第六章 ガンプの叛乱(六)
ドレイクを出て、一路フェルゼンへ。
山越えのために買い求めた荷物を運ぶ必要があるため、インたちは五台の馬車に荷物を押し込めるだけ押し込んで街道を進んでいた。
馬車にはインとキル、アト、そしてフェルゼンからやってきて、すぐさまトンボ帰りとなってしまったゴズの姿がある。
インは荷台の上で膝をたてながら、傍らのゴズに声をかけた。
「わるかったな、ゴズ。こちらから呼び出したというのに無駄足を踏ませてしまった」
「なんの、この程度でバテるほどやわではございませぬよ。それに無駄足というわけではありますまい。ヒルスを登る準備を整えるためには、それがしがいた方が都合がよかったでしょうからな」
顔に数条の戦傷を刻んだ禿頭の大男はそういってわははと笑う。
ヒルス越えの案を聞いても、豪儀ですな、の一言で済ませてしまったゴズの顔に緊張や不安の色はない。
インとゴズは湧水を汲むために幾度もヒルス山脈に足を踏み入れており、ヒルス越えという行動に過度の恐れを抱いてはいなかった。むろん、これからの道程を甘くみているわけではなく、あくまで余裕をもって事にあたるだけの気構えができている、ということである。
フェルゼンへの途次、インはゴズから彼の地に関する報告を受けていた。
ゴズたちがフェルゼンに移ってからまだ半月も経っていない。とはいえ、新しい土地での新しい生活だ、問題はすでに幾つも発生している。
最も切実な食料問題に関しては、インがドレイクを得たことでほぼ解決したようなものだったが、今後、ドレイクが失われる可能性は皆無ではない。やせ細った土地から、いかにして七十人近い住民の糧を得るか。その問題は今後も取り組み続ける必要がある。
ウズ教会に収める税に関しても、いちいちドレイクの府庫から引っ張り出すわけにもいかないので、こちらも何か考えなければならない。
これまでの緋賊は主に奴隷商への襲撃を収入源としていたが、これからはもうこの手も使えない。
インはしかつめらしい顔で腕を組んだ。
「勝てば勝つほど懐がさびしくなるとは面妖な」
「そこはドレイクの富を引っ張ってきてもいいような気がいたしますが……ところで、奴隷交易についてはいかがなさるおつもりか? イン様と緋賊のつながりを知れば、これまで被害を受けてきた商人たちは黙っておらぬでしょう」
「かまわんよ。どうせ奴らはアルシャートを落とした後で一掃する」
インがあっさりと先の計画を打ち明けると、ゴズは驚いて目を丸くした。
「そこまで踏み込まれるおつもりでしたか。奴隷で利を得ている者たちの反発はすさまじいものになりましょうが……」
「おおいに反発してほしいものだ。そういう連中を片端から潰していけば、教会におさめる税で頭を悩ませる必要もなくなる」
そう言って、インは唇を曲げた。
インにとって奴隷解放は手段である。富を得る手段、兵を得る手段、声望を得る手段、そして、武力行使を正当化する手段。
隊商への襲撃も、奴隷解放を掲げれば義賊の行いになる。いずれ他国を攻める際も同様で、何もせずに攻めこめば侵略戦争だが、奴隷解放の大義を掲げれば解放戦争になる。
リンドブルムという国を特徴づける意味でも、これは早いうちから取り組んでおくべきことであった。
むろん、ゴズが口にしたとおり、反発はすさまじいものとなるだろうが、インはまったく気にしていない。どのみち、リンドブルムの台頭に対する反発は避けられないのだ。であれば、確固とした支持基盤を築く意味でも奴隷解放という策は有用であろう。
「ま、今の段階でとりかかっても大した効果はないだろうからな。パルジャフたちにはアルシャートを落とした後で伝えるつもりだ」
リンドブルムがドレイクを得たのは偶然や幸運によるものではない。そのことを万人の目に明らかにした上で奴隷解放を断行する。
その予定はガンプ救援のために多少ずれてしまったが、計画そのものに変更をくわえる必要はない、とインは考えていた。
フェルゼンに着くまでの間、インとゴズはそういったことを話し合って時を費やした。
