第七章 蹂躙(一)
鉱山都市ガンプを治めるラーラベルク公爵家は、皇家の嫡流にあたる人物が臣籍にくだってつくりあげた家である。
その特殊な成り立ちから、代々の公爵家当主は地位や権益とはできるかぎり距離を置いてきた。これは軍備に関しても同様であり、帝位に野心あり、との誤解を避けるため、軍の規模は領地と領民を守る最小限の数におさえられている。
単純な兵士の数だけではない。ラーラベルク家は攻城兵器の類を保有しておらず、また都市そのものの防備に関しても過度の武装をほどこすことを避けてきた。
へたに城壁を増築したり、投石器や強弩といった強力な装備を据えつけてしまえば、謀反を考えて篭城の準備をしているのではないか、と疑いの目を向けられてしまうからである。
一方で、ラーラベルク公爵家は皇家の藩屏として、ある程度の軍事力を保有しておかねばならなかった。
帝国が不当な侵略を受けたとき、あるいは皇家に仇なす者が国内で兵をあげたとき、これを討つのはラーラベルク一族の責務であるからだ。
そして、いざ戦いとなれば、戦況によってはガンプに攻め込まれる事態も起こりえる。その際、ろくな防備もなしでは帝国も、皇家も、自分たち自身すら守ることができなくなってしまうだろう。
軍の規模は極力小さく。
それでいて、不法な侵略への備えは万全に。
この二つの条件を並立させるため、ラーラベルク家の初代当主はガンプの街に幾つもの仕掛けを施した。
討伐軍の侵攻を防ぎとめた土の第二城壁、これも初代が考案した防衛戦法のひとつである。もちろん、実際に地面を掘り、短期間で土塁を築いたのは鉱夫たちの手柄であり、彼らを指揮したのは今代当主であるヘルムートであるが、城壁間の地面の土を定期的に掘り返して掘削しやすい状態に保つこと、土塁の強度を高めるために粘土質の土を配しておくこと。そういった細かな工夫は、初代以来、公爵家に連綿と受け継がれてきたものであった
歴代の当主たちは、別の工事にかこつけて、これらの備えを定期的に強化していた。
これと似た仕掛けが、ガンプ市街にはまだ四つ残っている。
討伐軍がこのまま力攻めを続けるのなら、彼らは第一城壁、第二城壁に続いて、さらに四つの防衛線を突破しなければならなくなるだろう。その意味でラーラベルク軍にはまだ後があった。
すでに市街区にある第三の仕掛け――入り組んだ街路の要所をふさいで街区全体を一つの迷路に仕立てあげ、ここに敵軍を誘い込んで翻弄する――の準備はほぼ完了している。
問題があるとすれば、それは――
「それまで肝心の私たちが持つかってことよ、ねッ!」
最後の一声を気合の声として、レオンハルトは長剣を斜めに振り下ろした。
その斬撃は、今まさに第二城壁の上に降り立とうとしていたドルレアク兵の頸部をそら恐ろしいほどの正確さで断ち切り、敵兵は血煙をまき散らしながら城壁の下に落ちていく。
少女のものとは思えない手練の斬撃に、周囲の敵兵から驚愕のざわめきが立ちのぼった。
討伐軍の攻勢は途切れることなく続いている。レオンハルトはすぐに次の敵に向かって挑みかかった。
公女の長剣が空中で翻る都度、刀身には新たな血が塗り重ねられ、飛び散る血しぶきは土の城壁に赤い彩りを添えていく。
レオンハルトは一撃で首を断ち切り、あるいは手足を切り落とすような派手な戦い方はしない。首を切るにしても、何も硬い骨ごと断ち斬らずとも、喉笛を切り裂くだけで敵兵を討つことはできるのだ。自身の体力はもちろん、剣の耐久度も考慮しなければ、終わりの見えない防衛戦を戦い抜くことはできない。
そして、レオンハルトはこの不利な戦況にあって、それを為せるだけの技量を備えていた。
女性騎士として、シュタール北部の『闘神』ヒエロニムスと並び称される剣の冴え。
