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僭王記  作者: 玉兎
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第六章 ガンプの叛乱(四)

 ぽつり、ぽつりと、妙に大きな雨粒が空から降りはじめる。

 ドレイクの各処で住民たちが、おや、と思って上空を見上げたときには、すでにドレイクは厚い黒雲で覆われており、そこから降り注ぐ幾億もの雨滴が地上めがけて殺到してこようとしていた。

 たちまち、ドレイク市街に滝のような雨が降り注ぐ。街路を歩いていた人々は悲鳴をあげて手近な軒先に避難し、ずぶぬれになった衣服を悲しげに見下ろしてから、恨めしそうに空を睨む。

 もちろん、それで雨脚が緩むはずもなく、黒雲は無限とも思える雨滴を延々吐き出し続けていた。



 当然のように、豪雨はセーデ区にも襲い掛かり、屋外で対峙していたインとアト、さらには二人の対峙を見ていた人々の身体にも平等に降り注いだ。

 訓練場の土はたちまち泥と化し、人々は慌てて建物の中に逃げ込んでいく。微動だにしなかったのは、今まさに互いの得物を突きつけあっている二人を除けば、カイとキル、リッカとツキノといったごく少数の者たちだけであった。





 アトは斧槍ハルバードを構えたまま、じっとインを見据えている。

 相手の顔だけではなく、身体全体を視界の内に収め、その一挙手一投足を見逃さない。それは子供の頃、アトが祖父から学んだ戦闘技術の一つである。

 見るのではなく、るのだ、と祖父は独特の言い回しでアトに教示してくれた。 

 ――今になって思えば、独特というより、孫の前で格好つけていただけかもしれないけれど、とアトは思う。



 父方の祖父、つまり先々代皇帝はアトが生まれたときにはすでに他界していたので、アトが教えを受けたのは母方の祖父の方である。

 稚気ちきに富んだ人だった。子供だったアトの目から見ても、子供っぽいと思える人。

 一応、先祖代々アイムス男爵位を有しており、帝国北部に小さいながら領地も持っていたのだが、貴族らしさとはとんど縁がなく、みずからそれを認めていた。

 治めるのは辺境の村一つ。厳しい冬を越すために領主と農民が一緒になって畑を耕すような土地柄であったから、そもそも貴族という意識があまりないのだ、と幼いアトを膝に座らせながら、祖父はからから笑っていた。



 そんな辺境の貧乏男爵だった祖父だが、あるとき、北方のカザーク王国との戦いにおいて、奇襲を受けて危地にあった皇帝を救うという殊勲しゅくんをたてる。

 これがアトの父であり、祖父の働きに感謝した父帝はみずからの佩剣はいけんを祖父に与えた。この栄誉に祖父は感激しきりであったが、父帝はさらに祖父を宮廷にのぼらせて自らの側近とした。祖父の為人ひととなりに感じるものがあったのだろう。

 ここにおいて祖父の感動は理性の手綱を離れてしまい、両目から流れる涙は滂沱ぼうだとして止まらなかったという。母いわく、おいおい泣く父をなだめるのは大変だったそうだ。 



 その後、自分の娘が皇帝の寵愛ちょうあいを受けるようになると、祖父は感激を通り越して呆然としてしまい、娘の腹に皇帝の御子が宿ったと知ったときには、一周まわって落ち着きを取り戻していた。

 娘の懐妊かいにんを知るや、祖父はただちに爵位と領地を皇帝に返上し、側近の役職をも辞して故郷に隠棲いんせいしてしまう。外戚がいせき――皇帝の寵姫の父として、あるいはうまれてくる皇子ないし皇女の祖父として、宮廷を壟断ろうだんする意思はない、と内外に示すためである。



 清廉せいれんな進退といってよく、当時の宮廷でも祖父の行動は語り草になっていたそうだ。中には、権力を握る絶好の機会をふいにするとは、と嘲る声もあったようだが、言いたい人には言わせておけばいい。少なくとも、アトはそういう祖父が大好きだった。

