第五章 リンドブルム(五)
晴れ渡った空がゆっくりと茜色に染まっていく。
上空に向けた視線の角度を少し傾ければ、彼方にそびえたつヒルス山脈の山肌が、夕日の光を受けて橙色に染まっているのが見て取れた。夕刻になり、山脈から吹き付けてくる風は冷気を帯びはじめるが、それでも肌寒さを覚えるまでには至らない。
統一暦六三〇年もすでに六月に入っている。
吹き付ける風の暖かさからも、近づく盛夏の気配を感じ取ることができた。
セーデ区への放火ではじまった、自由都市ドレイクの多事多端な一日。
住民を戦々恐々とさせた混乱も日没と共に終わりを迎えるだろう、と市民の多くは考えていた。というより、そうあってくれと、それぞれの信じる神に必死に祈りをささげていた。
そんな無辜の市民の切なる願いが届いたのか、夕刻の訪れと共にドレイク市街の騒乱は沈静化しつつある。
これが本格的な乱の終息につながるものなのか、それとも一時的な小康状態に過ぎないのか。厳重に戸締りした家に閉じこもりながら、人々は固唾をのんで状況の推移を見守っていた。
罪なき人々が期待と不安を抱えて夜を迎える一方で、騒乱の当事者たちはほどなく始まる『次』のために準備を進めている。
もっといえば、彼らは『次』の主導権を握るために画策し、奔走していたのであり、そんな各陣営の思惑が期せずして重なり合った結果が、現在の一時的な空白状態であった。
貧民窟と称されるセーデ区の奥。
つい昨日まで一介の賊徒の本拠に過ぎなかった建物は、いまやドレイク議長さえ傘下に加えた一勢力リンドブルムの拠点となり、幾人もの使者があわただしく出入りを繰り返している。
その多くは独立派の評議員、すなわち議長パルジャフの同志だった者たちであるが、中にはドレイク守備隊の有力者からの使者も含まれていた。彼らはパルジャフの使者から騒乱の詳細を伝えられ、パルジャフ自身が起つのではなく、二十歳かそこらの青年に付き従ってドレイクを解放するという議長の決断を知るにいたった。
その事実にどんな感情を覚えたかは人それぞれであったが、いずれにしても無視できることではない。密やかにセーデを訪れる使者の数は、時を経るごとに増える一方であった。
リンドブルムにおけるパルジャフの最初の任務は、これらの使者の対応をすることだったが、これと平行して檄文を書くという役割も課されている。
ただ文案を練るだけではない。印刷術が存在しない以上、檄文はすべて人の手で書き記さねばならない。それも、ただ文字が書ければ良いというものではなく、見栄えの良さ、格調の高さ――ようするにある程度の教養が必要であった。
つけくわえれば、学のある富裕層に向けた檄文と、難しい読み書きができない庶民に向けた檄文を同じ内容にするわけにもいかなかった。
評議会であれば、それを専任とする文官が複数おり、彼らが書いた文章の末尾にパルジャフが花押を記せば済むのだが、残念ながら今のリンドブルムはそこまで洗練されていない。
つまるところ、パルジャフがすべての役割を兼ねなければならず、かつてのドレイク議長の眼前には、建物中からかき集められた羽根ペンと羊皮紙がどっさりと置かれている。さすがのパルジャフも、その光景を見たときはため息を禁じえなかった。
カイの手が空いていれば、パルジャフの仕事量はだいぶん減ったに違いないが、カイはカイで今後の作戦立案から負傷者の治療、アルセイス、シュタール両軍の情報収集、さらに噂の拡散に関する指示も出さねばならず、とてもパルジャフを手助けする余裕はない。
おそらく、この二人は現在のリンドブルムで最も多忙な二人組であるに違いなかった。
◆◆
カイたちが目の回るような忙しさに直面していた頃、リンドブルムを創建した張本人は何をしていたのかといえば、自室の寝台でのんびり横になっていた。隣にはキルもいる。
多忙な二人組がいれば、暇な二人組がいるのが世の道理とばかりに、二人ともすでに湯を浴び、服も着替え、評議会館の戦闘で浴びた血は綺麗さっぱりぬぐわれている。かすかに湿った髪から漂う芳香は、カイが作製して浴場に置いている香油のそれだった。