今回のガンプ討伐において、討伐軍将兵はその冴えを誰よりも近くで見る機会に恵まれた。のみならず、己の身体で味わえる希少な経験をすることができた。その希少さを喜んだ者がどれだけいるかは定かではなかったが。
降り注ぐ陽光を浴びた公女の長剣が煌くような光を発し、敵兵を次々に斬り伏せていく。レオンハルトの身ごなしは飛燕のそれに似て、素早く、鋭く、それでいてどこか優美の感を漂わせており、敵兵はその軽妙な動きに翻弄されるばかり。
今もまた、横合いから斬りかかってきた敵兵の攻撃を難なくかわしたレオンハルトは、即座に相手の首筋に反撃の一閃を叩きこむ。切り裂かれた喉から、壊れた笛のような音を発しながら、その敵兵はどうと城壁の上に倒れ伏した。
公女みずからの勇戦を目の当たりにした味方は奮い立ち、ラーラベルク軍は討伐軍を城壁上から一掃するかに見えた。
しかし、レオンハルトの勇戦も戦況そのものを覆すにはいたらない。いや、そもそも指揮官であるレオンハルトが複数の敵兵を相手どっている時点で、この場での勝敗は定まっていたと見るべきかもしれない。
第二城壁前にあった堀は先刻姿を消した。討伐軍によってすべて埋め立てられてしまったのだ。これによって討伐軍を阻む障害はなくなり、敵兵は喊声をあげて城壁に殺到しつつある。
彼らは次々に梯子をたてかけて城壁をよじのぼってきており、たてかけられた梯子の数は両手両足の指をつかっても数えられそうにない。レオンハルトやラーラベルク兵がどれだけ敵兵を斬り伏せようと、討伐軍の勢いを完全に押しとどめることは不可能であった。
それを見たレオンハルトは内心で嘆息する。
――攻撃がはじまって九日。できればあと一日はここで粘りたかったけど、そうそうこちらの思い通りには運ばないか。
新たに姿を見せた敵の一隊を城壁の下に突き落としてから、レオンハルトは大声で退却を指示した。
「頃合だ、ここを捨てて市街まで退くぞ! まずは義勇兵、次に正規兵の順で退却する! 繰り返す、城壁に残っている義勇兵は早急に市街まで退却せよ!」
レオンハルトは兵に命令をくだすとき、しばしば男言葉になってしまう。ことさら意識してやっているわけではないのだが、なんとなくこの方がやりやすいのである。
部下たちも慣れたもので、即座に「応!」という返事が周囲から湧き起こった。
それらを聞いたレオンハルトは、兵たちの士気が尽きていないことを感じ取って、内心で安堵の息を吐いていた。ある程度は退却を想定していたとはいえ、死力を尽くして守ろうとした城壁を二つまで突破されてしまった事実は動かない。
それによって将兵の戦意が萎えてしまうことを危惧していたのだが、どうやらラーラベルク兵は公女が思っていたよりも、ずいぶんと図太い精神を持っているようであった。
レオンハルトは一つの拠り所を得た思いで、防戦と退却、二つの作業を迅速に推し進めていく。
市街の方では父であるヘルムートが、調子に乗って攻め込んできた敵軍に痛烈な反撃をくわえるべく待機している。
味方の退却を援護すべく、レオンハルトは直属の部下を率いて城壁上で戦い続ける。公女みずから殿をつとめているわけで、これは指揮官として軽率のそしりを免れない行動であったろう。
常であればレオンハルトもここまではしない。ラーラベルクの公女は、指揮官としての責務を、己の戦意の下に位置づけるほど浅薄な為人ではない。
だが、この戦いにかぎっては、レオンハルトには兵より先に退くわけにはいかない理由があった。
今、城壁上にいる兵士の半分以上が義勇兵――城内の民衆だからである。
彼らは自分たちの都市を守るために戦列に加わってくれた。
そして、その手配をしたのがレオンハルトである。守るべき民を戦いに参加させることにラーラベルクの公女は忸怩たる思いを抱いていたが、討伐軍の猛攻を退けるためには他に方法がなかった。
