第七章 蹂躙(二)
ラーラベルク公爵家の次期当主アストリット・フォン・ラーラベルクはご機嫌だった。燦々(さんさん)と陽光が降り注ぐ公宮の裏庭を弾むような足取りで歩いている。
はしゃぐ公子の姿を見て、傍付きの女官であるカティアはくすくすと微笑んでいるが、教育係であるヒルデの方は軽く額をおさえて溜息を吐いていた。
溜息の原因は、食料集めに同行したい、という公子の懇願をはねつけることが出来なかったからである。
幼いアストリットから上目遣いで懇願されては拒みようがない、と内心で呟きつつ、あくまでヒルデは厳しさをもって公子に接する。
「よろしいですか、公子様。半刻(一時間)だけですからね」
「はい、ヒルデ!」
元気いっぱいな公子の答えに相好を崩しかけたヒルデは、いけないいけない、と慌ててかぶりを振った。
そんなヒルデを見て、カティアや他の女官たちは吹きだしそうになるのをこらえなければならなかった。
傍から見れば、ヒルデがアストリットのことを可愛がっているのは明らかなのだが、当人は自分の感情を秘していると思い込んでいる。であれば、それを指摘するのは野暮というものであろう――決して、諸事に謹厳な先達が公子相手に百面相をしているのを見て面白がっているわけではない。
ただ、ヒルデとて単純な可愛さのみでアストリットの同行を認めたわけではなかった。
討伐軍の攻撃が始まってこのかた、アストリットはずっと窮屈な思いを強いられてきた。できた公子は我がままを口にすることなど一度もなかったが、不安と緊張で常の活発さが失われているのは誰の目から見ても明らかだった。
カティアたちはそのあたりを察して休ませようとしたのだが、アストリットとしては、不安や緊張以上に、自分が何の役にも立っていないという点で忸怩たる思いがあったようだ。大好きな人たちが懸命に戦っているのに、自分は何もできない――そんな気持ちで寝台に横になっても、たいして回復の効果は望めない。
その点、裏山での食料集めということであれば、幼いアストリットでも父や姉の役に立てるのである。外の空気を吸い、陽光を浴び、さらに無力感を(一時的にせよ)胸中から打ち消すことができる。
アストリットにとっては良い気分転換になるだろうと考えたからこそ、ヒルデは公子の同行を許したのである。
その判断が正しかったことは眼前の公子の笑顔を見れば明らかであった。
当初、ヒルデは女官と庭師だけで裏山へ向かう予定だったが、アストリットの同行が決まった時点で、護衛の兵士も一行に加わった。
食料集めというよりは、ただの散策になってしまった気がしないでもないが、それはそれでかまわないだろう、とカティアは思う。
「カティア、カティア! あれ、食べられる?」
食料集めという目的は忘れていないようで、アストリットは目についたキノコを指差して訊ねてくる。
カティアはかぶりを振って応じた。
「アーシャ様、キノコは強い毒をもっているものもあります。わたしたちで判断するのはあぶないので、庭師の方々に任せましょう」
「ん、わかった! あ、じゃあ、あれは?」
「これはベリーの実ですね。ただ、まだとても小さいですから、今食べると、きっとものすごいすっぱいです」
「すっぱいの?」
「はい――先生がつくったキャベツの酢漬けのように」
カティアが公子の耳もとで悪戯っぽく囁くと、アストリットは酢を飲んだような表情になった。
「うあぁ……それは大変。あ、でも父様は喜ぶかも。父様、すっぱいもの好きだし」
それを聞いてカティアはいささか慌てた。まさか公爵に未熟なベリーの実を食べさせるわけにはいかない。
