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僭王記  作者: 玉兎
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第六章 ガンプの叛乱(五)

 アトと話をした後のインの行動は電光石火だった。

 部屋を出るや、その足で評議会館に向かい、リンドブルムの主要人物を召集したのである。

 といっても、アトは寝込み、キルはセーデの守りにとどまり、セッシュウはフェルゼンにいる。ゴズもまだドレイクに到着していないため、集まったのはインを除けばカイとパルジャフ他三名だけであった。



 この三名はいずれも男性であり、さらにいえば、真っ先にリンドブルムに助力した五名の中に名前を刻んでいる。

 刃物のように鋭く目を光らせながら、黙然と座っている美丈夫はイグナーツ・レイ。

 パルジャフの推薦でドレイク守備隊の百人隊長に任じられた人物だが、どのドレイク兵よりも早くリンドブルム陣営に加わったこと、そして北門のシュタール軍にくみしていた一千のドレイク兵をリンドブルムに投降させた功績をもって千人隊長に昇格していた。

 今後、ドレイク兵を束ねる地位につくことはほぼ確定しているといってよい。もっとも、当人は百人隊長であった時と同様、いかにも不機嫌といった表情を崩していないため、この待遇をどのように捉えているかは今ひとつ不分明ふぶんめいであった。



 イグナーツ以外の二人、ヴィリ・シャイベルとコー・コクーは元独立派の評議員、つまりパルジャフの同志だった者たちである。

 新たに幹部に加わった彼らの前で、インはきわめてあっさりと今後の作戦計画を通達した。

 ごく少数の精鋭のみを率いてヒルス山脈を越え、ガンプを救援するという正気とも思えない作戦計画を。




 真っ先に口を開いたのはイグナーツである。眼光鋭くインを睨みすえた千人隊長は、眼光と同じくらい鋭い口調で言う。

「気は確かですか、公」

 上位者に対する礼儀など微塵も示さず、イグナーツは真っ向からインを睨み据える。

 当人としては最低限の礼儀は守っているつもりなのだが、傍から見ればとうていそうは思えない。



 パルジャフの右腕ともいえるヴィリは沈着さを崩さなかったが、いつもおどおどしているコーなどはイグナーツの不遜ふそんな態度を見て顔面蒼白になっていた。

 今、彼らの前に座っているイン・アストラという人物は、シュタール帝国の大物であるカロッサ伯ウィルフリートを討ち取り、シュタール最強をうたわれる五鋼騎士団の千騎長を生け捕りにした猛者もさである。

 次の瞬間、この部屋に血しぶきが飛んでもおかしくない、とコーはおびえた。

 ――もっとも、当のインはといえば、怒気の一つも見せずに軽く肩をすくめただけであったが。



「いたって正気だ」

「ならば言葉をかえましょう。成功するとお考えか、このような無謀な作戦が?」

「失敗するつもりで作戦をたてる奴はいない。貧民窟スラムの住民がドレイクで独立する企ても、成功するまでは無謀と思われていただろうよ。シュタールとアルセイス、この二国を相手に戦いを挑むとはなんと愚かな奴らだ、とな」

 それを聞いたイグナーツは、むっと口を引き結ぶ。

 インはことさらイグナーツをやりこめようとしたわけではなかったが、その発言が事実に基づいたものであるだけに、イグナーツとしては反論しづらかった。

 インがここ数日で成し遂げたことをあらかじめ聞かされていたとしたら、イグナーツは間違いなく無謀であり不可能だ、と嘲笑しただろう。その自覚があるから、一見無謀に思えるガンプ救援に関しても、不可能だと断言することができない。



 イグナーツが口を閉ざした理由はそれだけではない。

 率直にいってしまえば、インがヒルス山脈で凍死しようが、ガンプで戦死しようが、イグナーツにとっては痛くもかゆくもないのである。

 インと面識があるとはいえ、知人と友人は同義ではない。むしろ、インのように計算しづらい人間より、これまでどおりパルジャフを上席に据え、その下で動く方がイグナーツにとってはやりやすい。

