟の手を振り払い、二人そろってウルリッヒに頭を下げるべきだろう。おそらく、それが自分たち姉弟きょうだいの命を繋ぐ、一番可能性の高い方策だとレオンハルトは思う。

 だが、それをして生き延びたところで、待っているのは鎖なき隷従れいじゅうの日々。

 今このとき、命を繋ぐ賢明さは、代償としてレオンハルトとアストリットに家畜の生を強いてくる。



 ほんの少し前まで、レオンハルトはそれもいたし方なし、と考えていた。弟を助けるためであれば、一時いっとき屈辱に甘んじることもやむをえない、と。

 だが、アストリットにはそんなつもりは欠片かけらもないようだった。それは子供らしい単純さ、まっすぐさによって導き出された答えなのだろうが、だからこそレオンハルトの胸を打つものがあった。

 負うた子に教えられた――いや、叱咤しったされた気がしたのだ。ぼくはこんな奴らに負けたくない、と。




 状況は最悪だ。前後左右に敵。レオンハルトは剣を手放してしまっている上、ドルレアク家の正規兵は囚人兵とはわけが違う。弟を守りつつ数十の敵を突破することは、不可能とは言わないまでも限りなく困難であろう

 それでも――

「姉様!」

「そうね、アーシャ。こんなところで負けてられないわよね」

 震える弟の手を、レオンハルトは力強く握り返す。その声に揺らぎはなく、屈辱に強張っていた虜囚の顔は、瞬く間に英気に満ちた戦姫のそれに変じていく。

 そう、それでもここは戦うべきだった。

 次期当主であるアストリットの前で、姉である自分が無様をさらすわけにはいかない。

 レオンハルトはそう考え、覚悟を据え直す。





 そんなレオンハルトに向けて嘲笑を浴びせた者がいる。言うまでもなくウルリッヒであった。

 壇上から姉弟の様子を見ていたウルリッヒは嘲弄するように問いかける。

「負けてはいられぬ、か。不敏ふびんなるこの身にも分かるように説明してくれるとありがたい。まさかとは思うが、豎子ガキひとり抱えてこの場から逃げられると思っているのか、レオンハルト?」

「そのとおり、と言ったらどうするつもりかしら?」

「ふん。あくまで俺の妻となることを拒むか、忌々しい。だが、ここで俺に逆らうことの意味もわからぬ女なのだと思えば惜しむ気も失せる。いいだろう、今の言葉を先の問いの返答とみなし、お前も豎子ガキも叛逆の罪で誅殺ちゅうさつする」



 そう言うと、ウルリッヒは従者の手から長大な槍を受け取った。

 槍をしごく動作は堂にっており、ウルリッヒの勇猛さが口先だけではないことがうかがいしれる。

 レオンハルトはアストリットをかばうように前に出た。もっとも、その手に武器はなく、槍が飛んできたらかわすしかない。だが、レオンハルトがかわせば後ろのアストリットが穂先に貫かれてしまう。

 それだけではない。

 こうしている今も、レオンハルトたちの周囲には武器を構えたドルレアク兵がいるのだ。状況は最悪のまま、まったく変化していない。




 謁見の間の空気が音をたてて張り詰めていき、高まる緊張は血臭すら押しのけて広間全体を包み込む。

 ウルリッヒが号令を発すれば、その瞬間にドルレアク兵たちは襲いかかってくるだろう。あるいは、そう見せかけて槍を投げつけてくるか。

 迫っているのは戦いではなく処刑の開始時刻であり、だからこそ、ウルリッヒはすぐに動こうとしなかった。なぶるような表情を浮かべて、ラーラベルクの姉弟を睥睨へいげいする。

 あるいは、それはウルリッヒなりの猶予ゆうよであったのかもしれない。レオンハルトが考えを改め、ひざまずくのならば許してやろう、と。



 だが、ラーラベルクの公女にそのつもりがないことは、一向に衰えない眼光が物語っていた。

 それを見たウルリッヒは憎々しげに口を歪め、持っていた槍を構える。

 応じて、レオンハルトがわずかに腰を落とした。

 緊張が頂点に達し、場の空気が静から動へと急激に移り変わる――その寸前のことだった。





「アーシャ様!! レオンハルト様!!」

 謁見の間に飛び込んできた小さな人影が、ラーラベルク家の姉弟きょうだいの名を震える声で叫ぶ。

 その声に誰よりも早く反応したのはアストリットであった。声の主を、公子はよく知っていた。

「カティアッ!?」

「はい、カティアでございます、アーシャ様! ああ、よかった、間に合いました! 女神様、感謝いたしますッ!!」

 アストリットの声を聞いたカティアは感極まったように胸の前で手をあわせる。



 アストリットもカティアの無事を知って目を輝かせる。

 一方、レオンハルトは心臓をわしづかみにされたような感覚を覚えていた。

 フーゴの妹が生きていてくれたことは素直にうれしい。だが、姿を見せたタイミングが最悪だった。

 自身と弟を救うことさえおぼつかない状況である。今、カティアに凶刃が向けられれば、これを助ける術がレオンハルトにはない。



 レオンハルトの視線が壇上のウルリッヒに向けられる。

 ここでウルリッヒがあえてカティアを見逃すとは思えなかったのだ。

 その予測どおり、ウルリッヒは手にしていた槍を肩に掲げ、投擲の態勢をとっていた。レオンハルトが制止の声を発しようとしたときには、すでに槍は宙を駆けていた。ろくに力も込められていないと思われた投擲は、しかし、恐るべき威力を秘めてカティアに襲いかかっていく。