ちなみにアトとキルはほとんど寝入ったままである。アトの方はフェルゼンから駆けつけた疲労やら、インに痛めつけられた苦痛やらが抜けきっておらず、キルはキルでヒルス越えに備えて体力をたくわえているらしい。
前者に関しては、単にインと話すのが照れくさいので狸寝入りを決め込んでいるという可能性もあったが。
ともあれ、フェルゼンへの道のりは平穏のうちに終わった。
むしろ大変だったのは着いた後であり、目を丸くするセッシュウに事情を説明し、ヒルスに登る人員を選抜し、ヒルス越えのための最終的な準備を整え――と、為さねばならないことが目白押しであり、クロエやリムカと話す暇がまったくない。
インたちがフェルゼンに到着したとき、日はまだ中天に輝いていた。しかし、すべての準備を終えたインが空を見上げたときには、太陽は完全に西の彼方に没していた。
明日以降は間違いなく山中で夜を明かすことになるが、あえて初日から夜のヒルスに踏み込むこともない。インは出発を明朝と定めて兵たちを解散させ、降り注ぐ星月の光の下、静かに憩うているフェルゼンの村をぼんやりと眺めていた。
クロエとノエルの姉妹がインのもとを訪れたのは、それから間もなくのことである。
◆◆
「――と、俺とウールーズの間でかわした会話はこんなものか」
インがドレイクでのことを語り終えると、黙って聞き入っていた二人は同時にほぅっと息を吐き出した。
インのために用意されていた家、以前にアトとクロエが大掛かりな掃除を敢行した建物である。
そのソファに腰かけたクロエは、黒褐色の髪を揺らし、安堵したように右手を胸におしあてた。
「そう。あの子がかわりないようで安心しました」
インはウールーズからあずかった手紙を、セッシュウを通してクロエに渡している。
したがって、すでにクロエはドレイクで起きた大半のことを知っているはずであるが、やはり直接言葉を交わした人間から話を聞くと安心感も違ってくるのだろう。
おもてに出る表情の変化こそ小さかったが、クロエが心から喜んでいるのはインにも伝わってきた。
ノエルも姉と同じ気持ちであるようで、インに話しかける声はうれしげに弾んでいる。
「ご主人さま、ウールーズ兄さまはすごいんですよ。とっても賢くて、色々なご本を読んでいて、あとあと、どんな嘘でもすぐに見破ってしまうんです! わたしも何度も怒られましたッ」
うれしそうに兄自慢をはじめるノエルを見て、インは少し意地の悪い表情を向ける。
「ほほう。つまりノエルは小さな頃は嘘つきだったわけか?」
「ほぁ!? い、いえ、違いますよ! あ、でもあんまり違わないかも……? あの、わたし、昔はよく体調を崩していまして、でもまわりの人に迷惑をかけたくなかったから我慢してたんです。だけど、姉さまとウールーズ兄さまには必ずといっていいくらい見抜かれてしまって……」
俯いてぼそぼそと言い訳するノエル。
普段は左右でまとめている栗色の髪は、夜ということもあってか、まっすぐにおろしている。
クロエが妹の頬をそっとつつくと、ノエルはくすぐったそうに身じろぎしてから、照れたように微笑んだ。
仲睦まじい二人の様子を見たインは、それとわからないくらい小さく微笑んでから口を開く。
「たしかにお前の兄は切れ者だったな。オリオールの姉妹なぞ知らんと言ったんだが、しっかり見抜いていたようだし、嘘を見破れるというのもうなずける。ま、それはそれで大変そうだがな」
何気ないインの言葉であったが、クロエは気になるものを感じたようだった。じっとインの目を見て問いかけてくる。
「大変、というのは?」
「嘘を見抜ける目を持つ奴が、自分に嘘をついて生きている。大変だろうな、と思ったまでだ。ま、俺には関係ないことだがな」
インはそう言うと、押し黙って此方を見つめるクロエの目を見返した。
「ともあれ、だいたいの事情は言ったとおりだ。ウールーズ当人はディオン公領に戻ったが、お前たちが生きていることはほぼ確信しているだろうから、直接に公都を訪ねても疑われることはまずない。セッシュウとカイには言っておいたから、望むならドレイクから船で公都に直行すればいい」
