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僭王記  作者: 玉兎
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第六章 ガンプの叛乱(三)


 アトが自らの願いを言葉で、そして行動で示そうとした時だった。

 まるでそれを押しとどめるかのように、インが片手をあげて口を開いた。

「いや、どうしたと訊くのは愚問だったな。お前のことだ、宰相の標的にされたガンプを助けて欲しい、といったところか?」

 インはすでにアト本人の口から皇女であることを伝えられている。ドムスの口からガンプの叛乱を聞きだし、そのガンプを治めるラーラベルク家と皇家の緊密な関係をカイから教えられてもいた。

 そこまでわかっていれば、アトの性格からして、ガンプへの救援を願い出るであろうことは容易に想像できる。



 アトは一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに真剣きわまりない表情で深くうなずいた。

「は、はいッ!」

「まずアルシャートを落とし、その次にドルレアク公都ドラッへを落とし、またその次の都市へ――と順番に兵を進めていけば、ガンプに着くまで何ヶ月かかるか知れたものではない。とうてい救援は間に合わないだろう。すると、必然的に最短距離、つまりはヒルス山脈を越えて兵を送るという結論になる。違うか?」

「……そう、なります」

「お前にとっては知らず、俺にとってガンプは見たこともない街で、ラーラベルクとやらは話したこともない人間、赤の他人だ。その他人を助けるために、あの天山を越えろと求める意味、わかっているのだろうな?」



 仮にヒルスを越えられたとしても、そこで待ち構えている敵軍は一万や二万ではないだろう。

 仮に敵軍を打ち破ることが出来たとしても、そのためにかかる時間は一月や二月ではないだろう。



「落としたばかりのドレイクを、それだけ長期にわたって放置していれば、よからぬことをたくらむ奴も出てこよう。アルシャートの帝国軍は間違いなく動く。アルセイス王国も黙ってはいまい。全部終えて戻ってきたら、一度は掴んだはずの果実はすべて腐って土の上、ということになりかねない。アト、改めてもう一度訊くが――すべてわかった上で言っているのだろうな?」

 アトを見据える黒の双眸が底光りする。

 押し殺した低い声は、返答次第で炎にも氷にも変じるだろう。そのことを、いやおうなしに理解させられる。



 インが得たものを、アトの都合で投げ打て。

 犠牲は避けられず、成功する可能性は極めて低く、成功したところで費やしたものに値する成果は得られない。それどころか、これまでの成果すべてを食いつぶしかねない危険な賭け。

 ガンプを救うとは、つまるところ、そういうことであった。




 インが言わんとすることを察したか、アトの視線が力なく床に向けられる。

 アトがガンプの叛乱を知るにいたったのは、フェルゼンへやってきたセッシュウの口からであった。それからずっと、アトの胸をさいなみ続けてきた焦慮しょうりょの炎が、インの冷厳な言葉を浴びて勢いを弱めた。

 多少なりと冷静になった、と言いかえることもできるだろう。

 それまでは意識していなかった疲労がずしりと両肩にのしかかってくる。久しぶりの騎行で無理をしたせいか、身体の節々も痛みを訴え続けていた。



 そんな中、アトの脳裏を幾つもの思案がよぎった。

 ガンプの危機を見過ごすことなど絶対にできない。ラーラベルク公爵家の人々は、アトや妹のジークリンデにとって、とても大切な人たちだ。くわえていえば、アトは皇女の時分、何度もガンプに足を運んでは、気さくな住民や鉱夫たちと言葉を交わしたことがある。あの都市が紅金騎士団やドルレアク公に蹂躙じゅうりんされるところなど見たくなかった。



