第五章 リンドブルム(二)
商人にとって戦争は商機となりえる出来事である。とくに合法、非合法を問わずに財貨をかき集める闇商人にとっては、金集めのための絶好の機会といってよい。
とはいえ、戦火がわが街、わが店にまで及んでしまえば、商機がどうのといっていられないのは当然のこと、まずは今ある資産を守ることに意を用いなければならない。
そんなわけで、ドレイクの裏路地にあるフクロウの店では、使用人であるマリクが額に汗しながら店じまいを進めていた。マリクにとって、混乱に乗じた略奪、強盗に備えるのは慣れたものであり、さして時間をかけることなく作業は九分九厘完了する。
その人物が店を訪れたのは、マリクがまさに店じまいを終える寸前であった。
目立たないように灰色の襤褸をまとった相手が、顔を覆う頭巾をはずして素顔をあらわにする。その瞬間、マリクの顔は至近に雷鳴をきいた家鴨のようになり、口からは「げぇ」といううめき声が漏れていた。
訪問者の鮮やかな翠色の両眼がすっと細くなる。
「ずいぶんな歓迎の仕方ですね、マリク。まがりなりにも出資者のひとり、あなたにとっては命の恩人がやってきたのです。久闊を叙する一言があってしかるべきではありませんか?」
「……こ、これは申し訳ございません……って、いえ、そうじゃないでしょう!?」
悲鳴じみた声をあげたマリクは、あわてて訪問者の後方を確認する。
そこに誰もいないことをみてとった巻き毛の少年は、相手の軽挙をいましめるように声を鋭くした。
「どうしてウールーズ様がこんなところにいらっしゃるのですか!? しかも、護衛ひとり連れずにとは、無用心にもほどがありますっ」
「商人の店に客が訪れる。欲しいものがあってのことに決まっているではありませんか。それに、このような状況でずらずらと護衛を引き連れて歩いては、望んで厄介ごとに巻き込まれるようなものです」
「それはそうでしょうが、何もこのようなときにお越しにならずとも!」
「マリク、少し声を押さえなさい。外に人が通りかかったら、何事かと怪しまれてしまいます」
「……ぅぅ」
自身の十分の一も動揺していない声で諭されたマリクは、思わず頭を抱えそうになる。
そんなマリクを見て、ウールーズと呼ばれた訪問者は不思議そうに首をかしげた。
「なにやら疲れているところを悪いですが、商談をはじめてもいいですか?」
「………………はい、どうぞ」
かろうじて残った気力をかきあつめ、マリクは返答する。
その目にすぐ光が戻ったのは、ウールーズが――アルセイスの第一将軍ディオン公の後継者である人物が、この時期にドレイクにやってきた理由が気になったからであった。なにか尋常でないことが起きたのだ、ということはマリクならずとも察しがつく。
すっとマリクの雰囲気がかわった。
純朴な使用人から、海千山千の商人のものへと。
そのマリクの前で、ウールーズが訪問の目的を告げた。
「欲しいのは情報です。オリオール伯爵姉妹のことであれば何でもかまいません。すべて買いましょう」
「オリオール伯、ですか?」
「そうです。ドレイクの評議員からフルーリー将軍に向け、クロエ様とノエル様のお二人が見つかった、との報告が届けられたのは確認しています。ただ、それをつかむまでに少々時間がかかってしまいました」
いかにディオン公爵とはいえ、テオドールのもとにもたらされた極秘情報を探り出すのは時間がかかる。
ウスターシュとウールーズの親子がその報せを掴んだとき、すでにドレイクではフレデリク・ゲドが死亡していた。
ディオン公はすぐさまドレイクに人を派遣することを決めたのだが、事が事だけに能力、人格ともに信頼できる人物が望ましく、くわえて発見された姉妹が本物か否かを確認する必要があるため、姉妹と面識がある者という条件がついた。
状況によっては、ドレイク評議員やテオドール将軍麾下の人員を相手どり、武力で姉妹を奪還することも考えられる。
ここまで来ると、一家臣がどうこうできる問題ではない。
ディオン公爵家の嫡子ウールーズがドレイクにやってきた所以であった。
――ということは、兵を率いて来ているのか。