姉妹の顔を順に見やったインは、ここで忠告を添える。
「おそらく、アルセイスはこれから荒れる。向かうなら十分に用心しろよ。俺が暇なら送ってやれたんだが、あいにくそうもいかないからな」
その言葉を聞いた瞬間、楽しげだったノエルの顔が冷水を浴びせられたように沈んだものになった。
クロエの方も、こころなしか表情が険しくなっている。
インはわざわざ二人に詳しい作戦を説明したりはしなかったが、つい先ほどまでフェルゼンの村は上を下への大騒ぎだった。それを手伝っていたであろう二人が状況を知らないはずもない。
短いとはいえ、ヒルス山脈のふもとの村で暮らしているのだ。見上げるような高峰を踏破することの厳しさは嫌でも理解できるだろう。
もしインから意見を求められたとしたら、姉妹は声を揃えて反対を唱えたに違いない。
しかし、クロエも、そしてノエルも己の立場をわきまえている。今の二人はインの行動に口を差し挟める立場ではない。ましてや決定に異議を唱えるなどもってのほかだ。
そういった内心が厳しい表情となって姉妹の顔に浮かび上がっていた。
それを察したインは苦笑する。
「そう心配そうな顔をするな。山越えの一つ二つでくたばるほどヤワではないよ」
「……山を越えてそれで終わり、というわけではないのでしょう?」
「まあな。むしろそこからが本番だが――ああ、そうか、これも言っておくべきだな」
何かに気づいたように、インは右の眉をあげた。
「アルセイスはこれから荒れるといったが、それはドレイクもたいしてかわらない。どこに行くにせよ、戦乱に巻き込まれる可能性は低くないから気をつけろよ。俺としては、これからしばらくはフェルゼンで大人しくしていてほしいんだが、ま、これは俺の勝手な希望というやつだから――」
「なら、そうします」
「無理にとは…………なに?」
さらっとクロエに答えを言われて、インは目を瞬かせた。
怪訝そうにかつての伯爵令嬢に問いかける。
「妹のために厄介事を避けたいのではなかったか?」
「どこに行くにせよ、戦乱に巻き込まれる可能性は低くないのでしょう? なら、この地に留まるのも一案です。それに、もともと伯父さま(ディオン公)のもとに行くつもりはありませんでしたから」
「ほう?」
何故だ、と目線だけで問いかける。
クロエはゆっくりと己の考えを口にした。
「伯父さまとウールーズにはお会いしたい。それは本心です。けれど、国王陛下は私たちの存在を許さないでしょう。今、私たちが伯父さまのもとに向かえば、また新しい戦いの火種となってしまう」
「たぶんだが、ウールーズたちはそれも覚悟の上で動いていたと思うぞ」
インの推測を聞いたクロエは小さくかぶりを振った。
「だからといって、私たちがその厚意に甘えてしまえば、伯父さまたちだけでなく、ディオン公爵領に生きるすべての人たちに迷惑をかけてしまいます。私とノエルはお父様に連れられて何度も公爵領に遊びにいきました。あそこは私たちにとって、もう一つの故郷のようなもの」
そう言うと、クロエは傍らに座るノエルの髪をそっと撫でた。
「五年前、私たちは生まれ育った故郷が炎に包まれるところをこの目で見ました。あんな光景を見るのは一度で十分です。二度は、多すぎる……」
かすれた声で言うと、悲しげに顔をうつむかせる。
ノエルは姉にすがるように、あるいは支えるように、そっと小さな身体を寄り添わせた。
……しばしの沈黙は、どこか芝居がかったインの声で破られる。
「そういうことなら、ようこそリンドブルムへ、と言っておこう。俺たちは深刻な人手不足なので、働き者の姉妹は大歓迎だ」
言葉だけでなく、歓迎の身振りまでくわえたのは湿っぽい空気を嫌ってのことだったが、一方で、まぎれもなくインの本心であった。
もとより、インの側に姉妹を手放す意思はない。
ディオン公領への道筋をつけておいたのは、あくまで姉妹の意思を尊重するためであって、二人が留まることを望むなら、それを拒否するつもりは毛頭なかったのである。
