第四章 ドレイク擾乱(六)
ドレイクは混乱の真っ只中にあった。
くわしい情報を知りようもない住民はもとより、主体的に動いている各勢力の指揮官たちも他勢力の動きを完全に把握するには至っていない。最も多くの情報を握っているのは奇襲によって西門を陥れたアルセイス軍であるが、その彼らも評議会館に戦火が及んでいる理由はつかめていなかった。
シュタール軍は、そのアルセイス軍よりもさらに情報量において劣っている。ただでさえ、ドレイクに配されたシュタール軍は指揮系統が統一されているとは言いがたいのに、そこに情報の不足と伝達の不備が重なれば混乱はまぬがれない。
紅金騎士団千騎長ドムス・エンデは、苛立ちを隠さずに閉ざされた城門を見上げていた。
カロッサ伯の指示で急遽南門を出て城外に布陣したものの、肝心のアルセイス軍は影さえ見当たらぬ。そもそも、ドムスはカロッサ伯が何を理由として敵襲の恐れありと判断したのかも知らされていなかった。伯爵にしてみれば紅金騎士団は友軍ではなく番犬のようなもの、ただ命令に従っていればいいという考えなのだろう。
この扱いは昨日今日はじまったものではないが、その事実は腹立ちをいや増すことはあっても、苛立ちをおさえる役には立たない。
ただ、ドムスが苛立っている理由はこれだけではなかった。
先刻から城壁越しに幾条もの黒煙が見えている。しばらく前にセーデ区から立ちのぼった黒煙とは数も太さもまったく違う。
明らかにドレイクの中心部で大きな火災が起きていた。動揺する住民の声は遠鳴りのように城外まで達しており、西門の方角からは刀槍がぶつかりあう音さえ聞こえてくる。看過しがたい変事が起きているのは誰の目にも明らかであった。
いったい何事か、とドムスは城門をかためる部隊に再三問いただしたが、返答は「紅金騎士団は城外の敵勢に備えるべし」の一点張り。城内のことは構うな、というのがカロッサ伯の意思なのだろう。
ドムスとしては、カロッサ伯や伯の手勢がどうなろうと知ったことではない。ドレイクの街に対する愛着もないため、伯爵が自分の手で騒動を静めるというのであれば高みの見物を決め込んでもよかった。
しかし、街中にヘルミーネがいるかもしれぬと思えば平然としてもいられない。今日まで彼女の生存を確信できる情報は掴めていないが、逆にいえば死んだという確証も出てきていないのだ。
しかし、味方に入城を拒まれている状態ではいかんともしがたい。まさか力ずくで城門をこじ開けるわけにもいかない。
「あの頑固者め。手遅れになっても知らぬぞ」
思わずカロッサ伯に対する誹謗を口にしたドムスは、そこで自分が平静を失っていることに気づき、深く息を吐き出した。
ついでに胸奥で錯綜している穏やかならぬ感情も体外に掃きだし、その場でどっかと腰をおろす。
紅金騎士団に求められているのは、上位者の命令に対して犬のごとく従順であること。
ドムスに与えられた命令はカロッサ伯に従うことであり、そのカロッサ伯の命令は城外の敵に備えよというもの。であれば、ドムスはこの場でアルセイス軍に備えていればよい。
私事、私情にかまけて命令をおろそかにすれば、ドムスのみならず麾下にいる千人の騎士をも危地に立たせることになる。ひいては騎士団長ルドラ・エンデの身にも災厄が及びかねない。それだけはなんとしても避ける必要があった。
もっとも――
「あの団長を前にすれば、たいていの災厄は尻尾をまいて逃げ帰るであろうがな」
ふんと鼻息あらく言い放ったドムスは、主だった配下を集めて、引き続き戦闘態勢を維持して軍列を乱すな、と指示を出す。
カロッサ伯の指図どおりにしたわけだが、ドムスは別段、伯爵の忠犬たらんとする覚悟を据えなおしたわけではなかった。
紅金騎士団に求められるのは従順さであるが、ただ従順であるだけではルドラの配下は務まらない。
外に従順さを示し、内に応変の才を宿す。紅金騎士団の長はそういう人物であり、ドムスは彼によって千騎長に任じられた身であった。
このとき、ドムスが臨戦態勢を解かなかった理由は二つある。
一つはカロッサ伯に対するある種の信頼。ドムスはカロッサ伯に対して良い感情を持っていなかったが、それを理由として一軍の指揮官としての伯爵の能力を否定するほど狭量ではない。カロッサ伯が敵襲の恐れありと判断したのなら、それ相応の根拠があると見るべきだろう。であれば、これに従うのはシュタール軍として当然のことである。