 以後、祖父は滅多に宮廷には近寄らなかったが、やはり孫可愛さは格別だったようで、アトと顔をあわせる都度、猫かわいがりをして母を呆れさせていた。

 後年、アトが斧槍ハルバードを扱うようになった理由の半分は祖父にある。祖父もまた斧槍ハルバードの使い手であり、幼いアトの前で何度も演舞を披露してくれた。その激しくも美しい一連の動きを、アトは今でも鮮明に思い出すことができる。

 ちなみに理由のもう半分は母である。もともと、母が父帝のそば近くで仕えるようになったのは護衛の騎士としてであり、母の得物も斧槍ハルバードだったのだ。




 大陸最大の国家であるシュタール帝国、その第一皇女が棒切れを斧槍ハルバードに見立てて振り回すなど、普通だったら廷臣総出で止められるところである。だが、父母はアトを型に押し込めるつもりはなく、廷臣たちも皇帝夫妻の意向に逆らってまで口出しをすることはなかった。

 皮肉な話だが、これはアトが下級貴族の腹から生まれたゆえである。

 アトはいずれ皇女として外国に嫁ぐ身であるが、シュタールの姫ともなれば、人格や容貌に関係なく、妃として欲する国はいくらでもある。武術に興味を持つ変わり者の姫であっても、それは変わらない。であれば、多少おてんばだったとしても、皇女に相応しからぬと目くじらを立てる必要はないだろう。それが大半の廷臣の考えであった……





 その日々の果てに、今、アトはインと対峙している。

 じっとインを見据えるアトの脳裏に祖父の教えがよぎった。

『古来より、敵を知り、己を知れば百戦あやうからずと申す。そして敵を知るにはまずることじゃ。穴があくほど相手をよ。どれだけ格上の相手であっても、目が三つあるわけではない。腕が三本生えているわけでもない。同じ人間じゃ、手も足も出ぬということはなかろうて。もし、そう感じたのならば――』

 その続きを、アトはそっと呟いた。

「それは己がすくんでいるだけのこと。そうでしたね、おじい様」



 まずつべきは、インには勝てない、と考えている自分自身。せめて一撃だけでも、などという心持ちで攻撃を組み立てるから相手に届かない。

 アトは斧槍ハルバードを握る手の力をわずかにゆるめた。こわばった指先をほぐすように。

 そして、ほんの少しだけ、それまでより腰を落とした。この戦いへの覚悟を据えなおすように。



 その小さな動きは、滝のように降り注ぐ雨滴のカーテンに隠れてほとんど見えなかったはずだが、向かい合うインの目にはしっかりととらえられていたらしい。

 のみならず、看過かんかしがたい変化だともうつったようだ。棍棒を構えたインの顔に、明確な戦意がみなぎっていく。

 相手の戦意の高まりを感じ取ったアトは、斧槍ハルバードの穂先をすっと上げる。そして、勢いよく突きかかった。



 打ち交わされる棍棒と斧槍ハルバード、これが何合目にあたるのか、すでに二人とも覚えていない。

 アトが攻め、インが防ぐ。その光景は先刻までの焼き直し。

 フェルゼンから休みなく駆けとおし、間をおかずにインと戦い、アトの体力は底をつこうとしている。だが、それでもこの攻撃はこれまでで一番の威力と切れを兼ね備えていた。

 二度、三度と互いの得物が衝突する。雨で視界が遮られていたことも無関係ではなかったろうが、防御にまわるインの表情は真剣そのものである。



 ここを先途せんどとばかりにアトの両腕に力がこもった。振りおろされた斧槍ハルバードが唸りをあげて豪雨を切り裂き、雷霆らいていのごとくインの頭上に襲いかかる。

 次の瞬間、鉄と鉄がぶつかり合う鈍い音が周囲に響き渡った。

 この攻撃自体は、これまでと同じようにインに止められてしまうが、これまでと違うところもあった。

 めきり、と。

 斧槍ハルバードを通して、アトの手に鉄が折れ曲がる感触が伝わってくる。ほぼ同時に、インの舌打ちが雨音を通して聞こえてきた。



 見れば、インの持つ棍棒が「く」の字に折れ曲がっている。度重なる斧槍ハルバードの攻撃に耐えてきた棍棒、その内側に仕込まれていた鉄芯がついに限界を越えたのだ。

 好機、とすみれ色の瞳に雷火が走った。

 続けざまに繰り出される攻撃を、インは曲がった棍棒でかろうじて防ぎとめる。

 とはいえ、いかにインといえども、壊れかけの武器でアトの猛攻を凌ぎ続けることはできない。三度にわたるアトの攻撃を防いだインは、わずかに生じた攻撃後の間隙かんげきをついて反撃に出た。