マリクはそっとウールーズの顔をうかがいながら頭を働かせた。
さすがにマリクほどではないが、ウールーズはまだ若い。たしか十五歳くらいではなかったか、とマリクは思う。それでもウールーズの令名はすでにアルセイス中に知れ渡っているといっていい。
小柄でほっそりとした体格、やわらかで涼しげな面立ち、肩のあたりでばっさりと断ち切った髪からはかすかな芳香が漂っている。ともすれば繊弱さを感じてしまう外見であるが、ウールーズに繊弱さがあるとしても、それはまったく外見だけのことだった。
父の補佐として領内の統治に携わること、すでに数年。公明正大な判断力は、これが年端もいかない子供のものか、と年長の家臣たちを唸らせるものであり、野盗退治はもとより隣国との戦いでもたびたび武勲をあげている。
雷公ウスターシュ・ド・ディオンの後継者は、血筋のみならず、その実力によって臣民を承服せしめているのである。
そのことをマリクは知っていた。もう勘弁してくださいというくらい良く知っていた。
ドレイクに来る以前、ディオン公爵領で詐欺まがいの強引な商売を行っていたマリクは、ウールーズによって散々にとっちめられたからである。
人命を奪ったことはなかったので、かろうじて命だけは助かったものの、公爵領からの追放および蓄えた財産の没収を言い渡された記憶は、そうそう忘れられるものではない。あのときのことを思い出すと、今でもマリクの胸には寒風が吹き込んでくる。夜中、夢に見て飛び起きることもあって、ほとんどトラウマと化していた。
その後、抜け殻のようになったマリクは、被害者のひとりから襲撃を受け、危うく命を落としかける。そこに駆けつけたのがウールーズであり、しかもウールーズはマリクの命を助けただけでなく、いくつかの条件を出した上で出資を持ちかけてきた。幼くして公爵領をひっかきまわした少年の才腕を惜しんでのことだろう。
かくて、ドレイクの片隅に闇商人フクロウの店が誕生する。
若すぎる自らを使用人と偽り、正体不明の大物を用意するやり方は詐欺師であった頃とかわらない。
マリクはドレイクで商いを行いながら、シュタール帝国や評議会の情報を公爵家に送るようになった。
とはいえ、マリクはディオン公ないしウールーズの手先になったわけではない。公爵家に送った情報は噂の類ばかりであり、商売相手の情報をもらしたりはしなかった。
すでに出資金は利子まで含めてきっちり返し終えており、ウールーズの頼みだからといって、なんでもかでも情報を吐き出さなければならない義務はない。
……そもそも、吐き出せるほどの情報がない、という一面もあったりするのだが。
「たしかに一時期、王国派が歓楽街や貧民窟に兵を動かすという奇妙な動きを見せたことがありました。お話をうかがうに、あれはご姉妹の件と関わりがあったのかもしれません。ですが、その動きもすぐに終息してしまって……」
マリクは困ったように眉根を寄せる。
それを聞いたウールーズは特に失望を示さず、真剣なまなざしでマリクを見つめた。
「終息した理由はわかっていますか?」
「フレデリク評議員が体調を崩されたからだと聞いています」
マリクは情報を商うこともあるが、本職の情報屋ではない。よって、フレデリクの動きの細かいところまでは掴んでいなかった。普段であれば興味を引かれたかもしれないが、あの頃はインからの依頼であった土地売買仲介の件で多忙であったため、それどころではなかったという事情もある。
――と、ここで脳裏をよぎったインの名前に、マリクは閃くものがあった。セーデの長であるインならば、何か知っているかもしれない、と。
「フレデリク評議員が帝国軍に殺され、その配下が四散した今、詳細を知っているのは歓楽街か貧民窟ということになります。どちらも口はかたいでしょうが、歓楽街よりはまだ貧民窟の方が望みがあるでしょう」
それを聞いたウールーズは小首をかしげる。その顔に貧民窟という言葉に対する嫌悪感はない。
「貧民窟の方が歓楽街よりも与し易い、と?」
「いえ、多少なりと付き合いがある、という意味です。とても与し易いなどといえる人たちではありません」