めずらしいインの諧謔を目の当たりにした姉妹は、目を丸くした後、同時に吹き出した。
クロエが口許を手でおさえながら言う。
「似合いませんね、あなたにそういうのは」
「ふん、自覚はしている」
「あ、あの、でも、そう言ってくださってうれしいです、ご主人さま!」
フォローのつもりなのか、ノエルが両手をぐっと握り締めて身を乗り出してくる。
そういうことをされると、かえって気恥ずかしさが際立つのだが、相手が素直な好意を示してくれているだけに反応に困ってしまう。
インは乱暴に頭をかきながらうなずいた。
「……それはなによりだ。そういえばアトから聞いたが、ここを掃除してくれているのはノエルなんだってな?」
「はい、埃ひとつ落ちていませんよ! たまにムカデがふってくるから、それには注意が必要ですけど!」
これぞわたしの本分、とばかりにノエルが元気よくうなずいた。どうやらノエルはムカデが大丈夫な女子であるらしい。
ちなみに姉のクロエは柳眉をひそめており、明らかに多足類の存在を苦手としていることがうかがえる。
姉妹に対する新たな、そしてわりとどうでもいい知識を仕入れつつ、インはとりあえず話がそれたことに安堵した。
「まあ、場所が場所だからな。その手の虫が入り込んでくるのは仕方ない――ん?」
言葉の途中、不意にインが口を噤む。何かが外から聞こえてきたのである。
◆◆
それは獣の遠吠えだった。
おそらくは狼のものだろう。一頭が吠え終えれば、すぐに次の一頭が吠え始める。低く、長く、いつまでも続くかと思われる群狼の遠吠えはどこか悲しげであり、それでいて聞いている者の心をざわつかせる響きを帯びている。
遠吠えに気づいたノエルの顔からたちまち元気の成分が失われていき、かわりにおびえの色が浮かび上がった。傍らの姉にしがみつきながら、蚊の鳴くような声でつぶやく。
「うぅ……またぁ……」
寸前までの生気にあふれた声とは対照的な弱々しい声だった。
たしかにこの遠吠えは年端もいかない少女にとっては恐ろしいものだろう。ドレイクのように城壁の中で暮らしているならまだしも、今この村を守るのは木でつくられた柵のみであり、肉食獣が入り込む隙はいくらでもある。
実際には狼はそうそう人間は襲わない上、この遠吠えの主たちはフェルゼンからかなり離れたところにいる。
インにはそれが分かったが、それを口にしたところで少女が安心できるものではない、ということもわかっていた。
「毎日、こんなものか?」
インが問うと、クロエはおとがいに手をあて、少しだけ首を傾けた。先ほどのムカデと異なり、今度は姉の方が平然としている。
「まちまち、ですね。一度も聞こえない夜もあれば、一晩中聞こえてくる夜もあります。この村の周囲に姿を見せたことはありませんが、不安に思っている人は多いと思います」
「ふむ、遠吠え自体は耳に詰め物でもすれば防げるが、根本的な解決にはならないからな。やはりここにも守りの兵はいるか」
遠吠えがもたらす恐怖は心理的なものだ。目に見える形での害はないが、何夜も積み重なれば体調を崩す者も出てくるだろう。
村を囲む柵をしっかりと強化し、村を守る兵士たちの数を増やせば、それが住民たちの拠り所となる。これは他の獣や、野盗に対する備えにもなるから、早めに手をつけるべきであろう。
幸い、資材や資金に関しては不自由しない身となったことだし、とインは考えを定めた。
とはいえ、それは一日や二日で出来ることではない。
ことにインは明朝、多くの兵を率いてヒルス越えに挑むわけで、必然的にフェルゼンを守る兵士はこれまでよりもぐっと少なくなる。
セッシュウがいるから滅多なことにはならないだろうが、人が減ることへの不安感はセッシュウひとりで補えるものではない。
打てる手は打っておくべきだ、とインは考えた。とりあえず、目の前でおびえているノエルを何とかしよう。
「ノエル、いいものをくれてやろう」
インはそう言って椅子から立ち上がると、部屋の隅に置いておいた自分の荷物をごそごそと漁り出した。やがて、そこから小瓶を二つ取り出して戻ってくる。