これが野戦であれば、集団戦闘の訓練を受けていない義勇兵は戦力にならないが、防衛戦であれば、城壁の上から石を落とすだけでも十分な働きとなる。
第二城壁の戦いは、主に彼ら義勇兵たちによって進められてきた。そして、彼らが稼ぎ出した貴重な時間で、初日から戦い尽くめであった正規兵は息を吹き返すことができた。
今後の戦いは再び正規兵が主力となるだろう。レオンハルトは今日まで戦いぬいてくれた義勇兵を、一人でも多く市街区まで連れ戻すつもりであった。
◆◆◆
討伐軍とラーラベルク軍が苛烈な攻防を繰り広げている頃、ドルレアク公の嫡子ウルリッヒはようやくラウラ鉱山に足を踏み入れようとしていた。
先の軍議からすでに二日が経過している。
今日まで行動を起こさなかった理由を、ウルリッヒは「ラウラ鉱山の裏手にまわる準備のためだ」と口にしていたが、実際には苦戦するテニエス伯らの戦いを高みで見物していたに過ぎない。
ウルリッヒの側近リュディガーは、そんな主を見て困惑を禁じえなかった。
リュディガーはウルリッヒの傅役として幼少の頃から仕えてきた側近中の側近である。偶然ではあるが、年齢はドルレアク公と同じ五十二歳。かつては髪も髯も黒々としていた壮年の騎士は、いまや初老と呼ばれる年齢になり、髪にも髯にも白いものが目立つようになっている。
ドルレアク公が嫡子の傅役に任じたほどであるから、能力と忠誠心は折り紙つきだ。年齢を重ねたとはいえ、身体はまだ十分に動くし、思慮の深さも若い頃とはくらべものにならぬ、とリュディガーは自負していた。
そのリュディガーにとって、軍議で大言を吐きながら、一向に動こうとしないウルリッヒの態度は理解しかねるものであった。
ラウラ鉱山に登るのならば、相応の準備をととのえておく必要があるはずだが、ウルリッヒはまったくといっていいほどそれをしていない。
「若、よろしいのですか?」
リュディガーがそう訊ねるたびに、ウルリッヒはまかせておけと繰り返すばかりで、初老の騎士は首をかしげっぱなしであった。
いささか奇妙なほど自信に満ちあふれていたウルリッヒの態度。
その源が何であったのかを、この日、リュディガーはようやく知るにいたる。
今、ウルリッヒの部隊は人気のない坑道を進んでいた。
大きく曲がりくねった坑道は細く、狭く、おまけに蟻の巣のように幾重にも枝分かれしており、中には階段、つまり上下で分岐しているところもあった。迷ったらタダでは済みそうもないが、ウルリッヒは自信に満ちた足取りで進み続ける。
リュディガーは押し殺した声で問いかけた。
「ここはいったい、いかなる通路なのですか……?」
「ラーラベルクの初代が遺した最後の仕掛けだ」
「ラーラベルクの? それに最後とは?」
側近に問われたウルリッヒは、暇つぶしとばかりに説明した。
必要以上の軍備をもてないラーラベルク家が、今回のような事態に備えて用意しておいた複数の防衛策のことを。
「件の土の城壁もその一つ、というわけだ。あれはヘルムートめの苦肉の策ではなく、ラーラベルク家が秘めてきた戦術よ。テニエス伯めは、あれを越えればガンプを落とせると思っているようだが、ふん、すぐに自分の浅はかさを思い知ることになろう」
それを聞いたリュディガーは唖然とする。
「そ、それをご存知であったのなら、何故に軍議でおっしゃらなかったのですか?」
「知れたこと、俺が功績を独占するためだ」
一片の躊躇もなく、ウルリッヒは言い放った。
そして、二十五という年齢には不釣合いな、立派な顎髯をしごいて皮肉っぽく笑った。
「テニエス伯めと紅金どもがそろって苦戦した後だからこそ、ガンプを落とした俺の功績はより映える。父上や家臣どもが俺を見る目もかわってくるというものだ。おおかた、テニエス伯めは俺が囚人どもと一緒に山中でくたばるのを祈っているのだろうな。ふん、公宮に掲げられたラーラベルクの軍旗、あれを引きずり下ろしたときの彼奴の顔を見れないのが残念だ」
