第五章 リンドブルム(三)
インとカイの会話の中で『リンドブルム』という名前があがったのは、実はそれほど昔の話ではない。もっといえば、今日この日のことであった。
もともと、インは自分の勢力の名称を定めていなかった。緋賊という名称は、インたちに襲撃されて生き残った者の証言や、襲撃現場の凄惨な有様から自然発生した呼び名に過ぎず、それがいつの間にかセーデの中でも定着していたのである。
実際、インたちがやっていることは盗賊行為に他ならなかったから、強いて改める必要もなかった。
しかし、これから先のことを考えれば、いつまでも緋賊を名乗ってはいられない。シュタール帝国とアルセイス王国、この二大国を相手取って戦おうとする者たちにとって、賊という名称は器に合わない、とカイは進言した。
別段、これまでの緋賊としての活動に頬かむりを決め込もうというのではない。単純に響きが悪いのである。まっとうな人間であれば、すすんで賊に協力したいとは思わない。たとえ内実がどれだけ優れた組織であっても、である。
そういった理由で、自分たちの勢力の名称について何か案はあるか、とカイは頭目に問いかけた。
十中八九「ない」という答えが返ってくることを予測して、幾つか腹案も用意していたのだが、このとき、インはさして考える風もなく言った。
リンドブルム、と。
カイは目を瞬かせる。
フェルゼンにいるアトと同じく、カイもまたその名が意味することを知っていた。ウズ教会が改ざんした飛竜の物語。あえてその名を持ち出して教会の不快感をあおるあたり、いかにもインらしいと思ったが、どこでその名を知ったのかが分からない。
インが本やら物語やらに興味を示すところを、カイはこれまで見たことがなかった。
「どこで知ったんだい、イン? この手の話をしたことはなかったように思うけど」
「俺に字の読み書きを教えてくれた奴が、この手の話が大好きでな。聞きたくもないのに聞かされているうち、色々と覚えてしまったんだ。そいつによれば、教会が編纂した大陸史は『嘘ばっかり』だそうだぞ」
「それはまた、すごい知り合いがいたんだね。ウズ教会の関係者に聞かれたらただじゃ済まないよ」
三大神信仰の中心である主神ウズが司るのは記録と審判。その象徴ともいえる大陸史を嘘呼ばわりすれば、冗談でなく教会騎士団が動き出す。
インは右の口角だけを器用につりあげて応じた。
「実際、ただじゃ済まなかったから、あんな場所に落ちる羽目になったんだろうな」
それを聞いたカイはそっとインの顔をうかがう。今の声には、何か容易ならぬ響きが混ざっていなかっただろうか。
「……イン?」
気遣うようなカイのまなざしに気づき、インは軽く肩をすくめてみせた。
「悪いが、リンドブルムに関してはもう決定だ。ついでに言えば、これはたぶん、お前が考えている以上に教会の敵意をかきたてる。それこそ、西の海に浮かぶ教皇領から教会騎士の大軍が派遣されてくるくらいのな」
カイは真剣な眼差しでインを見やる。
冗談を言っているわけではないことは相手の顔を見れば明らかであったが、それでも確認のために問いかけた。
「僕たちがリンドブルムを名乗るだけで、それだけのことがおきるのかい?」
「正確にいえば俺が――いや、違うな。インという名前の人間が、リンドブルムを名乗ることで、だ」
「……ごめん、さっぱり意味がわからないんだけど?」
「もったいぶるのは軍師だけの特権ではないということだ」
くつくつと笑うインに対し、やり返された形のカイは両手をあげて降参の意を示した。
「どういう意味か訊けば教えてくれる?」
「それはもちろん内緒だとも」
「そういうと思ったよ」
カイが苦笑すると、インは右手をひらひらと振った。
「なに、したり顔で言ってはみたものの、実のところ、俺もそう大したことは知らないんだ。さっき言った奴から聞いたことが俺の知るすべてでな。もしかしたら、教会は俺のことなんぞ洟も引っかけないかもしれない。そうなれば、俺の聞いた話はでたらめだったってことになる」
「逆に、教会が反応すれば、インが聞いた話は真実だったことになるね。話から察するに、ウズ教会の目的はリンドブルムの名前を後世に残さないことであって、寓話の内容がウズ神の権威を傷つける云々(うんぬん)はすべて本当の理由を隠すための細工だったってことかな。そしてそれは『イン』という人物と深い関わりがある、と」