 これまで、インは基本的にアトの攻撃を受け止めることに専心せんしんしていた。反撃に出るときも、ある程度の余裕をもって――身もふたもなくいってしまえば、倒すことではなく痛めつける目的で武器を振るっていた。アトの覚悟のほどを確かめるために。

 そのインが、ここではじめて明確に相手をしとめにかかったのである。



 この時点で、インもアトも半ば当初の目的を忘れており、互いに相手を打ち倒すことに集中している。

 斧槍ハルバードの利点の一つは間合いの長さであるが、逆にいえば、懐に入られてしまえば、その長さが仇になる。

 アトの懐に入り込むべく、泥土に踏み出すイン。

 対するアトは、まさしくこの瞬間を狙っていた。



「――ッ!!」

 無音の気合と共に、斧槍ハルバードが突き出される。

 アトには計算があった。

 インは曲がった武器でいつまでも戦い続けるほど不用意ではない。この状況で武器が使い物にならなくなれば、まず間違いなくアトをしとめにかかるだろう。

 もっとも手っ取り早いのは、アトの懐に入り込んでくることだ。斧槍ハルバードを無力化する意味でも、それ以外の選択肢は考えにくい。



 その動きを逆手に取る。

 相手に先に仕掛けさせ、その勢いを利用して痛烈な反撃を加える技は、祖父と母が得手としていたものであった。

 いささか変則的ながら、アトが狙ったのはこれである。



 カウンターのタイミングは完璧だった。それこそ、迫り来る穂先を見たインの口から再度舌打ちがこぼれるくらいには。

「チッ!」

 さすがのインも、自分から前に出ようとしていたところであっただけに、回避に移るだけの余裕がない。

 心臓めがけてまっすぐに突き出される穂先を見て、インは咄嗟に左腕を胸の前にかざしていた。



 左腕に巻かれた鉄鎖では斧槍ハルバードの突きを防げない。インが利用したのは鉄鎖ではなく、鉄鎖が繋がれている左手首の枷――鉄でつくられた腕輪であった。

 この鉄環てっかんを用いて、インは斧槍ハルバードの攻撃を防ぎとめる。穂先が鉄環に触れた瞬間、これを跳ね上げて軌道をそらしたのだ。



 それは秒の半分にも満たない刹那せつなの見切り。

 目の前で見ていたアトでさえ、何が起きたのか本気でわからなかった。

 わからなかったが、しかし、アトは止まらなかった。もとより、そういう相手であることは承知の上。この程度でいちいち驚かないくらいには、アトはインという人物に慣れている。



 斧槍ハルバードの柄から手を離し、勢いが止まった相手の懐に、今度はアトの方から突っ込んでいった。

 懐に入り込んで、では次にどうするのか。

 正直、その先はあまり考えていなかった。なにしろ、今の攻撃はアトになしえる最高の一撃であり、これを防がれてしまってはもう打つ手がない。

 身体ごとぶつかっていく、と決めたのはほとんど本能的なものだった。

 これに対して、インは。




 まるで迎え入れるように身体を開き、アトが懐に入り込んでくるのを待ち受けていた。

 その左手が鎌首をもたげる蛇のように持ち上がる。

 この蛇は獲物が攻撃範囲に入るのを待ち構えていた。

 このまま踏み込めば、頸骨けいこつをへし折られるか、眼球をえぐり出されるか、あるいは額をかち割られるか、いずれにせよ致命的な一撃をこうむってしまうだろう。尋常でない殺気を感じ取ったアトは、そのことをいやおうなしに理解する。



 その脳裏に過日の光景がよぎった。

 たしかあれは、紅金騎士団がドレイクに入城した日のこと。

 アトは今と同じ場所でインとキルの稽古を見学していた。その稽古の最後、キルがアトと同じようにインの懐に飛び込んだとき、赤いケープを羽織った少女は何かに気づいたように咄嗟に飛びのいていた。そして、アトにはわからない理由で負けを認めていた。

 おそらく、キルも今のアトと同じ予感に襲われたのだろう。負けを認めたということは、あの時のインはあえて攻撃を遅らせており、キルの方もそれに気づいていた、ということか。




 あのときは稽古だった。今はそうではない。ゆえに、インはまったく容赦せずに攻撃してくるだろう。

 今、飛びのけば攻撃を避けられるかもしれないが、ここで距離を空けたところでどうなるというのか。

 全力の攻撃は通じなかった。体力も正直限界だ。

 ここで退けば負けは確定といっていい。



 ――なら、止まる理由なんてない!