そう判断する一方で、ドムスはカロッサ伯が抱える危うさも正確に見抜いていた。
軍事に通じ、戦功で立身したカロッサ伯は、それゆえに軍事をすべてに優先させる。ドルレアク公の下で軍を総攬するのであれば何の問題もないが、商人の街であるドレイクを治めるには向いていない。能力的にも、気質的にも。
評議会をうまく利用できれば不備をおぎなうこともできただろうが、命令に忠実なカロッサ伯は商人や評議員を遠ざけ、あくまで自分自身の手でドレイクを運営しようとした。
結果、都市の内部には小さからざる混乱が生じている。カロッサ伯にとっては一時的な混乱、とるにたらない出来事であろうが、この混乱がめぐりめぐって蟻の一穴にならないとはかぎらない。
いや、現状を見れば、すでにそうなりつつある。
さすがにカロッサ伯の首が落ちるような事態にはなるまいが、伯爵が指揮をとれない状況に置かれることは十分にありえること。
その時に備え、麾下の騎士団をすぐに動けるようにしておく必要があった。これが理由の二つ目である。
再びドレイクの城壁を見上げたドムスは、鋭い視線で彼方にたちのぼる黒煙を見据える。心なしか、都市内から聞こえてくる騒ぎの音が大きくなったような気がした。
――評議会館のカロッサ伯から伝令が来たのは、それから間もなくのことだった。
ここでようやくドムスはアルセイス軍によって西門が奪われたことを知るにいたる。
カロッサ伯の使者は、続けてドムスに次のように命じた。
紅金騎士団はただちに城壁づたいに西門へと移動を開始せよ。しかる後、アルセイス軍を駆逐して西門を奪回すべし、と。
◆◆◆
シュタール軍とほぼ時を同じくして、インもアルセイス軍の侵攻に気がついた。正確にいえば、西の方角から押し寄せてくる馬蹄の音に気がついた。
双子塔、跳ね橋、さらに評議会館と戦い続けてきたインは、髪と言わず、衣服といわず、血をぺったりと張り付かせている。その格好のまま、インは黒い瞳を鋭く光らせて西の方角を睨む。
聞こえてくる馬蹄の音から察するに、寄せてきた騎兵部隊は百や二百ではない。
当初、インはようやく紅金騎士団が動いたのかと思ったが、馬蹄の音が西から聞こえてくるというのが解せなかった。
その疑問が氷塊したのは、シュタール兵の間で飛び交う言葉の中に「アルセイス」の一語を聞き取ったときである。
「そういうことか」
インの脳裏にセーデで起きた火災のことがよぎる。
緋賊とセーデの関わりを知るのは王国派と独立派。だが、パルジャフにはあえてドレイク内部で騒ぎを起こす理由がない。であれば、犯人は王国派以外にありえない。
そして、カロッサ伯に弾圧され、フレデリクを失った王国派がこの時期にそんなことを企む理由は――その答えがこの奇襲だったのだろう。
さすがにアルセイス軍が同日に事を起こすとは思っていなかったので、その点、インも意表をつかれた。もっとも、それで驚愕をあらわにするような可愛げは持ち合わせていなかったが。
「まあいい。早いか遅いかの違いだけだ」
どのみち戦うことになる相手だというインの言葉は、奇しくも変事発生以前にカロッサ伯が口にした言葉とよく似ていた。
窓から視線をはがしたインは再び評議会館の奥に向かって歩き始める。アルセイス軍が動こうと動くまいと、カロッサ伯を討つという目的が変わるわけではない。
インはこれまでどおりにカロッサ伯の姿を捜し求めながら、平行して放火活動に勤しんだ。
評議会館は軍事拠点としての『城』ではなく、政治中枢としての『宮殿』である。壁にも床にも燃料となるものはいくらでも転がっていた。精緻な刺繍がほどこされた絨毯も、金糸銀糸を織り込んだ絹のカーテンも、インにとっては薪や藁と大差はない。燭台を蹴り倒し、あるいは壁のランプを叩き落とし、手当たり次第に火をつけてまわる。
傍らに付き従うキルも同様の行為を繰り返しており、火と煙の勢いは盛んになるばかり。その間、インたちは幾度となく帝国兵とはちあわせたが、彼らの半分は剣さえ抜いていなかった。
ずいぶんとのんきなものだ、とインは呆れたが、これはインたちの行動が素早すぎたせいでもある。
当然といえば当然の話だが、帝国兵の中には双子塔や跳ね橋でインたちと戦った者、戦う姿を見た者がおり、彼らは敵が緋賊であること、侵入者がごく少数――おそらくはたった二人であることを上官に報告している。
だが、報告を受けた上官たちは皆一様に信じなかった。ふざけたことをぬかすな、と声を震わせて報告者を怒鳴りつけた者もいる。