「そんなところだ。ま、教会が動くとしても今日明日の話じゃないから、特に備えておく必要はないだろうさ」
ふぅ、とカイは嘆息する。
「これから七覇のうち二つを相手どる戦いを起こそうという時に、勝った後の敵まで見繕わなくてもいいと思うんだけど。教会を敵にまわすのは得策じゃないよ?」
言われなくてもわかってるだろうけど、とカイは内心で付け加える。
インはけろりとした顔で答えた。
「なに、俺は単純に名前の響きがカッコいいから名づけただけだ。教会がそこにどんな意味を見出すかは向こうの勝手。誤解したあげくに敵対してくるようなら、しかるべく対処すればいい。部下の信仰に口出しする気はないから問題もないだろう」
「問題は山のようにあるんだけど……ま、インが決めたのだったら仕方ないね」
カイはあっさりとうなずいた。
はじめからインが翻意するとは思っていない。ただ、インを補佐する身として、教会を敵にまわすことの危険は言っておかなければならないと考えたから、あえて言明したのである。
主神ウズをあがめる教会を敵にまわせば、他の二大神、闘神バーレイグと女神ソフィアの教会をも敵にまわすことになる。
仮にインが大勢力を手に入れたとしても、三大神信仰が深く根付いている中央地域でこれらの教会を敵にまわせば、周辺諸国が一斉に敵にまわる。それだけではなく、自国の中でも民衆や配下の造反が相次ぐに違いない。たとえ信仰の自由を保証したとしても、この流れは止まるまい。
クイーンフィア大陸において、教会を敵にまわすということは求めて国を崩壊に導くようなもの。だからこそ、大陸七覇の都には必ず三大神の教会が建てられている。大陸共通の暦である統一暦も教会が定めたものなのである。
それを承知の上でインがリンドブルムの名を掲げるのなら、自分はそれを支えるだけだ、というのがカイの考えの据え方である。
どのみち、インが口にしたとおり、ウズ教会が出張ってくるのはもっと先のこと。今はいかにドレイクを奪うかに注力するべきであった。
◆◆
カロッサ伯を討ち取ったインがセーデに戻ってきたのは、ドレイクの各処でリンドブルムの名が囁かれ始めた頃であった。
むろん、仕掛け人はセーデに残ったカイである。パルジャフの護衛をセッシュウに任せたカイは情報工作にいそしんでいたのだ。
インを出迎えたカイは、簡潔にその報告を行う。
「――と、そんな感じで噂を広めておきました、イン」
「ご苦労。褒美にこの伯爵の首級をくれてやろう」
「ああ、塩漬けにしておかないといけませんね」
物騒きわまりないはずの会話は、いたって平然とした口調で行われた。
この場にはカイとキルの他に、自邸から脱出してきたパルジャフと、その護衛をつとめたセッシュウの姿もあったのだが、特にパルジャフは目を白黒、顔を赤青といった様子で、ろくに言葉も出てこない様子である。
ぷるぷると震える両手は驚愕のためか、憤激のためか、パルジャフ自身にもよくわかっていなかった。
「本当にカロッサ伯を討ち取りおったのか……信じられん」
思わず呟いたパルジャフを見て、インはにやりと笑う。
その身体は髪から服からずぶぬれで、足下にはしたたり落ちた水滴が小さな水たまりをつくっている。これはキルも同様で、桜色の唇から「へくちっ」と小さなくしゃみがもれた。 二人がこんな有様になっているのは、評議会館から戻る際、跳ね橋ではなく水堀を使ったためである。湖畔で育ったインはもとより、鯉をとる目的でたびたびダウム河におもむいているキルも水には慣れており、大剣やら両手剣やらを持って堀を渡るのは難しいことではなかった。
「俺としてはお前がここにいることの方がよほど信じられないんだがな」
インの視線が議長から腹心の青年へと向けられる。
「どうやって口説きおとした、カイ?」
「それはもう、誠心誠意お願いしました」
「真心を込めて相手の選択肢を封じた上で、早く決めないと手遅れになりますよと精一杯急きたてたわけか」
「そんなところです」
カイは澄ました顔で一礼すると、カロッサ伯の首級をもって歩き去った。腐らないように処理するためである。シュタール貴族、それも伯爵の首となれば粗末には扱えない。利用するしないは別として、丁寧に保存しておく必要があった。