 だから、イグナーツは強いてインの作戦を諫止かんししようとはしなかった。




 そのまま黙り込んでしまったイグナーツに代わって口を開いたのはコーである。

 丸い顔に丸い身体、肌の色は褐色で南方の人種を思わせる。極度のあがり症であり、人前ではいつも緊張して大量の汗をかいている。持っている手巾ハンカチはすぐに汗にまみれてぐっしょりになってしまうため、服のポケットには替えの手巾ハンカチが大量に詰め込まれ、パンパンに膨らんでいた。



 そのコーが緊張した面持ちで口を開く。

「こ、公がドレイクを手中におさめて、まだ数日ですぞ。この状況で、長く都市を留守にするのは、その、危険すぎませぬか……?」

 いち早くリンドブルムに参じたように、コーには決断力も行動力もある。しかし、いかんせん、人前に出ると落ち着かない。こう見えて治水や開墾、つまり野天では力を発揮するタイプの人物なのだが、評議会館の中ではなかなか思うようにいかなかった。



 コーの危惧に対し、インは次のように応じた。

「ドレイクの内に関してはパルジャフに一任する。アルセイスは先の戦のゴタゴタがしばらく続くから問題あるまい」

「はぁ……しかし、それでは、肝心の、その……」

「肝心のシュタール帝国にはどのように対処なさるおつもりですか?」

 声を震わせるコーを気遣ったのか、コーとは対照的に落ち着いた声が響き渡る。



 丁寧な問いかけは最後のひとり、ヴィリ・シャイベルのものであった。

 シャイベル家はパルジャフのリンドガル家と同様、かつてのリンドドレイク王家の血を引いている。それを示すかのように、ヴィリの涼しげな面立ちには大貴族といっても通用する気品が漂っていた。

 ヴィリの年齢は三十歳。パルジャフより一回り以上下であるが、能力、識見しきけん共にパルジャフに迫るものがあり、しかも思想的にパルジャフより急進的であった。思想とはつまり『独立派』の政治的目標のことである。



 ドレイクは、ドレイクに生きる者たちのものだ。この地に、シュタール帝国にもアルセイス王国にも屈しない、強く大きな国を築き上げる。それがヴィリの目指すものであり、そのためには武力の発動も辞さない覚悟を固めていた。

 そんなヴィリであったから、パルジャフ以上にカロッサ伯に危険視されており、自邸は帝国兵の厳重な監視下に置かれていた。おそらくカロッサ伯が存命していたとしたら、王国派の次に排除の対象となったのは、ヴィリをはじめとした独立派の急進勢力であったろう。

 その後、伯爵の死で自由を得たヴィリは、迷うことなくパルジャフの檄に応じてリンドブルムに加わることになる。

 真っ先に檄に応じた五名の中で、最も早くだくの返事を送ってきたのは、このヴィリ・シャイベルであった。




 そういった事情もあり、ヴィリは実力で二大国の影響力を排除したインに対して初めから好意的であった。この時もインに向けたヴィリの目に敵意や警戒といったものは宿っていない。

 ヴィリの問いかけに対し、インはこれまたあっさりと答える。

「俺がいない間、ドレイクの内はパルジャフに任せた。同様に、ドレイクの外はカイに任せる」

 名を呼ばれた黄金色の髪の青年は、驚いた様子もなくうなずいた。

「承知いたしました」

 二人のやり取りを聞いたヴィリは、確認するように再度問いかける。

「アルシャートのシュタール軍が動いた際には、我らはカイ殿の指揮を仰げばよろしいのですね?」

「そうなるな。もっとも、連中が動くのをのんべんだらりと待ってやるつもりはないが」



 それを聞いたヴィリとコー、イグナーツの顔に怪訝そうな表情が浮かんだ。インが言わんとすることを掴み損ねたのだろう。

 一方、黙して話に聞き入っていたパルジャフは、やはり、と言いたげに小さく息を吐き出していた。

 先ほどのインの作戦を聞き終えたときから、パルジャフの胸にはある予感が宿っている。そして、インの口から放たれた言葉は、パルジャフの予感と寸分たがわないものであった。