インはことさら配下を酷使して安眠をむさぼっているわけではない。休める時に休んでおくのは戦士の心得だ。必要とあらば、一日でも二日でも戦い続けていられるインだったが、その必要がないのに延々武器を構え続ける趣味はなかった。
そのインの横では、先ほどからキルが蜂蜜色の髪を額に張り付かせたまま「……むー」と唸り声をあげている。
キルの不機嫌の理由は手に持った赤いケープにあるようだった。カロッサ伯との戦いのおり、キルは敵兵の一撃を避けきれずにケープを斬られてしまった。その跡を睨んでは、不機嫌そうに声を荒げるという行動をずっと繰り返しているのである。
斬られた跡といっても親指一本分の長さしかないので、糸で繕うことは十分に可能だろうが、キルとしては腹立たしさがぬぐえないらしい。
インはキルがケープを大切に扱っていることを知っている。洗濯から繕いから、他人の手を借りずに一人で行っていることも。キルの腕はお世辞にも達者なものとは言いがたく、キル自身、そのことを自覚しているようだったが、それでも他者の手を借りようとはしなかった。
だからインは、新しいものを買えばいいとか、裁縫職人に直してもらえばいいとか、そういったことは口にせず、少女の気持ちが落ち着くのを辛抱づよく待っているのである。
ただし、すぐ隣でむーむー唸られていると気になって仕方ないので、一つだけキルの不機嫌をなだめる手を打ってはいた。
その手が奏功したのは、それからまもなくのこと。
突然、ぴくりと肩を震わせたキルが、ぐりんと首を扉の方に向ける。わずかに遅れて扉が叩かれたので、インが入るように呼びかけると、その声に応じて二人の女性が室内に入ってきた。
リッカたちの母親であるスズハと、パルジャフの妻パウラである。
二人は両手に一抱えほどもある盆を持っており、スズハの盆には大人の握りこぶしほどもある握り飯が十個以上、パウラの盆には香ばしい匂いを漂わせる巨大なパイがでんと乗っかっている。
それを見た瞬間、キルの目が狼のごとくぎらりと輝いたのを、インは視覚によらず見抜いていた……
「久しぶりだねえ、少年! いや、もう少年と呼んじゃあいけないね。あの頃からふてぶてしい面構えだったけど、さらに磨きがかかっちゃって、まあ!」
ばんばんとインの背を叩きつつ、パウラがからからと笑う。貫禄のある身体をエプロンで包み、赤い髪を結い上げたパウラは遠慮なしにインに話しかけ、横にいたスズハをあたふたと慌てさせた。インが怒り出すのではないか、とスズハは心配したのである。
だが、幸いというべきか、この心配は杞憂に終わる。インは軽く肩をすくめただけで、パウラに対して怒気や不機嫌さを示すことはなかった。
「そういうそちらは、あまり変わりがないようだ」
「あっはっは、この年になると、三年やそこらでそうそう変わるもんでもないさね――おっとお嬢ちゃん、誰も取りゃしないから、もっとゆっくりお食べよ。ああ、ああ、ソースが口にべったりついちゃってるじゃないか」
「むが?」
ジャガイモと鶏肉のパイを、リスか何かのように口中に詰め込んだキルを見て、パウラがあれこれと世話を焼き始める。
それを見たインは小さく息を吐き出したが、その八割くらいは安堵で構成されていた。
インとパウラには面識がある。
三年前、キルの父ヴォルフラムの一党に捕まっていたパウラを救い出したのがインであり、その後、パウラをパルジャフ邸に送り届けた際、半ば無理やり料理をご馳走されたのである。
以来、二人は今日まで会話をかわしたことはない。顔を合わせたこともない。実質的にただ一日の付き合いといってよかったが、実のところ、その一日でインはパウラが苦手になっていた。
嫌っているわけでもなければ、軽蔑しているわけでもない。むしろ、パルジャフに対して「自分のことはかまうな」と言い放ったこの妻君の肝の太さは大いに気に入っているといっていい。
ただ、害意なく、底意なく、ついでにいえば遠慮もなく接してくる相手の対応はインがもっとも苦手とするところであり、パウラはそういった人物の典型だったのである。
三年前におぼえた苦手意識は今なお健在であった。