先に王国派議員掃滅のために兵をうごかしたシュタール軍は、敵の反撃を警戒して厳重に守りを固めていた。たかが数人の賊が、この短時間で守りを斬り破って侵入してこられるはずがないという判断は、必ずしも間違っているとはいえない。だが、結果としてこの判断が正しい情報をせきとめ、混乱を助長してしまう。
剣さえ抜いていない状態でインとキルの二人を止められるはずもなく、守備兵は次々に倒れていき、続出する被害はますます侵入者の影を巨大なものにしていく。
評議会館の中にいるのは兵士だけでなく、都市運営にたずさわる行政官、侍女や使用人といった非戦闘員も多い。広がる火と煙、やまない剣戟と絶叫はたちまち彼らを浮き足立たせた。
インは兵士ではない者にすすんで襲いかかることはしなかったが、不審な二人組をとがめだてしてくる者に容赦することもなく、床面に横たわる死体の中には武器を帯びていない者も少なからず含まれていた。
と、何度目のことか、インたちの前方を塞ぐように数名の帝国兵が姿をあらわす。
血まみれのインと、そのイン以上に血臭を振りまいているキルの二人を見て、素早く剣を抜き放つ兵たちに向かって、キルは床を蹴りつけて躍りかかる。
――しばし後、大剣に新たな人血の染みを塗り重ねたキルは、頬にはりついた血をケープの裾でぬぐうと、いかにも不服そうに口を開いた。
「あっちの方が歯ごたえがあった」
あっちとは双子塔の守備兵のことを指しているのだろう。
これにはインも同感だったが、評議会館の守備に弱兵をあてるはずがないから、両者の違いは錬度ではなく心構えにあると思われる。
インたちが双子塔を突破して跳ね橋を移動している間、双子塔の天辺付近では盛んに銅鑼が鳴らされていた。おそらく跳ね橋を上げろという合図だったのだろうが、評議会館の守備兵たちは跳ね橋を渡る敵の少なさを見て、その決断をためらった。
あるいは、ここでもキルの身なりが影響したかもしれない。たかだか数人の賊、しかも子供を恐れて跳ね橋をあげたなどと喧伝された日には、シュタール兵はドレイク中の笑いものにされてしまう。カロッサ伯の怒りは、賊ではなく不甲斐ない配下に降り注ぐだろう。
この跳ね橋、敵兵が大挙して押し寄せてこられないように、小型の馬車が一台通れる程度の幅しかない。騎馬であれば二騎、兵士であれば三人か、せいぜい四人ならべば道を塞ぐことができる。重装備の部隊に橋上で密集隊形をとられたら、インといえども突破に手間取ったに違いない。
しかし、それさえ数人の賊相手ではおおげさだと考えたのか、シュタール兵は迎撃の場所を橋上ではなく門前に定めた。もしかしたら、橋上から水堀へ飛び込んで逃亡されることを警戒し、あえて門前まで通した上で包囲しようという魂胆だったのかもしれない。
だが、たとえ罠を仕掛けたとしても、食い破られてしまえば意味がない。評議会館は軍事ではなく政治の拠点であって、跳ね橋さえ渡ってしまえば中に入り込む隙はいくらでもあった。
――こうして評議会館に侵入を果たしたインとキルは、追っ手を斬り払いつつ、カロッサ伯の姿を求めて建物の奥へ奥へと進んでいる。
その途中、不意にキルが何かに気づいたようにインを見上げてきた。
「イン、敵が逃げるかも」
二人とも評議会館の構造は把握しておらず、ほとんど勘のおもむくままに歩いている。このままでは肝心のカロッサ伯爵が評議会館から逃げだしてしまわないか、とキルは心配になったようだ。跳ね橋が下りたままということは、逃げ道がふさがっていないということである。
これに対し、インは軽くかぶりを振って応じた。
「貴族は恥を嫌う。どこの誰ともわからない賊に襲われて逃げました、なんて言えないのさ」
ましてやカロッサ伯ウィルフリートはドルレアク公に見込まれ、武門として名高い伯爵家を継いだ身だ。相手がアルセイス軍なら「撤退」という選択肢もうまれるだろうが、賊相手にそれはないとインは確信していた。
この確信が外れてカロッサ伯が逃げ出したとしても、インは一向に構わない。
それはつまり、緋賊が評議会館を攻め落としたということだから。
今の緋賊の人数では評議会館を守りきることはできないから、攻め落としても結局は放棄することになるのだが、それでも攻め落としたという事実は動かない。
少数をもって多数を破る、しかもシュタール正規兵を相手に。名を広めるのにこれ以上のものはないだろう。