その後、カイといれかわるように現れたリッカが、おそるおそるという感じでインとキルに乾いた布を差し出す。リッカの視線がちらちらとパルジャフに向いているのは、演説か何かでドレイク議長の顔を知っていたからであろう。
その様子を横目で見やりながら、インはパルジャフの話に耳を傾けた。
当初、パルジャフは家人をソフィア教会にあずけるつもりだったのだが、アルセイス軍ブリス・ブルタニアスの態度から、ドレイク議長を排除する強硬な意思を感じ取ったため、急きょ私兵ともどもセーデに連れて来たのである。
今のブリスであれば、パルジャフを討つためにソフィア教会にまで踏み込みかねないと考えたからであった。
もちろんセーデが危険であることは言をまたないが、事態がここまで進めばもはや緋賊――いや、リンドブルムとは一蓮托生、とパルジャフは覚悟を据えた。
つい先日まで百人近い数の人間が暮らしていた本拠には、パルジャフらを収容する十分な余裕がある。もっとも、それはあくまで空間的な余裕であって、物資的な意味における余裕はほとんどない。パルジャフ邸から食料や家財道具を移す時間はさすがになかったのである。今日明日で食料が底をつくことはないが、三日もすれば食事量を減らす必要が出てくるだろう。
「そなたがカロッサ伯を討ち取ったことがわかっていれば、いっそ評議会館に向かったのだがな」
パルジャフが難しい顔で言うと、インはかぶりを振ってその考えを否定した。
「火と煙に巻かれて往生するだけだ。今あそこを奪っても何もできん」
評議会館の水堀は広く深い。二つの跳ね橋をあげてしまえば敵兵の侵入路はなくなる。したがって防衛には適しているが、だからといって今のリンドブルムがあそこに立てこもっても意味はない。
侵入路がないということは、出撃する道もないということ。筏の類をつかって水堀を渡ることもできるが、ただちに敵に発見される上、隠れる場所もないために弩弓の餌食になってしまう。
インが相手の指揮官であれば、評議会館にはかまわずに市街を制圧してしまう。そうしてドレイクを手に入れてから、ゆるゆると評議会館を攻略してしまえばいい。
それがインの考えであり、だからこそ、今の段階で評議会館を占拠する必要はないと判断していた。
しかし、パルジャフはそれとは異なる見解を持っている。
「人心に与える影響というものも考える必要があろう」
「ふむ?」
「多くの住民にとっては評議会館の主こそドレイクの主権者だ。あそこを押さえている勢力と、押さえていない勢力が同じことを口にしたとき、民は前者を信じるであろう。去就を決めかねている評議員や守備隊の帰趨にも影響をおよぼすのではないかな」
「なるほど、そういうものか」
民が支配者を見る視点。臣下が主君を見る視点。それはインがひとかけらも持ち合わせていないものであり、素直にパルジャフの言葉に感心した。
そのインの様子を、パルジャフはやや戸惑った顔で見つめている。含むところのない素直な反応が意外だったのである。
同時に、パルジャフは自分の失態に気がついた。
カロッサ伯の首級が衝撃的なあまりうっかりしていたが、今のパルジャフはリンドブルムに協力――いや、臣従を誓った身である。議長であったときと同じ態度でインに接することは不敬であり、不用意でもあった。インが疑い深い人物であれば、パルジャフの臣従を口先だけのものと見なして排除してくるかもしれない。
そこに思い至ったパルジャフは右手でつるりと顔をなでてから、ゆっくりとその場にひざまずく。
「申し訳ない、失礼な物言いをしてしまった。事が後先になってしまったが、我、パルジャフ・リンドガルは自由都市を守るため、貴公を主と呼んでお仕えしたい。お許しいただけようか?」
状況が状況であるし、インの性格からしても仰々(ぎょうぎょう)しい誓いを述べたてるのは好まぬであろう。そう考えたパルジャフは最小限の言辞をもって臣従の願いを口にする。
インはそんなパルジャフを見て、わずかに眉根を寄せた。ドレイクの議長が無位無官の野盗にここまで礼を尽くして麾下に加えて欲しいと願っているのだ、躍り上がって喜ぶのが当然、すぐさま手をとって立ち上がらせ「よく決心してくださった」と歓迎の意を示すべきだろう。
そうすれば、名君と賢臣の出会いの一頁が大陸史に刻まれることになったかもしれない。
しかし、この時、インの顔に浮かんでいたのは喜色ではなかった。感動でもない。それはまぎれもなく不快感であった。