 雷霆らいていのごとく迫り来る豪槍を前に、カティアは両目を大きく見開くばかりで逃げようとしない。いや、竦んでしまって動けないのだろう。



「カティア、逃げてッ」

 咄嗟に叫ぶも、あれではかわせないとレオンハルトは瞬時に悟る。悟ってしまう。

 一瞬後には、カティアの胸は槍に貫かれているだろう。そう思い、砕けるほどに奥歯をかむ。半ば無意識にアストリットを胸にかき抱いたのは、側仕えの少女の無残な姿を弟の目から隠すためであった。

 そのレオンハルトの視線の先では、今まさに槍の先端がカティアの胸をえぐろうとしている。ラーラベルクの公女は、次の瞬間の惨劇を予測して身体を硬くした。




 ――ところが。

 予測に反して、惨劇はいつまでっても起こらなかった。




「ね、姉様……?」

 姉の胸に抱えこまれたアストリットが、わけもわからず不思議そうな声をあげる。少し声が痛そうなのは、レオンハルトが力任せに抱きしめてしまったせいだろう。

 レオンハルトは弟の声に答えることができなかった。その顔はカティアがいる方向へ向けられたまま微動だにしない。



 いつの間にそこに立っていたのだろう、レオンハルトの視界には一人の青年の姿が映し出されていた。

 背中に長大な剣を背負った青年。その左手は槍の柄をがっしりと握り締めている。カティアの胸を貫くはずだった槍を、この青年は空中で受け止めたのだ。いともたやすく、左手一本で。

「……な!?」

 それを見て驚愕の声をあげたのは、槍を投じたウルリッヒであったろうか。そちらには何の関心も払わず、レオンハルトは観察を続ける。



 青年はひどい格好をしていた。顔は汗とあかで汚れ、あごや頬は不精ぶしょうひげで覆われている。服は泥と埃でボロボロであり、つまるところ、囚人兵の外見とほぼ等しい。

 だがこの時、その青年を囚人兵だと判断した者は、おそらくこの場に一人もいなかった。

 カティアをかばった行動もさることながら、青年のかもし出す迫力が囚人兵のそれとは桁違けたちがいだったからである。

 猛々しい戦意があふれる黒の双眸そうぼう、多数の兵士が待ち構えている場所に恐れ気もなく踏み込んでくる胆力。悠然とした態度に乱れはなく、侵しがたい硬質の覇気が見る者に奇妙な錯覚を強いてくる――さえぎるもののない草原で、野生の獅子に出くわしてしまったかのような、そんな錯覚。




 レオンハルトの視線の先で、獅子が人語を口にした。

「カティア、いちおう確認しておくが」

 思いのほか穏やかな声であった。ギラリと凶悪な輝きを放つ穂先を前に息をのんでいたカティアは、それを聞いて我に返る。

「は、はい、なんでしょうか!?」

「あの二人がラーラベルクの一族で間違いないんだな?」

 そう問うた青年の視線が、レオンハルトのそれと数瞬の間、重なり合った。



 その瞬間、レオンハルトの背筋を戦慄に似た何かが駆け抜けたが、その正体を探っている暇はなかった。

 どうやら青年とカティアは協力しているらしく、カティアは青年の問いにぶんぶんと首を縦に振る。

「そうです! アーシャ様とレオンハルト様です!」

「そうか」



 言うや、青年は左手で掴んでいた槍を右手に持ち直す。

 とった構えは先ほどのウルリッヒと同じ。行動もウルリッヒと同じ。威力だけが異なっていた。



「ぬッ!?」

 鈍色にびいろに光る穂先が、うなりをあげてウルリッヒに襲いかかる。

 謁見の間の入り口から壇上へ向けて投じられたそれは、放物線を描かず、ほぼ直線の軌道をとった。すさまじい力が込められた手練の一投。

 ウルリッヒひとりであれば、胸板に風穴を開けられていたであろう。

 主君の窮地を救ったのは傍らに控えていたリュディガーだった。

「若ッ!!」

 リュディガーは咄嗟にウルリッヒの身体を横に突き飛ばす。予期しようもなく、ウルリッヒの身体はこてんと横に転がった。

 その直後。



 ザグンッ、と音をたてて槍は背後の石壁に深々と突き刺さった。

 槍はの部分まで壁にめりこんでおり、それが投擲の凄まじい威力を物語っている。

 ドルレアク、ラーラベルクを問わず、謁見の間にいた者たちは凝然ぎょうぜんと立ち尽くし、ただ視線だけを青年へと向ける。

 その視線の先で、青年は口の端を吊り上げ、あざけるようにかすかに首を傾けた。

 そこにしたたり落ちるほどの戦意を感じ取ったのは、きっと気のせいではないだろう。



 転機といえば、これが転機。

 ドルレアク公爵家にとって、受難の時が始まろうとしていた。



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