 

「カイ、方法は任せる。リンドブルムのすべてをもって、アルシャートを落とせ」

 インの命令が、誤解しようのない明確さでもって室内の人間の鼓膜を揺らす。

 これに対するカイの答えもまた、誤解しようのない明確さで幹部たちの耳に響き渡った。

「仰せのとおりに、陛下マイン・テュラン




 ――つまるところ、これがイン・アストラが考案したガンプ救援作戦の全貌ぜんぼうであった。

 自ら少数の精鋭でヒルス山脈を越え、直接ガンプの救援に赴く。

 一方、ドレイクにおける軍事の全権をカイにゆだね、これにアルシャート要塞を攻略させることで、ガンプを攻囲しているシュタール軍の後背をおびやかす。

 アトに約束した『全力で』との言葉どおり、リンドブルムの総力を挙げた二面作戦であった。



 ドルレアク公爵にしてみれば、腹心であるカロッサ伯を殺され、ドレイクを奪われたことさえ我慢ならないはずだ。これにくわえてアルシャート要塞まで落とされたら、南部の大公爵は怒髪どはつ天をくだろう。

 そうなれば、ガンプの攻囲どころではなくなろう。リンドブルムに対する怒りはもとより、放っておけば公都ドラッへにまで敵の爪牙が及んでしまうため、公都の守りを固める必要が生じるからである。

 むろん、これはカイが首尾よくアルシャート要塞を落とせたらの話である。また、仮にドルレアク公の軍がガンプから退却したとしても、宰相の命令を受けた紅金騎士団の方は攻撃を続行するだろうから、これだけでガンプ救援が成功するわけではない。

 だが、間違いなくガンプの包囲は薄くなる。鉱山都市を押しつぶさんとする圧力は小さくなる。後はインが片を付けてしまえばいい。



 右には愕然がくぜん、左には呆然ぼうぜん、正面には暗然あんぜん

 室内を覆う重苦しい沈黙に気がついていないわけではないだろうに、インはいかにも落ち着いた面持ちで、自身の決断に満足そうにうなずいていた。

 のみならず、こんなことを言い出した。

「ところでカイ。そこはマイン・カイザーとしておくべきだろう」

 カイが口にしたテュランとは、いわゆる『暴君』を指す。

 マイン暴君テュランよ、と言い放ったカイに対し、インはマインカイザーにしておけ、と求めたのである。



 カイはにっこりと微笑みながら応じた。

「『ちょっとヒルス山脈を越えてくるから、俺がいない間にアルシャート要塞を落としておいてくれ』――こんな命令を下す主君は暴君と呼ぶしかないと存じます」

「ふん、こうやってあらためて他人の口から作戦内容を聞かされると反論できないな――無理をさせることになるが、頼む」

 インの顔と声に、これまでになかった感情が加わる。

 そのことに気づいたカイは、今しがたのそれとは質の異なる笑みを浮かべた。

「アト殿のために戦うのが陛下の誓約であるのなら、陛下のために戦うのが僕の誓約です。どうかお任せください」



 そんな会話を交わす二人を見てパルジャフは深々とため息を吐く。どうやらカイにインを止める気はないらしい、と悟ったからである。

 このところ、ため息ばかり吐いておるな、などと内心で考えながらパルジャフは口を開いた。

「公、本当に行かれるおつもりか? コクー殿が申したように、この状況で公がドレイクを離れれば、どのような変事が起こるかわかりませぬぞ。くわえて、公が指揮をとってさえ苦戦を免れぬであろうアルシャート攻略を、カイ殿だけで行うのは危険すぎはいたしませぬか」