誰の下にもつかないと公言するインであるが、そのくせ他人がひざまずく姿を見るのは好きではないという厄介な弊がある。
別段、高尚な理由があるわけではない。インにとって他人にひざまずくことは「恥ずべきこと、屈辱的な行為」であって、自分が気に入った人間、認めた人間がそれをしているところを見たくないのだ。ひざまずく対象がインであっても、それはかわらない。
――我ながら面倒な奴だ。
他人事のようにそう思う。これがパルジャフ以外の評議員であればこんな感情はわかないのだが、などと思いつつ息を吐いたインは、ついでに胸奥にわだかまる不快感も吐き出してしまう。
この場合、パルジャフの態度は誠意のあらわれであって、不快を覚える自分の方がおかしいのである。その自覚はあったから、ひざまずくパルジャフに向け、インはつとめて平静な声で告げた。
「許す。力を尽くせ」
パルジャフの頭がそれまでよりも一段深く下げられる。応じて、インの眉間のしわが少しだけ深くなった。
◆◆
カイが首級の処理を終えて戻ってきたとき、部屋ではパルジャフが一つの献策を行っていた。
懇意にしている評議員や守備隊の有力者に協力を呼びかける、というものである。
それを聞いたインは首をかしげる。
「議長としてではなく、個人として仕えるという話ではなかったか?」
「議長として命じるのではなく、ひとりの評議員として協力を呼びかけるのです、公。ゆえに、応じるか否かは彼ら次第。おそらく、今の段階ではほとんどの者は動きますまいが、呼びかけに応えてくれるであろう者に幾人か心当たりがございます。皆、ドレイクの安泰と繁栄を願う者ばかりでありますから、少なくともこちらの言い分に耳を傾けることはしてくれましょう。彼らに公の存在と目的、そしてこの身が公に仕えたことを知らしめるだけでも、十分に意味ある行いになろうかと存ずる」
パルジャフが配下に加わって、リンドブルムにとって万事めでたしとはならない。むしろ、これまでにはなかった問題が発生する。
その問題というのは、ドレイクでの名望、実績、いずれも配下が主君を上回るという不均衡さである。
インがこれをこころよく思っていないことは、先ほど臣従の願いを口にした時の態度からも明白であるとパルジャフは感じていた――実際には、インの態度は「認めた相手だからこそ、ひざまずく姿を見たくない」という個人的感情に由来するもので、別段パルジャフを疑っているわけでも、危険視しているわけでもないのだが、いかにパルジャフでもこれを察するのは不可能である。
したがって、パルジャフは主君の疑心を溶かす必要を感じていた。
ダヤン侯の策謀からドレイクを守るためにインに従ったというのに、そのインに疑われて殺されてしまったのでは目もあてられない。
自分はインの配下であって、協力者でもなければ盟友でもない。この事実を言葉で、態度で周囲に知らしめ、もってインの疑心をかわす。
いまだ静観を保っている者たちに協力を呼びかけるという献策の目的が、リンドブルムの勢力拡大にあることは間違いなかったが、その献策の底流には保身という名の思惑も流れているわけである。
帝国派と王国派、それに独立派が入り乱れて泥土のごとき様相を呈していた評議会の政争を、議長として、政治家として生き抜いてきたパルジャフらしい用心といえた。
そんなパルジャフの様子を、カイが少し困った表情で見やっている。
先ほどの場には居合わせなかったカイであるが、パルジャフの考えはおおよそ察していた。というのも、カイもまたパルジャフと同じことに思い至っていたからだ。
配下であるパルジャフの方が、主君であるインよりも名望、実績共に優れているという事実は遅かれ早かれ問題を生む。
ただし、カイはこれに関してはさほど深刻に捉えていなかった。
君臣の間に生じる不均衡。これを是正する方法は幾つかあるが、もっとも手っ取り早いのは、インの名声をパルジャフと同じか、それ以上まであげること。つまり、イン・アストラが圧倒的な名声を確立すれば、二人の間にわだかまる不均衡などたちまち消し飛ぶということである。
シュタール帝国とアルセイス王国を撃ち破れば、名声なんて放っておいても積み重なっていく。それがわかっていて深刻になる必要がどこにあろう。
したがって、ここでカイが考えていたのは、いよいよ姿をあらわしたアルセイスの正規軍をいかにして撃ち破るか、ただそれだけであった。