公宮のラーラベルクの旗を引きずりおろし、ドルレアクの軍旗を掲げれば、勝敗の帰結は誰の目にも明らかとなる。
ラーラベルク軍の士気は地に落ち、反対に討伐軍の意気は天をつかんばかりになるだろう。
その功績はすべて公宮を落としたウルリッヒのものとなるのである。
「……若、先の言葉をうかがうに、つまりここは公爵家に密かに伝えられている秘密の抜け道、ということなのでしょうか?」
側近の推測を聞いたウルリッヒは大きくうなずく。
「ラーラベルクの初代が用心深い性格であったことは、第二城壁の件でもわかっただろう。ガンプは三方を山に囲まれた天険の地だが、見方をかえれば、唯一ひらけている北をふさいでしまえば、たやすく糧道を断つことができるということだ。敵が腰をすえて包囲戦――兵糧攻めに出てきた場合、ガンプは亀のごとく縮こまるしかない。用心深い初代は、そのような戦いも想定していた。お前のいうとおり、ここは包囲されたガンプから逃げ出すためにつくられた通路だよ。ラーラベルクの初代といえば聖人君子のごとく語られるものだが、実際はずいぶんと腹黒い奴だったようだな」
ウルリッヒの言葉には説得力があった。実際にこうして人気のない坑道を進んでいるのだから、リュディガーとしてもうなずくしかない。
だがこのとき、リュディガーの顔に浮かんだのは納得ではなく、ある種の戦慄であった。
「……若、いったいどこで抜け道の情報を得られたのですか? これはラーラベルク公にとって秘中の秘であるはず」
低い声音で問いかける。
リュディガーの知るウルリッヒは、このように深い思慮をめぐらせて事にあたる人物ではなかった。
ウルリッヒがリュディガーの予測を上回る成長を見せたというのであれば、傅役としては喜ばしいことであるが、ウルリッヒが握っている情報は、思慮でどうこうできるレベルをはるかに超えている。たとえ百人の諜者を放ったとしても、ここまでの情報を得ることは不可能であろう。
先に語った初代ラーラベルク公の戦術といい、ウルリッヒが握っている情報は精密すぎるのだ。いっそ異様といって差し支えないほどに。
ウルリッヒが語ったラーラベルク家の秘事は、ウルリッヒひとりで探り当てられるものではない。となれば、誰かに教えられたのであろう。
その誰かは、公爵家の秘密を探り当てることができるほどの情報網を持っていることになる。
それだけではない。
単純に褒美がほしいのであれば、ウルリッヒではなく父親のメルヒオールに売り込むはずだ。ところが、この人間はあえて不遇な嫡子に目をつけて情報を与えた。
その点にリュディガーは看過しがたいものを感じるのである。
親切心や同情心ではありえない。残酷なまでにあからさまな策謀の気配がする。
近頃、ウルリッヒが焦燥に駆られていることは察していた。父の愛情が末子に向けられていることに危機感を抱いてのことだろう。
その焦りが、よからぬ者たちとの繋がりを生んでしまったのではないか、というのがリュディガーの危惧の内容だった。
リュディガーにしてみれば、跡目争いについて過敏になる必要はない、と思うのである。
思うだけでなく、たびたび心配にはおよばないと明言してきた。
というのも、リュディガーはウルリッヒの廃嫡がまずありえないことがわかっていたからだ。
人の上に立つ身に求められるのは、万人の目にわかる明確な指針をうちたてること。そして、その指針にそって堂々とした進退を見せること。
リュディガーはそのように考えており、ウルリッヒに対してもそのような教育を施してきた。