 止まるという選択肢を蹴飛ばして、アトはインに組み付いていく。

 たとえ額を割られようと、目をえぐられようと、組み付き、組み伏せてしまえば、まだ戦いを続けられる。諦めていないと示すことができる。

『そんなことはないと、それは違うというのであれば、今ここで刃もて証明してみせろ』

 そう言ったのはイン自身だ。なら、血まみれ、泥まみれになっても付き合ってもらおう、とアトは思う。頑丈さと打たれ強さに関しては、インにだって負けはしない。





 まったく躊躇ちゅうちょなく突っ込んでくるアトを見て、インは驚きと納得を同時に感じていた。

 インの狙いに気づいていないわけではないだろうに、怯む色などつゆ見せない。どうして一国の皇女がここまで戦士のたちを備えているのか知らないが、この時、インはたしかに眼前の相手を一個の戦士として認識していた。本気で戦うに足る相手である、と。

 自然、唇が笑みの形に歪む。

 左の手指がまっすぐに伸びて手刀を形作かたちづくり、その先端がためらいなく紫水晶アメジストの瞳に向けられる。

 そして――



「……あ」

 インは唐突に間の抜けた声をもらした。同時に、左手の動きも止まる。遅まきながら、この戦いの理由および勝敗条件を思い出したのである。

 その時にはもう、アトの身体は避けようのない勢いでインの眼前にまで迫っていた。




◆◆




「ぐッ」

 間抜けにも気を抜いてしまったところに組み付かれ、押し倒され、インは二人分の体重を負った格好で背中から地面に倒れこんでしまう。むろん受身など取れるはずもなく、背中を痛打したインの口から苦痛の声がもれた。

 対して、アトはインの身体を抱きしめた体勢のまま動かなかった。動けなかった、といった方が正確だろう。

 今の一連の攻防でアトの体力は底をついてしまった。というか、とっくに底をついていた身体を、意地と負けん気で無理やり動かしていただけなのだ。もう指一本さえ動かせそうにない。

 ぜいはあと荒い息を吐きながら、アトはインのとどめを待った。インであれば、この状態から首の骨をへし折るくらいは平然とやるだろう。




 だが、いつまで経ってもインの手が首に絡みつくことはなかった。

 怪訝に思ったアトが顔をあげると、インの顔が驚くほど近くにある。どこか呆れたような声がその口から発された。

「で、いつまでこうしているんだ?」

「……え?」

「いやまあ、負けた身としては泥まみれにされたところで文句も言えないし、お前のたわわな胸の感触が楽しめるから役得でもあるんだが」

「……はい?」

 相手が何を言っているのかわからず、アトは首をかしげる。

 疲れた身体と頭に鞭打って、今の自分の状態をあらためて観察する。



 組み伏せているといえばそのとおりだが、別の言い方をすれば、正面からインに抱きつき、その胸に顔を埋めている自分の状態を。



「ひぐぃッ!?」

 アトの口から名状しがたい叫び声があがり、帝国の第一皇女は慌ててインの上からどこうとする。

 が、その動きは中途で止まってしまう。度重なる過重労働への抗議として、アトの身体があるじの意思どおりに動くことを拒否したのである。結果だけ見れば、かえってインに身体を押し付けたようなものだった。

「あ、う、あ、ごめ、ごめんなさい! ごめんなさいッ!?」

 つい先ほどまでの覚悟と迫力はどこに飛びさったのか、半ば恐慌パニック状態になったアトはむやみやたらと謝罪の言葉を繰り返し、なおもモジモジと身体を小刻みに揺らし続ける。




