第一章 緋色の凶賊(四)
緋賊の食事は日に二度、本拠の中でもっとも大きな広間で供される。
訓練を終えたアトがやってきたとき、すでに広間には老若男女を問わず多くの者たちが集まっていた。
内訳を見れば、アトのように戦いを任とする者は半分ほどであり、残りの半分は日々の食事をつくる者、着る物を繕う者、武具を磨く者、本拠の清掃をする者など、陰に日向に緋賊の活動を支える仕事を任されている者たちである。
後者に関しては、いってしまえばただの雑用であるが、供される食事の内容は戦闘員もそれ以外も変わりはない。もっといえば、頭目の食事内容も同じであった。
これはインが内を支える者たちを軽視していないことを意味している。
このあたり、緋賊に加わって日が浅いアトなどはいまだに新鮮な驚きをおぼえていた。
広間の一角にキルの姿を認めたアトは、わずかな逡巡の後、その隣にお邪魔することにした。
まだ子供といってもいい年頃のキルのことを、アトは何かと気にかけているのである。
同席を求めたアトに対し、キルは関心なさげに小さくうなずくと、すぐに食事を再開した。
盛大に炙り肉にかぶりつく少女を見て、アトは恐る恐る声をかける。
「ええと、キルちゃん。よかったら私の分も食べますか?」
その瞬間、キルはくるりと顔の角度をかえてアトを見た。
ぎらぎらとした目の光は獲物を前にした狼さながらで、アトはやや気圧されてしまう。
そんな相手の内心を忖度することなく、キルは最小限の言葉で自分の意思を伝えた。
「食べる」
「あ、はい。じゃあどうぞ」
そっと自分の皿をキルの側に押しやるアト。
ためらうことなくその皿を抱え込んだキルは、不思議そうにアトの顔を覗き込んだ。
襲撃の最中は常に甲冑で身を覆っているアトであるが、さすがに食事どきまで鎧兜を着けたりはしない。
腰まで届く亜麻色の髪に形良く整った眉。大きく円らな瞳にすっと通った鼻梁、白皙の頬に桜色の唇。
それが重々しい鉄兜を取り去ったアトの素顔であった。
ハルバードを扱う両腕は節くれだっているし、重い甲冑をまとう身体は全体的に逞しさを感じさせる。つけくわえれば、背丈は並の男性より頭一つ分大きい。
それでも、疑いなくアトは女性であった。
形よく盛り上げった胸の膨らみを見れば、そのことに疑念を抱く者はいないだろう。
そんなアトにキルは疑問を投げかける。
「アト、肉きらい?」
「いえ、そういうわけじゃないんですけど、スープとパンで十分かなと思いまして」
今日の食事内容は、ジャガイモ、ニンジン、玉ネギに豚肉をいれて煮込んだスープ、酢漬けのカブとキャベツ、リンゴのバター焼き、それに黒パンというもので、これに胡椒をまぶした炙り肉がつけられる。
スープには、やや不ぞろいながら、大きく切り分けられた具がふんだんに盛り込まれており、アトとしてはこれと黒パンだけで十分に腹を満たせる。もちろん野菜やリンゴを残すようなもったいないことをする気はかけらもなかったが。
アトが嘘を言っているわけではないと察したのか、キルはこくりとうなずくと、アトの皿から自分の皿へ炙り肉を移しかえた。
そして、満足げに目を細める。
「三人分の肉が食べられる。今日は良い日」
「三人? あ、イン様はどちらへ?」
もともとインの不在に気づいていたアトであるが、キルの言葉ではじめて気づいた風をよそおって問いかける。
返って来た答えはいつもどおり簡明なものであった。
「色街」
「そうですか。色街に――って、い、イロ!?」
「ん、イロ。インは大抵、戦いの後はそっちに行く」
「ちょ、そ、あ、え、ええ!? そそ、そうですか!」
緋賊に加わる以前、傭兵をしていたアトは色街の意味するところを知っている。
今さら色街と聞いたくらいで頬を赤らめるほどウブではないつもりだったが、キルのような年少者の口からその言葉を聞かされると、何やら名状しがたい罪悪感のようなものがこみ上げてくる。
年頃の子に向ける話題ではないし、それ以前に食事どきにする話ではない。
早急に話題をかえなくては、と慌てるアトであったが、キルの方はアトの十分の一も動揺しておらず、むしろ慌てるアトを不思議そうに眺めている。
こうなると、過剰に反応してしまった自分がかえって情けない。
アトはつとめて平静を装いながら、こちらを見つめる少女を食欲で釣ることにした。
「ほ、ほら、キルちゃん。早く食べないと食事が冷めてしまいますよ」
「ん」
作戦は功を奏し、キルの注意は再び肉へと向けられる。
こっそり胸をなでおろしたアトは、照れ隠しをするように酢漬けのキャベツを口に放り込んだ。
その顔が微妙に歪んだのは、アトが食事の際に嫌いなものから食べていく派の人間だったからである。
◆◆◆
「おお、イン様。このようなところで奇遇ですな」
セーデを出て歓楽街があるルテラト区に向かう途中、インは天を衝くような巨躯の男性と行き合った。