濃緑色の液体が詰まった瓶は、ノエルの小さな手で包み込める程度の大きさしかない。
遠吠えにおびえていたノエルだったが、インが持ち出したものを見て興味をひかれた。
「ご主人さま、何ですか、それは?」
「対狼用の護身道具、といったところか。ちなみに群れ相手でも十分に効力を発揮する優れ物だ。もし何かあったときはこれを使えば、自分の身も姉の身も守れるだろう」
「そ、そんなものがあるのですか!? あ、でも、わたしなんかがもらってよろしいのでしょうか……? 兵士さんたちに渡してあげた方が……」
「兵士は武器を扱えるが、お前たちにそれはできないだろう? 高価なものではないから、気にせず持っておけ。ただし、使い方を誤ると、使用者にも甚大な被害が出るから、そこは十分注意するように」
とん、と二つの小瓶を机に置く。
恐ろしげな取り扱い説明を受け、ノエルはおそるおそる小瓶を見つめていたが、クロエは何かに気づいたようにやや渋面になっていた。
「あの、もしかしてこれは、あのすごい臭いがする水?」
それを聞いて、ノエルも思い出したらしい。
セーデに駆け込んだ日、会議の席上でインが持ち出した香油の原液のことを。
「あ、ほんとです。あの水も同じ色をしてました!」
「うむ、まさしく同じものだからな。狼にかぎらず、たいていの獣は人間よりも鼻が利く。つまり、人間でもきつい臭いは、獣たちにとっては毒同然。これの蓋をあけるだけで、たいていの獣は逃げ散ると思うぞ」
インがそう言うと、ノエルはおそるおそる濃緑色の小瓶をのぞきこんだ。
と、その目が不意にきらりと輝く。何か思いついたらしい。
「あ! なら、これを村のまわりにおけば、怖い動物は入ってこられなくなりませんか!?」
「ああ、そうだな。かわりに、村全体があの臭いに包まれることになるが」
「あぅ……それはちょっと……いえ、すごく困ります」
「ま、そうだろうな。俺としても、お前たちにあの臭いが染み付いたら困る。だから、これはいざという時に使うようにしておけ。数はあるから遠慮する必要はない」
インがわざわざこれを持ってきたのは、山中で熊やら狼やらに襲われたときに備えてのことであった。夜営のときなどは、周囲にまいておけば獣よけにも使えるだろう。
そのため、インは結構な量の原液を瓶につめてフェルゼンに持ち込んでいる。クロエたちや、他の女子供に行き渡らせても問題はないくらいの量はある。
そういった説明を受けた末、ノエルはようやっと小瓶を受け取った。ありがとうございまず、と頭を下げる少女は明らかにほっとした様子を見せている。
少々おおげさにいえば「最後の切り札がある」という事実が拠り所となり、内心の不安のすべてとは言わないまでも、一部は消し去ることができたようであった。
「ありがとう、ノエルのことを気にかけてくれて」
クロエはそう言って微笑んだ。
普段は言葉少なで、あまり表情をかえることがないクロエであるだけに、はっきりとした笑みを見せると、驚くほど魅力的に映る。以前は、これを見るために蜂蜜パイを持って妓館に通っていたインだけに、感謝の微笑を向けられて悪い気はしなかった。
そういえば、あの頃は眼前の少女を二十歳くらいだと思っていたな、とインは思い出す。自分より年上ということもありえるか、とも思っていただけに、十七歳という実際の年齢を聞いたときは少しばかり驚いたものだ。
そんなことを考えながら、インは相手の言葉にうなずいた。
「なに、ノエルが頑張ってくれていることはゴズたちから聞いていたからな。この程度、やすいものだ」
そう言ってノエルを見ると、栗色の髪の少女は、もらった小瓶を大切そうに両手で握りしめながら、うつらうつらとしていた。
すでに夜も更けている。インと話をするために、かなり無理をして起きていたのだろう。
そして、ノエルが無理をしていたということは、姉の方も無理をしているということである。
それに気づいたインは手早く話を終わらせることにした。