「何をやっているんだか……」

 インはそう呟くと、上体を起こしてアトの身体を脇にどけてやろうとしたのだが、そこでしばしためらった。雨は今も降り続けている。当然、土の訓練場は一面泥だらけであり、背中から地面に倒れたインの背面は墨でもぶちまけたような有様になっている。

 この地面に動けないアトの身体を横たえるのはさすがに気が咎めた。アトの衣服もすでに雨と泥で汚れきっており、いまさら気にしても仕方ない状態ではあるが、負けた腹いせと思われるのもしゃくである。



「ふん、ま、敗者の責務ということにしておくか」

 そう言うと、インはアトを横抱きしながら立ち上がるという小器用なまねをした。

 これでさらに恐慌状態が加速するかと思われたアトであったが、今のインの言葉に聞き捨てならないものを感じ、おそるおそる問いかける。

「あの、イン様。敗者、とは……?」

「あん?」

 抱きかかえた相手からの問いに、インは何をいまさら、という顔をする。

「背中から地面に倒されるとか、膝をつかされる以上の屈辱だぞ。負けを認めざるをえないだろうが」

 乱戦の場であればいざ知らず、一対一で押し倒されるとはいつ以来のことか、とインは楽しげに笑う。

 皮肉でも自嘲でもない、本当に楽しそうな笑みだった。



「え、と。なら……」

 インが敗北を認めても、アトの声はどこかぼんやりしたままだった。おそらく、本当に限界まで力を振り絞った結果、その反動が続いているのだろう。

 とりあえず、一度休ませる必要があるとインは判断したが、言うべきことは言っておこうと考えた。これこそ敗者の責務の最たるものであろうから。



「ああ、二言はない。ガンプでも帝都でも付き合ってやるよ、全力でな――ん、負けたやつが付き合ってやるというのはおかしいな。協力させていただきます、というべきか」

「……びっくり、するくらい……似合いません、ね」

 あなたに丁寧な言葉は似合わない。そう言った後、アトの首ががくりと傾く。

 気を失ったものと思われた。





◆◆◆





「あ、れ? ……わたしは……あ、つう!?」

 目を開き、ぼんやりとした意識のまま上体を起こそうとしたアトは、途端、全身を駆けめぐる痛みに思わず悲鳴をあげていた。

 身体が寝台に逆戻りし、その衝撃でまた痛みがはしる。

 うう、とうめくアトの声を聞きつけ、慌てて寝台に駆け寄ったのはリッカであった。

「アト姉さん、大丈夫? ま、まだ起き上がらない方がいいですッ」

 看病のためか、黒髪を三つ編みにしたリッカが心配そうに顔を覗き込んでくる。

 その表情と、ずきずきと痛みを訴えてくる自分の身体が、わずかに混濁こんだくしていた記憶を元通りにしてくれた。



「そっか。私は……イン様と戦って、それで……」

 かすれた声で呟いたアトは、喉にも痛みをおぼえてけほけほと咳き込んだ。

 リッカは慌てたように口を開く。

「ちょ、ちょっと待っててください、カイ先生を呼んできます!」

「……あ」

 止める間もなく飛び出してしまったリッカを見て、アトはこんな時だというのについつい微笑んでしまう。

 そして、今度は十分に痛みに備えながら上体を起こした。顔といい、腕といい、お腹といい、足といい、それこそ全身が火にあぶられているように熱くて痛いが、それでも手足に力を込めればきちんと動く。骨や筋に異常はないようだ。



「……手加減、されてたんだろうなあ」

 別に長身のせいというわけでもないのだが、アトは基本的に避ける、かわすといった体さばきがうまくない。だからこそ、戦場では重い甲冑と身体の頑丈さにまかせて敵の攻撃を受け止める戦い方を選択している。

 今もガンプで戦っているはずの親友に「皇女の戦い方ではない」と苦言を呈されたこともあった。これについては、そもそも皇女が戦うこと自体、滅多にある話ではないのだが、その点はもう向こうも諦めているらしい。