ウルリッヒは粗野で狷介な性格だと思われているが、もう少し大きな目で見れば、父に対して無礼を働いたことはなく、横暴な振る舞いで民を傷つけたこともない。
つまり、ウルリッヒには廃嫡に足るほどの過失がない。
家臣たちの中にはウルリッヒが後継者であることを不安視する声もあるが、だからといって、そういった者たちがこれまで同格だったテニエス伯に頭を下げることを肯うかといえば、決してそんなことはない。テニエス伯が新公爵の伯父として権力を振るうことを快く思わない者たちは案外多いのである。
今、後継者をいじれば、ドルレアク公爵家は確実に混乱する。そして、それは帝都の宰相にとって、付け入るべき絶好の好機と映るだろう。
ドルレアク公メルヒオールはそのことを承知している。だから、ウルリッヒがこれまでどおり父公爵に孝養を尽くしていれば、いずれ問題なく爵位を受け継ぐことができる。
ここで妙な輩と手を結べば、かえってそれが原因となって廃嫡に追い込まれるかもしれぬ。胡乱な者たちとの接触は極力避けるべきである、とリュディガーは考えていた。
そんな側近の不安と危惧を、ウルリッヒは鼻で笑う。
「何をいまさら。リュディガーよ、策謀をたずさえて笑顔で近づいてくる者たちなど掃いて捨てるほどいるではないか。今さらそれが一人二人増えたところで、どうして気にする必要があるのか」
「若、これまでの輩とは話が違いましょう! 仮にも帝国最高位の貴族の秘事をかぎつけてくる相手ですぞッ」
「案ずるなといっている。今はまだ詳しいことは言えぬが、俺にとっても知らない相手ではないのだ。それこそ、子供の頃から知っている」
「なんと!?」
これは予想外だったので、リュディガーは目を剥いた。
だが、ウルリッヒはもう情報提供者について触れようとはしなかった。
口角をつりあげ、今後の計画を語りはじめる。
「テニエス伯めを踏み台としてガンプ陥落の功績を独占し、レオンハルトを我が妻とする。あれに子をうませれば、俺の子はドルレアクとラーラベルク、二つの公爵の血を宿す尊貴なる存在となる。俺はその父として両公爵家を併せ、大いなる権勢を手に入れるのだ。十にもならぬ豎子に邪魔なぞさせん!」
そういって、苛立たしげに地面を蹴りつけるウルリッヒ。
その態度から、ウルリッヒが抱く弟への憎悪を感じとったリュディガーは表情を暗くした。
公爵位を争う相手とはいえ、相手はまだ十歳にもならない子供、それも血の繋がった弟ではないか、との思いがある。
一方で、十年後、二十年後を考えれば、その子供がウルリッヒの大敵となる可能性は否定できない。
リュディガーが何も言えずにいると、慌しい足音と共に数名の兵士が姿を現した。偵察のために先行させていた者たちである。
彼らの口から出口の発見を聞いたウルリッヒは哄笑と共に足を速める。
リュディガーは黙然とその後に続いた。
◆◆◆
ラーラベルク公宮の一室。
アストリット公子付きの女官であるカティアは、ようやく寝台で寝入ってくれた公子を見て、ほっと安堵の息を吐いた。
父や姉、家臣、領民の誰からも愛される活発な公子の寝顔には疲労の色が濃い。こうして眠っている間も、その顔には苦しげな表情が浮かんでいる。ときおり、父や姉の名前をつぶやいているのは、現状に対する不安のあらわれであろう。
わずか六歳とはいえ、現在の状況がまるでわからないわけではない。
いっそ、もっと幼ければ余計な心配をせずに済むのに、とカティアは思う。
そのカティアにしても、年齢はまだ十二歳。周囲の大人たちから見れば、アストリットとたいしてかわらない子供である。
戦況に関与できるような力も能もなく、ただ味方の無事を祈ることしかできない自分がもどかしくなることもある。
だが、カティアはアストリットの前にいるときは、そういった感情を懸命に押し隠し、公子を励まし続けた。レオンハルト公女じきじきに公子付きに任命された自分が頼りない顔をすれば、幼い公子がますます不安がってしまう。