「最後に一つだけ言っておこう。ディオン公のところに行く気がないのはわかったが、手紙のやり取りくらいならかまわないだろう? ドレイクにはディオン公の息がかかった商人がいる。ウールーズが俺のところに来たときも、そいつの紹介だった。だから、必要ならば、あちらの公都に手紙を送るくらいはできるはずだ。セッシュウには言っておくから、手紙を出したいなら利用しろ」
「わかりました」
クロエはすぐにうなずいたが、その後、どこか不思議そうな顔でインの顔をじっと見つめてきた。そして、小さくつぶやく。
「あなたはかわりませんね」
「ん? なんだいきなり?」
唐突の感をぬぐえないクロエの言葉に、インが怪訝そうな表情を浮かべる。
クロエは静かに続けた。
「私たちがドレイクを離れてから、あちらで何が起きたのかは聞きました。今のあなたはドレイクの支配者、なのでしょう? 以前、私を捕まえた評議員よりも、ずっと大きな力を握っている。それなのに、あなたはお客として私のところに来ていた頃とかわらない、と思って」
ああ、そういうことか、とインは納得したようにうなずいた。
「それはそうだろう。今回のことは大きな一歩だが、見方をかえれば、たったの一歩に過ぎないからな」
無一文の身から金貨百枚の家を買おうとした人間が、銀貨を一枚手に入れたようなものだ、とインは言う。無に優ること遥かだが、目的まではまだまだ遠い。この時点で浮かれる理由はどこにもない。
「ま、仮に家を手に入れたところで、自分がかわるとも思えないがな」
そう嘯くインを見て、クロエは白い歯をこぼした。
「確かに、あなたは大陸の王になったってかわりそうにありません」
「今、軽く呆れられたような気がしたが、気のせいか?」
「もちろん」
クロエは澄ました顔でいう。「もちろん」という言葉がどこにかかっているのか、とインが首をかしげていると、クロエは懐から一枚の厚紙を取り出した。
手のひらほどの大きさのそれを差し出すクロエ。
インが受け取ると、アルセイスの少女は穏やかに微笑んだ。
「私にはアトさんやキルという子のように、あなたの目的のために戦う力はありません。だから、せめて幸運を祈らせて」
クロエが差し出してきたのはスズランの押し花であった。
インがそれを見ていると、クロエはさらに言葉を続ける。
「私の故郷では、この花は幸運のお守りなんです。荷物の底にでも入れておいてもらえれば、邪魔になることもないと思います」
「ほう。そういうことなら、ありがたくいただこう」
インはそう言って笑った。
クロエの厚意を喜んだというのもあるが、もう一つ、スズランが幸運のお守りになっていることがおかしかったのである。
というのもこの花、かなり毒性が強いので、インが育った場所では色々な意味で『利用』されていた。
一方では幸運のお守り、一方では毒の花。所かわれば品もかわるというが、いささか極端な対比だな、と思っておかしかったのである。
もちろん、この場でそれを口にしない程度の分別はあった。厚意で渡した花を毒よばわりされれば、誰だって良い気分はしないだろう。たとえそれが冗談だとわかっていても、である。
これを潮にオリオール姉妹はインの前から辞した。
半ば夢の国の住人となったノエルを支えたクロエは、去り際、真摯な眼差しでインを見つめる。
「どうかご無事で。その心身が健やかならんことを、ノエルと共に祈っています」
「ありがたい。が、戦いを否定する女神に捧げる祈りとしては、少しばかり物騒ではないかな。女神の機嫌を損じるかもしれないぞ」
インが混ぜ返すように言ったのは、半ば以上照れ隠しであったが、クロエは少しも揺らがなかった。
「戦いの勝利を祈るのではなく、大切な方の無事を祈るのです。そのことを否定するほど、女神さまは狭量ではありません」
それを聞いたインは降参するように軽く両手をあげ、あらためて感謝の言葉を述べる。
うなずくクロエの口がわずかにほころんでいるところを見るに、あるいはこの時、インの内心の動きはすべて見透かされていたのかもしれない。