 しかし、インの言うことがもっともであることも分かる。

 では、アトひとりでガンプへ向かうべきだろうか。

 それは無駄だ、と思わざるをえなかった。アトひとりがガンプにたどり着いたところで何もできない。先年と同様、敵の手でひねり潰されるだけであろう。

 それ以前に、単独ではヒルス山脈を越えることさえおぼつかない。



 そこまで考えたアトは、必然的にもう一つの事実に思い至る。

 その事実とはつまり、仮にインたちが協力してくれたところで、今思い浮かべた内容はほとんど変化がない、ということであった。

 アトにくわえてインやキル、その他の将兵が加わったところで、ガンプを囲む数万の大軍をどうやって撃退するのか。敵はおそらく紅金騎士団の主力部隊、それにくわえてドルレアク公爵が率いる大軍も控えているはずだ。千や二千でどうにかなる敵ではない。



 ドレイクの全軍でかかればどうにかなるだろうか。

 だが、それだけの兵がヒルスを越えるには膨大な物資が必要だ。準備を整えるだけで半月以上かかる上に、南北に敵がいる状態でドレイクを空にするという危険を冒すことになる。

 ガンプという、インにとっても、ドレイクの住民にとっても、縁もゆかりもない都市を救うためにその危険を冒せと求めるのか。しかも、大軍でのヒルス越えなど、嵐のダウム河を渡河するよりも無謀なことだ。全滅したところで何の不思議もない。




 冷静になって考えれば考えるほど、ガンプの救援は不可能事に思えてくる。

 その不可能事に対して、どうか力を貸してほしいと願うことの意味をわかっているのか、とインは問うた。

 アトは答えるしかない。わかっていなかった、と。





 きっと、自分はガンプの救援が不可能事であることを認めたくなかったのだろう、と力なくうなだれる。

 それでも、インであれば何とかしてくれるのではないかと考えたから、無我夢中でドレイクまで駆けつけた。それは手前勝手な期待であり、根拠のない願望だ。ある意味、逃避ですらあったかもしれない。

 他人に動かされることを何より嫌うインにとって、手前勝手な感情を押し付けてきた挙句、どうか自分のために戦ってくれと懇願こんがんする相手など嫌悪の対象でしかないだろう。

 それをわかっていながら、なお、それをしようとしていた自分にアトはようやく気がついた。その顔が青ざめたのは、疲労や苦痛によるものではない。



 ここにおいて、アトは完全に冷静さを取り戻す。

 そして、インはそのことを正しく見て取った。



「ふん、ようやっと落ち着いたか。これでもう少しまともな話ができる」

 ほんのわずか、険がとれた口調で言う。

 アトは蚊のなくような声で応じた。

「……あ、そ、その……申し訳、ありません」

「別に謝ることはない。訊くが、俺がこの状況でガンプのために動く理由がないことは理解したな?」

「は、はい……」

「だが、お前としては、それでは困るのだろう?」

「それは……はい。困り、ます」

「であれば、解決策はきわめて単純だ。ガンプのために動く理由がないのなら、お前のために動く理由をつくればいい」



 その言葉に、アトは疲労も忘れて目をぱちくりとさせる。

「あの、それはどういう……?」

「アーデルハイト。お前の今日までの働きに免じて、一度だけ機会をくれてやる。『望みは刃もてかなえるべし』」

 インが口にした最後の言葉は、ある特定の催しにおける慣用句だった。

 闘技場テアトルムで行われる殺戮さつりく劇。剣闘士とめい打たれた奴隷たちによる、血で血を洗う闘争の始まりにおいて、主宰者と観客はこの言葉を声を大にして叫ぶのである。



「俺と戦って膝をつかせたらお前の勝ちだ。ガンプだろうと帝都だろうと付き合ってやる。拒むのならそれでもいいが、二度と話を蒸し返すことは許さん」

「イン様、それは……」

 思わず息をのむ。それはアトが思いもよらない提案であり、機会であった。

 イン相手に戦って勝てる自信はまったくない。膝をつかせることさえ出来ないだろう。アトは今日まで実戦、訓練を問わず、幾度もインの戦いを見てきたが、インが膝をついた場面など一度も見たことがなかった。本気のキルを相手にしたときでさえ、インは大樹のように揺らがなかった。