――たぶん、あの方はアーシャ様が持ってきたものなら無理しても食べるだろうし。
そんなことを考えながら、カティアは話をそらしにかかった。
ちょうどよいことに、少し離れたところに見覚えのある形の草が生えている。
「そ、そうかもしれませんね。あ、ほら、アーシャ様! あの草は山菜として食べられますよ。山菜のおひたしはレオンハルト様の好物ですから、きっと喜んでくださるはずです」
「え、どこどこ!?」
そんなやり取りをかわしながら食べられるものを集めていく。
効率という点ではとうてい及第点に及ばなかっただろうが、アストリットの表情は確実に来る前より明るくなっている。
公子の気分転換という点では満点に近い、とカティアは微笑みながら思っていた。
――この時までは。
◆◆
「ん……?」
公子付きの護衛兵のひとりが怪訝そうに眉を動かしたのは、そろそろ約束の半刻(一時間)に達しようかという頃のことである。
同僚のひとりがそれに気づいて声をかけた。
「どうしたよ、変な顔して?」
「変とかいうな! いや、今、向こうで木がおかしな揺れ方したんだ。お前、俺より背が高いし、目もいいし、女にもてるだろ。何か見えないか」
そういって、小柄な兵士は木漏れ日に照らされた木立を指差した。
「最後はまったく何の関係もないよな?」
そう返しつつ、長身の兵士は同僚が指し示す方向に視線を向け、目をこらす。
鬱蒼と草木が生い茂る一画には異常を感じられるものは何もない。公子や女官、庭師は全員この場にいるので、誰かがはぐれたという可能性もない。
気のせいではないのか、といいかけた長身の兵士の視界の中で、不意に木立が大きく揺れた。
先に小柄な兵士が言ったとおり、明らかに自然のゆれ方ではない。生物の気配を感じさせる動きだった。
「熊でも入り込んだか?」
長身の兵士はそんなことをつぶやきながら、二歩、三歩と近づいて、より詳しく観察しようとする。この山林はラウラ鉱山とは崖で隔てられているので、その手の大型の獣が入り込むことはまずないのだが、万一ということもある。
そのすぐ後ろで、はじめに異変に気づいた兵が口を開いた。
「かもしれない。とにかく殿下たちは公宮にお帰りいただこう。これだけの人間がいるところに野生の獣が寄ってくるとは思えないが、飢えていたり、怪我をしていたりしたらその限りじゃな――い……?」
小柄な兵士は不自然に言葉を切ると、木立を見据える同僚の背にもたれかかってきた。
「おい、どうした? ふざけている場合じゃないだろうがッ」
悪戯か何かだと思った長身の兵士が、苛立たしげに同僚の身体を振り払う。
どさり、と。
小柄な身体はそのまま地面に倒れ伏した。何一つ抵抗なく、まるで人形か何かのように。
「おい! 状況をわきまえろ……え?」
さすがにこれ以上の悪ふざけは看過できぬと、兵士は木立から視線を離して倒れた同僚を睨みつける。
――視界に飛び込んできたのは、首に矢羽を生やした同僚の死に顔だった。
矢は完全に首筋を貫いており、弓勢の強さを言外に物語っている。
一瞬の空白。
隠れ潜んだ射手はその隙を見逃すほど甘くはなかった。
放たれた第二矢が正確に長身の兵士の右目を射抜き、兵士はもんどりうって地面に倒れる。それでも、その兵士は耐え難い苦痛の中で最後のつとめを果たした。
「てぎじゅうだぁあァァァッ!!」
苦痛にまみれた濁声がほとばしり、それを聞いた他の護衛兵は弾かれたように腰から剣を抜き放った。女官たちは即座に持っていたかごを放り捨て、アストリットを中心に円陣を組む。