大丈夫ですと、きっと姉君たちは勝利しますと、そういって少しでも公子の不安を取り除くことが、今カティアが主家のためにできる唯一の奉公であった。
寝入ったアストリットを起こさないよう、カティアは足音をひそめて扉に向かうと、ここでも物音をたてないように注意して部屋の外に出る。
室外に出たカティアの口から自然とため息がこぼれでた。
と、そんなカティアに横合いから声がかけられる。
「カティア」
「え……あ、ヒルデ先生ッ!」
近づいてくる年配の女官を見て、カティアは慌てて姿勢をただすと、ぺこりと頭を下げる。頭の左側で束ねられたカティアの赤毛がぴょこりとはねた。
ヒルデという名の女官は、カティアと同じく公子付きの女官であるが、年は大きく離れている。すでに四十路に達しているだろう。公宮の女官たちの中でも古株であり、ラーラベルク公からも頼りにされている。実質的な女官長といってよかった。
一口に女官といっても役割は様々あるが、カティアが年の近い傍仕えだとすれば、ヒルデは公子の教育係にあたり、アストリットのみならずカティアもヒルデの生徒として種々な知識や技能を教え込まれている。カティアがヒルデを先生と呼ぶのはこのためであった。
ヒルデの教え方はスパルタであり、カティアはもちろん幼いアストリット公子といえども容赦はしない。
アストリットは人懐っこい子供で、女官たちの間でもきわめて評判がよく、カティアも対面早々に公子の笑顔にやられたクチであるが、ヒルデは公子を前にしても冷厳な表情を崩さない。その点、女官たちの中でも変わり者といってよかったが、それがヒルデなりの愛情と忠誠のあらわし方であることをカティアはなんとなく察していた。
師とは尊敬と畏れをもって仕えるものでなくてはならない。親しみは時に侮りを招く。
教師は怖がられるくらいがちょうどよく、へたに自分がなれあってしまえば、公子の成長によからぬ影響を与えてしまう、とヒルデは考えているのであろう。
――まあ、先生がアーシャ(アストリットの愛称)様のことを大好きなのはバレバレなんだけれど。
こっそり胸中でつぶやくカティア。
その内心の声を聞きとがめたわけでもあるまいが、ヒルデがじろりとカティアを見据える。
「公子様はお休みになられましたか、カティア?」
「は、はい、先ほどようやく」
カティアは慌ててうなずいた。
時刻はまだ昼前だ。ヘルムートとレオンハルトが共に前線に出ている今、本来ならアストリットは公爵家の一族として公宮を守らなければならない。年齢など関係なく、それが公爵家に生まれてきた者の務めなのである。
実際、アストリットは今日までそうしてきたのだが、すでに戦いが始まって二十日以上が経過しており、しかもヘルムートとレオンハルトは敵軍の猛攻に対応すべく、すでに四日も公宮へ戻ってきていない。幼い公子にのしかかる心身の疲労は察するにあまりあった。
このままではアストリットが倒れてしまいかねないと判断したカティアたちは、しぶる公子をほとんど無理やり寝台に連れて行き――そうして今にいたる。
ヒルデはゆっくりと口を開いた。
「それなら、あなたも休んでおきなさい、カティア。戦いはまだ続きます。公子様をお守りする者が倒れてしまっては話になりません」
「いえ、先生、わたしはまだ大丈夫です。それに、アーシャ様がお目覚めになられたとき、お傍に誰もいないでは不安がられましょう」
「それは別の者を控えさせておけば済むことですが……」
ヒルデはそういったものの、アストリットがもっとも懐いている女官がカティアであるのは間違いない。
それに、カティアの目には強い光が宿っており、まだまだ意思が萎えていないことがうかがえる。ヒルデとしても、公子の傍にはこういう女官が付いていることが望ましかった。