 自分がそれを出来るとはとうてい思えない。

 だが、それをすればアトの願いを全面的に受け入れてやろう、とインは口にした。

 これがどれほどの譲歩であるのか、わからないアトではない。



 そんなアトの様子を、インは冷静な面持ちで見つめている。

「で、どうする? やるのか、やらないのか。やるにしても、すぐやるのか、それとも身体を休めた後でやるのか」

「すぐやりますッ」

 アルシャートを落とすのか、ガンプを救援するのか。

 勝つにせよ、負けるにせよ、決着が早いに越したことはない。

 ひとたび心を決すれば、アトの行動は素早かった。




◆◆




 その日、ツキノは朝から体調が思わしくなかったため、日が昇ってからも寝台で横になっていた。

「……?」

 そのツキノが、不意に何かを聞きとがめたように顔をあげるのを見て、傍らで縫い物をしていた姉のリッカは不思議そうに問いかけた。

「ツキノ、どうかしたの?」



 もしやどこか痛むのか、と持っていた針と糸を机において妹に手を伸ばそうとする。

 ツキノは小さくかぶりを振って応じた。

「大丈夫だよ、お姉ちゃん。少し身体が重いだけで、痛むわけじゃないから」

 そう言いつつも、ツキノの顔から怪訝そうな表情が去ることはなかった。

「何か、聞こえない?」

「何か? んー……」

 妹に言われ、リッカは耳を澄ましてみる。だが、これといって気になる音は聞こえてこなかった。

 もう少し正確にいえば、建物のあちこちから大声や走る音、大きな物が乱暴に置かれる音などが聞こえてきて、どれがツキノの言う「何か」に当たるのかがわからなかった。



 つい数日前まで緋賊と名乗っていた者たちは、いまやリンドブルムと称してドレイクの主権者になりおおせている。

 そうなっても、インは評議会館に居を移そうとせず、起居の場をセーデから動かさなかった。自然、セーデには多くの人間が出入りするようになっており、それは本拠の中も例外ではない。そういった騒音が、リッカたちがいる奥の部屋にまで響いてきているのである。

 もし、ツキノが「建物がざわつく気配がする」と口にしていたら、リッカは「それはそうでしょ、これだけ人が出入りしているんだもの」と答えたに違いない。



 しかし、ツキノが感じているのは、そういったことではなく、もっと物騒なものだった。

「どんな音?」

 姉の問いに、考えつつ応じる。

「何かが、強く、強く、ぶつかりあっている。そんな音だと思う」

「ぶつかりあう? わたしには全然聞こえないなあ」

 リッカは不思議そうに首をかしげた。武術の達人である祖父セッシュウがいれば何か気づいたかもしれないが、セッシュウはインの命令でフェルゼンに赴いている。母のスズハもここにはいない。



 リッカは立ち上がって部屋の扉を開け、廊下の様子を確かめた。

 祖父はよく「ツキノは勘働きに優れているのう」と目を細める。リッカが感じ取れない何事かをツキノは感じ取ったのかもしれないと、そう考えた。

 もっとも、セッシュウはリッカに対しても「物事の勘所を外さない」とか「孝心の厚さは東域でも一番」とか、はては「いずれ三国一の花嫁になるだろう」などと評しているので、リッカは祖父の孫評価についてはあまり信を置いていなかったりするのだが。




「おや、リッカちゃんじゃないか」

 そこに足早に通りかかった貫禄ただよう婦人を見て、リッカは慌ててぺこりと頭を下げる。

 パルジャフの妻パウラであった。

 都市の情勢は落ち着いたものの、パルジャフ邸は焼失してしまっているので、パウラをはじめとしたパルジャフの家人はまだセーデに留まっているのである。

 リッカにとって、ドレイク議長の夫人であるパウラは雲の上の人である。パウラ自身は偉ぶることもなく、今のように気さくに声をかけてくれるのだが、リッカはパウラを前にするとどうしても緊張してしまうのだ。