そんな彼らに向けて、矢は容赦なく降りかかってきた。一方向だけではない。右、左、正面、さらには山林の出入り口の方角からも矢が飛んでくる。アストリットたちはいつの間にか完全に敵の包囲下に置かれていたのだ。
眼前で次々と射倒されていく兵士たちを見て、アストリットは呆然とたたずむことしかできない。
何が起きたのか。何が起こっているのか。木漏れ日に照らされた穏やかな散策は、一瞬で血と絶叫の入り混じる凄惨な殺し合いに変じてしまった。状況の変化が急激すぎて、幼いアストリットの理解はまったくおいつかない。
「アーシャ様!」
傍らにいたカティアが、自らの身を盾とするようにアストリットの身体を胸にかき抱く。それは公子の耳目を塞いで、凄惨な光景から遠ざけるためでもあった。
何が起きているのかわからない点では、カティアもアストリットも大差はない。だが、カティアの方は「何が起きているか」はわからなくとも「何をしなければいけないか」はわかっていた。
今はわが身にかえても幼い公子を守らねばならない。しかる後、公子を公宮まで連れて行く。
その決意はひとりカティアだけのものではなかった。
気が付けば、ヒルデをはじめとしたほかの女官たちもアストリットの周囲に集まり、我が身をもって矢の雨から公子を守ろうとしている。
兵士たちは、そんな公子と女官らを何とか逃がそうと試みたが、四方を囲まれて矢を射掛けられている状況ではいかんともしがたかった。
向こうからはこちらが見えているが、こちらは向こうの影すら捉えていない。逆襲しようにも方策がないのである。
もとより、ここに来たのは食料集めのためだった。武装は最低限、人数は最小限。そんな状況で敵の懐深く入り込んでしまったのだ。結果ははじめから見えている。
すべての護衛が射倒されるまで、さして時間はかからなかった。
「――くははは! まさか、いきなり目当ての豎子が懐に飛び込んできてくれるとは思わなかった。幸先よし!」
木立の狭間から姿を見せた大男は、哄笑しつつアストリットらのもとに歩み寄ってきた。
その周囲には優に二十を超える完全武装の兵士たちがいる。
さらに、弓矢を構えた兵たちも、そこかしこから姿を見せ始めた。
アストリットと六名の女官に対し、敵兵は五十人を超えている。しかも、いずれも完全武装であった。
「……何者です、あなたたちは?」
大男に対し、ヒルデが険しい顔つきで詰問の言葉を投げつける。
絶体絶命の窮地であるはずなのに、その声音にはわずかの乱れもない。その恐れ気のない態度に大男は不快そうに眉根を寄せたが、すぐに何事か思いついたらしく、口許を歪めながら応じた。
「ドルレアク公爵家の嫡子ウルリッヒ・フォン・ドルレアクだ。ラーラベルクの公宮を我が物とすべく参上した」
「ドルレアク家の嫡子……? それにしては礼儀も礼節もなっていませんね」
「ふはは、言うではないか。もはや勝ち目などないが、心だけは敵に屈してなるものか、というところか。それとも、そうやって俺を怒らせておいて、そこな豎子を逃がす算段でも立てているのか?」
それを聞いたヒルデは無念そうに唇を引き結んだ。
今、ヒルデたちの生殺与奪の権を握っているのはウルリッヒである。その相手にここまで明確に意図を読まれてしまっては、強いて相手の感情を逆撫でする意味がない。
ウルリッヒは満足そうにうなずいた。
「そうだ、それでいい。さて、確認だが、そこの豎子はヘルムートめの子だな。たしかアストリットといったか」
言うや、ウルリッヒは巨体を揺らすようにして、自分と同じ公爵家の嫡子のもとに歩み寄ろうとする。
「――若、お気をつけください。公子付きの女官ともなれば、武技も修めておりましょう」