「わかりました。公子様のことは頼みましたよ。私は少しの間、公宮を離れます」
「公宮を? どちらへゆかれるのですか、先生?」
「手の空いている者たちを連れて、裏手の山に。食料にはまだ幾分余裕がありますが、多くて困るということはありませんからね」
ガンプは三方を山地に囲まれた天然の要害であり、その最奥部につくられたラーラベルク公宮はほとんど直にラウラ鉱山と接している。
公宮の裏手には花壇や池、観賞用の四季の植物などが植えられているのだが、そこからさらに奥に進むと柵が設けられており、その先は昼なお暗い鬱蒼とした山林が広がっていた。
実際には、ここにも定期的に人の手が入っているため、本物の山林よりもはるかに安全ではあるのだが、それでも危険がないわけではない。山林の奥に進むと切り立った崖にぶつかり、そのあたりでは落石の恐れもある。
だから、よほどのことがないかぎり、公宮の住人たちは裏庭の奥に足を踏み入れようとはしなかった。
それを知っているカティアは眉を曇らせる。
「危険ではないでしょうか? 戦いに興奮した野獣たちが迷い込んでいるかもしれません。それに、敵軍が入り込んでくることも……」
「もちろん十分に気をつけます。念のために庭師にも付いてきてもらいます。とはいえ、あの断崖を駆け下りてくる野獣や敵兵がいるとも思えません。山から狼煙があがらない限りは大丈夫でしょう」
ラウラ山中にはラーラベルク軍が築いた見張り台が幾つも設置されている。敵軍が山に入り込めば、見張り台から狼煙があがる手はずになっており、すべての見張り台の監視をくぐりぬけるのはまず不可能といってよい。
それに、である。
仮に、奇跡的な幸運が積み重なって見張り台を突破したとしても、公宮の裏手に兵を送り込むためには、山肌が露出した巨大な断崖を降りねばならない。
この断崖はがけ崩れによって自然にできたものではなく、ガンプを築く際、公宮が背後から攻められることがないように、と人の手で削られて出来たものであった。
断崖の高さは、第一城壁の五倍以上。角度はほとんど直角に等しく、鹿のような野生動物であっても、ここを駆け下ることは不可能に近い。まして人の身ではまず間違いなく死に至る。
この高さを上り下りできる太く長い縄でも用意すれば降りることも可能であろうが、遮るものとてない断崖であるから、即座に公宮の見張りに発見されてしまう。そうなれば、身を隠す場所もないままに弓矢の的にされてしまうだけであろう。
と、ヒルデがそういったことを説明してカティアを安心させていると、不意にアストリットの部屋の扉が開いた。
目をこすりながら顔をのぞかせたのは、当然というべきか、アストリット公子その人である。
「んゅ……かてぃあ……?」
寝ぼけているのか、まだアストリットの声も視線も定まっていない。その顔には不安――いや、おびえの色が見て取れる。
公宮の扉は廊下での会話が室内に届くほど薄くない。顔色を見るに、怖い夢でも見て跳ね起きたのかもしれない。
「カティアはここに控えております、アーシャ様」
少女が素早く傍にかけよって、そっとアストリットの手を握る。
すると、公子の顔がはっきりそれとわかるくらいにほころんだ。
「よかったぁ……あ、ヒルデもいる!」
カティアだけではなく、ヒルデの姿にも気づいたアストリットは、ぱっと表情を明るくした。アストリットにとって、ヒルデは厳しくも思いやりのある教師である。お説教をされることも度々あるが、感情のしこりはまったくない。
うれしげに駆け寄ってくる公子を見て、ヒルデの頬がぴくぴくと小刻みに震えた。それはまるで、ともすれば笑み崩れそうになる顔を、意思の力で懸命に引き締めているかのようであった。