もちろん、だからといってやすやすと敵を逃がしてやるつもりはない。インなりに計算を働かせている。
「火がまわれば事情を知らない連中は我先にと逃げ出す。そうなればあの狭い橋はすぐにつまる。無理やり押し通ろうとしても通れるものじゃない」
火と混乱に追われて評議会館から逃げ出した者たちは南と北の跳ね橋に殺到するだろう。彼らがカロッサ伯の逃走路を塞ぐ壁となる。
もっといえば、この壁はこれから先、カロッサ伯の危機を悟って駆けつけてくるであろう援軍を妨げる役にも立つ。
市街や城門に展開している伯爵の手勢、もともとのドレイク守備隊、紅金騎士団、そういった者たちが評議会館の異常に気がついても、逃げようとする人々に阻まれてすぐに駆けつけることはできない。
インは激情のおもむくままに火をつけてまわっているわけではなかった。
キルは納得したようだったが、ついでとばかりにもう一つ懸念を付け加える。
「堀に飛び込むかも」
「そこまで生にかける執念があるなら、いっそ感心できるな」
名高い帝国貴族がずぶぬれになって逃げていく様を思い浮かべたインは口角をあげる。
繰り返すが、逃げるなら逃げるで構わないのだ。
そんな会話を交わしながら、ドレイク最強のひとつがいはカロッサ伯の姿を求めて進み続けた。
◆◆
インたちから数枚の壁を隔てた別の場所では、カロッサ伯が苛立たしげに配下の報告を聞いていた。
報告の内容は評議会館に侵入してきた賊に関するものだったが、その内容はこれまでのものと大差ない。賊相手に跳ね橋を突破され、評議会館への進入を許し、あまつさえ火を放たれた。そこまでされておきながら、相手の正体は判明しておらず、正確な数さえいまだに掴めていない。わかっていることといえば、こうしている今も被害が増え続けていることだけだ。
カロッサ伯の機嫌がよかろうはずがなかった。
「つまり、何一つわかっておらぬということか」
報告を聞き終えたカロッサ伯が押し殺した声で呟く。謹厳な伯爵は配下を怒鳴り散らすようなまねはしなかったが、怒気と失望があいまった重厚な声音は低く沈んでいる。それを間近で聞いた配下の額には玉の汗が浮かんでいた。
そっと汗をぬぐいつつ、配下は口を開く。
「いえ、敵の装いからして、緋賊とやらいう野盗の一味であることは間違いございませんッ」
「眉の色など好きなときに染められる。好きなときに落とせる。それとも、緋賊とやらの構成員の情報がつかめたか?」
襲ってきた賊の中にその情報と一致する者がいれば確認の役に立つ。カロッサ伯はそう考えたが、配下は力なく首を横に振った。
「……申し訳ございません。どうやら評議会の者どもも手を焼いていたようで、頭目や幹部に関する情報はほとんど残っておりませんでした」
「では、やはり何もわかっておらぬということだ。アルセイスの小細工とたかをくくっていたが、まさかここまでやりおるとはな」
こうしている今もアルセイス軍は評議会館に向けて兵を進めており、市街ではシュタール軍との激しい戦闘が続いてる。
カロッサ伯としては、一刻も早く兵をまとめてそちらの指揮をとりたいのだが、小賢しく動きまわる賊のせいでそれができない。
今、カロッサ伯が評議会館を離れれば、火と賊に追われて評議会館から逃げ出したのだと見なされてしまう。そうなればシュタール軍の士気は地に落ち、アルセイス軍との戦いどころではなくなってしまうだろう。それを避けるためにも、侵入してきた賊をたたき出し、火を消しとめなければならない。
アルセイス軍と戦うのはそれからのこと、とカロッサ伯は考えを定めていた。
ただ、賊の対処にかまけている間にアルセイス軍に懐深く入り込まれてしまえば、それこそ取り返しのつかない事態になってしまう。
西門を落とされた時点で、シュタール軍は喉元に食いつかれたようなものなのだ。喉笛を食い裂かれる前に、なんとかアルセイス軍の勢いを殺いでおきたい。
そのために、カロッサ伯は紅金騎士団を西門奪還に向かわせた。調子にのって城内に入り込んできたアルセイス軍の退路を絶つためである。
もしアルセイス軍に後詰の部隊が残っていれば、逆に紅金騎士団が包囲殲滅されることになりかねないが、たとえそうなったとしても、城内に侵入したアルセイス軍の勢いを止めることはできるだろう。
その間に賊を撃滅する。
配下に任せても埒があかないことはすでに明らかであり、敵の正体を我が目で見極めるためにも、カロッサ伯は自身が賊徒鎮圧に出向くことを決断した。