「なに、カイとお前がいれば変事などどうとでもなるだろう。仮にドレイクを奪われたとしても、また奪い返せばいいだけの話だ。それと、アルシャート攻略についてだが――」

 ここでインは小さく苦笑した。

「むしろ、俺がいない方がうまく運ぶかもしれないぞ。お前もとっくに気づいているだろう。ある意味、こいつの方が俺よりよっぽど難物なんぶつだということはな」



 あごでカイを指したインがそう言うと、パルジャフの口からむぐ、という濁音がこぼれた。

 パルジャフがちらとカイをうかがうと、青年は相変わらずにこやかな表情を浮かべている。とてものこと、インよりも厄介な人物には見えないが、これまで何度もカイの言動に驚かされてきたパルジャフは、今のインの言葉にうなずけるものを感じていた。



 もしや自分はこれから先、ずっとこの調子で彼らの奇想天外な行動に振り回されていくのではないか。

 ふと脳裏に浮かんだ危惧に戦慄せんりつを覚えつつ、パルジャフはインに対してすべて承知のむねを伝える。

 いまさらインが前言を翻すはずがない。その程度のことは、もうパルジャフにも理解できていたので。




◆◆




「――公、少しお時間をいただきたいのですが、よろしいでしょうか」

 セーデに戻ろうとしていたインは、後方からの声に呼び止められて足を止める。

 振り向いたインの視界に映ったのはヴィリ・シャイベルであった。

 ヴィリが評議員になってからもうじき五年が経つが、年齢はようやく三十になったばかり。若い頃からドレイク評議会の泥流でいりゅうを泳いできた人物の両眼には、パルジャフと似た、しかしパルジャフより鋭さを感じさせる光がまたたいていた。



 その眼差しから面倒な話があると察したインは、ひとつうなずいてヴィリと向かい合った。

 先の作戦に異議があるのかと考えたが、ヴィリはかぶりを振ってそれを否定する。

「反対があれば、あの場で申し上げておりました。正直なところ、不安が完全に拭えたわけではございませんが、議長閣下――いえ、失礼しました。パルジャフ卿が賛同なされたのですから、しかるべき成算がおありなのだと推察いたします。私が公におうかがいしたいのは、そのことではなく――」

 ヴィリはいったん言葉を切ると、インの目をじっと見つめた。



「単刀直入におうかがいします。過日、帝国派評議員ラーカルト・グリーベル子爵を襲撃したのは公で間違いございませんか?」

「ああ、間違いない」

「ならば公よ、リムカ・ハーゼという少女をご存知ではありますまいか?」

 その名を聞いたインはわずかに目を細めた。

「知っている。ラーカルトのめかけの一人だな」

 それを聞くや、ヴィリの端正な顔が無念そうに歪む。

「そのとおりです。私はリムカ殿の父上と親交がございまして、何とかならないものかと手をつくしたのですが、グリーベル子爵の権勢の前ではいかんともしがたく……公、リムカ嬢は無事でありましょうか? 彼女が今、いずこにおられるかご存知でしたら教えていただきたいのです」