ウルリッヒに注意をうながしたリュディガーの手には、頑丈そうな狩猟弓が握られている。先に強弓を披露して、二人の兵士を射殺したのはこの男であった。
ウルリッヒは肩を揺らして笑う。
「かまわん。こやつらが俺に刃向かえば、相応の罰をくれてやるだけのことだ――む?」
そう言うウルリッヒの行く手を遮ったのはカティアだった。抱いていたアストリットを別の女官に託し、アストリットをかばうように前に進み出る。
射るような視線で睨みつけてくる女官を見て、ウルリッヒは不機嫌そうな顔つきをする。
ドルレアク家の嫡子は、他者がこのような目で自分を見ることを好まない。不遜には厳罰を。相手が女性であれ、子供であれ、それはかわらなかった。
「反抗的な目つきだな。俺を不快にさせるとどうなるか、わかっているのか?」
「……あなたさまは、本当にドルレアク公のご子息なのですか?」
ウルリッヒの脅しにかまわず、カティアは鋭い口調で問いかける。ウルリッヒの太い眉がまたしても不快そうにうごめいた。
「いかにもそうだ。で、それを知ってどうするのだ、小娘」
「それは――」
カティアの視線がちらとヒルデに向けられる。ヒルデはあごを引くようにしてうなずいた。
このとき、年の離れた二人の女官は同じことを考えていた。
すなわち、ここで相手の言うことに従っても、状況が悪くなりこそすれ、良くなることはありえないだろう、と。
ドルレアク家の嫡子がアストリットを丁重に遇する理由はない。よくて人質、悪ければこの場で殺される。
殺されるといえば、カティアたちも同様である。どうやってここまでやってきたのかわからないが、ウルリッヒは間違いなく奇襲をするためにやってきたのだ。それを知ったカティアたちを生かしておくわけがない。
仮に殺されなかったとしても、その先に待っているのは死よりもつらい境遇だろう。
ウルリッヒを睨んでいたカティアは、やがて相手の迫力におされるように、徐々に視線を下げていく。ウルリッヒが威圧するように一歩すすむと、びくりと肩をふるわせて悄然とうつむいた。
相手が屈服したと思ったのだろう、ウルリッヒが再びアストリットに近づいていく。
と、ここで突然、カティアは身体ごとウルリッヒにぶつかっていった。その手にはいつの間にか短剣が握られている。女官服の裾に隠しておいた武器であった。
そのカティアの行動とほぼ同時に、ヒルデが鋭い声で女官たちに命じた。
「公子様を公宮にお連れするのです、早くッ!」
それを聞いた残りの女官たちも、二人の意図を悟って一斉に動き出す。
彼女らの手には、それぞれに短剣が握られていた。
カティアは自分の細腕でウルリッヒをしとめられると考えたわけではない。手傷を負わせるのが精々であろう。
それでも、指揮官が負傷すれば敵兵は動揺するはずだ。その隙に、せめて公子だけでも公宮へ逃がしてさしあげなければ、と思った。
心からの忠誠心から出た行動であった――が、どれだけ真摯な思いであっても、それは戦いの場において益をもたらすものではない。
次の瞬間、カティアの腹部にはウルリッヒの鉄靴が深々とめりこんでいた。
「あぐゥッ!!?」
容赦も手加減もない攻撃。小さな身体が宙に浮くほどの打撃を腹部に受け、カティアはひとたまりもなくその場に崩れ落ちる。
「あ……あ、が……ッ」
あまりの痛みに悲鳴をあげることさえできない。身体はがくがくと震え、喉からは意味を為さない濁音がこぼれおちる。からり、と乾いた音をたてて短剣が地面に落ちる。拾わねばと思ったが、今のカティアは指一本満足に動かせなかった。
ウルリッヒは、そんな少女の髪をわし掴みにすると、力任せに自分の目の高さまで持ち上げた。