 パウラの眉間にはしわが刻まれている。

 だが、これはリッカの態度をとがめてのものではなかった。

「なんだか大変なことになったねえ。アトって子はリッカちゃんたちの知り合いなんだろう?」

「ふぇ……? あっ!? は、はい、アト姉さんのことは知ってます、けど。でも、今はここにはいない、ですよ?」

 そこまで言って、リッカはふと思い出した。そういえば、祖父がセーデを発つおり、かわりにアトが戻ってくると言っていた。

 ここでパウラがアトの名を口にしたということは、もう戻ってきているのだろうか。

 そう思ったリッカは、次のパウラの言葉を聞いて凍りつくことになる。



 パウラは目を瞬かせた後、こう言った。

「ああ、まだ知らなかったのかい? なんでもそのアトって子が、訓練場で少年――じゃないね、イン様にこてんぱんにのされているって話だよ」







『が、あアアッ!』

 リッカとパウラ、それに話を漏れ聞いていたツキノが訓練場に到着する寸前、苦痛にまみれた声が廊下まで響いてきた。

 アトのことをよく知る姉妹が、それが姉と慕う女性の声である、とすぐに気づけなかったのは、その声があまりに低くかすれていたからであった、何度も何度も叩きのめされ、もうまともに声も出せない――そんな苦悶の声。



 一瞬、リッカたちは竦んだように足を止めてしまう。

 だが、すぐに意を決して訓練場に続く扉を開けた。

 そこで彼女たちは、訓練場の中央で片膝をついているアトの姿を目撃する。右手に握った斧槍ハルバードを支えとして、かろうじて倒れずに済んでいるといった様子であった。左手で腹を押さえているのは、そこに今しがた打撃を受けたからだろう。



 今のアトは板金鎧プレートメイルをまとっていない。顔といわず、身体と言わず、土とほこりで汚れ、首筋や頬にははっきりとした痣が見て取れる。今も唇の端からこぼれている赤い糸は、間違いなく血であろう。

 リッカの口から、ひっと息をのむ声がした。いまだに視力が完全に回復していないツキノは、姉ほど正確にアトの状況を把握できていなかったが、それでもアトがかつて見たこともないほど痛めつけられ、苦しんでいるのは理解できた。

 ツキノの身体が小さく震える。苦しげにあえぐアトの痛みと、そのアトの前に傲然と立っているインの冷たい感情が言葉によらず伝わってきて、ツキノに言い知れぬ不安を与えていた。





 ぼろぼろのアトの前に立ったインは、棍棒を片手に持ったまま、冷めた表情を浮かべている。

 インがアトへ勝負を持ちかけたのは善意や厚意からではない。

 一度だけ機会をくれてやる、との言葉は「最後の機会をくれてやる」と同義であった。言葉通り、これまでの働きに免じて与えた、ただ一度の機会。

 今、インはいっそ酷薄なまでの冷徹さでアトを値踏みしていた。



「いつまでそうしているつもりだ? 俺に膝をつかせろといったのであって、お前が膝をついても勝ちにはならないぞ」

「…………わ、わかって、います」

 うめきながら、それでもかろうじて立ち上がったアトが斧槍ハルバードを構える。さすがというべきか、ひとたび武器を構えれば、どれだけの苦痛に襲われていても手を震えさせたりはしない。斧と槍の機能を併せ持つ長大な鉄の塊は、アトの手によってぴたりと宙に据えられて微動だにしなかった。



 と、思う間もなく、アトは斧槍ハルバードを繰り出していた。インの顔面を穿うがつ勢いで突き出された鋭い攻撃。そこには手加減など微塵もなく、二人の戦いを遠巻きに見ていた者たちから悲鳴じみた声がわきあがったほどであった。

 その声はアトの意識にまったく届いていない。仮に届いたとしても、アトは攻撃を止めたりしなかっただろう。手加減をして勝てる相手ではないのだ。刃を交えてから、どれくらい経ったのか。アトが地面を這わされた回数は、すでに両手の指で数えられない。他方、アトは相手に膝をつかせるどころか、まともに攻撃をあてることさえ出来ていない。