 そういって頭を垂れるヴィリ。

 インは感情の希薄な眼差しで、ヴィリの赤茶色の後頭部を見下ろした。

「ラーカルトの屋敷からリムカを連れ出したのは間違いない。だが、あれは賊の庇護ひごを受けることを好まず、すぐにセーデから出て行ってしまった」

「それ以後の足取りはご存知ない、と?」

「わざわざ追いかける理由はなかったからな」

「さようですか……いえ、子爵の屋敷から無事脱出したことがわかっただけでも僥倖ぎょうこうともうすもの。感謝いたします、公」

「俺がやったのはドレイクの法に反する行為だ。それで評議員に感謝されるというのもおかしな話だな。それで、用件はそれだけか?」

「はい。お引止めしてしまって申し訳ありませんでした」



 そう言って再度頭を下げたヴィリは、その場に立ったまま動かなかった。

 どうやらきちんとインを見送ってからきびすを返すつもりであるらしい。

 丁寧なことだと思いつつ、インはヴィリに背を向ける。

 そして、ある程度ヴィリと距離が離れ、後方の気配が動くか動かないか、といったタイミングで口を開いた。



「そういえば、こちらも一つ訊いていいか?」

 振り返りもせず、声だけかけてきたインを見て、ヴィリは少し戸惑った様子でうなずいた。

「は、なんなりと」

「リムカの父と親交があったといっていたが、ではどうして兄の安否は気にかけぬのだ?」

 一瞬の沈黙。

 前を見ていたインは、このとき、ヴィリがどのような表情を浮かべたか分からない。

 わかるのは、ややあって戻ってきた返答が、しごく落ち着いたものだったことだけである。

「――成人した兄と、二十歳にも満たない妹。どちらを案じるべきかは自明である、と私は考えます」

「なるほど、道理だな」

 訊ねておきながら、ヴィリの答えには特に興味を示さず、インは再び歩き出す。



 前を見ていたインは、このとき、ヴィリがどのような表情を浮かべたか分からない。

 わかるのは、インの背に向けられた独立派評議員の視線が、針のように鋭くとがっていることだけであった。







 しばし後。

 護衛ひとり連れずにドレイクの街路を歩きながら、インは呆れたようにひとりごちた。

「ふん。仕方ないといえば仕方ないが、よくもまあ、あそこまで面倒なやつらばかり揃ったものだ」

 イグナーツといい、コーといい、ヴィリといい、それぞれ意味合いは異なるにせよ、一癖ひとくせ二癖ふたくせもある者たちばかり。

 そんな者たちだからこそ真っ先にリンドブルムに加わるという決断をくだすことができたわけで、これに文句を言うのはお門違いであるのだが、インとしてはついつい苦笑してしまう。



「ま、もともとの面子にしたところでくせだらけの人間ばかりだからな。類は友を呼ぶというやつか」

 この場に「もともとの面子」が一人でもいれば、一番癖があるのは間違いなく自分たちを率いる者である、と断言したであろうが、今のインは一人なので指摘を受けることは避けられた。

 先刻の大雨の影響で、街路のところどころに大きな水たまりができている。それをよけながら、インは先ほどの光景を思い起こす。



 ドムス・エンデと刃を交えた日、インはパルジャフの求めに応じて駆けつけた五人と言葉を交わしているので、当然、ヴィリと話したのも今日がはじめてではない。

 ヴィリは独立派の中でも特にパルジャフに近く、インに対しても五人の中で最も好意的かつ忠実に見える。

 だが、インは圭角けいかくが目立つイグナーツよりも、ヴィリの方に警戒すべきものを感じていた。それは多分に感覚的なものであったが、カイによって言語化されている。



『ヴィリ卿はパルジャフ卿を心から尊敬している。そのパルジャフ卿はインに忠誠を誓っている。では、ヴィリ卿はインを尊敬し、あるいは忠誠を誓えるのかな? 必ずしもそうじゃない、と撲は思うよ。人の心はそこまで単純ではないからね。パルジャフ卿を尊敬しているからこそ、インの存在が気に食わない、ということもあると思う』

 それはインにとっても納得できる意見であった。

 インにしても、ヴィリを警戒すべきとは思っていても、だからといって排除するつもりはない。

 インは配下の人間に忠誠や尊敬を求めない。内心でインのことを恨もうと、憎もうと、あるいは軽蔑しようとも、こちらが求める役割をこなしているかぎり何の問題もないと考えている。



 そも、ほんの少し前まで野盗だった相手に、いきなり心からの忠誠を捧げるような人間はかえって気色悪いというものだ。パルジャフがそうであるように、利害、打算、好悪を計算して態度を決するのは当然のこと。

 だから、ヴィリが何を思っていようとも、具体的な行動に出るまでは無視しておこうと決めている。

 しかし、そのヴィリの口からリムカの名前が出たことはいささかならず気になった。




 インはリムカの詳しい生い立ちなど知らないが、本当にリムカの父親が独立派の有力評議員と親交があったなら、先にセーデを飛び出したとき、リムカは縁もゆかりもないフレデリクの屋敷ではなく、ヴィリの屋敷に駆け込んだのではないかと思えるのである。