「あ、あああ……ッ」
「豎子のくせに見上げた忠誠心だ。それに免じて、貴様には褒美をくれてやろう」
そういって、ウルリッヒは無造作にカティアの身体を地面に投げ捨てた。少女の身体は鞠のように二度、三度と地面をはねてから、ようやく止まる。
その頃には、ヒルデたちの反抗も潰えていた。
五名たらずの女官で、その十倍の兵士の包囲を突破できるはずもない。カティアとヒルデは敵の不意をついたつもりだったが、ウルリッヒの行動からもわかるように、ドルレアク兵は女官たちの反抗を完全に見抜いていたのである。
間もなく、その場に十名の囚人兵が姿を見せた。
ウルリッヒは呼び寄せた十人に対し、からかうように声をかける。
「お前らの中に、女であれば子供でも老婆でもかまわぬ、という者はいるか?」
その問いに応じてあがった手は、囚人兵の数と等しかった。
ウルリッヒは真っ先に手をあげたひとりを指ししめし、転がっているカティアをあごで指差して無情にいった。
「では貴様だ。そこに転がっているやつをくれてやる。好きにしろ」
それを聞いて真っ先に口を開いたのはリュディガーだった。初老の騎士の眉間には深いしわが刻まれている。
「若、何もそのような――」
「今さら何をいう、リュディガー。これより先、公宮ではこれと同じことが百倍の規模で繰り広げられるのだぞ」
「戦に勝った後の略奪は兵の習い。なれど、戦の前の淫事は兵の戦意をそぎまする」
ウルリッヒとリュディガーはなおもやり取りをかわしていたが、命令を受けた囚人兵は委細構わず、まっすぐカティアに襲い掛かっていた。
激しい痛みに懸命に耐えていたカティアは周囲の状況に気づいていなかった。
だから、突然自分の身体に重みが加わったとき、またウルリッヒがやっているのだと考えて、亀のように身体を丸くして抵抗しようとした。
だが――
「ひ、ひ、ヒヒヒ、は、はハアアッ!!!」
突然、狂人のごとき音程が狂った叫びを浴びせられ、思わず相手の顔を見つめてしまう。
そこには垢と泥で顔中を覆った囚人兵の顔があった。
目の前に――それこそ鼻と鼻がぶつかるくらいの距離に。
襤褸同然の衣服、饐えたような体臭、血走った目つき、折れ曲がった鼻、女体を前にして欲望に歪んだ口許。口の間からは黄色く染まった歯がのぞき、ねばつく唾にまみれた舌先が、べろりとカティアの鼻先をなめた。
ヒッ、とカティアの口からしゃっくりのような音がもれる。あまりのおぞましさに、音を立てて顔がひきつっていく。
カティアには覚悟があった。連日連夜、敵軍に攻め立てられている状況だ、カティアならずとも万一のことを考えずにはいられない。
だから、乱入してきた敵兵に乱暴されるかもしれない、という可能性も考えていた。女官たちがもっている短剣は自決用でもある。
それでも、カティアはみずから死を選ぼうとは考えなかった。大恩あるラーラベルク公爵家のために、アストリットのために精一杯戦おう。もし、敵兵に屈辱を与えられることになったとしても、誇りをもって抗おう。そう決めていた。
先ほど、ウルリッヒの暴虐にさらされていたとき、カティアは苦痛の悲鳴をもらしはしたものの、敵の情けを乞うことは決してしなかった。アストリットのためであれば、どんな痛みにも耐えてみせる。カティアはそう考えていたのである。
だが、今、目の前にある『これ』は違った。
カティアが想像すらしていなかったものだった。
カティアの脳裏ではあらゆる感情が渦を巻き、無数の思考を吐き出している。
――汚い臭い恐い何これ粘つく気持ち悪い気色悪いおぞましい誰これふりほどけない痛い重い苦しいやめてきえて離れてどいて……ッ!