 これでどうして、手加減などしていられるものか。



 豪速の一閃は真っ向から受け止められた。

 アトの斧槍ハルバードの先端と、インの棒の先端が正面から激突し、甲高い金属音が響き渡る。中に鉄芯を仕込んだ棍棒は長柄武器の破砕力に見事に耐えきった。

 アトの手に、かつて感じたことのない不快な感触が伝わってくるが、それを気にかけている暇はない。素早く退いて間合いをとった。

 斧槍ハルバードは、間合いという点ではっきりと棍棒を上回る。長所を活かさずして、インに勝てるわけがない。



 空間そのものを両断する勢いで斧槍ハルバードが振るわれる。唸りをあげる斧の刃が命中すれば、甲冑ごと中身を破砕することができるだろう。まして兜もつけていない頭など南瓜かぼちゃのように弾け飛ぶに違いない。

 しかし、この攻撃も真っ向から受けとめられた。棍棒を構えたインが、斧槍ハルバードの猛襲を正面から防ぎとめたのである。さすがに片手で軽々と、というわけにはいかなかったようで、インが両手を用いたことはわずかな慰めとなったが、それでも全力で放った攻撃を防ぎとめられた事実は動かない。

 足元を見れば、これまでの一連の攻防において、インがほとんどその場を動いていないことがわかる。以前、キルと対峙していた時と同様だ。

 そして、今のインの表情は、キルを相手にしていたときよりも余裕が感じられる。あしらわれていることは火を見るより明らかであった。



 知らず、アトの口から戦場の只中ただなかにいるような雄叫びがわきあがった。

 全身を襲う苦痛も、全身をよろう疲労も、今だけは気にならない。ガンプの報を耳にして以来、心にかかっていた苦衷も今だけは些事さじとなる。

 斬り、突き、薙ぎ、あるいは払い、はねあげ、振り下ろし、叩き伏せる。知るかぎりの技芸を、全力を振り絞って繰り出して、目の前の相手を打ち倒さんと襲いかかる。




 そのすべてが、イン・アストラに退けられた。




 斬れば弾かれ、突けば避けられ、薙げば受けられ。せめて膝をつかせるくらいは、と歯を食いしばって踏み込んだ一撃は軽々と弾き返されて、お返しとばかりに踏み込んできたインの棍棒によって正確に鳩尾みぞおちをえぐられた。

 今のアトは板金鎧プレートメイルはもちろん、防具の類はつけていない。

 声もなく、アトの身体が後方に突き飛ばされる。

 鈍い音をたてて地面に転がったアトは、呼吸することもままならず、えずくような声をあげて地面をのたうちまわる。

 その姿を見て、何度目のことか、周囲から悲鳴じみた声がわきあがった。




 人づてに話が広がったのか、訓練場には女性や子供も含め、多くの者たちが集まっている。中でも、もとから緋賊に加わっていた者たちの顔には悲痛な表情が浮かんでいた。

 アトが緋賊に参加してから三月も経っていない。だが、その間にアトがどれだけ周囲のために力を尽くしてきたのか、その答えが彼らの表情にある。襲撃に参加していた兵の中には、アトのおかげで命を救われた者が少なくない。彼らは声には出せねど、一様にインに非難の眼差しを向けていた。



 視線だけでは足りず、進み出ようとする者もいた。リッカは顔を真っ赤にしてインの前に走り出ようとしたが、それは場に居合わせたカイによって止められた。カイのことを先生と慕うリッカであるが、さすがにこればかりは従えないと、憤然とくってかかろうとする。

 と、そのリッカの手を、ツキノがそっと握った。

 その手から伝わってくる震えは、ツキノもまた眼前の光景に衝撃を受けていることを示している。それでも、ツキノは姉に対して首を横に振ってみせた。今、出て行ってはいけない、というように。