パウラの話の矛先が自分からキルに移ってくれたので、インはこっそり安堵しつつ、自分も食事に手を伸ばす。
パイの方はキルが一人で食べつくす勢いだったので、インが手を伸ばしたのは握り飯の方であった。
ちなみにキルがこちらに手を出さなかったのは、はじめて食べた際の梅干の記憶が強烈だったからであるらしい。以来、キルは他の食べ物がある際は握り飯の方には手を出さず、食べる際にも必ず割って中身を取り出す習慣がついていた。
スズハが握った米のかたまりは綺麗な三角形を形作っており、インはそれをたちまち二つ、三つと胃に放り込んでいく。食事を持ってくるように、と命じておいたのはキルの不満をなだめるためであったが、イン自身の空腹を満たすためでもある。食べられるときに食べておくのも戦う者の心得であろう。
三つ目の握り飯を食べ終えたインが何かを求めて手を伸ばす。その手に杯を握らせたのはスズハであり、中にはブドウ酒や麦酒ではなく、冷えた湧水が満たしてあった。
「イン様」
杯が口から離れるのを待って、スズハが控えめにインに呼びかける。
「どうした?」
「さきほどのご命令どおり、今日は食料の残りを気にせずに食事を用意しました。その分、蓄えがこころもとなくなっておりまして……」
ためらいがちに報告したスズハは、やや上目遣いでインを見やる。
これまでインたちが蓄えていた食糧の大半は、騒乱に先立ってフェルゼンに運び終えていた。もちろん、残った二十人あまりが食べていく分にはなんら問題ない量を残していたのだが、パルジャフたちが避難してきたことにより、本拠の人数は三倍以上に膨れ上がっており、しかも大半は私兵と奴撲、つまりは働き盛りの男たちであった。必要な食事量は昨日までの比ではない。
この状況において、厨房をあずかるスズハに対してインが下した命令は「食料の残りを気にせず、できるだけ豪華に、かつ大量の夕食をつくるように」というものだった。
スズハは驚きつつも素直に命令に従い、パウラたちの手も借りて食事を用意したのだが、あらためて食料の備蓄を確認してみると不安をおぼえずにはいられなかった。今後もこの調子で食事を用意していくと、数日で備蓄が底をつきはじめる。
インなりの思案があっての命令だろう、という推測はたてられる。もしかしたら、物資補給のあてがあるのかもしれない。
それでも厨房をあずかる者として状況は伝えておくべきだ、とスズハは考えた。
義父を頼らなかったのは、インが厨房を任せたのは義父ではなく自分である、という自覚と責任感があったからである。
このあたり、スズハはごく自然に公私の別をわきまえていた。
そんなことは分かっている、と聞き捨てにされることも覚悟していたスズハだったが、インは機嫌を損じた様子もなくうなずいた。
「まあ仕方ない。パルジャフたちにしてみれば、新しい勢力に加わった最初の飯だ。豆スープとパン一つの粗末な食事を食わせるわけにもいかない。できれば最初に会ったときの俺みたいに、連中の胃袋をわしづかみにしてくれるとありがたいんだがな」
インがからかうように言うと、スズハは眉目に困惑を漂わせた。
「それは、その、みなさんの好みがありますから……もちろん、努力はいたしますけれど」
「そうしてくれ。この戦いを長引かせるつもりはないが、いざとなればお前たちはフェルゼンに逃がす。セッシュウも一緒にな。だから、食料について心配する必要はない」
インは四つ目の握り飯に手を伸ばしながらそう言った。
スズハが案じているのは家族のことだろうと考えたからだが、当のスズハはといえば、依然、物言いたげな眼差しをインに向けたままである。
五つ目に手をかけたところでその視線に気づいたインは、わずかに左の眉をあげた。
「なんだ、まだ何かあるのか?」
「いざとなったら、とおっしゃいましたが、そのときにイン様たちはどうなさるのですか?」
「状況次第だな。なんだ、心配してくれてるのか?」
その口調はさきほどと同様にからかうような響きを帯びていたが、これに応じるスズハはといえば、さきほどと異なり困惑を示さなかった。
黒い瞳に真摯な光を浮かべ、こくりとうなずく。