今、自分を押さえつけているのは人間ではない。カティアはそう思った。同じ人間のはずがない。こんなものは知らない。まったく理解できない。生理的に受け付けない。
カティアにとってそれは、人身大の油虫のようなもの。
それに身体を押さえつけられ、嬲られようとしている。
……耐えられるわけがなかった。
「嫌……嫌、嫌いやいやいやぁぁああああああああああ!!」
堰を切ったように少女の口から悲鳴があふれ出した。
覚悟も決意もそれを押しとどめることはできない。拘束から逃れようと、手を、足を、狂ったように夢中で動かした。
だが、囚人兵の力は強く、カティアの反抗は相手の嗜虐心をあおるだけの結果となってしまう。
ヒヒヒ、と甲高く笑いながら、囚人兵はいたぶるようにカティアの顔に舌をはわせていく。舌の感触を感じる都度、カティアの口から狂ったような絶叫がほとばしったが、囚人兵はかえってうれしげに哄笑するばかりだった。
「なんという……ッ! 仮にもシュタール帝国を代表する貴族の後継者が、このような振る舞いをして恥ずかしくないのですか!? やめさせなさい、今すぐにやめさせなさいッ!!」
ヒルデが激昂して進み出る。
それを見たウルリッヒはつまらそうに囚人兵の一人を指差した。
「次はお前だ。そこの端にいる女官、やつをくれてやる」
「なッ!?」
驚くヒルデに対し、ウルリッヒは冷めた声音で告げる。
「俺を不快にさせた罰だ、婆」
「それなら、私を殺せばいいでしょう!?」
「死にたい奴を殺してやるのは、ただの慈悲だ。どうして俺が貴様なぞに慈悲をかけてやらねばならん? どうだ、己のせいで他人が苦しむ様を見るのは?」
囚人兵が歓声をあげて女官にむしゃぶりついていく。
女官は持っていた短剣で切り払おうとしたが、囚人兵はまったく気にせずに右腕で刃を受け止めると、あっさりと相手の手から短剣をもぎとり、血で右腕をぬらしたまま女官の服をはぎとりはじめた。
悲鳴の数が一つから二つに増え、それを間近で見聞きした他の囚人兵たちが我も我もと乞うようにウルリッヒに視線を注ぐ。
女官たちを取り囲む兵士の中にも、落ちつかなげに身じろぎする者が相次いだ。
場の空気が淫欲と狂乱に飲み込まれつつあることを察し、リュディガーは再び口を開こうとした。
リュディガーは兵の略奪や暴行そのものを否定する気はない。それは兵の士気を保つ上で必要なことだ、と考えている。だが、どう考えても今この場で女官たちを嬲る意味はないはずだった。最悪の場合、女官たちの悲鳴を聞きつけたラーラベルク兵によって侵入が悟られてしまう。そうなれば馬鹿らしいどころの話ではない。
本来、ウルリッヒはその程度のことがわからない人間ではないのだが、この戦いではとにかく感情の浮き沈みが激しい。それだけこの戦いに期するものがあるのだろうが、嗜虐心を前面に出した今の状態は一軍の指揮官として危険であった。
「若――」
リュディガーがウルリッヒに厳しい視線を向け、諫言を呈そうとする。
だが、それに先んじてこの場に響き渡った声があった。
「やめてくださいッ」
その声を聞いたリュディガーは、思わず口を噤んでしまう。
まだ声変わりもしていない子供の声。理解できない惨状と空気に怯え、震えている声。それでも決して取り乱してはいない、そんな声。
明確な意志をもって放たれた言葉には、わずかに、だが確かに、支配者としての威がこめられていた。
ウルリッヒの目がすっと細くなる。その視線の先にはラーラベルク公子アストリットが立っていた。
これまで女官に抱きかかえられていたアストリットは、みずからそれを振りほどく形でウルリッヒの前に進み出てきたのである。
「お願いします、やめてください!」
アストリットは再度呼びかける。
ドルレアク家の嫡子とラーラベルク家の嫡子。立場としては同等であるが、アストリットはまだ六歳の子供であり、この場においては何の力ももたない。
鼻で笑って無視するかと思われたウルリッヒであったが、その顔は奇妙なくらいはっきりとした憎悪に満ち満ちている。
アストリットにとっては、かつて誰にも向けられたことがない表情であり、感情である。父と子ほど年齢の離れた相手から憎悪を叩きつけられ、六歳の少年の背に氷塊がすべりおちる。
アストリットは知る由もなかったが、このとき、ウルリッヒはアストリットの姿に弟の姿を重ねて見ていた。
ドルレアク公の末子とアストリットでは顔も違えば年も違う。強いて共通点をあげるなら、形は違えど、いずれもウルリッヒの前途を阻む子供である、ということくらいであろう。
それでも――
アストリットを睨むウルリッヒの目から憎悪と嗜虐の炎が消え去ることはなかった。