 そんな周囲の視線や感情を一顧いっこだにせず、インは淡々と問いかけた。

「まだやるのか?」

「…………か、あ」

 答えは返って来ない。というより、返せないのだろうが、それでもうめきながら立ち上がろうとする姿を見れば、アトに諦めるつもりがないことは明白だった。



 インの両眼がすっと細くなる。

「そういえば、お前の勝ちの条件は決めたが、俺の勝ちの条件は決めていなかったな。このまま相手をし続けても意味はない。お前が気を失ったら終わり、ということにするぞ」

「…………あ、ぐ……そ……それで」

 ようやく呼吸が落ち着いてきたのか、アトがかすれる声で言った。

「それで……かまい、ません。私、が……意識を、保っていれば済む話、です」

健気けなげなことだ。よほどにラーラベルクの一族が大切なのだろうが、だからこそわからない。なぜ、お前は諦めた?」



 インの言葉に、アトは苦痛によらず眉をひそめた。

「何を、言って……?」

 顔中に疑念をあらわすアトにかまわず、インはさらに問いをなげかける。

「諦められる程度の思いだったのなら、どうしてここまであがく?」

 このとき、アトはインが言わんとすることが分からなかった。わからなかったが、それでも自然と己の決意を口に出していた。

「私は、何も、諦めてなんて、いません……ッ」

 その声には確かな意志がこもっていたが、インの眼差しは相変わらず冷えを感じさせる。

「諦めていただろうが。自分では出来ないと諦めたから、わざわざ俺のもとに来たのだろう? フェルゼンから直接ヒルスに登っていれば、どれだけ時間を無駄にせずに済んだことか。お前はその無駄を承知で俺の前に来た。これが諦めでなくて何だというんだ」




 それを聞いて、アトは目を瞠った。

 インとアトの間では「諦めた」という言葉の認識に違いがある。

 自分の望みを――帝国にいる大切な人たちを救い出すことを諦めてはいない。

 その意味でアトは確かに「諦めていない」といえる。

 しかし、それを自力では為せないと考えたこともまた事実。

 自分に出来ることと出来ないことをわきまえ、判別し、他者に助力を願う。それは恥ずかしいことでも何でもない。優れた者には、たとえ臣下であっても頭を下げよ、とは亡き父の教えである。

 アトはその教えと自分の考えに従い、インのもとにやってきた。



 ダヤン侯を恐れず、シュタール帝国を恐れず、ためらうことなく戦いを挑むことができる人。

 アトを叛逆皇女と知りながら、いとわず、利用せず、ただアト個人として話をしてくれる人。

 そんな人を、アトは他に知らない。

 ガンプを救わねばと思ったとき、アトが助力を願えるのはインしかいなかった。



 繰り返すが、それは恥ずかしいことでも何でもない。むしろ、皇家に生まれた身が父母以外の人間に頭を下げられることを美徳と称える者も多いことだろう。

 けれど。

 確かにアトは「諦めた」のだ。自分ひとりでは無理だ、と。誰かの助けがいる、と。




 イン・アストラは言う。

 なによりそれが気にいらない。ああ、心の底から気に食わない。

 他者に頼るということは、結局のところ、他者の思惑に自分の大切なものを委ねるということだ。

 本当に自分にとって価値があるモノならば、そんな簡単に諦められるはずがない。他者にゆだねてよしとできるはずがない。

 泥をすするなど生易しい。殺した敵の肉を喰らい、その血で喉を潤して、その果てに我が手に取り戻す気概、覚悟がなくて、どうして大切などといえるのか。

 それが出来ないというのなら、そいつが守りたいモノは、その程度の価値しかないのだと自ら認めたも同然だ。




 静まりかえった訓練場にインの声が響く。

「その程度の奴が、その程度のモノのために、俺に命をかけろとは笑わせる。そんなことはないと、それは違うというのであれば、今ここで刃もて証明してみせろ、アーデルハイト。それさえできないのなら――ふん、俺たちは互いに見る目がなかったということだろうさ」

 言うや、インは棍棒を頭上で一回転させてから、先端をアトに突きつけた。

 アトは震える唇を開きかけたが、すぐに思い直したように強く引き結ぶと、インと同様に斧槍ハルバードを頭上で回転させ、ぴたりと相手にした。




 このとき、ドレイクの上空ではにわかに雲が出て日が翳ろうとしていたが、訓練場にいる者たちの中で、そのことに気づいている者はほとんどいなかった。




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