「恩ある方、共に暮らす方々の身を案じるのは当然のことではないでしょうか。お腹がすいては戦はできないと申します」
心配しているのは家族の身だけではない、と言葉と視線の双方で訴えてくる。
小柄なスズハは、インと並んで座っていても見上げる形になる。
照れもなく、恐れげもない眼差しを至近から向けられ、今度はインが眉目に困惑を漂わせる羽目になった。
ただし、その困惑の理由はわりとしょうもないものであった。
今のスズハは長い黒髪を首の後ろで束ねているため、鮮麗なうなじがあらわになっている。おまけにインの位置からだと、自然、豊かな胸元に目がいってしまう。
インがついっと視線をそらすと、その行動の意味に気づいたスズハはやや慌てたように胸元に手をあて、すすっとインから遠ざかった。
困ったように、あるいは怒ったように、整った眉が緩やかな八の字を描く。
その表情のまま、スズハがインに対して何事か口にしようとした時だった。
不意にスズハの目が大きく見開かれた。
その視線はインの肩に向けられている。じわり、と赤の色彩が服を染めていることに気づいたのである。
「血が……ッ」
「ああ、また傷が開いたか」
ずきりと痛む肩口の傷に、インは煩わしげに顔をしかめる。
それはカロッサ伯の護衛の剣でえぐられた傷であった。決して深傷ではないが、かすり傷というほど浅くもない。
手当てはすでに済ませていたが、肩の傷は止血が難しく、腕を動かすたびに患部を刺激してしまうものだから、なかなか血が止まらない。血止めのために巻いた布はおろか、上着さえ赤く染まってしまっているところを見るに、どうやら本格的に傷口が開いてしまったらしい。
もっとも、インにとってはなんということもない傷である。スズハにもそう言おうとしたのだが、どうやらスズハは異なる考えを抱いたようだった。
気にするなといいかけたインの機先を制するように、繊手がインの服の裾をがしっとつかむ。その仕草は数日前のツキノのそれを思い起こさせた。
「手当ていたします」
「いや、ほうっておけば勝手にとま――」
「上着を脱いでください」
「だから――」
「ご面倒でしたら私がいたします」
「…………」
引くそぶりなどまったく見せない態度は、娘がとったものとほぼ重なる。
内心でため息を吐きつつ、インは相手のいうことに従った。
実のところ、スズハはカイとキルに次いでインとの付き合いが長く、その分、インもスズハのことを知っている。
普段は温和で控えめで、インの言葉に逆らうことなどまずない女性なのだが、時として妙な強さを見せることがある。たとえば今のように。
この場合、どれだけあらがっても無駄に終わることを、インは経験から学んでいた。
◆◆◆
西門を占拠したアルセイス軍陣地の一角。
指揮官であるテオドールは、手元の書状に視線を落としてわずかに唇を歪めた。
「――なるほど、良い手段だ。どうやらこの都市には端倪すべからざる策士が潜んでいるとみえる」
それはドレイク評議会議長パルジャフ・リンドガルによる檄文――いや、署名は議長ではなく、あくまで評議員となっているが、事実上ドレイク議長によるアルセイス軍追討の檄文であった。
予測しえる最悪の事態の一つ。それが現実となってしまったことをテオドールは認めた。
――もっとも、言葉をかえていえば、あくまで予測の範囲内の出来事である。
たとえ最悪の事態であろうとも、予測が可能であれば対策を用意しておくこともまた可能。
テオドールの頭脳が不可視の火花を発して激しく回転する。その様子を映し出すかのように、第三将軍の金色の瞳が灼熱した光を放った。
そのテオドールの前ではブリスが叩頭していた。
かかる事態を招いてしまった責任と、パルジャフ邸での負傷が、青年の顔色を死人のそれに近づけている。激怒したテオドールに斬り捨てられることも覚悟していたブリスであったが、次にかけられた声は思いのほか穏やかなものであった。
「この檄にあるリンドブルムとやらが、例の緋賊なのか?」
「は、おそらくは……」
ブリスはうめくように応じる。