綺麗に剃られた禿頭、顔に走る幾条もの傷跡、剛毛に包まれた両腕は丸太のように太く、握り締めた拳はそれだけで一個の武器たりえるだろう。見ようによっては直立した熊に似ているかもしれない。
ちらとそちらを見やったインは、かるくうなずいてから相手に訊ねた。
「ゴズ。成果はどうだった?」
「上々と申してよろしいかと」
ゴズは緋賊でも随一といえる屈強な体格の持ち主であるが、外見が熊であるとすれば性格は象だった。争いごとを好まず、戦いには参加しない。
そんなゴズにインが与えた役割は、一言でいえば荷物運びだった。襲撃で鹵獲した武具や食料、金銭などを本拠まで運ばせるのである。
ゴズのように専門の運搬係がいれば、インたち戦闘員は重い戦利品を担がずに帰ることができる。襲撃の帰途、予期せぬ戦闘が起きたとしても素早く対処できるわけだ。
また、平時の力仕事や雑役もゴズの役割の一つで、先の襲撃で得た戦果――敵兵が着用していた甲冑や馬具など――を売りさばくことも仕事に含まれる。
ゴズはそれらの戦利品を、足のつかない店で売りさばいてきた帰りであった。
ぽんと叩いた腹のあたりには、銀貨が詰まった袋が入っている。
インは軽くうなずいてから、セーデの方向をあごで指した。
「なら急いで帰った方がいいぞ。放っておくと、キルに食事を食べつくされる」
「おお、今日は肉の日でしたか。なるほど、これは急ぎ戻らねばなりませんな」
わはは、と笑ったゴズが不意に声をひそめた。
「イン様。荷を売った店でよからぬ噂を耳にしました」
「ほう?」
インが目線だけで先をうながすと、ゴズはさらに一段階声を低くする。
「評議会が緋賊の公開処刑をとりおこなう、と。おそらく、明日になればドレイク中に広まっているかと」
「……今日の襲撃が引き金になったにしては動きが早いな。前々から準備していたか」
「おそらくは。いかがいたしますか?」
問うゴズに対し、インは少しだけ考え込む様子を見せたが、詳細がわからなければ動きようがない。
いま確かなことは、緋賊の構成員の中に評議会に捕らえられている人物は存在しない、という事実だけである。
となると、評議会が処刑しようとしているのは誰なのか、という疑問が湧いてくるわけだが、インはそのあたりを急いで探る必要を認めなかった。
ドレイクにおいて公開処刑は一種の祭りだ。明日布告して明日とりおこなう、ということはありえない。
「お前はこの話をカイに伝えろ。動くのは明日、詳細がわかってからだ」
「承知しました。ああ、それと、ですな」
「まだ何かあるのか?」
「言伝でござる。先の襲撃で逃した者たちからイン様へ。ありがとうございます、と」
ゴズ自身がそうであったように、緋賊によって奴隷の身分から解放された者は数多い。
インは捕らわれていた奴隷に対し、逃げるか、自分に従うかの二択を強いるが、いずれを選んでも首の枷は外すようにしていた。むろん先の襲撃においてもそうした。
ゴズに言伝を頼んだ相手は、自分たちを無償で解き放ったインにどうしても感謝を伝えたかったのだろう。
それを聞いたインはといえば、興味なさげにうなずくだけであった。
インが奴隷を解放するのは単純な善意によるものではない。
従う者には相応の役割をあたえて働かせたし、逃げる者に対しても一つの役割を与えている。自分たちが緋賊によって奴隷から解放された事実を、家族や友人、知人に伝える、という役割を。
これにより緋賊の行いは義挙として広まっていく。
しごく単純な人気取りである。
しかし、さして効果がある方法ではなかった。なにしろ、解き放った者たちが言われたとおりのことをしているかなど確かめようがないからだ。
へたに緋賊に利する発言をすれば役人にとがめられる恐れもあり、口を噤んでいる者も多いに違いない。
インにしてみれば、やっておいて損はない程度の感覚であるから、感謝を告げられても響くものはない。相手が目の前にいれば、礼などいらないからこちらの指示にきちんと従え、くらいのことは言ってのけたろう。
ゴズはゴズで、そんなインの性格をよく知っているので、反応の薄さを気にかけることはしなかった。
その後、ゴズと別れたインはそのままルテラト区に入った。
大通りから少し外れた位置にある歓楽街は、大通りが賑やかにさざめく昼の間は街区全体が眠ったように閑散としている。
しかし、日が落ちると一転、たちまち辺りに活気が生まれ、夜が更けるに連れて賑わいも深まっていくのが常だった。
道を歩けば、あでやかな装いの女性たちがそこかしこを行き交っており、彼女らが通り過ぎた後には脂粉の甘い香りが漂ってくる。
幻想的な管弦の音が耳をくすぐったかと思えば、立ち並ぶ家々からは男女の嬌声が飛び込んできた。
客引きがうるさいくらい声をかけてくる場所もあれば、そんな無粋なことはいたしませんとばかりに静かな門構えが並ぶ一画もある。