 もちろん、ヴィリがリムカの兄に一言も言及しなかった点も気にかかった。今、リムカはフレデリクの屋敷にいた二人の侍女と共にフェルゼンにいるはずだが、そのことを口にしなかったのは、そういった不信が根底にあってのことであった。



 つけくわえていえば、もう一つ理由がないわけではない。

 先にラーカルトの屋敷を襲撃したおり、インは地下牢でリムカの兄を手にかけた。シュシュの秘薬に侵され、理性も痛みもなくした相手に対し、インは鉄靴に隠してある短剣をもって喉元を切り裂いてとどめをさした。

 その間、リムカの兄は意味ある言葉を一度として口にしなかった。最後の最後で正気を取り戻し、妹のことをインに託した、などということもない。壊れたものは、最後まで壊れたままであった。



 ただ、言葉はなくとも、感じ取れるものはある。

 リムカの兄は妹が地下にいる間、ずっと妹に執着していた。リムカがアトに連れられて脱出した後は、インを殺すことよりも外に出ることにこだわっていたように思える。少なくとも、リムカに対してそうしたように、インを食らおうという動きは一度も見せなかった。

 思えば、あの奇妙な叫び声も、つぶれた喉で精一杯妹の名前を呼び続けていたのかもしれぬ。



 シュシュの秘薬は理性を侵す。侵され、壊れた心に残るのは原始的な欲求のみ。インはそのことをよく知っている。

 妹の身体を食らおうとしたリムカの兄は確かに狂っていた。だが、それでもその行動には、妹のことを案じる想いの一片ひとひらが残っていたように思う。

 シュシュの秘薬に侵された人間が、それでも最後まで守り通した想い、手放さなかった気持ち。

 それはインにとって、間違いなくとうとぶに値するものであった。




 インがリムカを気にかける理由のひとつはここにある。

 といっても、あくまでこれは理由の一つに過ぎなかった。これがなくてもインは同じ態度で――つまりは気に入った相手にとる態度でリムカに接していただろう。

 自然、インの喉からくつくつという笑い声がもれる。

 すれ違った傭兵風の男が気味悪そうにインを見やったが、インは気にせず歩き続けた。



 もともとリムカは、漁色ぎょしょくに明け暮れていたラーカルトが執着を見せるほどの美貌の持ち主であり、そのラーカルトに慰み者にされ、実の兄をむごい形で失いながら、それでも気概を失わない強い心の持ち主でもあった。

 これだけでもインが気に入る理由としては十分すぎる。

 リムカの行動が緋賊やクロエたち姉妹に与えた影響は少なくなかったが、いずれも大本の原因はインの側にある。リムカが動かずとも、そのうち同じことが起きていただろうことは想像にかたくないため、これに関してもインはほとんど気にしていなかった。




「ヴィリの言葉をリムカに伝えるとなると、やはりヒルスを越える前にフェルゼンに立ち寄っておくべきだな。クロエたちのこともある」

 フェルゼンですべてをきちんとリムカに伝え、後はこれまでどおり彼女の決断に任せればいい。

 あの評議員の言葉が偽りであれば改めて対処を考える。真実であれば、それはそれでリムカにとって喜ばしいことであろう。

 そして、ウールーズの手紙を読んだクロエとノエルがどのような決断を下すのかも確かめておく必要がある。

 アルシャート要塞の近くは山中に対する警戒も厳重なので、これを避ける意味でもフェルゼンを出発地点とする案は悪くなかった。




 立ち止まったインは北の方角を見やる。城壁の向こうにそびえたつヒルスの山並み、中でも一際目立つのは、この季節でも山頂に雪冠をいただく『白の霊峰』ヒルスである。

 インはその偉容に視線を向けながら、楽しげにつぶやいた。

「ヒルスの北は三年ぶりか。さて、うまくいけば冬までには戻ってこられるはずだが、どうなるかな」

 その声は発した当人以外、誰の耳にも届かないまま宙に溶けて消える。

 残ったのは、インの口許に浮かんだかすかな笑みだけであった。



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