 ともあれ、そんなアトの戦い方は、インから見ればカカシのようなものだっただろう。実際、こうして叩きのめされた。

 それでも負傷の具合が一定の域にとどまっているのは、そうなるようにインが加減をしたからに違いない。



 インは自分が負けたと口にしていたが、アトに勝った実感は皆無である。

 夢だった、と言われたほうがしっくり来るくらいだが、全身を包む疲労と痛みがその可能性を否定する。

 と、そんなことを考えている間に、はやカイの姿が戸口に立った。

 改めてまわりを見回せば、アトがいるのは怪我人や病人の治療を行う部屋で、この部屋はカイの私室のすぐ隣にある。カイが来るのに時間がかからないのは当然だった。



「あの、アト姉さん。これ」

 カイが傷の具合をている途中、リッカがそういって水の入った杯を差し出す。

 礼を言って受け取ったアトは、むせないようにゆっくりと杯を傾けた。いつも飲んでいる井戸や川の水とは思えないほどに冷たく澄んでおり、深い味わいが口中に広がっていく。激しい戦いの後だけに、それはまさしく甘露かんろだった。



 ゆっくりと、味わうように水を飲み干したアトが小さく息を吐き出す。

 すると、それを待っていたかのように、部屋の入り口から別人の声が響いた。

「目が覚めたか」

「イン様ッ!?」

 相手の顔を見たアトは慌ててかしこまろうとしたが、寝台の上では思うにまかせず、どうしたものかとおろおろする。

 先刻の戦いや、交わした言葉はしっかり覚えている。だからこそ、かえって落ち着かない。特に最後の言葉、丁寧な口調が似合わない云々(うんぬん)は明らかに余計だった。どうしてあんなことを口走ってしまったのか、と頭を抱えたくなる。

 アトの傍らでは、リッカがむすっとした顔でインから視線をそらしているのだが――アトを痛めつけたインの振舞いに怒っている――それにもアトは気づいていなかった。




 インはそういった反応を気にかけず、用件を口にした。

「そのままでいい。ガンプを救う準備は進めているから、もう少し休んでいろ。ただ、それについて一つ訊きたいことがあってな」

 ごく当たり前のようにガンプ救援を口にするインに対し、アトは自然と背筋を伸ばしていた。

「はい、なんでしょうか?」

「確認なんだが、お前の目的はガンプの救援だけか? それともガンプを救った後、騎士団やら宰相やらを討つのも含まれているのか?」



 先にアトが本名を告げたときは、あまり踏み込んだ話をしていない。

 色々と厄介事が続いていたという理由もあるが、アトにしてみれば、あの頃のインに帝国の国内事情を事こまかに話しても意味がないと思えたのである。

 ひとまず自分の素性をきちんと話しておけばいい。後のことは、インがドレイクを制してからだ、と考えてアトはフェルゼンに向かった。

 そうして次に戻ってきたときには、インは事実上ドレイクの主権者に成りおおせていた。この間、一年はおろか一月も経っていない。まさか、この短期間でインがここまで大きくなるとは想像もしていなかった。



 変転の激しさにめまいを覚えそうになりながら、アトはインに応じる。

「それは……はい、でもあり、いいえ、でもあります。私は、ダヤン宰相にとらわれている妹を助けてあげたい。それをさまたげる者たちを討つのにためらいはありません」

「そういうことなら、妹を助けるところまで、でいいだろう。さっきは終える条件をはっきりしておかなかったからな。今度はきちんと決めておく」

「……は、はい? あの、何を仰っているのですか?」

「お前が妹を助けるところまで協力すると言っている」



 それを聞いたアトは、思わずぽかんと口を開けてしまう。

「え? あの、でも、それじゃあ何年かかるか……?」

 ジークリンデがいるのはシュタールの帝都シュトルツァのさらに奥、鋼玉宮こうぎょくきゅう最奥さいおうだ。これを救い出すには、それこそシュタール帝国そのものを覆す必要がある。一年や二年で為せることでは決してない。




 その疑問に対し、インはかつてないほど真摯しんしな声と態度で応じた。

「さすがにそんなにかけるつもりはないが、仮にかかったとしても問題ない。望みは刃もてかなえるべし。俺は求め、お前は成した。だから、俺は俺の全てをもってお前の望みをかなえよう。これはイン・アストラと、アーデルハイト・フォン・アルトアイゼンの間で結ばれた誓約だ」