マリクはふるふると首を振って、ウールーズの言葉を否定する。
これまで緋賊が襲撃で得た戦利品の買取を行っていたマリクは、貧民窟と緋賊の関わりに気がついている。どこをどうとっても扱いやすい人たちではない。
しかし、話ができる人たちではあるし、なによりもトップの人間と面識がある、という点は大きい。少なくとも、こちらの話に耳を傾けるくらいのことはしてくれるだろう。
――まあ、野盗と伯爵家の姉妹の間につながりがあるとも思えないけれど。
内心でそんなことをつぶやきながら、マリクはさらに続けた。
「ただ、すべては今日の騒ぎが終わってから、ということになります」
外の騒動は一刻ごとに混迷の度を増しているようで、一向に静まる気配がない。
カロッサ伯による王国派弾圧以降、遠からずシュタール帝国とアルセイス王国の間に争いが起きることはマリクも予測していたが、これほど急速な激突は予測の外であった。
しかも、切れ切れの情報を縫い合わせてみると、両国以外の勢力が見え隠れしている気配もある。
こんなとき、あわてて動いてはマリク自身が乱流に足をとられて流されてしまう。
今は静観するべき時である。それがマリクの考えであった。
問題は、眼前の公子がマリクと同じ考えを抱いてくれる否かである。
そのウールーズは、しばしの間、無言でなにやら考え込んでいたが、やがて意を決したようにマリクに向けて口を開いた……
◆◆◆
ブリス・ブルタニアスにとって、すべては想定どおりに進んでいた。
もとよりブリスはパルジャフがアルセイス王国に従うとは考えておらず、いずれ邪魔者として立ちはだかってくる前に、さっさと排除してしまう心積もりでいた。戦火の最中、賊をよそおってパルジャフ邸を襲い、議長の首をとって風のごとく去る、というのがブリスの計画だったのである。
パルジャフ邸に入る際、ブリスは武器を預けた上でふたりの従者を連れて来た。いかにも大人しやかな彼らはブリス直属の部下であり、外見に見合わぬ剣技の持ち主でもある。
パルジャフが決断までの猶予を求めた際、ブリスはころはよしと判断し、別室に着くや隠しておいた武器を用いて見張りを倒すと、邸内に火を放った。これは外の部隊を呼び込む合図を兼ねている。
その後、混乱する邸内を駆け抜け、部下と共にパルジャフの部屋へと突入したのだが、そこで待っていたのは議長の驚愕の表情ではなく、冷たい白刃の閃きであった。
鼓膜を刺し貫くような、鋭く甲高い音が響く。
とっさに構えた短剣で相手の一刀を避けたブリスは、鋭い目つきで眼前の相手を見やった。
「ふむ、見事な反応だ。さすが、というべきであろうか」
ブリスの前に立ちはだかった小柄な人物は、そう言うといかにも感心したように鷹揚にうなずいた。
長身のブリスと並べば子供にしか見えない体躯であり、構えた太刀は玩具のように見える。
が、今しがたの一刀は、弾いたブリスが冷や汗をかくほどに研ぎ澄まされたもので、とうてい子供が放てるものではない。
パルジャフを守るこの人物が容易ならざる敵手であることを、ブリスは認めざるをえなかった。
いまさら問答する必要はない。ブリスの左右に控えていた部下が一斉に斬りかかっていく。
しかし、相手は手練の兵士ふたりの攻撃を軽々といなし、一歩たりともパルジャフに近づかせない。しかもこの敵は、その間、常にブリスを視界におさめていた。護衛が部下に気をとられている隙をつき、一気にパルジャフを斬り倒すというブリスの意図を見抜いているとしか思えない。
これからの戦いのためにも、このようなところで手傷を負うのは避けねばならぬとブリスは考えていたのだが、この敵はそんな甘い計算が通じる相手ではなさそうだった。
外から聞こえてくる喊声と剣戟の音も気にかかる。襲撃側は数の上では守備兵にまさっているが、パルジャフ直属の私兵たちは議長を守らんと奮戦しており、これは奴撲でさえ例外ではなかった。パルジャフが家人の心を掴んでいる証であろう。