自由都市の繁栄を象徴するかのように、今日も歓楽街は混沌とした活気に包まれていた。
そんな中でインが訪れたのは、ルテラト区の東に位置する建物である。
このあたりはいわゆる高級妓館が立ち並んでいる一画であり、客が店を選ぶのではなく、店が客を選ぶ。
そのためか、客引きの類はまったくおらず、あたりは驚くほど静かな佇まいを見せていた。
ここでインの相手をつとめているのは、クロエという名の黒褐色の髪の女性である。
南方のアルセイス王国の生まれであるらしいが、口数が少なく、必要なこと以外はほとんど口にしないため、詳しいことはインも知らない。
生国のことを聞いたのも本人の口からではなく、同じ妓館で働いているクロエの妹ノエルの口からであった。
直ぐな長髪や澄んだ青緑色の瞳は美しく、顔立ちも非の付け所がないほどで、妓館の中で一、二を争う妓女であっても不思議ではない。
少なくともインはそう思っているのだが、実際にそれほどの人気を得ていないのは、口数の少なさと、諸事に控えめな性格のせいだろう。
通常、客が払う金の大半は妓館主の懐におさめられる。
では、妓女たちがどうやって自分たちの収入を得るのかといえば、客から妓女に直接渡される贈り物がそれにあたる。直接に金銭を渡す者もいれば、装身具を贈る者もいるが、そういった品々は娼館主を介することなく妓女たちの懐に入るのである。
人気の妓女ともなれば、黙っていても男たちが先を争って貢物を差し出してきて、一夜で金貨数十枚の収入を得る妓女も存在する。
もちろん、そういった者は全体から見ればごくごく一握りだけ。
大抵の妓女は客となった相手に対して各々の手練手管を駆使し、相手から好意と金品を得ようと努めるのである。
ところが、クロエはそういった行為をまったくしようとしなかった。
かといって、男に媚びるものか、とお高くとまっているわけでもない。これまでの交情はいずれもきめ細やかなものだった。
よくわからない女だ、というのがインの率直な感想だった。
よくわからないといえば、クロエの年齢も見た目からは判断しづらい。大人びた顔立ちから、インと同じく二十歳前後だと思われたが、もう一つ二つ年上でも、あるいは年下でも不思議には思わなかったであろう。
「ああ、そういえば忘れてた」
寝台で横になっていたインが身を起こす。
部屋の一隅で茶の準備をしていたクロエが怪訝そうにインを見た。その目の前に、インがここに来る途中で買い求めてきた菓子の箱を置く。
パイ生地にリンゴや蜂蜜などを詰めて焼き上げたもので、ドレイクでは一般的な菓子である。もっとも、菓子それ自体が高価な代物であるから、一般的ではあっても安価なものではない。インが持参した箱には、そのパイが山ほど詰め込まれていた。
「あとでノエルたちに渡してやってくれ」
「……ありがとう。きっと喜ぶわ」
クロエの顔に優しい微笑が浮かぶ。
もともと整った顔立ちをしているだけに、微笑みを浮かべたクロエは驚くほど綺麗だった。
本来、手土産は妓女本人に渡すべきなのだが、クロエは自分に対する贈り物には礼こそ言うものの、表情はほとんど動かさない。妹への贈り物の場合のみ、今のようにはっきりと喜びを見せるのである。
インとしても、どうせ土産を持ってくるなら喜ばれる物を持ってきた方が良い。
そういった理由で、毎回のように菓子を持ってきているわけだが、妓館に来るたびに子供の菓子を手土産に持ってくるのは自分くらいのものだろう。
そう思うと少しおかしかった。
ちなみに、ノエル「たち」にと言ったのは、ノエル以外の下働きの子供たちの分もまとめて買っているからである。
安くないとはいえ、しょせん菓子は菓子。この程度でインの懐はいっこうに痛まない。
わずかな損を惜しむよりは、妓館の人間と良好な関係を築いておく方がはるかに有益だ。たとえ下働きの子供であっても、外では聞けない貴重な噂話が耳に入ってくることもある。
インはそのあたりもきっちりと計算に入れていた。
自分が買ってきた菓子を見て、インはかすかに苦笑する。
「しかし、よくまあこんな甘ったるい物をぱくぱく食えるもんだな」
インにとって、パイといえば塩漬けの豚肉や、ひき肉状にした牛肉を詰めたものを指す。甘いパイ、という代物には違和感を禁じえないのだ。
意外なことに、ここでクロエがこくりと賛同の意を示した。淹れたての茶をインの前に置きながら、囁くように言う。
「わかります。私も苦手ですから」
食べられないことはないけれど、とつけくわえたのは、甘味に対する男女の執着の差であったろうか。
一瞬、そんなことを考えたインだったが、すぐにかぶりを振ってその思考を追い払う。どうでもいいことだ、と思ったのだ。
差し出された茶を一息で飲み干したインは、部屋の灯を落とすように伝える。
面差しを伏せるように小さくうなずくクロエ。その髪から漂う百合の花の香りが、インの鼻腔をくすぐった。