 ここでインは小さく首をかしげる。

「もっとも、誓約はひとりでは結べない。お前の気がかわって、俺の助力は不要というのであれば、強いてとは言わない。あるいは、助力はガンプ救援だけでいいというのであれば、それもまたいいだろう。選ぶ権利があるのは勝ったお前だ、アト」

「いえ……いえ! 妹を、リンを助けてくださるのに力を貸していただけるというのなら、とても、とてもうれしいです! でも、私には、イン様に返せるものが何もありません……」

「返す? いや、お前は俺に勝ったのだから、別に何も返す必要はないぞ」

「勝ったといっても……イン様は手加減をしてくださっていたでしょう? 本気であれば、もっと早くに私の意識を刈り取ることもできたはずです」

「んん……?」



 アトが言わんとすることが今ひとつ理解できないらしく、インが怪訝そうに眉根を寄せる。

「誰が、誰に手加減した?」

「それは、イン様が私に、です」

「いや、俺は容赦なくお前を打ちのめしたが? わざわざ急所を避けてまで――ああ、もしかして手加減とはこれのことか? いっておくが、あれはお前の身体を案じたのではなくて、追い詰めるためにあえて重傷になるのを避けただけだぞ」

「……え゛?」

 思わぬ本音を聞いて、アトの表情がぴしりと凍りつく。



 インはさらに言葉を続けた。

「腕や足を折ってしまえば、そこで終わってしまうからな。それではお前の覚悟のほどがわからない。だから、ひたすら痛めつけた。俺は戦法の一つとしてそれを選んだのであって、手加減されたなどと感じる必要はまったくない。それは見当違いもはなはだしいというやつだ」

「そ、そうだったんですか……!?」

「そうだったんだ。そして、お前はそれを乗り越えて俺の思惑を覆した。最後のあたりは、俺も本気でお前を倒しにかかってたからな。俺をそうさせた時点で、お前の勝ちは決まっていたようなものだ」

 インは楽しげに笑う。

「最後、俺の狙いはわかっていただろうに、まっすぐ突っ込んできただろう? 勝敗の条件を覚えていれば、かわすだけで済んだんだがな。本気でしとめようとしていたものだから、つい懐に入れてしまった。自分の間抜けさに気づいたときは、お前が目の前にいたよ。お前は間違いなく俺に勝ったんだ。粘りと覚悟、技の冴え、いずれも見事だった」



 それはまぎれもなく賞賛であった。

 インがこれほど手放しに他者を称えるのはめずらしい。アトは思わず頬を染めてうつむいてしまう。

「それは、その、私、無我夢中で……」

「夢中なだけの奴に負けるほど俺はなまっていない。戦いの前、お前が諦めたといった言葉は撤回しよう。俺としても、負けたのは事実だが、お前を気に入った判断が正しかったことが証明されたわけだから、その点では嬉しくもある」

「はい、それは、はい……うぅ、もう何が何だかわからない……」

 恥ずかしさやら何やらで、ぐるぐると目をまわすアトを見て、リッカが慌てて背中をさする。

 カイはカイで、不器用な二人のやりとりを微笑ましそうに見守っていた。





 ここでインは、ようやく話がそれたことに気づいたらしい。おとがいに手をあてて呟いた。

「ん、何の話だった? ああ、そうだ。助力に対する返礼はいらないという話だったな。今言ったように、俺はお前に手加減などしていない。お前は勝者の権利として俺の助力を役立てればいい。むろん、お前以外の貴族や帝国そのものに代償を要求するつもりもないから、その点も安心しろ」

「ま、待ってください! それではあまりにも、その、あんまりです! それだけ力を貸してもらって、何一つ返さないなんて、そんなことはおかしいですッ」

「礼を寄越せと言って拒否されるならともかく、礼はいらないと言っているのに拒否されるというのもおかしな話だな。ま、どうしても礼がしたいというなら、すべて終わった後にまた話し合えば……」




 ここで、インの目が不意にくるめいた。

 何かを思いついたような楽しげな光が黒の双眸で踊る。

「カイ、リッカ。悪いがちょっと外してくれ」

 インの言葉にカイは小さく肩をすくめて従う。リッカも不承不承といった様子でうなずいたが、その顔には少しだけ驚きも浮かんでいた。インが面と向かってリッカの名前を呼ぶのはめずらしいことだったので。