ここホロッカ区はもともと高級住宅街である。カロッサ伯が赴任して以来、警備の守備兵は大きく削減されていたものの、私兵を抱えている邸宅は少なくない。パルジャフ邸が賊に襲われていることが伝われば、兵を差し向けようと考える者があらわれるかもしれない。特に独立派の議員に知られれば、その危険は一気に高まるだろう。
ブリスは意を決して双剣を抜き放った。
「下がれ」
部下に命じるや、滑るように前に出る。
右手に刺突用の細剣、左手に回避用の短剣。戦闘スタイルは、かつてフレデリク邸でインと対峙した時と変わらない。
対するセッシュウは、一見隙だらけに見える態勢でこれを迎えうった。左手に持った太刀の切っ先は床に接する寸前まで下げられており、斬るなり突くなり好きにせよと言わんばかりである。
それが誘いであることに気づかないブリスではない。しかし、悠長に睨み合っている時間はないと判断し、あえて誘いに乗った。
「――シッ!」
短い呼気と共に細剣で刺突を繰り出す。
それに呼応するようにセッシュウの太刀が動いた。左下方から右上方へ、跳ね上がった切っ先は斜めの軌道を描き、突き出された細剣の刃を弾きあげようとする。左手のみで振るわれたにもかかわらず、その斬撃は風を巻くように鋭い。
しかし、ブリスはすでに相手が熟達した使い手であることを承知している。易々と相手の思い通りにはさせなかった。
二つの刃が空中で衝突する寸前、突き出した細剣を素早く手許に引き戻す。
細剣を巻き上げんとしたセッシュウの一閃は虚しく空を斬り、今度は正真正銘、隙だらけの身をブリスの前に晒してしまう。
この隙を見逃す理由はない。ブリスは鋭い踏み込みから、先の攻撃に優る苛烈な刺突を送り込んだ。
閃光のごとき輝きが身体を貫くかに見えたその寸前、セッシュウの刀が奇妙な変化を見せる。
空振りに終わったかに見えた太刀の切っ先が軽やかに翻り、左下方から右上方を切り裂いた斬撃は、瞬く間に右上方から左下方を断ち切る形へと変化を遂げる。
いつの間にかセッシュウの右手が柄に添えられていた。
片手の逆袈裟切りから、両手の袈裟切りへ。
相手の隙をついて踏み込んだはずのブリスは、気がつけば、すすんで敵の斬撃に身を晒す格好になっている。まるで奇術のように、状況は一瞬で激変していた。
「セッ!!」
気合と共に振り下ろされた鋼の刀身が唸りをあげてブリスを襲う。ただ一刀で人間の身体を斜めに両断してしまう剛武の一太刀。
最初の構えが誘いなら、初手後の隙もまた誘い。今まさに踏み込んだばかりのブリスに、セッシュウの第二撃をかわす術は存在しないかに見えた。
――しかし。
絶体絶命の窮地に立たされたブリスであったが、その顔に恐怖の影は差していない。
そも慌て恐れる必要がない。もとより二段構えの誘いなど想定の内、ブリスが左手に持った短剣は攻撃ではなく防御のためのものである。
太刀の軌道をなぞるように振るわれた短剣が、セッシュウの刀身に絡みついて軌道を塗りかえていく。
刀と剣では受け流すコツがだいぶ異なるが、この武器を持つ相手とやりあった経験があるブリスにとっては問題にならない。その事実があるからこそ、ブリスは迷うことなくセッシュウに斬りかかったのである。
勝った、とブリスは思った。
慢心ではなく、単純な事実としてそう認識したのだ。
だが、次の瞬間に室内に響いたのは、受け流しの成功を告げる澄んだ金属音ではなく、肉と骨を断ち切る鈍い音であった。
「ぐぅッ!?」
ブリスの左手に激痛が走る。
理由を考える間もなく、かつて感じたことのない悪寒に全身をわしづかみにされたブリスは、本能的に床に身を投げ出していた。斬撃の最中、あまりに無理な体勢で行われた回避行動にたえきれず、関節という関節が悲鳴をあげる。
そこまでしてもセッシュウの斬撃から完全に逃れることはできなかった。
刀の切っ先がブリスの横腹を捉えた途端、金属と金属がこすれあう耳障りな擦過音が響きわたる。それはブリスが服の下に着込んでいた鎖帷子があげた悲鳴であった。
どう、と激しく床に倒れこんだブリスは、常人ならば立ち上がることもできないであろう苦痛を無理やりねじふせると、跳ねるようにその場から飛びすさる。