パルジャフをしとめ損なったブリスであったが、一本の藁もつかめなかったわけではない。炎上したパルジャフ邸から逃げ出した一団がセーデ区に入ったことは確認できていた。
当初、ブリスは自身があずかった手勢のみで強襲しようかと思案した。
もともと、セーデの制圧はアルセイス軍の作戦目標に組み込まれている。予定ではドレイクを制した後で、ということになっていたが、セーデにパルジャフが逃げ込んだ今、予定を早めても異論は出ないだろう。
ただ セーデに攻め込むならば、まず地下水路をふさいでおく必要があった。先にオリオール伯の遺児を捕らえたおり、地下から包囲網を破られたことをブリスは忘れていない。
しかし、水路をふさぐとなると、ブリスがあずかった兵だけでは足りなかった。地の利は向こうにある上、緋賊の実数はいまだつかめていない。さらに、パルジャフ邸で戦った刀使いや、以前に戦ったイン・アストラとキルという少女が出てくれば、ブリスの兵力だけでは対抗できぬ。
そのため、自身の手勢のみでセーデを襲撃するという案を、ブリスは放棄せざるをえなかった。
恥をしのんでテオドールのもとに戻ったブリスは、失態を陳謝した後、セーデ襲撃の許可を請おうとしたのだが、傷の治療に手間取ったこと、さらにシュタール軍が一定の秩序をたもって北門に集結中である、という情報が届いたこともあって、即座の再出撃は許可されなかった。
結果として残ったのは、相手に数倍する兵を率いながら任務に失敗したという不名誉のみ。さらに、左手は二度と短剣を扱えない状態となってしまい、個人としての戦闘力も著しく減じている。さらにさらに、断続的に襲ってくる傷の痛みと多量の出血のため、思考の持続も困難になりつつあった。
いかに相手がドレイクの議長だったとはいえ、しょせんは文官。その文官相手にこの体たらくとあっては、不名誉もここにきわまった感がある。
誰でもない、ブリス自身が己をそう蔑んでやまなかった。
今のブリスは、実績の面からも、能力の面からも、さらには体調の面からも、テオドールの側近たりえない。
自覚せざるをえないその事実が、よりいっそうブリスの焦慮に拍車をかける。
そこにきての、この檄文。ブリスが任を果たしていれば、起こりえなかった事態が起きたのだ。屈辱のあまり目がくらむ思いであった。
テオドールは片目をつぶりつつ、そんなブリスを見下ろしている。
やがて意を決したように一つうなずくと、深々と下げられたブリスの後頭部めがけて命令を投げ落とした。
「ブリス、貴様を今回の作戦から外す。王都に戻り、傷の手当に専念せよ」
「――ッ」
それはブリスが予測もし、恐れもしていた命令だった。とっさに顔をあげたブリスは再考を願うべく口を開きかけたが、テオドールの目を見た途端、その勢いは急速に萎えてしまう。
再考の余地などない、と金色の瞳は告げていた。
「――勘違いをせぬようにいっておくが」
うつむいたブリスに向けて、テオドールは言葉を続ける。
「此度の作戦には手間も金もかけた。私にとっては大いなる一歩だが、逆にいえば、ただの一歩に過ぎぬ。これより先、踏むべき階梯は幾十と続いている。貴様の智勇が役立つ時は必ず来る、ということだ。あえて賊相手に命を捨てたいというのであれば話は別だが、貴様の身命、それほど安くはあるまい?」
思いもよらぬ言葉をかけられ、ブリスは目を見開いてテオドールを見上げた。
視線の先では、アルセイスの平民将軍がにやりと不敵な笑みを浮かべている。
「閣下……」
「我が覇業に貴様は欠かせぬ。災いを転じて福となすように、失態を功績に転じてみせよ、ブリス・ブルタニアス。そのためにも今は退くのだ。いずれ傷が治った後、あらためて雪辱の機会をくれてやる」
「……は、承知いたしました……ッ」
土気色だったブリスの頬にうっすらと血の色がのぼる。
と、それと同時に、がたりとブリスの身体が崩れおちた。張り詰めていた気が抜け、疲労と苦痛がいちどきに押し寄せてきたのだと思われた。
テオドールは声を高めて別の部下を呼び入れると、ブリスに治療を施すよう命じる。
運び出されていくブリスを見やるテオドールの瞳は、どこか冷ややかな光を放っているように見えた。