「あの、何でしょうか?」

 二人が出て行った後、不思議そうに首をひねるアトに向かって、インはあっさりと言った。

「どうしても返礼がしたいというのなら、お前が欲しい」

「………………?」

 しばしの沈黙は、別にもったいぶったわけではなく、心底インの言っている意味がわからなかったからである。

 きょとんとした顔で、アトは鸚鵡返おうむがえしに問いかけた。

「私が欲しい、と言うのは?」

「端的にいえば俺のモノになれ、ということだ。で、どうする?」

「どうする、と言われましても……えっと、というか……え、え、え?」

 一時的に停止していた思考能力が少しずつ戻り始める。

 そうして相手の言葉を理解するに至った瞬間、アトの口から素っ頓狂な叫び声が発された。



「ええええええッ!?? な、いきなり、何を仰るんですかぁッ!?」

「だから、どうしても礼がしたいのなら俺のモノになれと言ってるんだろうが。何度も言わせるな」

「モ、モノになれって言われましても……え、え? その、これまでどおりイン様にお仕えすれば、よろしいんでしょうか?」

「コウノトリが赤子を運んでくると信じる年でもないだろうが。男が女に俺のモノになれといったら、好きなときに抱かせろということだ」

「だ、抱か――ッ!?」



 予想どおりといえば予想どおりの言葉を返され、ぼん、と音をたててアトの顔が真っ赤に染まった。

 顔だけでなく、耳も首筋もたちまち紅潮し、放っておけば再び気を失ってしまいそうな有様である。



 目を白黒、顔を赤青といった様子で混乱するアトを見て、インは呆れたように言う。

「傭兵をしていたわりに初心うぶな奴だな。この程度の会話はそこかしこに溢れていただろうに」

「う……あの頃は、基本的に人前で兜をとりませんでしたから。近づいてくる人も、あまりいませんでしたし」

 それはアトなりの護身術であったが、それがこんな風に裏目に出るとは予測していなかった。もっとも、仮に傭兵たちの間にとけこんでいたとしても、この場での反応はたいしてかわらなかったような気もするけれど、とアトは内心で呟く。




 インは軽く手を振りながら言う。

「ああ、念のために言っておくが、別にこれは力を貸す条件というわけじゃないからな。礼がしたいというなら、俺にとって一番欲しい礼はお前だと言っただけだ」

「予想外にもほどがありますよぅ……」

「だから、そう泣きそうな顔をするなというに。すべてはお前の妹を助けた後のことだ。返事はその時でかまわないし、嫌なら嫌で断ればいい。別にそれで文句を言ったりはしないさ。ただまあ、ちょうどいいと思ってな」

 インの言葉に、アトは眉を八の字にしたまま首をかしげた。

「ちょうどいい、とは?」

「ああ。もともとお前のことは気に入っていたが、今回のことで本気で欲しくなった。欲しいとなったら行動しなければならないし、行動するなら、まず伝えておくべきだからな。妹を助け出した後で、いきなり言い出されても困るだろ?」

「今、言い出されても困ります……」

「そこはまあ、大目に見ろ。代わりといっては何だが、今後、目的が達成されるまで、この話は二度としない」



 インはそう言うと、話は終わったとばかりに立ち上がり、さっさときびすを返してしまう。

 アトはその背に声をかけることができなかった。

 それだけ今のインの台詞は衝撃的だったのだ。

 幼少時から婚姻の話はたくさん来たし、宮中でその手の声をかけられたこともないわけではない。母親の身分が低いとはいっても、皇女は皇女。利用価値を見出す者はどこにでもいた。

 彼らは様々な手練手管を用いてきたが、さすがにここまであけすけな欲望をぶつけてきた人はいなかった。直球すぎて、かえって笑ってしまいそうになる。実際には泣きそうになったわけだが。



「……もうちょっと、寝よう」

 アトはそう結論づけて寝台に倒れこんだ。

 たぶん、これ以上考えても建設的な答えは何一つ出てこない。ガンプのことも、妹のことも心配だが、今はただただゆっくり休みたい。

 そうして目が覚めたころには、多少なりと落ち着きを取り戻しているはずであった。




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