なおかつ敵の追撃に備えて右手の細剣を構えたあたりは、賞賛に値する精神力であったろう。
セッシュウは追わなかった。といって、別段ブリスの粘りに敬意を表したわけではなく、不用意にブリスを追えば、他の二人がパルジャフを狙うかもしれないと考えて用心したのである。
一方のブリスは、荒い息を吐きながら火を吹くような眼差しでセッシュウを睨んでいた。
その脇腹から流れる血は鎖帷子でも防ぎきれなかった斬撃によるもの。そして、左手は――
「……おのれ」
無残に断ち切られていた。
セッシュウの太刀は短剣をはじき飛ばし、さらに手をえぐって親指と人差し指を切り飛ばしている。今のブリスの左手には指が三本しか残っていない。掌も三分の一ほどが欠けており、傷口から流れる血は止まる気配がなかった。
「ブルタニアス様!」
そのことに気づいた部下たちの口から悲鳴じみた声があがる。
激痛をこらえながら、なおも油断なくセッシュウを見据えるブリスの脳裏には、何が起こったのかという疑問が渦を巻いていた。
いや、何が起こったのかは分かる。軌道の塗り替えを上書きされたのだ。
ブリスが短剣を用いてやったことを、セッシュウは太刀を用いてやりかえしてきた。結果、太刀の軌道は当初のものにもどり、そのままブリスの左手と腹を断ち割った。咄嗟に身を投げ出していなければ、鎖帷子ごと身体を両断されていただろう。
そう、何が起きたのかは分かる。だが、それを受け入れるのはたやすいことではなかった。
ブリスが得意とする軌道の塗り替えは、短剣のように扱いやすい武器を用いてもなお使いこなすことが難しい技である。それを太刀をもって行うなど、針ではなく槍をもって縫い物をするようなもの。ブリスはもちろん、ブリスに手ほどきをしたテオドールでさえ不可能だろう。
神業。
そんな言葉が脳裏をよぎる。この相手を「熟達した使い手」と判断した己の不明にブリスは歯軋りせんばかりだった。
そんな域ではない。この敵はそんな域をはるかに超えている。
自分が虎に挑んだ猫であったことを、ブリスは悟らざるをえなかった。
「……何者だ、貴様」
震える声で問う。どうしてこれほどの使い手がパルジャフの護衛などをやっているのか。 ブリスが知るかぎり、これまでパルジャフの傍にこの人物はいなかった。
では新たに雇い入れたのか。
しかし、これほどの使い手がドレイクにいたのであれば、どこかで噂の一つや二つ耳に入っていたはずだ。ブリスはフレデリクに仕えている間も人材に関しては注意を払っていたが、小兵の刀使いの話など聞いたことがない。
対するセッシュウの態度は、小憎らしいほど落ち着いたものであった。
「わしのことを気にかけている暇などあるのかな?」
太刀を一振りし、刀身についた血を払いながら、セッシュウは言う。
「早く手当てをせねば死ぬぞ、アルセイスの」
「……私を殺すことをためらう理由があるのか?」
「わしの役目はパルジャフ殿を守り参らせること。敵を討ったからとて、パルジャフ殿を討たれてしまっては意味がないのでな」
ブリスの激情などどこ吹く風というように平然と口にするセッシュウ。
しかし、実のところ、その内心は表情ほど穏やかではなかった。
本音をいえば、セッシュウはここでブリスを逃がしたくなかった。今しがたの攻防はセッシュウにとってもかなりきわどいものであり、あらかじめブリスの戦い方がわかっていなければ、初撃で敵の身体を捉えることはできなかっただろう。
――さすがに主殿とキルの二人を同時に相手どり、逃げおおせただけのことはある。
セッシュウは密かにそう感嘆していたくらいなのである。
二本の指を斬りおとしたとはいえ、この相手を逃がせば後の禍根になろう。
ただ、そんな相手だからこそ、ひとたび死を決すれば厄介なことになる、とも考えた。
ブリスが相打ち覚悟でセッシュウの足止めをしている間、部下二人がパルジャフに襲いかかる――実現の可能性がきわめて高い未来予測である。
ブリスはもとより部下も手練だ。セッシュウならともかく、パルジャフが斬り結べる相手ではない。
ここでパルジャフを殺されてしまえば、緋賊はせっかくつかんだ飛躍の好機を失うことになる。そんなことになれば、信用して護衛を任せてくれたカイや世話になってきたインにあわせる顔がない。切腹ものの大失態といってよかった。
ブリスを生かして帰せば、屋敷を包囲しているアルセイス軍は指揮官の治療のために兵を退くだろう。その退却は一時的なものであろうが、パルジャフたちが屋敷を引き払う程度の時間は稼げるはずだ。もしかしたら、ブリスは自分にかまわず攻め続けろと命令するかもしれないが、それでも指揮官の負傷を知った敵兵の動揺くらいは期待できる。
逆に、ここでブリスを斬ってしまった場合、指揮官不在のアルセイス軍が退き際を見失って、延々攻撃を続ける可能性が出てくる。私兵たちが奮戦しているとはいえ、純粋な兵数では屋敷を包囲しているアルセイス軍がはるかに優っている。このまま犠牲を覚悟で力攻めをされると非常にまずいのである。
さすがにセッシュウといえど、何十、何百という敵兵の波からパルジャフを守りきる自信はないし、緋賊にとって戦力となる者たちをここで損耗させてしまうのは下策というものであった。
セッシュウが見るところ、ブリスは自分の命よりも命令を重しとする型ではなく、生還を匂わせれば意識はそちらに引きずられるだろう。
一見平然としているように見えて、その実、セッシュウは細心の注意を払ってブリスの考えを誘導していたのである。
「……くそッ」
思わず、というようにブリスの口から罵声がこぼれおちる。セッシュウは知る由もないが、これはブリスにしてはかなりめずらしい振舞いであった。負わされた手傷と、不本意な戦況が、金髪の青年の平常心にヒビを入れたようである。
ブリスにとって、パルジャフの始末は最優先事項であるが、さすがに自分の命には変えられない。死んでしまえば栄達も何もないのだ。こうしている間にも、主人の身を案じた屋敷の私兵が駆けつけてくることも考えられる。
このまま戻ればテオドールに顔向けできないが、態勢を立て直す時間は必要だ、とブリスは認めた。相手の思惑に乗るようで癪だが、眼前の刀使いが口にしたように、はやく傷の治療を済まさないとまずい。特に左手の傷は、放って置けば壊死を起こしかねない。
――以上のことを激痛に苛まれながら考えぬいたブリスの精神力は、やはり賞賛に値したであろう。
偶然と必然が混ぜ合わさって発生したパルジャフ邸をめぐる戦いは、こうして決着を見たのである。
◆◆◆
自由都市ドレイクは混乱のまっただなかにあった。
都市の象徴ともいえる白亜の評議会館は炎に包まれ、武装した将兵が各処で市街戦を繰り広げる。戦いの中心はドレイクの中心部及び西部であったが、悲鳴と叫喚、狼狽と焦慮は都市全域を覆いつくす勢いであった。
ドレイクの住民にとって刃傷沙汰はめずらしいものではなかったが、敵対勢力が城門を破るような事態はここ十年ではじめてのこと。まして評議会館が燃え落ちるなど、数十年前におきたリンドドレイク王国崩壊以来の大事件である。赤子から老人にいたるまで驚き怯えぬ者はいなかった。
『その名』がはじめて人々の口にのぼったのはこの時である。
混乱で右往左往する人々の足下を這うように、あるいは混迷の霧でさ迷う人々の耳に囁くように。
密やかに、それでいて着実に『その名』は広まっていった。
何が起きているか分からないということは、何が起きていても不思議ではないということ。ならば、奴隷解放のために戦うあの義賊が、戦火に飲まれようとするドレイク解放のために立ち上がってもおかしくないのではないか。
理屈とも呼べない理屈だが、噂とは元来そんなものであろう。
情報の欠如に乗じた流言飛語。噂の皮をかぶった情報戦略。
その種類は様々で、荒唐無稽なものも少なくない。
たとえばそれは、評議会館が彼らによって陥落したという噂だった。
たとえばそれは、帝国軍総指揮官が彼らによって討ち取られたという噂だった。
たとえばそれは、評議会議長が彼らの麾下に馳せ参じたという噂だった。
平時であれば、耳にした十人が十人、百人が百人、鼻先でせせら笑うであろう噂の数々は、すべて同じ言葉で結ばれていた。
いわく。
彼らの名は――




